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中院具光の鎌倉下向時期

2021-09-05 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 5日(日)11時36分53秒

私の考え方を整理しておくと、私は成良親王が建武元年(1334)二月五日に征夷大将軍に就任したのではないかと考えていて、この私見は『神皇正統記』の記述に適合的であり、前年十二月の鎌倉下向時に既に征夷大将軍だったとする『梅松論』・『太平記』の記述とも概ね整合的です。
つまり、将軍が存在しないにもかかわらず、研究者の間では「鎌倉将軍府」と呼ばれていた組織は文字通りの「鎌倉将軍府」だった、というのが私の考え方です。

四月初めの中間整理(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d242a4ee17a501ea5162bc48f52180c
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e

従って、私の立場からすれば、『神皇正統記』に記された東下時の尊氏の二つの要求のうち、尊氏は征夷大将軍を求める必要は全くありません。
しかし、中先代の乱という緊急事態に対処するために、尊氏は「諸国の惣追捕使」としての権限、具体的には守護補任と恩賞付与の権限は必要とし、それを要求したが、後醍醐は尊氏の要求の一応の合理性は認めつつも、「諸国の惣追捕使」ではあまりに広範すぎるとして、東国に限定する趣旨で「征東将軍としての権限」を認めた、と考えます。
ただ、皮肉なことに尊氏の進軍があまりに迅速で、あまりにあっさりと時行に勝利したために、後醍醐には尊氏に「征東将軍としての権限」を与えたことが軽率だったのではないか、という後悔の念が生まれたのではないかと私は推測します。
『太平記』には、

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 この両条は天下治乱の端なれば、君もよくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許あつて、「征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八ヶ国管領の事は、先づ子細あるべからず」とて、則ち綸旨をぞなされける。これのみならず、忝なくも天子の御諱の字を下されて、高氏と名乗られける高の字を改めて、尊の字にぞなされける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8

という記述があり、これは事実の記録としては明らかに不正確ですが、「君もよくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許あつて」という表現は後醍醐の後悔を示唆しているように思われます。
さて、『梅松論』には「勅使中院蔵人頭中将具光」が「今度東国の逆浪を速やかに静謐すること叡感再三なり。但軍兵の賞においては京都において綸旨を以て宛行ふべきなり。先づ早々帰洛あるべし」と伝えたとあります。
そもそも中院具光が勅使として鎌倉に派遣されたこと自体、『神皇正統記』にも『太平記』にも存在しない『梅松論』独自の記事なのですが、さすがに私も勅使派遣自体を疑う訳ではありません。
この時期、中院具光は後醍醐の右筆として多数の綸旨を執筆しており、後醍醐にとって具光は尊氏相手の難しい折衝を任せることができる有能な側近だったはずです。
しかし、「先づ早々帰洛あるべし」との記述から文字通りの帰京命令があったと考えるべきかについては私は懐疑的です。
この点、前提として検討すべき事項がいくつかありますが、まず、問題となるのは中院具光の鎌倉下向時期です。
尊氏は九月二十七日に恩賞付与の袖判下文を大量に発給していますが、これは中院具光の鎌倉下向の前なのか、それとも後なのか。
仮に前者だとすれば、尊氏の恩賞付与を知って、これを阻止せねばと思った後醍醐が中院具光を鎌倉に送り込んだことになりそうですが、前回投稿で引用したように、佐藤進一氏は「尊氏が自分の手で武士に恩賞を与えているという報告に、尊氏離反の徴候を認めたからである」と書かれていますから(『南北朝の動乱』、p112)、おそらくこの立場ですね。
この立場からは、中院具光は十月に下向したと考えるのが自然です。
『大日本史料 第六編之二』にも中院具光の下向記事が十月十五日条に出ていますね。
他方、森茂暁氏は、

-------
封印されていた尊氏の袖判下文発給は、右述のように限定的ではあるが一旦再開され、まもなく全面的に解禁されることになる。それは建武二年九月二七日のことであった。時期的にみると、さきの勅使による禁止通達の直後であろう。この日は尊氏にとって生涯の一大転機となった。勲功の武士に対して恩賞地を給付する袖判下文がこの日付で全九点も残存している(「倉持文書」「佐々木文書」等)。尊氏にとっては、のちの後醍醐による官位の剥奪(建武二年一一月二六日)を待つまでもなく、この日が後醍醐との実質的な決別のときであったとみてよい。おそらく尊氏は中先代の乱で力戦した軍功の武士たちの要求の声に押されて、彼らに対する恩賞給付を行ったのであろう。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/75ee41e60e2cb7392de0e4c94f2a0820

とされています。
森説によれば、尊氏は「勅使による禁止通達」を正面から無視して恩賞給付を断行したことになるので、九月二十七日は「尊氏にとって生涯の一大転機」であり、「後醍醐との実質的な決別のとき」となる訳ですね。
では、どちらが正しいのか。
この点、国文学者の井上宗雄氏は「建武二年内裏千首」に尊氏が歌を寄せていることから、中院具光の派遣を「建武二年内裏千首」に関係するものと考えられて、『大日本史料 第六編之二』を参照された上で、それは十月中旬だろうと推定されています。
ただ、『大日本史料 第六編之二』の考証と記述の仕方に相当問題があり、私は中院具光の派遣は九月初めだろうと考えています。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/922a40e05ad18c71fbe1ac76dde7f549
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8
四月初めの中間整理(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
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