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『梅松論』の偏見について

2021-09-06 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 9月 6日(月)11時00分54秒

後醍醐が中先代の乱鎮圧の勲功賞として尊氏を従二位に叙したのが建武二年(1335)八月三〇日(『公卿補任』)、直義が新田義貞討伐の軍勢催促状を大量に発給したのが同年十一月二日ですから、尊氏の心情はともかく、客観的には後醍醐と尊氏の関係が破綻するまで僅か二ヶ月しか経っていません。
この激変の期間を描く三つの史料の事実認識はそれぞれ少しずつ違っていて、『太平記』史観の歪み、『神皇正統記』史観の偏見、『梅松論』史観の色眼鏡を通してしかこの時期の全体像を描けない我々は、まるで芥川龍之介の『藪の中』のような状況に置かれています。
ただ、面白い作り話に溢れている『太平記』の歪みと武家を蔑視する『神皇正統記』の貴族的偏見は分かりやすいのに対し、『梅松論』の色眼鏡は意外に分かりにくく、多くの研究者が殆ど自覚のないまま『梅松論』を過度に信頼しているように思われます。
『梅松論』の作者を「一人の歴史家」とする佐藤進一氏はその典型ですね。

「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

しかし、実際に『梅松論』を読んでみれば明らかなように、『梅松論』の著者は後嵯峨院が寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去したとするなど、公家社会には全く無知な人で、大覚寺統寄りの公家のプロパガンダに弱く、およそ「歴史家」といえるようなレベルの知識人ではありません。
現代であれば、せいぜい暴力団抗争のルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

そして、一般に足利家寄りと言われている『梅松論』の立場は、正確には直義寄りと呼ぶべきであって、公武一統など所詮無理が多く、建武の新政はもともと短期間に終わる運命だったのだ、というのが『梅松論』の作者の基本的な歴史認識の歪みであり、偏見であり、色眼鏡です。
そこで、この激変の二ヶ月間に位置する『梅松論』の中院具光の記事を読むに際しては、狡猾な後醍醐にだまされて京都に戻ろうとした軽率な兄・尊氏を賢明な弟・直義が諫止した、という『梅松論』史観を排して、他の客観的史料を参照しつつ、慎重に事実関係を見極めて行く必要があります。
ここで積極的に利用できそうに思われるのが、今まで殆ど歴史研究者に活用されることのなかった井上宗雄氏を中心とする国文学界の歌壇史研究ですね。
井上氏の『中世歌壇史の研究 南北朝期』(明治書院)の初版が出たのは佐藤進一氏の『南北朝の動乱』と同じ1965年ですが、その研究水準の高さは驚くべきものです。

四月初めの中間整理(その17)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
井上宗雄氏『中世歌壇史の研究 南北朝期』(その13)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e5e689d008c3e6a59f3bbcd457b0b45

この時期の歌壇史研究が貴重なのは、歌壇史は政治史の影響は受けつつも相対的に独立しているので、『神皇正統記』史観、『梅松論』史観、『太平記』史観の歪みの影響が少なく、その客観性が高い点にあります。
さて、井上氏の研究を参照しつつ、私は中院具光の鎌倉下向は九月上旬ではないかと推測しましたが、この一応の結論は今でも維持できると思っています。

『大日本史料』建武二年十月十五日条の問題点(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/98f75d77eb2d51b956fd26d01a2d47a8

ただ、前回検討した際は「東八ヶ国の管領」(『太平記』)、「諸国の惣追捕使」「征東将軍」(『神皇正統記』)の問題は念頭になく、単純に中院具光を通して後醍醐の「帰京命令」が尊氏に伝達されたのだろうと考えていたのですが、この点は再考する必要が生じました。
現在の私は、後醍醐の伝達内容は「帰京命令」というほど居丈高なものではなかったのではないか、と考えているのですが、その内容は次の投稿で書きます。
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