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『感身学正記』に登場する「右馬権頭為衡入道観證」について(その2)

2022-06-06 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 6月 6日(月)19時58分15秒

前回引用した『感身学正記』の弘安二年(1279)の記事、伊勢神宮に一切経を奉納する件に関して「右馬権頭為衡入道観證」が「叡尊と西園寺実兼の間を取り持っている」話の中に別の話題も入っていたので、少し分かりにくいところがあったと思います。
同年の記事は九月から始まっていて、最初に亀谷禅尼が西大寺に一切経を納入する話が出てきます。(p88以下)

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九月二日、一切経開題供養す。鎌倉亀谷禅尼法名浄阿弥陀仏、もと将軍家〔九条頼経〕の女房、摂津前司師員〔中原〕入道法名行厳の後家、予、関東下向〔弘長二年〕の時の新清凉寺宿所の亭主、越後守実時〔金沢〕朝臣の沙汰として借用し、去らしむ。それより以来、三宝に帰向し、所領〔下野国横岡郷〕の殺生を禁断し、菩薩の禁戒を受持す。時々の音信今に絶えざるの仁なり。にわかに六十人の人夫をもって一切経を当寺〔西大寺〕に渡し奉りて、開題し奉るべきの旨、慇懃の所望有り。黙止しがたき故、百僧を勧請して首題を礼さしむるなり。法会の事終わりて後、かの禅尼来たりて曰く、「摂津前司入道〔中原師員〕仏舎利を所持す。人に付嘱せず頸に懸けながら命終わりぬ。後家たるが故、年来奉持す。当寺に安置し奉らんと欲す。後日奉持してよく参詣すべし」と云々。すなわち領状し畢んぬ。
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幕府の評定衆であった中原師員(1185-1251)の後家・亀谷禅尼は、弘長二年(1262)、叡尊(1201-90)が金沢実時(1224-76)に招かれて鎌倉を訪問した際、新清凉寺を宿所として提供して以降、熱烈な律宗の信者となり、巨額の財政的援助もするようになったパトロン的女性です。
その亀谷禅尼が西大寺に一切経を奉納した後、夫の中原師員の遺品である仏舎利を西大寺に奉納したい、後で持参する、と言うので叡尊はこれを了承します。

中原師員(1185-1251)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E5%93%A1

この後、前回投稿で引用した部分となり、九月十八日に「右馬権頭為衡入道観證」が来たので、叡尊は「談話の次いでに大神宮に一切経安置の願い事を語り」ます。
即ち、蒙古襲来という国難に際し、「本朝の太平・仏法の興隆・有情の利益を祈る」ため、文永十年(1273)の春、大般若経二部を持って伊勢内宮・外宮に参宮し、文永十二年(1275)の春、また大般若経一部を内宮近くの菩提山神宮寺に持参し、供養転読して内宮・外宮の法楽の資とした。
その時、もし一切経を得たならば、奉納のため今一度参詣したいと「心中に発願」したが、容易く得ることもできず空しく年月を送っていたところ、近年、蒙古襲来の危機が重なるにあたって「素懐を果たさんと欲するといえども」、宋から輸入する摺本は「蒙古の難」によって入手が困難で、書写しようとしても一切経は数が多いのでなかなか困難である。
ということで、叡尊が、何か良いお知恵はないだろうか、と相談したところ、「右馬権頭為衡入道観證」は、何か手立てを工夫しましょう、と答えます。
そして二十一日、「右馬権頭為衡入道観證」から書状が来て、「西園寺殿」に一切経の古写本が「一蔵」あるので、使者を派遣して、奉納に適するものか確認して頂けませんか、と言ってきます。
そこで叡尊は自らその古写本を確認することとし、二十六日に西大寺から京都の律宗の拠点・浄住寺(旧・葉室定嗣邸)に行きます。
すると三十日、亀谷禅尼が浄住寺に来て、中原師員の遺品である仏舎利を奉納します。
さて、十月三日、叡尊は「西園寺において一切経を拝見し」、「これを迎え奉るべき由、約束申し畢んぬ」となります。
そして、「白毫寺において一百十九人に菩薩戒を授け」た後、「六日、一切経これを迎え奉」りますが、古写本なので「七日以後、一切経を修復し奉る。十一月七日に至り、功を終えり。その後、欠巻を書き継ぎ、損ずる所を補い、帙把等を結構す。いまだ功を終えず」となります。
この後、亀山院と鷹司兼平も、それぞれ一切経を浄住寺に送ってくることとなり、浄住寺には都合「三蔵」の一切経が集まることになります。
即ち、

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十一月十七日、院宣によって靡殿〔なびきどの〕に参る。十八日朝より上皇〔亀山〕御前において梵網経古迹〔こしゃく〕下巻本を開講し奉る。廿四日、講じ奉り畢んぬ。深更に及び、円満院〔円助法親王〕御弟子宮、密々に入御す。すなわち宿所(本靡殿御所)において十重戒を授け奉り畢んぬ。廿五日、古迹御談義の御持仏堂において、太上天皇〔亀山上皇〕、中御門大納言経任以下公卿殿上人五十九人に(重受二人)菩薩戒を授け奉る。夜陰に臨み、仙洞〔亀山上皇〕に三衣〔さんね〕を授け奉る(自身の長衣これを進む)。廿六日、早旦、召しによって桟敷殿に参る。大神宮奉納宋本一切経の事、興隆仏法等、種々勅問す。所存の旨を奏し、罷り出で畢んぬ。中食以後、浄住寺に還る。次に殿下〔鷹司兼平〕の御請によって猪熊殿に参る。御堂において見参に入り、五戒を授け奉る(別受)。卅日、仙洞〔亀山上皇〕宋本一切経を浄住寺んじ送り奉らる。殿下〔鷹司兼平〕日本本一切経を同じく同寺に送り奉らる。十二月二日、仁和寺御室(性助法印)御出。浄住寺真言堂において、十一人(重受五人)に菩薩戒を授け奉る。四日、西大寺に還著す。十日、衆僧和合して、浄住寺において感得せし所の三千余粒の仏舎利を供養す。廿ニ日、豊浦寺(建興寺と名づく)住比丘尼證全、先祖相伝の仏舎利を当時〔西大寺〕に安置し奉る。
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という展開となります。(p90以下)
そして翌弘安三年(1280)三月、叡尊は伊勢に向かいます。
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