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戦後処理についての流布本と慈光寺本の比較(その8)

2023-01-31 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

『海道記』の続きです。(新日本古典体系本、p105以下)

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 ヤガテ按察使〔あんざつし〕 光親卿 前左兵衛督 有雅卿 同〔おなじ〕ク此〔この〕原ニテ末ノ露本ノ滴〔しづく〕トヲクレ先立ニケリ。其〔それ〕人常ノ生〔しやう〕ナシ、其家常ノ居〔きよ〕ナシ。此ハ世ノ習〔ならひ〕事ノ理〔ことわり〕ナリ。サレドモ期〔ご〕来テ生ヲ謝セバ、理ヲ演〔のべ〕テ忍ヌベシ。〔縁つきて家をわかれば、ならひを存〔そんし〕てなぐさみぬべし。〕別〔わかれ〕シ所ハ憂所ナリ、城〔みやこ〕ノ外ノ荒々〔くわうくわう〕タル野原ノ旅ノ道、没セシ時ハイマダシキ時ナリ、恨ヲ含シ悄々〔せうせう〕タル秋天〔しうてん〕ノ夕〔ゆふべ〕ノ雲。誠ニ時ノ災蘖〔さいげつ〕ノ遇〔たまさか〕ニ逢〔あへり〕ト云ドモ、是ハ是先世〔せんぜ〕ノ宿業〔しくごふ〕ノ酬〔むく〕ヘル酬〔むくひ〕也。抑〔そもそも〕彼人々ハ、官班〔くわんはん〕身ヲ餝〔かざ〕リ、名誉聞〔きき〕ヲアク。君恩飽〔あく〕マデウルホシテ降〔ふる〕雨ノ如シ、人望カタガタニ開ケテ盛ナル花ニ似タリキ。中に黄門都護〔くわうもんとご〕ハ、家ノ貫首〔くわんす〕トシテ一門ノ間ニ楗〔とぼそ〕ヲ排〔おしひら〕キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調〔ととのへ〕キ。誰カ思〔おもひ〕シ、天俄〔にはか〕ニ災〔わざはい〕ヲ降シテ天命ヲ滅シ、地忽〔たちまち〕ニ夭〔わざはい〕ヲアゲテ地望〔ちばう〕ヲ失ハントハ。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
「中に黄門都護〔くわうもんとご〕ハ、家ノ貫首〔くわんす〕トシテ一門ノ間ニ楗〔とぼそ〕ヲ排〔おしひら〕キ、朝ノ重臣トシテ万機ノ道ニ線ヲ調〔ととのへ〕キ」の「黄門」は中納言、「都護」は按察使の唐名ですから、これは光親のことですが、この表現は『吾妻鏡』七月十二日条の「此卿爲無雙寵臣。又家門貫首。宏才優長也」に類似していますね。
ところで、『海道記』は藤原(中御門)宗行に加えて藤原(葉室)光親と源有雅も藍沢原で処刑されたとしていますが、これは『吾妻鏡』の記述とは異なります。
既に紹介済みの『吾妻鏡』承久三年七月十二日条には、光親は「於加古坂梟首訖」とあり、「加古坂」(籠坂峠)は静岡県駿東郡小山町と山梨県南都留郡山中湖村との県境です。
ここには光親を祭神とする加古坂神社が鎮座し、近くには光親の墓もあるそうですが、宗行の処刑地とされる御殿場市の藍澤五卿神社からは直線距離でも十数㎞離れています。

籠坂峠
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E5%9D%82%E5%B3%A0

また、源有雅は、『朝日日本歴史人物事典』の本郷和人氏の解説によれば、

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没年:承久3.7.29(1221.8.18)
生年:安元2(1176)
鎌倉前期の公卿。父は参議雅賢。母は伊予守藤原信経の娘。文治5(1189)年に侍従,翌年右少将となる。建仁3(1203)年に権右中将,元久1(1204)年正四位下,承元2(1208)年蔵人頭。翌年参議に昇り,公卿に列する。有雅の家は代々雅楽をよくし,彼もまた神楽,和琴,催馬楽に巧みであった。後鳥羽上皇の側近くに仕え,権臣藤原範光の婿となることによって昇進の機会を得,建暦2(1212)年に検非違使別当,また権中納言となる。承久の乱(1221)では後鳥羽上皇方の将として宇治に戦って敗退。出家して恭順の意を示すが六波羅に囚われ,鎌倉に送られる。途中甲斐国(山梨県)稲積庄において処刑された。

https://kotobank.jp/word/%E6%BA%90%E6%9C%89%E9%9B%85-1112941

という人物ですが、『吾妻鏡』七月二十九日条には、

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入道二位兵衛督〔有雅。去月出家。年四十六〕爲小笠原次郎長淸之預。下着甲斐國。而依有聊因縁。可被救露命之由。申二品禪尼間。暫抑死罪。可相待彼左右之由。雖令懇望。長淸不及許容。於當國稻積庄小瀬村令誅畢。須臾可宥刑罰之旨。二品書状到來云々。楚忽之爲體。定有亡魂之恨者歟。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm

とあって、甲斐の「稲積庄小瀬村」で処刑されています。
北条政子と何らかの縁があったらしい有雅は、処刑は暫らく待ってほしいと懇願したにもかかわらず、小笠原長清がさっさと処刑してしまった後、政子から赦免を認める書状が届いた、とのことで、なかなかの悲劇ですね。
ま、それはともかく、「稲積庄小瀬村」は藍沢原からかけ離れていて、このあたりは『海道記』も不正確です。
ただ、十三日条の「若出於虎口。有亀毛命乎之由」云々から窺えるように、『吾妻鏡』の編者が『海道記』を参照しているのは明らかであって、他の史料も参照しながら、信頼できそうな部分を採っている、ということだろうと思います。
さて、『海道記』の続きです。

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哀哉〔あはれなるかな〕、入木〔じふぼく〕ノ鳥ノ跡ハ、千年ノ記念ニ残リ、帰泉〔くゐせん〕ノ霊魂ハ、九夜ノ夢ニマヨヒニキ。サレドモ善悪心ツヨクシテ、生死ハタゞ限アリト思ヘリキ。終ニ十念相続シテ他界ニウツリヌ。夏ノ終〔おはり〕秋ノ始〔はじめ〕、人酔〔ゑひ〕世濁〔にごり〕シ其間ノ妄念ハ任他〔サモアラバアレ〕、南無西方弥陀観音、其時ノ発心等閑〔なほざり〕ナラズハ来迎タノミアリ。是ヤ此人々ノ別〔わかれ〕シ野辺トウチナガメテ過レバ、浅茅ガ原ニ風起〔たち〕テ、靡ク草葉ニ露コボレ、無常ノ郷〔さと〕トハ云ヒナガラ、無慚ナリケル別カナゝ。有為ノ堺トハ思ヘ共、憂カリシ世カナゝ。官位〔くわんゐ〕ハ春ノ夢、草ノ枕ニ永ク絶、栄楽ハ朝ノ露、苔ノ席〔むしろ〕ニ消ハテヌ。死シテ後ノ山路ハ隨ハヌ習〔ならひ〕ナレバ、後ルゝ恨モ如何セン。東路ニ独リ出テ、尤武者〔ケヤケキモノゝフ〕ニイザナハレ行ケン心ノ中コソ哀ナレ。彼冥吏〔みやうり〕呵責ノ庭ニ、独リ自業自得ノ断罪ニ舌ヲマキ、此妻息別離ノ跡ニ、各不意不慮ノ横死〔わうし〕ニ涙ヲカク。生テノ別レ死テノ悲ミ、二〔ふたつ〕ナガライカゞセン。真ヲ移シテモヨシナシ、一生幾〔いくばく〕カミン、魂ヲ訪〔とぶらひ〕テ足〔たる〕ベシ、二世〔にせ〕ノ契〔ちぎり〕ムナシカラジ。

 思ヘバナウカリシ世ニモアヒ沢ノ水ノ淡〔あわ〕トヤ人ノ消〔きえ〕ナン
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以上で『海道記』における宗行・光親・有雅関係記事、新日本古典文学大系本で24行(菊川宿)・18行(黄瀬川宿)・34行(藍沢原)、合計76行の全てを紹介しました。

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