目崎氏が『海道記』の作者とされる源光行については、平岡豊氏の「藤原秀康について」(『日本歴史』716号、1991)を検討する際に少し触れたことがあります。
平岡豊氏「藤原秀康について」(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5a6c59c513b35d2988ac4fe69ad51ba
目崎氏は「乱の発端に権中納言光親の名で出された義時追討の院宣に副状を書いた廉〔とが〕で斬罪に処せられるところを、幕府側にいた子の親行の泣訴によって危うく助命された」と書かれていますが、『吾妻鏡』で関係する箇所を見ると、先ず、承久三年五月十九日条に、
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大夫尉光季去十五日飛脚下着関東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親広入道昨日応勅喚。光季依聞右幕下〔公経〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔実氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。関東分宣旨御使。今日同到着云々。仍相尋之処。自葛西谷山里殿辺召出之。称押松丸〔秀康所従云々〕。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等。於二品亭〔号御堂御所〕披閲。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm
とあって、「大監物光行」が源光行ですね。
目崎氏は「義時追討の院宣」とされていますが、『吾妻鏡』には「右京兆追討宣旨」とあります。
次いで、承久三年八月二日条に、
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大監物光行者。清久五郎行盛相具之下向。今日已刻。着金洗沢。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴関東数箇所恩沢。参 院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在関東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重属申伊予中将。羽林伝達之。仍不可誅之旨。与書状。親行帯之馳向金洗沢。救父命訖。自清久之手。召渡小山左衛門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀与平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-08.htm
とありますが、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳によれば、
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大監物〔だいけんもつ〕(源)光行は清久五郎行盛が伴って(鎌倉に)下向し、今日の已の刻に金洗沢に到着した。(行盛は)まず子息の太郎を遣わして右京兆(北条義時)に知らせた。速やかにその場所で誅殺せよと、義時の命があった。これは関東から数箇所の恩賞を受けながら、院(後鳥羽)に参じて東国武士の交名を注進し、宣旨の副文を書いた罪科は他に異なるためである。ところで光行の嫡男である源民部大夫親行は、以前から関東にして功を積んでいた。父のことと漏れ聞いて死罪を赦されるよう泣いて訴えたが赦されなかった。(親行は)重ねて伊予中将(一条実雅)に依頼したので、羽林(実雅)がこれを伝えた。そこで誅殺してはならないとの書状が与えられ、親行がこの書状を持って金洗沢に急行し、父の命を救った。(光行は)行盛の手から小山左衛門尉(朝政)の方に引き渡された。光行は先年、慈父〔豊前守光季。平家に味方して右幕下(源頼朝)がこのことを咎め、光行が下向して愁い訴えたところ、赦された〕の恩徳に報いたので、今日、孝行な息子に助けられたのである。
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とのことで(p145)、源光行は鎌倉の金洗沢まで連行され、「注進東士交名。書宣旨副文」の「罪科」で、いったんは北条義時の命令で処刑されることに決まったものの、息子「源民部大夫親行」の必死の嘆願と「伊予中将」(一条実雅)の口添えで何とか首がつながった訳ですね。
なお、金洗沢は「現、神奈川県鎌倉市の七里ヶ浜のうち、行合川の西方を指す。元仁元年六月六日には、霊所の七瀬の一つであるこの地の池で七瀬祓が行われており、鎌倉の境界の一つと考えられていた」(p250)という場所です。
さて、目崎氏が傍点を振って強調される「特別な因縁」とは以上のようなものですが、目崎氏は「典型的な公武両属性」と「乱後の屈折した心情特に光親はじめ張本たちへの痛切な同情」を持った源光行が、金洗沢で殺されかけた二年後に再び鎌倉を目指して東海道を下ったとされるばかりか、大変な名文で記されていて、明らかに相当数の読者を想定していたであろう『海道記』も執筆したとされる訳です。
まあ、再び鎌倉に行ったところで、「二年前の決定は誤りだったから、やっぱり処刑するぞ」と言われる可能性は少なかったでしょうが、しかし、どう考えても良い思い出の場所とはいえない鎌倉にわざわざ行って、「張本公卿」に極めて同情的な『海道記』を執筆するというのは、私にはどうにも不自然なように思われます。
目崎氏は、「この個人的事情をあからさまに書けば幕府の忌諱に触れる」ので、「のっけから白河あたりに住む、うだつの上らぬ生涯を送った無名の遁世者と名乗り、長い道中記を退屈で新味にも欠ける歌枕・宿駅の羅列で埋め、到着した鎌倉の見物も大御堂・二階堂・八幡宮だけで早々に打ち切ったのは、みな手の込んだ朧化の手段」であり、「これらを著者推定の手掛りとすることは適当ではない」とされますが、「幕府の忌諱に触れる」のが嫌であれば、最初からそんな危険な書物を書かなければ良いだけの話です。
「貞応二年卯月ノ上旬」といえば、承久の乱から丸二年も経過していない時期であり、二位法印尊長のように逃亡を続けている「合戦張本」も残っていて、決して緊張が緩んでいた訳ではありません。
そんな時期に、首の皮一枚で命拾いした源光行が、いくら「朧化」を重ねたとしても、「張本公卿」に極めて同情的な作品を作るものなのか。
また、直接に幕府を非難している訳でもない『海道記』程度の作品が「幕府の忌諱に触れる」可能性を心配される目崎氏は、北条義時を大悪人として描く慈光寺本については特にそのような心配をされている気配もなく、私は目崎氏のバランス感覚に疑問を感じます。
平岡豊氏「藤原秀康について」(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5a6c59c513b35d2988ac4fe69ad51ba
目崎氏は「乱の発端に権中納言光親の名で出された義時追討の院宣に副状を書いた廉〔とが〕で斬罪に処せられるところを、幕府側にいた子の親行の泣訴によって危うく助命された」と書かれていますが、『吾妻鏡』で関係する箇所を見ると、先ず、承久三年五月十九日条に、
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大夫尉光季去十五日飛脚下着関東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親広入道昨日応勅喚。光季依聞右幕下〔公経〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔実氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。関東分宣旨御使。今日同到着云々。仍相尋之処。自葛西谷山里殿辺召出之。称押松丸〔秀康所従云々〕。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等。於二品亭〔号御堂御所〕披閲。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-05.htm
とあって、「大監物光行」が源光行ですね。
目崎氏は「義時追討の院宣」とされていますが、『吾妻鏡』には「右京兆追討宣旨」とあります。
次いで、承久三年八月二日条に、
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大監物光行者。清久五郎行盛相具之下向。今日已刻。着金洗沢。先以子息太郎。通案内於右京兆。早於其所。可誅戮旨。有其命。是乍浴関東数箇所恩沢。参 院中。注進東士交名。書宣旨副文。罪科異他之故也。于時光行嫡男源民部大夫親行。本自在関東積功也。漏聞此事。可被宥死罪之由。泣雖愁申。無許容。重属申伊予中将。羽林伝達之。仍不可誅之旨。与書状。親行帯之馳向金洗沢。救父命訖。自清久之手。召渡小山左衛門尉方。光行往年依報慈父〔豊前守光秀与平家。右幕下咎之。光行令下向愁訴。仍免許〕之恩徳。今日逢孝子之扶持也。【後略】
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-08.htm
とありますが、『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信氏の訳によれば、
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大監物〔だいけんもつ〕(源)光行は清久五郎行盛が伴って(鎌倉に)下向し、今日の已の刻に金洗沢に到着した。(行盛は)まず子息の太郎を遣わして右京兆(北条義時)に知らせた。速やかにその場所で誅殺せよと、義時の命があった。これは関東から数箇所の恩賞を受けながら、院(後鳥羽)に参じて東国武士の交名を注進し、宣旨の副文を書いた罪科は他に異なるためである。ところで光行の嫡男である源民部大夫親行は、以前から関東にして功を積んでいた。父のことと漏れ聞いて死罪を赦されるよう泣いて訴えたが赦されなかった。(親行は)重ねて伊予中将(一条実雅)に依頼したので、羽林(実雅)がこれを伝えた。そこで誅殺してはならないとの書状が与えられ、親行がこの書状を持って金洗沢に急行し、父の命を救った。(光行は)行盛の手から小山左衛門尉(朝政)の方に引き渡された。光行は先年、慈父〔豊前守光季。平家に味方して右幕下(源頼朝)がこのことを咎め、光行が下向して愁い訴えたところ、赦された〕の恩徳に報いたので、今日、孝行な息子に助けられたのである。
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とのことで(p145)、源光行は鎌倉の金洗沢まで連行され、「注進東士交名。書宣旨副文」の「罪科」で、いったんは北条義時の命令で処刑されることに決まったものの、息子「源民部大夫親行」の必死の嘆願と「伊予中将」(一条実雅)の口添えで何とか首がつながった訳ですね。
なお、金洗沢は「現、神奈川県鎌倉市の七里ヶ浜のうち、行合川の西方を指す。元仁元年六月六日には、霊所の七瀬の一つであるこの地の池で七瀬祓が行われており、鎌倉の境界の一つと考えられていた」(p250)という場所です。
さて、目崎氏が傍点を振って強調される「特別な因縁」とは以上のようなものですが、目崎氏は「典型的な公武両属性」と「乱後の屈折した心情特に光親はじめ張本たちへの痛切な同情」を持った源光行が、金洗沢で殺されかけた二年後に再び鎌倉を目指して東海道を下ったとされるばかりか、大変な名文で記されていて、明らかに相当数の読者を想定していたであろう『海道記』も執筆したとされる訳です。
まあ、再び鎌倉に行ったところで、「二年前の決定は誤りだったから、やっぱり処刑するぞ」と言われる可能性は少なかったでしょうが、しかし、どう考えても良い思い出の場所とはいえない鎌倉にわざわざ行って、「張本公卿」に極めて同情的な『海道記』を執筆するというのは、私にはどうにも不自然なように思われます。
目崎氏は、「この個人的事情をあからさまに書けば幕府の忌諱に触れる」ので、「のっけから白河あたりに住む、うだつの上らぬ生涯を送った無名の遁世者と名乗り、長い道中記を退屈で新味にも欠ける歌枕・宿駅の羅列で埋め、到着した鎌倉の見物も大御堂・二階堂・八幡宮だけで早々に打ち切ったのは、みな手の込んだ朧化の手段」であり、「これらを著者推定の手掛りとすることは適当ではない」とされますが、「幕府の忌諱に触れる」のが嫌であれば、最初からそんな危険な書物を書かなければ良いだけの話です。
「貞応二年卯月ノ上旬」といえば、承久の乱から丸二年も経過していない時期であり、二位法印尊長のように逃亡を続けている「合戦張本」も残っていて、決して緊張が緩んでいた訳ではありません。
そんな時期に、首の皮一枚で命拾いした源光行が、いくら「朧化」を重ねたとしても、「張本公卿」に極めて同情的な作品を作るものなのか。
また、直接に幕府を非難している訳でもない『海道記』程度の作品が「幕府の忌諱に触れる」可能性を心配される目崎氏は、北条義時を大悪人として描く慈光寺本については特にそのような心配をされている気配もなく、私は目崎氏のバランス感覚に疑問を感じます。
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