投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 3月 1日(月)10時35分7秒
私は足利高義が二十一歳の若さで亡くなった文保元年(1317)頃に釈迦堂殿の母・無着も亡くなったのではないかと推定しますが、そうすると釈迦堂殿の出家もその頃と考えるのが自然ですね。
金沢北条氏と安達家・足利家の接点となる無着と釈迦堂殿の周辺についてはもう少し検討したい点が残っていますが、まだ準備不足なので後で論ずることにします。
さて、清水克行氏は尊氏の正室・赤橋登子について、尊氏母・上杉清子との関係を中心に、次のように述べられています。
私は清水説にかなり疑問を持っていますが、まずは清水氏の見解をそのまま紹介します。(『足利尊氏と関東』、p32以下)
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裏切りの伏線
これまで尊氏が幕府に反逆した理由については、孫の尊氏に「天下取り」の悲願を託した祖父家時の置文の存在や、北条氏のまえで多年の鬱屈を余儀なくされてきた足利氏の宿怨、あるいは源氏の棟梁としての尊氏の自負などが、要因として大きく取り上げられてきた。しかし、現在の研究水準では、そのいずれも尊氏反逆の主要因としては認めがたいものがある。【中略】
さらに、尊氏自身の源氏の棟梁としてのプライドについても、言われるほどのものが尊氏の胸中にあったかどうか、疑わしい。これも第Ⅱ章の内容の先取りになるが、そもそも足利氏の庶家のなかには斯波家や吉良家など、足利よりも兄筋にあたる家が多くある。それらの家のなかには、あえて足利氏の兄筋にあたることを誇示しようとする家も少なくなかったようで、そうしたなかで室町時代以前に「足利嫡流家=源氏の棟梁」という意識がどれほど浸透していたかはわからない。また、尊氏自身、長年にわたり足利家の"妾腹の二男坊"の地位にあり、家督の継承はつい最近のことだった。彼個人が、言われるほどにみずからの血統についての自負があったとは思えない。
むしろ、尊氏を叛逆に走らせた決定的な要因は、やはり彼自身が北条氏の血をひかない、北条氏と距離のある人物であることにあったのではないだろうか。それに対し、かわりに尊氏の外戚となった上杉氏は、もとは京都に出自をもつ中下級貴族であり、尊氏の母清子の祖父重房の代で鎌倉に下ってきた家系であった。そのため上杉氏は西国の情勢を的確に判断することができ、後醍醐側と接触する手だても兼ね備えていた可能性が高い。実際、尊氏が鎌倉から京都に出征するさい、一番最初に幕府への叛逆を進言したのは、清子の兄にあたる上杉憲房であった(『難太平記』)。そして西上中の尊氏に、ひそかに後醍醐の綸旨を届け、近江国鏡宿(現在の滋賀県蒲生郡竜王町)で再三にわたり挙兵を促したのも細川和氏と上杉重能(憲房の養子、尊氏の従兄弟)であった(『梅松論』)。また、家時・貞氏が生前から倒幕の意志をもっていたという『難太平記』にある予定調和的な足利神話も、元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実とされ、清子を介して流布された話であったらしい。
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いったん、ここで切ります。
「元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実とされ、清子を介して流布された話であったらしい」とありますが、『群書類従』合戦部の『難太平記』を見ると、
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元弘に御上洛の時。不思儀の事ありける。三河国八橋に御着の時。御前無人数の夕に。白き衣かづきたる女一人参て云。御子孫悪事なくば七代守るべし。其支証には毎度合戦に出給時。雨風をもつてしめし可申と云て如夢失にけり。それよりしてひしと御むほんのことおぼしめし定て。為上杉兵庫入道御使。先吉良上総禅門に被仰合しに御返事に云。今まで遅くこそ存づれ。尤可目出云々。其後人人にも其御談合有けり。此事関東御立の時より内々上杉兵庫入道は申勧めけるにや。家時。貞氏。此両御所の御造意を。大方殿の上杉計に仰きかせられけるとかや。是によりて殊更其人骨を折て河原合戦にうち死しけるとかや。今の上杉中務入道の祖父なり。
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となっています。
清水氏は「大方殿」上杉清子が「上杉兵庫入道」即ち憲房だけに話されたらしい、と読まれており、確かにそう読むのが自然かもしれませんが、上杉清子は尊氏の母なのだから直接尊氏に言えばよいのに、何故か
上杉清子→上杉憲房→尊氏
という迂回ルートを取っていることが少し変な感じはします。
また、清水氏は「元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実」とされていますが、これはどんな史料に基づくのか。
まあ、貞氏から聞くのは当然として、弘安七年(1284)六月二十五日に家時が二十五歳で死去(自害?)したとき、文永七年(1270)に生まれた清子はまだ十五歳で、貞氏の側室となっていたのかも分かりません。
年齢だけを考えても、清子が家時から足利家の運命に関わる微妙な話を聞き取るような立場だったのかは疑問です。
私は足利高義が二十一歳の若さで亡くなった文保元年(1317)頃に釈迦堂殿の母・無着も亡くなったのではないかと推定しますが、そうすると釈迦堂殿の出家もその頃と考えるのが自然ですね。
金沢北条氏と安達家・足利家の接点となる無着と釈迦堂殿の周辺についてはもう少し検討したい点が残っていますが、まだ準備不足なので後で論ずることにします。
さて、清水克行氏は尊氏の正室・赤橋登子について、尊氏母・上杉清子との関係を中心に、次のように述べられています。
私は清水説にかなり疑問を持っていますが、まずは清水氏の見解をそのまま紹介します。(『足利尊氏と関東』、p32以下)
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裏切りの伏線
これまで尊氏が幕府に反逆した理由については、孫の尊氏に「天下取り」の悲願を託した祖父家時の置文の存在や、北条氏のまえで多年の鬱屈を余儀なくされてきた足利氏の宿怨、あるいは源氏の棟梁としての尊氏の自負などが、要因として大きく取り上げられてきた。しかし、現在の研究水準では、そのいずれも尊氏反逆の主要因としては認めがたいものがある。【中略】
さらに、尊氏自身の源氏の棟梁としてのプライドについても、言われるほどのものが尊氏の胸中にあったかどうか、疑わしい。これも第Ⅱ章の内容の先取りになるが、そもそも足利氏の庶家のなかには斯波家や吉良家など、足利よりも兄筋にあたる家が多くある。それらの家のなかには、あえて足利氏の兄筋にあたることを誇示しようとする家も少なくなかったようで、そうしたなかで室町時代以前に「足利嫡流家=源氏の棟梁」という意識がどれほど浸透していたかはわからない。また、尊氏自身、長年にわたり足利家の"妾腹の二男坊"の地位にあり、家督の継承はつい最近のことだった。彼個人が、言われるほどにみずからの血統についての自負があったとは思えない。
むしろ、尊氏を叛逆に走らせた決定的な要因は、やはり彼自身が北条氏の血をひかない、北条氏と距離のある人物であることにあったのではないだろうか。それに対し、かわりに尊氏の外戚となった上杉氏は、もとは京都に出自をもつ中下級貴族であり、尊氏の母清子の祖父重房の代で鎌倉に下ってきた家系であった。そのため上杉氏は西国の情勢を的確に判断することができ、後醍醐側と接触する手だても兼ね備えていた可能性が高い。実際、尊氏が鎌倉から京都に出征するさい、一番最初に幕府への叛逆を進言したのは、清子の兄にあたる上杉憲房であった(『難太平記』)。そして西上中の尊氏に、ひそかに後醍醐の綸旨を届け、近江国鏡宿(現在の滋賀県蒲生郡竜王町)で再三にわたり挙兵を促したのも細川和氏と上杉重能(憲房の養子、尊氏の従兄弟)であった(『梅松論』)。また、家時・貞氏が生前から倒幕の意志をもっていたという『難太平記』にある予定調和的な足利神話も、元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実とされ、清子を介して流布された話であったらしい。
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いったん、ここで切ります。
「元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実とされ、清子を介して流布された話であったらしい」とありますが、『群書類従』合戦部の『難太平記』を見ると、
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元弘に御上洛の時。不思儀の事ありける。三河国八橋に御着の時。御前無人数の夕に。白き衣かづきたる女一人参て云。御子孫悪事なくば七代守るべし。其支証には毎度合戦に出給時。雨風をもつてしめし可申と云て如夢失にけり。それよりしてひしと御むほんのことおぼしめし定て。為上杉兵庫入道御使。先吉良上総禅門に被仰合しに御返事に云。今まで遅くこそ存づれ。尤可目出云々。其後人人にも其御談合有けり。此事関東御立の時より内々上杉兵庫入道は申勧めけるにや。家時。貞氏。此両御所の御造意を。大方殿の上杉計に仰きかせられけるとかや。是によりて殊更其人骨を折て河原合戦にうち死しけるとかや。今の上杉中務入道の祖父なり。
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となっています。
清水氏は「大方殿」上杉清子が「上杉兵庫入道」即ち憲房だけに話されたらしい、と読まれており、確かにそう読むのが自然かもしれませんが、上杉清子は尊氏の母なのだから直接尊氏に言えばよいのに、何故か
上杉清子→上杉憲房→尊氏
という迂回ルートを取っていることが少し変な感じはします。
また、清水氏は「元をただせば清子が生前の彼らから聞きとった事実」とされていますが、これはどんな史料に基づくのか。
まあ、貞氏から聞くのは当然として、弘安七年(1284)六月二十五日に家時が二十五歳で死去(自害?)したとき、文永七年(1270)に生まれた清子はまだ十五歳で、貞氏の側室となっていたのかも分かりません。
年齢だけを考えても、清子が家時から足利家の運命に関わる微妙な話を聞き取るような立場だったのかは疑問です。