ハラカルラ 第11回
開錠した手を下ろすがキツネ面は窓を開けようとしない。 水無瀬がどう出るか窺っているのだろうか。
水無瀬が自ら窓を開ける。
「かなり疑心暗鬼になってるな」
窓を開けるとキツネ面が喋った。
(放っとけ、そうならない方がおかしいだろう)
「表は見張られている」
「え?」
「見張られていただけじゃない、盗聴もされていた」
思わず振り返って部屋を見る。
「今はもう盗聴器はない。 安心しろ」
「なっ・・・」
“な” の次に何を言おうとしていたのだろう、次の言葉が出てこない。
「話がある。 隣りの部屋に来てくれ」
「え・・・」
「あくまでもこっちからな」
プラスティックキツネ面が何ということもなくベランダを移動した。
(うそだろ? 俺にそんなことが出来るはずがないだろ!)
隣と水無瀬のベランダには高い壁のしきりがある。
(え? いや待て、今なんて言った? 隣りの部屋?)
ベランダ用のスリッパを履き、手すりにしがみ付き壁越しに隣のベランダを見ると、さっきの男が掃き出しの窓から部屋に入って行くところが目に入った。
(どういうことだ。 あの引っ越しの日からプラスティックキツネ面が住んでいたのか? それともここの住人に借りたということか?)
「あ・・・」
思い出した。
あの黒のライダースーツを着ていた女性。 馬の尻尾のような髪の毛。
あの髪の毛、引越してきたあの日に見かけたのだった。 ドアが閉まったところだったが、一瞬、黒くストレートの長い髪の毛の束が踊るのを見たのだった。
「ここに住んでいた・・・」
偶然引越してきたなんて有り得ないだろう。 前に住んでいた男を強制的に出したのだろうか。
キツネ面の男が掃き出しの窓から顔、ではなくプラスティックキツネ面をのぞかせてきた。
「もしかしてそこ、渡れない? 手、貸そうか?」
そう言いながらプラスティックキツネ面を取った。
「え・・・」
どうしてここに居る。
水無瀬が座っている。 水無瀬の部屋と同じ間取りをした部屋に。
結局プラスティックキツネ面の男の手を借りて移動したのだが、よく考えるとあの時とんでもないことを考えていたと思う。
サングラスの男との初めましての時だ。 サングラスの男は 『お初』 と言っていたか。
あの時、傘を投げてベランダから跳び下りようと考えた。 俺も運動音痴ではない、それなりに着地が出来るだろうつもりだ、などと考えて。
結局、ベランダまで行きつけなかったが、もしベランダに行くことが出来たとしていても、跳び下りる勇気はひしゃげてしまっていたのではなかっただろうか。
さっき手を貸してもらっていても怖かったのだから。
ベランダに移動してすぐプラスティックキツネ面の男が言ったのは、どうしてキツネ面を付けて水無瀬の部屋を訪れたのかいうことだった。
『ほら、何度か会ったことがあるって分かるだろ? さすがにベランダからだからな、安心してもらおうと思って』
結局プラスティックキツネ面はキツネ面と同じ団体だということで、会ったというか、逃がしてもらったということだが、キツネ面を見たからと言って安心など出来はしない。 あのカオナシに似た面だったら、即行逃げていただろうが。
部屋を見渡す。 水無瀬の部屋も大概家具は少ないがこの部屋はそれ以上に少ない。
いま水無瀬が座っている前にミニテーブルがあり、他に電気ストーブとキャスター付きのハンガーラックに沢山の服がかかっているだけ。 そのハンガーには女性ものは無い。
あの女性はここで暮らしていたのではなく、単に引越しの手伝いに来ていただけだったということか。
台所で水無瀬の茶を用意していただろうキツネ面の男が、手に二つカップを持って戻って来た。
「どーぞ」
出されたものは茶ではなくココアだった。 思わず凝視する。
「ん? 甘いの苦手?」
そんな質問に答える気はない。 そっぽを向いた。
「毒なんて入れてないけど?」
目だけを動かして相手を見る。
「ホントホント」
あら、やだぁ~奥様、的な手の動きをしてみせている。
このまま黙っていても何が解決できるわけではないし、色んな疑問が無いわけではない。 だから最初に一番簡単に納得出来るだろう疑問を二人称に乗せた。
「話があんだろ? お客さん」
そう、今目の前に居るのは、数日前から深夜に見かけていたバイト先の客で、いつもキンキラの派手なスタジャンにニットキャップを被っていた、年齢的にどこかの学生かフリーターで、深夜から朝にかけてのバイトに行くのだろうと思っていた客だ。
いつもお握りと茶を買っていくから、バイトの前に腹ごしらえをしているのかと思って、コンビニバイトを心の中でお勧めすらしていた。 そのスタジャンがハンガーにかかっているのが何故か胸くそ悪い。
「あははー、俺のこと覚えてたんだ」
ふざけて言うコイツに 『いらっしゃいませー』 『有難う御座いました』 と言っていた自分が腹立たしい。
玄関の鍵を開けドアを開ける音がした。
続いて硝子戸が開く。
あの髪の毛・・・今は括ってはいないが、あの女性だ。 あの女性が立ったまま水無瀬を凝視している。 一度目は髪の毛しか見ていなかったし、二度目はこちらを向いたと言ってもキツネ面を着けていた。 顔を見たことはなかったが間違いない。 それに想像通りの綺麗な女性だ。
だが、どういうことだ。 チャイムも鳴らさず入って来たということは。 いいやそれだけではない、鍵を開けていた。 ということは、この部屋の鍵を持っているということ。 それって、同棲してるってことなのか?
「ライ、どうして水無瀬が居る」
(はい? 呼び捨て?)
それにどうして俺の名前を知っているんだ? バイト先では名札を付けてはいる。 そこから俺の名前を知って、スタジャン客がこの女性に話していたのか?
(なんかそれもムカつくなー)
それに思っていた声より随分と低いし、凝視する目つきが鋭い。 綺麗だが姐御、という感じだ。 想像と違った。
「お誘いしたから」
「誘った?」
ようやく水無瀬から視線が外された。
「積極的に聞き出せって言ってただろ?」
「・・・積極的すぎるだろうが。 少しは考えろ、部屋も、ましてや顔まで晒して」
「ナギだって晒してる」
「まさか居るなどと思わなかったからだ」
(なんだ、この二人の会話は・・・。 それに女性の話し方・・・)
水無瀬の理想が瓦解していく。
「疲れた」
「ココア飲む?」
「飲む」 とナギが答えるとライが腰を上げ、開けっ放しの玄関側の硝子戸を閉め、台所側の硝子戸を開けると台所に消えた。
ナギが上着を脱いで押入れを開ける。 押し入れにもハンガーラックがあり、こっちはナギが使っているようだ。
(やっぱ、同棲・・・?)
ナギがどっかりと水無瀬の向かい側に座った。 胡坐を組んでいる。 そこだけは理想から離れて欲しくなかった、正座にしてほしかった。
「ライ、この面はどうした」
閉められた硝子戸を睨みつけながら言っている。
「あー・・・えっと、面が壊れちゃってさ。 ほら、前回の山の中の時。 ちょっとおちょくったら怒っちゃって、それで競争してる最中にクナイが飛んできて・・・その代用品」
「お前・・・」
面を付けていた、その面に飛び道具を当てられ壊れた。 顔の心配をするのは尤もだろう。
「あの面がどれほど大切な物かは分かっているだろう!」
心配していたのは顔ではなく面の方だったらしい。
「だから・・・今修理中。 それは短い間の代用」
女性が長い髪をかき上げ大きな嘆息を吐いた。 そして水無瀬の方を見る。
「単刀直入に訊く」
水無瀬が僅かに首を捻った。 拒否したのではなく、何を訊かれるかと思ったからである。
「見えるのか?」
(またか、またこの話か)
だが・・・まぁ、そうだろう。 そうだろうし、他にまだ何かあっても困るだけだ。
「何が?」
台所でライの手が止まったことなど水無瀬は知らない。
「水。 水の中」
「それが見えたとしてどうなんだ? それにどうしてそんなことを訊く?」
「追われてるのはそれが理由だって分かってるだろう、こっちはどうでも良かったんだが風向きが変わった」
「あんたたちの風向きなんて俺の知った事じゃない」
「まぁ、そう言うなよ」
ライがカップを片手に戻って来た。 座っていた場所を取られたからだろう、置いてあったカップを取り、持っていたカップをナギの前に置くと水無瀬の斜め前に座る。
「そのプラスティック面、結構いいだろ? 昨日、水無瀬を追ってる時に見つけたんだ」
「馬鹿か」
ナギから一言返されたライがヘラっと笑って今度は水無瀬を見る。
「まずは、そのお客さんね」
ワンテンポもツーテンポも遅れて水無瀬の言った二人称に答えるようだ。
「今聞いたように俺らはどうでも良かったんだ、だからといって放ってはおけない、向こうが第三者を巻き込もうとするのは防ぎたかった。 まぁ、完全に第三者とは言い切れないんだけどな」
どういう意味だよ、と訊きたかったが今は黙して聞くだけにとどめておく。
「で、助け・・・って言うか、逃がしてたわけ。 ただ逃がすにも助けるにも、対象の行動が分からなければこっちも簡単に動けない。 簡単な身元調査をさせてもらった。 大学三年生であること、バイト先、出身校、実家の住所、そしてここの住所、その他ちょっと諸々。
俺が客として時々コンビニに行ってたのは、客に紛れて向こうが来てないかどうかを見る為だった。 俺は向こうの連中の顔を知らない、向こうも面を着けてるからな。 で、店の外で張ってても分からない時があるってんで、他の客の様子を見に行っていた。 ある程度近づけば、雰囲気で向こうかどうか多少分かるからな。 お客さんの件はこれでOK?」
「ここにはどうやって入った」
「あー、日頃の行い? 近場で場所を探してたら、引っ越し業者が見積もりを取りに来たのを見てさ、即行大家に問い合わせたわけ。 そしたら次に入る人はまだ決まってないってことだったから入った。 他に質問は?」
「ずっと俺を見張ってたのか」
「見張ってたっつーか、守ってたって言って欲しいんだけど?」
「カラオケでもファミレスでも他でも見かけたけど、そこでも守ってたっていうのか?」
「あ? え? バレてた?」
ナギがジロリとライを睨む。
「ライ、まともにつけることも出来ないのか」
つけるって・・・完全に見張ってるって言ってるようなものじゃないか。
「あーいやぁ、服変えてたからバレるとは思って無くて~」
たしかにバイト先の客として来ていた時とは違う雰囲気の服は着ていた、それは認めよう。 だが。
「蛍光色のパーカーとか、フリフリのブラウスなんて着てたら目立つわ」
それに違うものとはいえ、いつもニットキャップを被っていた。 被っていなかったのはサービスエリアの時だけだった。 だからあの時に髪の毛が長かったのだと知った。 単に長いだけではなく、半分から下を刈り上げているという珍しい髪形で、ニットキャップを被っている時にはニットキャップの中に収めていたのだろう。 サービスエリアの時もそうだったが、ニットキャップを被っていない今も半分から上は括られている。
「フリフリのブラウス?」
「あ、借りた」
「ライお前!」
「うわ、待て! 殴んなよ! これは経費削減の一環だからな!」
女性がスタジャン客の胸ぐらを掴み、もう一方の手が上げられる。
「ちゃんと影から見張っていればそれで済んだ話だろ!」
完全に見張ってたって言ったよな。
プルプルと怒りに震えている女性の上げた拳を見ながら水無瀬が溜息を吐いた。
「さっき言ってた盗聴器ってのは?」
今にも殴りそうな、殴られそうな二人がこっちを見る。 もうこの女性への夢の理想は無かったことにしよう。
「ああ、部屋に置いてあったろ、白のUSBスティック」
スタジャン客の胸ぐらを掴んでいた女性の手が離される。
スタジャン客、俺に感謝しろ。 って、え? 今なんて言った? USBスティックだと?
「本棚の上にあったとかって聞いたけど?」
勝手に部屋に入ったってのか? だが今の話ようでは少なくともこのスタジャン客ではなさそうだし、多分この女性でもないだろう。 それにしてもあのUSBスティックが?
「誰かに貰ったのか? ならそいつが向こうの人間っていう可能性が高いんだけど?」
「いや・・・いつの間にか玄関に落ちてた」
「そっか・・・玄関か。 じゃ、一瞬のスキを狙って入れられたんだろな」
「入れられた?」
「投げ入れるくらい簡単な芸当だからな」
もしかしてあの時か? 玄関のドアに何か当たったような音がした。 いや、それ以外でも考えられる。 いま、スタジャン客は簡単な芸当だと言った。 そうならば、俺が部屋を出入りした時にでも投げ入れられたのかもしれない。
ああ、もういい。 いつ入れられたのなんて今更だ。
隣りの部屋で、早い話、水無瀬の部屋でスマホの着信音が鳴っているのが聞こえてきた。 電話の着信音だ。
「電話、出なくていいのか? 何なら取ってきてやるけど?」
ああ、そうか。 何故このスタジャン客が絶妙なタイミングで窓をノックしたのか。 雄哉からの着信音が聞こえて、きっと俺の声も聞こえたんだ。 夕べのことを考えると物音もしなかったのだから、それまで俺が寝ていたのが分かっていたのだろう。
おじさんの団体とは違って気は使ってくれているようだ。
「いや、いい」
どうせ雄哉だろう。
もう何もかも、どうでもよくなってきた。
「で? そっちの話しってのは? さっき言ってた風向きが変わったってことと関係があるわけ?」
聞くだけ聞いて部屋に戻ろう。 そして新しいバイト探しと就活。 ああ、深夜のコンビニバイトも復帰しよ。 おじさんの団体のことはキツネ面に任せて、風向きが変わったとか何とかはそっちの勝手で俺の知らない事なんだから。 水のことはちょっと引っかかるけど、最初よりかは大分慣れてきた。
「順を追って話したいんだが、まずは水が見えるかどうか。 水の中の様子が見えるかどうか。 先にそれを聞きたい」
スタジャン客が言うと、水無瀬の返事を待たずに女性が口を開いた。 まるで水無瀬の揚げ足をとるかのように。
「さっき、それが見えたとしてどうなんだ、と言ったな、それは見えるということだな?」
「どうしてそうなるんだよ」
「普通、何も知らなければ何のことかと訊き返すはずだ」
「おじさんの団体・・・あんたたちの言う向こうか? そっちにも言われたからな」
「さっきの話ではないが向こうは盗聴器で聞いていた。 それらしいことを誰かに言ったか、呟いたかしたのではないのか?」
呟いた・・・。 そうか。 そういうことが有り得るのか。 誰かに言ったということは無い。 ということは独り言を言ったのだろうか。
考えるつもりはなかったが、つい考えに耽(ふけ)ってしまった水無瀬に女性の声が続く。
「それとも魚と話したか?」
「話せるわけないだろ! 目を合わせて笑ってくるだ・・・」
言っちまった・・・。
「そうか」
射たりという目をして口角を上げられた。
「なにも隠さなくてもいいだろ? ありのままを言ってくれた方が話は早いし、こちらの出方も決まる」
「だからっ、それはそっちの勝手だろ! 俺には関係のない話だ!」
「矢島という男を知ってるか?」
無視かよ。
「知らない」
「どっちの意味の知らないだ? 答える気のない知らないか、矢島を知らないか。 だが矢島とは会ったことがあるはずなんだが?」
「客の顔は覚えてる方だけど名前まで知らないし、その名前自体知ってる人間の中には居ない。 それに俺は気のない時にははっきりと拒否る。 話す気はないとか、断るってな」
「それははっきりしていてありがたい」
何だよその言い方。 完全に上から目線かよ。
「矢島は名乗らなかったんだろうか」
女性がスタジャン客を見て問うようにして言っている。
「そうなのかもな・・・うーんなんでだろう。 決定打がなかったのかなぁ」
「俺はその矢島って人を知らない。 でもあんたたち、さっき順を追って話すと言ったよな?」
「あ、そう言えば自己紹介がまだだったな」
「は?」
やっとスマホの着信音が止んだ。
雄哉、しつこすぎるだろ、そんなに彼女を紹介したいのかよ。
「あんたたちって言ったから。 それにこっちはそっちのことを知ってるのに不公平感満載だろ?」
ないと言えば嘘になるけど今それが必要か?
「俺は “雷(かみなり)” って書いてライ。 こっちは、いもう―――」
え? スタジャン客? 鈍い音と共にライと名乗った男が居なくなった。 その代わりに顔があったそこに拳がある。 こっちに指を向けて握られている。 その拳を辿っていくとあの女性に辿り着いた。 早い話、拳の持ち主はあの女性。 ということは。 もしかしてと下を見ると、ライが鼻を押さえ仰向けに倒れている。
「双子だ。 ちなみに先に生まれたのは私」
もしかして妹と言われたくなかったのか?
「今は先に生まれた方が兄姉(けいし)になるというのに、爺たちがまだ昔を引きずっている」
似ているとは思っていたが双子だったのか。 女性の方がライより俺より歳上だと思っていたが。
そう言えば聞いたことがある。 昔の双子は先に生まれた方が弟妹(ていまい)になると。 きっと戸籍上、妹として出されたのだろう。 それにしてもさっきもそうだったが、この女性(ひと)は手が早く出るようだ。
痛ってーんだよ、と言ってライが起き上がってきた。
鼻声で言っているが、ティッシュで鼻血を止めたらどうだ? 少なくとも拭いた方がいいと思うが?
「こっちは双子の片割れ。 風が “凪ぐ” と書いてナギ。 珍しい二卵性だけどな」
二卵性が珍しいのか? まず双子が珍しいだろう。
「見苦しい、拭け」
ナギがボックスティッシュを投げた。 ミニテーブルの下に置いてあったようだ。