『ハラカルラ』 目次
『ハラカルラ』 第1回から第10回までの目次は以下の 『ハラカルラ』リンクページ からお願いいたします。
『ハラカルラ』 リンクページ
「矢島との間にあったことは聞いた。 矢島の書いたものも見た。 それを水無瀬君に伝えるが、いいかね?」
長が水無瀬の持っていた紙を卓の上に広げる。
「いいかね・・・とは、どういう意味でしょうか?」
何が書かれてあるのかは気になるところだが、聞いた以上は責任を取ってずっとここに居ろということなのだろうか。 そうであるのならば聞かなくていい、聞きたくない。
「まず、言葉の意味が分からないだろう。 あとにこちらの言葉に変えて言うが、それでも分からないだろう」
分からないことを今から言う、という意味の 『いいかね』 だったということか。
ここまできて駄々をこねても始まらないし、分からなくとも書かれていることは気になっていたのだ、水無瀬が頷く。
「書かれていたのは・・・」
聞いてもはっきりと聞き取れない発音で長が言葉を紡いでいく。 発していくではない、紡いでいる。 そんな風に聞こえる発音だった。
長の口が閉じられる。
「そう書かれていた。 そしてこちらの言葉に変えると」
『扉を開けよ、閉めるでない 誰が為(たがため)のものか 扉を放て、作るでない』
「こういう風に言っている」
水無瀬が僅かに首を傾げる。 最初に長が言ったように、こちらの言葉に変えてもらっても意味が分からない。 一つ一つの言葉が分からないのではなく、全体の意味の流れが分からないのでもない。 だが何かが分からない。 その何かが何なのか。
「この言葉は矢島たちに引き継がれていてな、これにはまだ続きがあるのだが矢島は敢えてここまでにしたんだろう」
「どうしてですか?」
「万が一を考えて誰にも知られたくなかった、というところだろうかな」
「誰にも・・・」
ライが 『向こうには矢島的人間が居ない』 と言っていた。 ということは、この続きは向こうであるおじさん団体は知らないということになる。 いま長が言った誰にも知られたくなかったというのは、おじさん団体のことだろうか。
だとすれば、ナギはあの文字が読めないと言っていた。 きっとライも読めないのだろう。 読めないのは若いからだろうか。 おじさん団体もあの文字や意味を読み解くことが出来ないとしても、出来る誰か、お爺さんかお婆さんが居るということだろうか。
ライの言っていた確執とはいったい何なのだろうか。
水無瀬の呟きに長が頷いてみせた。
「それと・・・最後の三文字なのだが」
「はい」
最後の三文字。 そう言われれば色々と書かれている中で最後にポツンと三文字だけ行を空けて書いてある。 その文字のことだろうか。
「これは今言った中には含まれない。 うー・・・っと、これは・・・」
長が考えているようだが、知らない、若しくは思い出せないのだろうか。
「たしか・・・最後の文字は意味としては印(いん)だったと思うが、その前の文字は・・・」
「いん?」
「ああ、印(しるし)ということだ。 その前の文字が・・・ああ、そうだ」
そう言った長がまた聞き取れない言葉を口にした。
「それはどういう意味ですか?」
「こちらの言葉で言うならば “矢島、印” この二文字で矢島を表しているということになる。 日本風に言えば最初の二文字が矢島を表し、そこに判子を押したということになるのかもしれない」
木戸が開きワハハおじさんが入ってきた。 長の茶を持ってきたようだ。 長の前に茶を置くとすぐにまた出ていった。
もうぬるくなった茶を水無瀬が飲む。
「ライとナギがそこそこ話したようだが重要なことは何も言ってはない。 聞いてもらえるか?」
「ライとナギにも訊きましたが、聞いたとして俺はどうすればいいんですか?」
「水無瀬君のしたいようにすればいい」
「本当に?」
「ああ、破約などせん。 ああ、そうか、これすら口約束か。 信用してもらう他ないということになるか」
聞いても聞かなくても今のこの状態は変わらない。 逃げられないし、逃げられたとしても次にはおじさん団体が待っているだけ。
「では・・・そこのところは信用させてもらいます」
そこのところか、と顔をほころばせて長が言い、次に顔を改める。
「昔昔の話になる」
お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に・・・という話ではなかった。
この村の先祖はずっと昔からここに住んでいた。 ある日、幼い兄妹が居なくなった。 村の者たちで探していたが、兄妹は何日も見つからなかった。 そしてようやく見つかったのが一年近くも経ってからのことだという。
「一人だけが村に戻って来た。 兄の方がな」
戻って来た兄は痩せ衰えていることもなく、着ているものも汚れていなかった。 妹はどうしたのかと母親が訊くと、聞き取れない言葉で場所を言った。
何度も何度も訊き返したが何と言っているのか分からない。 そこで母親はそこに連れて行くようにと言った。 すると戻って来た兄が首を横に振り連れてはいけないと言う。 ただ、心配することの無いようにと伝えたかっただけだと。
半狂乱になりかけた母親を村人たちが落ち着かせ兄に向き直った時、兄の姿はそこにはなかった。
姿がなかった・・・。 水無瀬の背筋にぞっと寒気が走った。 あの時、矢島と会った時もそうだった。 矢島の姿が消えていた。
それから三十年ほどが経った頃、傷だらけで服もボロボロになった兄が急に村人の前に現れた。 成長はしていたが顔に面影がある。 それに兄妹のことは誰もがずっと気にかけていた、すぐに誰かは分かった。 何人もの村人が駆け寄り介抱したが、残念にも数日後息を引き取ってしまった。
だが兄は言い残していた。 ある場所とあることを。 そして助けて欲しいと。
村人たちは互いに頷き合い、兄妹の両親は村人に兄の介抱を頼み、一部の村人と兄の言い残した場所に向かった。
その場所は村の奥の山の中にあった。 何でもない木々の中でこれほど奥に村人は入ったことがなかった。 木々の間を歩いて行くと段々と風景が変わっていく。 だがそれにすぐ気づく者はいなかった。
ずっと歩いて行くと次第に木々がなくなり辺り一面が水の中となっていた。
(え・・・)
魚が泳ぎ藻が水に揺れ刺胞動物が漂っている。 水の中なのに息が出来る。 誰もが呆気にとられた。 だが兄妹の両親だけはその様子に目もくれずどんどんと足を進めて行った。 そして大きく隆起した岩を上り穴を見つけると岩の中に入った。
その中に妹が居ると兄から聞いていたからである。
穴の中を歩き水の中から顔を出すと妹が倒れていた。 両親は水から出るとすぐに駆け寄り我が子を抱きしめた。
我が子の目が薄っすらと開かれた。
そして、ここを守って欲しい、そう言ったという。 懐から何か書かれたものを出し、お願い、と一言いい残して息を引き取った。
その紙には、この世にはこの世であってこの世でないものが存在すると書かれていた。
「最初のこの世というのは人が生きているこの世界、あとの二つのこの世というのは、この世界と交差するようにあるもう一つの世界。 水の中の世界がある、とイメージすればわかりやすいだろう」
「それは・・・平行世界とか水平世界とか・・・違うな。 ああ、パラレルワールド的なことですか?」
「そのような難しいことは分からない。 交差するもう一つの世界としか言いようがない」
紙には妹の跡を継ぐ者の事も書かれていた。
兄妹は水の世界を守っていた。 だがこの兄妹以外にも守っていた者が居る。 それは他の村の者だったが、兄妹はその村の者たちに襲われた。 兄がそう言い残していた。
両親は我が子の復讐も考えたが、兄妹はそんなことを一言も遺してはいかなかった。 血を飲む思いで我が子の思いを引き継いだ。
「どうして襲われたのか、その理由は未だに知れない。 それからは跡を継ぐ者が絶えることなく続き水の世界を守っている。 この村の者はその補佐をし、水の世界を荒す者に警告を促している」
「村の人達で補佐を?」
「そうだ。 跡を継いでいる者たちの補佐という形で」
「それが・・・その跡を継いでいるのが矢島さん、だった」
水無瀬は気付いている。 その絶え間なく続いている跡を継ぐ者が自分だということを。 だがそれを口にしたくはない。
「そうだ」
「矢島さんが亡くなったのは、その昔昔の兄妹を襲った相手に関係があるんですか?」
長が首を左右に振る。
矢島と昔々の話は関係がなかったようである。
「矢島は・・・そうだな、居なくなって一年ちょっと経つか。 急に居なくなった」
何故か長の言葉が止まった。
そして息を替えるように続きを話し出す。
「そうだなぁ、一昨年の終わりごろから見かけなくなったか」
一昨年の終わり。 ということは昨年の一月頭からと考えて、水無瀬と接触する二カ月ちょっと前くらいになる。
「理由は分からないんですか?」
また長が首を振る。
「何も分からない。 あっちの世界で何かあったのか、こっちで何か思い立つことがあったのか」
「ネットニュースで最初は身元不明と出てましたけど、両親兄弟とかご親戚とかに何かあったとか」
またもや長が首を振る。
「矢島は天涯孤独の身でな。 まぁ、そういうところから警察もあっさりこちらに身を渡してくれたんだろう。 一応、この村に住んでいたということは住民票から分かることだ。 この山を下りたところの駐在も顔確認に来て矢島だと証言してくれた。 それに矢島が持っていた写真にナギも写っていたからな、そのナギが矢島の遺体と対面して泣き崩れた」
「そうなんですか・・・」
あのナギが泣き崩れた・・・少々驚きである。
「水無瀬君もあの世界を見ただろうが、芯の奥までは見ることは出来ないはずだ」
「芯の奥?」
やっと長が首を縦に振る。
「矢島もそうだが代々がその場に足を運んでいる」
「あ・・・そこが、妹の倒れていたところ?」
「そこは入口になる。 芯の奥には託された者しか入ることが出来ないからな」
ああ、そう言えば、両親はそこまで行ったと聞いたのだった。 それにライが言っていた深部というのがそこなのだろう。
「水無瀬君の見えるあの世界自体を荒されても困るが、あそこならこの村の者でなんとか対処できるが、芯の奥となると入られる者が限られている、村の者ではどうにもならん」
あ・・・なんか話の風向きが怪しくなってきた。
「それじゃあ、その芯の奥ってところに他に入れる人が居るってことですよね?」
長が渋い顔を作って頷く。
「跡を継ぐ者は一人とは限らんのでな」
おお! いい方に風向きが変わってきたか?
「じゃ、その人の探し方は? 何なら俺も協力しますよ?」
水無瀬の心の内の声が聞こえたのか、長がじろりと水無瀬を見てから答える。
「矢島以外の他の跡を継いだ者が既に探し出して確保している可能性が無きにしも非ず。 それに簡単に探せるものではない」
「あ、そういうことで・・・」
「だがそれだけではない。 この村の跡を継ぐ者から選ばれた者は邪心を持ってはいない」
「邪心って・・・あの、俺色々持ってますけど?」
守銭奴ではないが金に頓着しているところはあるし、雄哉に先を越されないように彼女を作ろうともしている。 それにサラリーマンとして昇進も願っている。
「多分、水無瀬君が考える程度は誰しもが持っているだろう。 邪心とはそうではない。 例えば・・・水の世界を利用しよう、とか」
「え!?」
思いもしなかったことを言われ思わず声に出てしまったが、どうしてそんなことを考えるんだ、という疑問が頭の中を回る。
「どうしてそんなことを考えるのかと思っただろう、それが邪心が無いということだ」
「いや・・・この世でって言うか、自分の居る場所に居ればいいんじゃないかな、と。 たしかにあの、水の世界ですか、あそこは美しくて時の刻みを感じないって言うか、穏やかには居られますけど、それだけじゃ・・・ね?」
今までこんな風に言葉にしたことは無かった。 どちらかといえば、どうにかしてくれよ、という感覚があったという方が正解だが、こうして落ち着いて話を聞き、水の世界のことを自分だけではなく他の人も知っているのだという安心感から、こんな風な言葉になったのかもしれない。 それに敢えて言葉にせずとも、どこかでそう感じていたから今言葉になったのだろう。
「刺激がないか」
「まぁ、そんな感じです」
「水無瀬君はまだ見ているだけの状態で、完全に入ったことがないから分からないだろうが、あそこに行くと・・・多分だが、あの水に触れると色んなことがある。 例えば傷が治ったり不調が治ったりだな。 だから水と簡単に言っていいものかどうかと、いうところもあるんだがな」
「傷が治るんですか?」
「ああ、今頃向こうの何人かがあそこに行って傷を治しているだろう。 まぁ、こっちもだがな」
「どんな傷でも?」
剣戟が聞こえていた。 それにクナイも矢も飛んできていた。 クナイにしろ矢にしろ身体に刺さりでもすれば、その場所によっては命取りになる。
「ああ。 傷によっては時間がかかるがな。 単なるひっかき傷であれば、十分もあれば治る。 だからと言って即効性のある薬と一緒にしては困るがな」
長が頷いて含み笑いを向けてきた。
「どうだ? そう聞いてあの世界の水を持ち出しこっちで売るか?」
思わず水無瀬が首を振った。 左右にブンブンと音がしそうなほどに。
「とんでもないです。 そんなことをしてあの場を壊したくないし、あそこはあそこ、こっちはこっちです」
どうしてこんな風に言えるのだろうか。
さっきもそうだった、今まで言葉にしなかった言葉がつっかえることもなくスラスラと出てくる。
「壊すというのは穢すということか?」
「はい、そうです。 あそこはそういうところです」
理由なんていらない。 あそこがそういうところであることは間違いない。
長が納得するように何度も頷く。
やはり矢島が選んだ青年だ、と口にしたいが今はまだ控えておこう。
「あの、話が戻ってしまいますけど、先ほど矢島さんが亡くなられたのは、昔昔の兄妹を襲った相手は関係ないと仰っていましたが、それはどうして分かるんですか?」
「関係ないとは言っていないはずだが?」
そうだった、首を振っただけであった。
「あ、そうでした。 すみません思い込んでしまってたようです」
「正直だな、そんなところで謝らんでいい。 煉炭の見本にしたいもんだ」
(レンタン・・・そう言えばワハハおじさんが言っていたな、俺に謝らせないといけないと。 それにしても珍しい名前だな。 まぁ、レンタルよりマシだろうが)
「はっきりと言わなかったこっちが悪い。 兄妹を襲った相手は水の世界から居なくなったということだ。 水によってどこかに飛ばされたらしい。 それ以降、何十年もして、跡を継ぐ者がやって来たということだが、その時と違って大人しいもんでな」
水無瀬の頭に新たな疑問が浮かんだ。
「あの、そこって俺を攫おうとしているところではないんですか?」
「いや違う。 水無瀬君を必要としているのは跡を継ぐ者を失くした村だ。 水の世界には・・・」
水の世界には四か所から入ることが出来る。 最初に入ったのがこの村。 それからのちに順々と三か所から入ってきた。
「四か所から・・・」
ということは、敵が三団体いるかもしれないということ。 いま長が言った一団体を抜いても二団体。
「入る入り口を門と考え、黒青朱白の門と、四か所の言いわけをしている。 それはどこも同じように言いわけをしている。 相手を指す時に、朱門青門などと言うこともある。 兄妹を襲ったのは青門の者たち。 水無瀬君を襲ったのは・・・朱門の者たち」
長が言いにくそうに言う。 他の門の悪口を言うようで嫌なのだろうか。
「跡を継ぐ者を失くしたっていうのは、何があったんですか?」
「矢島で例えると分かりやすい、矢島が水無瀬君を探したことと同じだ。 矢島がどれだけ探しても水無瀬君を見つけることが出来なかったら、跡を継ぐ者を失くしたことになる」
「でも俺以外にも居るんですよね?」
「たしかにそうだが、矢島の目に水無瀬君が止まったということは、矢島が水無瀬君を認めたということ。 さっきの話ではないが、水の世界を利用しようと考えるような輩を矢島は認めない。 そして水を見ることが出来る者が他に居なくもないが、その程度では芯の奥に入ることは出来ない。 それを見極めることが出来るのが矢島であり、跡を継ぐ者でもある」
だから朱門には見極める者が居ない。 朱門は何代も前に矢島的存在を失くした。 だから他の門に頼るほかなかったが、白門は全く姿を現さない、青門は黒門の兄妹に手を掛けた、だから何を考えるか分からない。 そこで選ばれたのが黒門だった。 だが黒門はそれを拒んだ。
『ハラカルラ』 第1回から第10回までの目次は以下の 『ハラカルラ』リンクページ からお願いいたします。
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ハラカルラ 第14回
「矢島との間にあったことは聞いた。 矢島の書いたものも見た。 それを水無瀬君に伝えるが、いいかね?」
長が水無瀬の持っていた紙を卓の上に広げる。
「いいかね・・・とは、どういう意味でしょうか?」
何が書かれてあるのかは気になるところだが、聞いた以上は責任を取ってずっとここに居ろということなのだろうか。 そうであるのならば聞かなくていい、聞きたくない。
「まず、言葉の意味が分からないだろう。 あとにこちらの言葉に変えて言うが、それでも分からないだろう」
分からないことを今から言う、という意味の 『いいかね』 だったということか。
ここまできて駄々をこねても始まらないし、分からなくとも書かれていることは気になっていたのだ、水無瀬が頷く。
「書かれていたのは・・・」
聞いてもはっきりと聞き取れない発音で長が言葉を紡いでいく。 発していくではない、紡いでいる。 そんな風に聞こえる発音だった。
長の口が閉じられる。
「そう書かれていた。 そしてこちらの言葉に変えると」
『扉を開けよ、閉めるでない 誰が為(たがため)のものか 扉を放て、作るでない』
「こういう風に言っている」
水無瀬が僅かに首を傾げる。 最初に長が言ったように、こちらの言葉に変えてもらっても意味が分からない。 一つ一つの言葉が分からないのではなく、全体の意味の流れが分からないのでもない。 だが何かが分からない。 その何かが何なのか。
「この言葉は矢島たちに引き継がれていてな、これにはまだ続きがあるのだが矢島は敢えてここまでにしたんだろう」
「どうしてですか?」
「万が一を考えて誰にも知られたくなかった、というところだろうかな」
「誰にも・・・」
ライが 『向こうには矢島的人間が居ない』 と言っていた。 ということは、この続きは向こうであるおじさん団体は知らないということになる。 いま長が言った誰にも知られたくなかったというのは、おじさん団体のことだろうか。
だとすれば、ナギはあの文字が読めないと言っていた。 きっとライも読めないのだろう。 読めないのは若いからだろうか。 おじさん団体もあの文字や意味を読み解くことが出来ないとしても、出来る誰か、お爺さんかお婆さんが居るということだろうか。
ライの言っていた確執とはいったい何なのだろうか。
水無瀬の呟きに長が頷いてみせた。
「それと・・・最後の三文字なのだが」
「はい」
最後の三文字。 そう言われれば色々と書かれている中で最後にポツンと三文字だけ行を空けて書いてある。 その文字のことだろうか。
「これは今言った中には含まれない。 うー・・・っと、これは・・・」
長が考えているようだが、知らない、若しくは思い出せないのだろうか。
「たしか・・・最後の文字は意味としては印(いん)だったと思うが、その前の文字は・・・」
「いん?」
「ああ、印(しるし)ということだ。 その前の文字が・・・ああ、そうだ」
そう言った長がまた聞き取れない言葉を口にした。
「それはどういう意味ですか?」
「こちらの言葉で言うならば “矢島、印” この二文字で矢島を表しているということになる。 日本風に言えば最初の二文字が矢島を表し、そこに判子を押したということになるのかもしれない」
木戸が開きワハハおじさんが入ってきた。 長の茶を持ってきたようだ。 長の前に茶を置くとすぐにまた出ていった。
もうぬるくなった茶を水無瀬が飲む。
「ライとナギがそこそこ話したようだが重要なことは何も言ってはない。 聞いてもらえるか?」
「ライとナギにも訊きましたが、聞いたとして俺はどうすればいいんですか?」
「水無瀬君のしたいようにすればいい」
「本当に?」
「ああ、破約などせん。 ああ、そうか、これすら口約束か。 信用してもらう他ないということになるか」
聞いても聞かなくても今のこの状態は変わらない。 逃げられないし、逃げられたとしても次にはおじさん団体が待っているだけ。
「では・・・そこのところは信用させてもらいます」
そこのところか、と顔をほころばせて長が言い、次に顔を改める。
「昔昔の話になる」
お爺さんは山に芝刈りに、お婆さんは川に洗濯に・・・という話ではなかった。
この村の先祖はずっと昔からここに住んでいた。 ある日、幼い兄妹が居なくなった。 村の者たちで探していたが、兄妹は何日も見つからなかった。 そしてようやく見つかったのが一年近くも経ってからのことだという。
「一人だけが村に戻って来た。 兄の方がな」
戻って来た兄は痩せ衰えていることもなく、着ているものも汚れていなかった。 妹はどうしたのかと母親が訊くと、聞き取れない言葉で場所を言った。
何度も何度も訊き返したが何と言っているのか分からない。 そこで母親はそこに連れて行くようにと言った。 すると戻って来た兄が首を横に振り連れてはいけないと言う。 ただ、心配することの無いようにと伝えたかっただけだと。
半狂乱になりかけた母親を村人たちが落ち着かせ兄に向き直った時、兄の姿はそこにはなかった。
姿がなかった・・・。 水無瀬の背筋にぞっと寒気が走った。 あの時、矢島と会った時もそうだった。 矢島の姿が消えていた。
それから三十年ほどが経った頃、傷だらけで服もボロボロになった兄が急に村人の前に現れた。 成長はしていたが顔に面影がある。 それに兄妹のことは誰もがずっと気にかけていた、すぐに誰かは分かった。 何人もの村人が駆け寄り介抱したが、残念にも数日後息を引き取ってしまった。
だが兄は言い残していた。 ある場所とあることを。 そして助けて欲しいと。
村人たちは互いに頷き合い、兄妹の両親は村人に兄の介抱を頼み、一部の村人と兄の言い残した場所に向かった。
その場所は村の奥の山の中にあった。 何でもない木々の中でこれほど奥に村人は入ったことがなかった。 木々の間を歩いて行くと段々と風景が変わっていく。 だがそれにすぐ気づく者はいなかった。
ずっと歩いて行くと次第に木々がなくなり辺り一面が水の中となっていた。
(え・・・)
魚が泳ぎ藻が水に揺れ刺胞動物が漂っている。 水の中なのに息が出来る。 誰もが呆気にとられた。 だが兄妹の両親だけはその様子に目もくれずどんどんと足を進めて行った。 そして大きく隆起した岩を上り穴を見つけると岩の中に入った。
その中に妹が居ると兄から聞いていたからである。
穴の中を歩き水の中から顔を出すと妹が倒れていた。 両親は水から出るとすぐに駆け寄り我が子を抱きしめた。
我が子の目が薄っすらと開かれた。
そして、ここを守って欲しい、そう言ったという。 懐から何か書かれたものを出し、お願い、と一言いい残して息を引き取った。
その紙には、この世にはこの世であってこの世でないものが存在すると書かれていた。
「最初のこの世というのは人が生きているこの世界、あとの二つのこの世というのは、この世界と交差するようにあるもう一つの世界。 水の中の世界がある、とイメージすればわかりやすいだろう」
「それは・・・平行世界とか水平世界とか・・・違うな。 ああ、パラレルワールド的なことですか?」
「そのような難しいことは分からない。 交差するもう一つの世界としか言いようがない」
紙には妹の跡を継ぐ者の事も書かれていた。
兄妹は水の世界を守っていた。 だがこの兄妹以外にも守っていた者が居る。 それは他の村の者だったが、兄妹はその村の者たちに襲われた。 兄がそう言い残していた。
両親は我が子の復讐も考えたが、兄妹はそんなことを一言も遺してはいかなかった。 血を飲む思いで我が子の思いを引き継いだ。
「どうして襲われたのか、その理由は未だに知れない。 それからは跡を継ぐ者が絶えることなく続き水の世界を守っている。 この村の者はその補佐をし、水の世界を荒す者に警告を促している」
「村の人達で補佐を?」
「そうだ。 跡を継いでいる者たちの補佐という形で」
「それが・・・その跡を継いでいるのが矢島さん、だった」
水無瀬は気付いている。 その絶え間なく続いている跡を継ぐ者が自分だということを。 だがそれを口にしたくはない。
「そうだ」
「矢島さんが亡くなったのは、その昔昔の兄妹を襲った相手に関係があるんですか?」
長が首を左右に振る。
矢島と昔々の話は関係がなかったようである。
「矢島は・・・そうだな、居なくなって一年ちょっと経つか。 急に居なくなった」
何故か長の言葉が止まった。
そして息を替えるように続きを話し出す。
「そうだなぁ、一昨年の終わりごろから見かけなくなったか」
一昨年の終わり。 ということは昨年の一月頭からと考えて、水無瀬と接触する二カ月ちょっと前くらいになる。
「理由は分からないんですか?」
また長が首を振る。
「何も分からない。 あっちの世界で何かあったのか、こっちで何か思い立つことがあったのか」
「ネットニュースで最初は身元不明と出てましたけど、両親兄弟とかご親戚とかに何かあったとか」
またもや長が首を振る。
「矢島は天涯孤独の身でな。 まぁ、そういうところから警察もあっさりこちらに身を渡してくれたんだろう。 一応、この村に住んでいたということは住民票から分かることだ。 この山を下りたところの駐在も顔確認に来て矢島だと証言してくれた。 それに矢島が持っていた写真にナギも写っていたからな、そのナギが矢島の遺体と対面して泣き崩れた」
「そうなんですか・・・」
あのナギが泣き崩れた・・・少々驚きである。
「水無瀬君もあの世界を見ただろうが、芯の奥までは見ることは出来ないはずだ」
「芯の奥?」
やっと長が首を縦に振る。
「矢島もそうだが代々がその場に足を運んでいる」
「あ・・・そこが、妹の倒れていたところ?」
「そこは入口になる。 芯の奥には託された者しか入ることが出来ないからな」
ああ、そう言えば、両親はそこまで行ったと聞いたのだった。 それにライが言っていた深部というのがそこなのだろう。
「水無瀬君の見えるあの世界自体を荒されても困るが、あそこならこの村の者でなんとか対処できるが、芯の奥となると入られる者が限られている、村の者ではどうにもならん」
あ・・・なんか話の風向きが怪しくなってきた。
「それじゃあ、その芯の奥ってところに他に入れる人が居るってことですよね?」
長が渋い顔を作って頷く。
「跡を継ぐ者は一人とは限らんのでな」
おお! いい方に風向きが変わってきたか?
「じゃ、その人の探し方は? 何なら俺も協力しますよ?」
水無瀬の心の内の声が聞こえたのか、長がじろりと水無瀬を見てから答える。
「矢島以外の他の跡を継いだ者が既に探し出して確保している可能性が無きにしも非ず。 それに簡単に探せるものではない」
「あ、そういうことで・・・」
「だがそれだけではない。 この村の跡を継ぐ者から選ばれた者は邪心を持ってはいない」
「邪心って・・・あの、俺色々持ってますけど?」
守銭奴ではないが金に頓着しているところはあるし、雄哉に先を越されないように彼女を作ろうともしている。 それにサラリーマンとして昇進も願っている。
「多分、水無瀬君が考える程度は誰しもが持っているだろう。 邪心とはそうではない。 例えば・・・水の世界を利用しよう、とか」
「え!?」
思いもしなかったことを言われ思わず声に出てしまったが、どうしてそんなことを考えるんだ、という疑問が頭の中を回る。
「どうしてそんなことを考えるのかと思っただろう、それが邪心が無いということだ」
「いや・・・この世でって言うか、自分の居る場所に居ればいいんじゃないかな、と。 たしかにあの、水の世界ですか、あそこは美しくて時の刻みを感じないって言うか、穏やかには居られますけど、それだけじゃ・・・ね?」
今までこんな風に言葉にしたことは無かった。 どちらかといえば、どうにかしてくれよ、という感覚があったという方が正解だが、こうして落ち着いて話を聞き、水の世界のことを自分だけではなく他の人も知っているのだという安心感から、こんな風な言葉になったのかもしれない。 それに敢えて言葉にせずとも、どこかでそう感じていたから今言葉になったのだろう。
「刺激がないか」
「まぁ、そんな感じです」
「水無瀬君はまだ見ているだけの状態で、完全に入ったことがないから分からないだろうが、あそこに行くと・・・多分だが、あの水に触れると色んなことがある。 例えば傷が治ったり不調が治ったりだな。 だから水と簡単に言っていいものかどうかと、いうところもあるんだがな」
「傷が治るんですか?」
「ああ、今頃向こうの何人かがあそこに行って傷を治しているだろう。 まぁ、こっちもだがな」
「どんな傷でも?」
剣戟が聞こえていた。 それにクナイも矢も飛んできていた。 クナイにしろ矢にしろ身体に刺さりでもすれば、その場所によっては命取りになる。
「ああ。 傷によっては時間がかかるがな。 単なるひっかき傷であれば、十分もあれば治る。 だからと言って即効性のある薬と一緒にしては困るがな」
長が頷いて含み笑いを向けてきた。
「どうだ? そう聞いてあの世界の水を持ち出しこっちで売るか?」
思わず水無瀬が首を振った。 左右にブンブンと音がしそうなほどに。
「とんでもないです。 そんなことをしてあの場を壊したくないし、あそこはあそこ、こっちはこっちです」
どうしてこんな風に言えるのだろうか。
さっきもそうだった、今まで言葉にしなかった言葉がつっかえることもなくスラスラと出てくる。
「壊すというのは穢すということか?」
「はい、そうです。 あそこはそういうところです」
理由なんていらない。 あそこがそういうところであることは間違いない。
長が納得するように何度も頷く。
やはり矢島が選んだ青年だ、と口にしたいが今はまだ控えておこう。
「あの、話が戻ってしまいますけど、先ほど矢島さんが亡くなられたのは、昔昔の兄妹を襲った相手は関係ないと仰っていましたが、それはどうして分かるんですか?」
「関係ないとは言っていないはずだが?」
そうだった、首を振っただけであった。
「あ、そうでした。 すみません思い込んでしまってたようです」
「正直だな、そんなところで謝らんでいい。 煉炭の見本にしたいもんだ」
(レンタン・・・そう言えばワハハおじさんが言っていたな、俺に謝らせないといけないと。 それにしても珍しい名前だな。 まぁ、レンタルよりマシだろうが)
「はっきりと言わなかったこっちが悪い。 兄妹を襲った相手は水の世界から居なくなったということだ。 水によってどこかに飛ばされたらしい。 それ以降、何十年もして、跡を継ぐ者がやって来たということだが、その時と違って大人しいもんでな」
水無瀬の頭に新たな疑問が浮かんだ。
「あの、そこって俺を攫おうとしているところではないんですか?」
「いや違う。 水無瀬君を必要としているのは跡を継ぐ者を失くした村だ。 水の世界には・・・」
水の世界には四か所から入ることが出来る。 最初に入ったのがこの村。 それからのちに順々と三か所から入ってきた。
「四か所から・・・」
ということは、敵が三団体いるかもしれないということ。 いま長が言った一団体を抜いても二団体。
「入る入り口を門と考え、黒青朱白の門と、四か所の言いわけをしている。 それはどこも同じように言いわけをしている。 相手を指す時に、朱門青門などと言うこともある。 兄妹を襲ったのは青門の者たち。 水無瀬君を襲ったのは・・・朱門の者たち」
長が言いにくそうに言う。 他の門の悪口を言うようで嫌なのだろうか。
「跡を継ぐ者を失くしたっていうのは、何があったんですか?」
「矢島で例えると分かりやすい、矢島が水無瀬君を探したことと同じだ。 矢島がどれだけ探しても水無瀬君を見つけることが出来なかったら、跡を継ぐ者を失くしたことになる」
「でも俺以外にも居るんですよね?」
「たしかにそうだが、矢島の目に水無瀬君が止まったということは、矢島が水無瀬君を認めたということ。 さっきの話ではないが、水の世界を利用しようと考えるような輩を矢島は認めない。 そして水を見ることが出来る者が他に居なくもないが、その程度では芯の奥に入ることは出来ない。 それを見極めることが出来るのが矢島であり、跡を継ぐ者でもある」
だから朱門には見極める者が居ない。 朱門は何代も前に矢島的存在を失くした。 だから他の門に頼るほかなかったが、白門は全く姿を現さない、青門は黒門の兄妹に手を掛けた、だから何を考えるか分からない。 そこで選ばれたのが黒門だった。 だが黒門はそれを拒んだ。