自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答
幸せになりだすと何故か逃げ出す人がいます。この逃げ出す人の殆どが幼児体験に基づいていますが幸せだった日々が両親の交通事故による突然の死のような体験があると、幸せな雰囲気を無意識に恐る傾向があるようです。この治療は一つの幸福感に固執している事例ですので幸福感は多面的である事を訓練させます。幸福から逃げ出す理由を厳然とタイミングを見ながら説明していきます。人生での山あり谷ありの真実を理解させます。こうして愛の訓練をしながら明るく逞しく生き抜いていく智恵を互いに育てあいます。互いにです。セラピストが一方的に指導出来るわけがなく、弱い人間でもあるセラピストと共に逞しくなろう、とする事が重要なようです。
生身の人間は頭では分かっていますが、いざ問題が大きくなると、その問題を何とか避けようと努力します。これは当然でしょうが、私もそうですが避けていると何時までも同じ苦しみがあるようです。何故、正面から堂々と勝負しないのか不思議です。タイミングもあるようでやむを得ずに正面から戦いをせざるを得ない状況になると、案外、簡単に解決し何だ、これだけのことか等思う事もありますし、あーあ、めんどくさい、と嘆く事もあります。このタイミングの有り様が、その人の人生能力なので、どんな結果になっても居直って生きていきたいものです。
「平家公達の歌」:雅な武士たちの滅びの美学:双葉新書:西村誠著:散歩の途中に見つけたこの本を読みつつ、平家に対する私の歴史解釈が変わりました。大河ドラマ「平清盛」が懐かしいです。この本の解釈が何故か、心に深く染み渡ります。平家が滅亡し源頼朝が天下を取りますが、今までの私の解釈は滅びゆく平氏に批判的でした。この本を読む程に滅びゆく平氏に拍手を送り出している自分に驚いています。この本の冒頭を飾る平氏の歌として薩摩守平忠度の歌「ささなみや志賀の都はあれにしを、昔ながらの山桜かな」に始まり、最後は建礼門院の「いざさらば涙くらべむほととぎす、我も浮き世に音をのみぞなく」で終結しています。平家物語には100首の歌が掲載されているようですが滅びゆく武士公達の哀しさ喜びが満載されていて、この本にめぐり逢えて私の視野が大きくかわりました。体験の解釈が私の世界を変えたようです。
「自己の伝達」が欠落すると何となく怪しい人間が周囲に集まり出します。自己の伝達に成功していると自分に相応しい親友が生まれてきます。あの人は気持ちが悪い、という場合、その理由は万とありますが、その人は自己の伝達(自分の個性を周囲に表現すること)が出来ていない場合が大半です。何を感じ、考えているのかが明確になれば、周囲はそれぞれ勝手に判断しているので、気味が悪いとは言わず、あの人は明るい人だとか、意見がはっきりしていて気持ちがいい、とかずうずうしい人だ、とか評価しあっていきています。立場を明確にすると親友が生まれますが、立場を明確にしないと親友も生まれません。親友は一人あれば、人生が豊かになります。自己の伝達を恐れずにしていきたいものです。
心が自由とは具体的にどんな事かなあ、としみじみ考えさせられます。身辺には次から次へと信じられない事件が起きています。事件を起こした人の談話を聞いていると何らかの思い込みや勘違いを含めて他者否定であることは間違いありません。自己肯定しながら他者否定の関係がどんな事件にも共通なのです。自己肯定、他者肯定の基本姿勢があるならば、どんな理由があっても、殺人、自殺はおきません。心が自由な場合の条件は、自己肯定他者肯定の関係であって、自己肯定他者否定(傲慢)、自己否定他者肯定(劣等感)、自己否定他者否定(破壊的存在) が心を不自由にしているようです。
心が自由とは具体的にどんな事かなあ、としみじみ考えさせられます。身辺には次から次へと信じられない事件が起きています。事件を起こした人の談話を聞いていると何らかの思い込みや勘違いを含めて他者否定であることは間違いありません。自己肯定しながら他者否定の関係がどんな事件にも共通なのです。自己肯定、他者肯定の基本姿勢があるならば、どんな理由があっても、殺人、自殺はおきません。心が自由な場合の条件は、自己肯定他者肯定の関係であって、自己肯定他者否定(傲慢)、自己否定他者肯定(劣等感)、自己否定他者否定(破壊的存在) が心を不自由にしているようです。
好きな人の前では心は自由に動くのですが嫌いな人の前に出ると心が動かず不自由になるのは何故でしょうか?心理療法ではこの状態を「不一致」と言います。多分、深層心理で苦手なタイプの人と会うと、無意識の世界は緊張したり不快に感じたりしていて、そのストレスを意識の上に上げないで心を平安に保持する大脳の働きでしょう。ですから、好きな人の前でならストレスが無いので心は軽やかに自由に動けるのでしょう。不一致の状態が続くと人は身体症状が出てくるように作られています。この身体症状を防ぐ良い方法は「今、自分は苦手な人の中にいるのでストレスが蓄積されている、これは自分が弱い人間だからストレスが貯まるのではなく人間として当然」とおもうのが良いようです。無意識の心の世界にストレスを蓄積することは健康に良くありません。言葉にする必要はないので、せめて好き、嫌い、怖い、怖くない、の4つくらいは正直に意識化したようが幸福への道が歩けるそうです。感情はいつも正直に、倫理道徳を超えて、意識化したほうが健康に良いと言われています。
知人が飼っていた猫に面白い話がありました。どんな話かといいますと飼い主の家族の内、その猫と仲の良い良好な関係にある人が、うっかり叱った後、暫くして新聞等を読んでいると、いきなり背中に飛びかかってきて、怒られた腹いせ、復讐をするそうです。飛びかかる数分前から、その猫の呼吸が荒くなり、飛びかかるタイミングに気づくと、そら、飛びかかるぞおーと互いに教えあって生活していたそうです。仲が悪い関係の人間に対しては、そんな復讐はしないそうです。人間も猫も怒りを抑圧していると、このような現象が起きてきますので、ほどほどに蒸気をすこしづつ放出しておいたほうが平和なようです。怒りの感情が湧き出す、その湧き出した感情を1時間程度の流れで、どういつも対処しているかを心理療法では大切に観察しますが、この流れを「体験過程」という専門用語で勉強していきます。湧き出した感情を1時間程度の流れで観察する場合もありますし、1週間、1ケ月、1年間と、その内容により観察して、その人の傾向を把握し治療の参考にしていきます。この冷静に対処する智恵を身につけると人はどんどん幸福になるようです。
保管していた昔の大河ドラマ「平清盛」を拝見。実に上手に制作されていて楽しく拝見。保元の乱に突入していくところでした。歴史の流れに翻弄されていく人生を改めて考えさせられます。それぞれの立場があり、良い悪いの視点でなく、それぞれの選択肢をどう選び生き抜いていくか、現代にも通じる人生ドラマです。現代と当時は質や内容は違います。大震災後の被災地の方々の選択肢を見ると胸が痛みますが、今も昔も、人は子供から大人まで、その選択肢の選択により人生が激変していきますので、どの選択をしようか、真面目に考えて生きていきたいものです。その際、自分は何の為に生きているのか、という哲学があれば悔いの無い人生を選択し生き抜いていく事が出来るでしょう。なんの為に生きるか、簡単なようで難しい。
折角、湧き出した感情を倫理道徳で抑圧する人がいますが、本当に残念な事です。精神病棟を担当していた若い頃、殆どの患者さんは能面のような感じで、喜怒哀楽を表情に出しませんでした。薬害のせいもあるのですが、人はどんな感情が湧き出しても、それを抑圧する恐ろしさを知らないようです。法治国家で生きる人類は法律は厳守する必要がありますし自分の家でのんびりと生活する事以外は、我慢、忍耐の生活が人間の常かもしれません。問題は湧き出した感情を、どう応用展開させるか、その手法さえ知覚していれば、自分の感情を恐れて、逃避する必要はありません。湧き出す感情を抑圧することなく、どう昇華させるか、その手法は生育史により違いますが、この湧き出すエネルギーを抑圧すると人はほとんどの場合、心を病んでいきます。抑圧せず昇華する楽しい方法を努力して学習していただくと晩年の痴呆、大脳の病気もある程度予防出来る、と言われています。
友人と近所の甘味処で古代日本の歴史談義に花が咲きました。専門家ではありませんが実に楽しそうに会話をしている友達の表情はいきいきとしていて拝見していて、こちらも幸せになりました。夢と希望、それも過去の歴史の話ではありますが、それぞれの方のお顔にはこの過去の歴史談義からそれぞれの将来への明るいものが飛び出しているのです。謡曲を趣味としている方、太極拳という運動を楽しんでいる友、色々の趣味を持つ友と連なって会話していますと、実に健康的に心が輝くようです。生きる喜びを五感と体感で感じている仲間を持つ私は幸せです。
父母会を対象とした「生き甲斐の心理学」をさせていただいた事があります。中学一年生のお父さんとお母さんから高校三年生及び卒業生徒の父母様が対象ですが、どんな新しい方が参加してくださるか、とても楽しみにしていました。人生は本当に面白く、かつ、厳しいものですが、この勉強会では、これからどんな困難が押し寄せてこようとも逞しく明るく爽やかに生き抜いていく知恵を心理療法的な視点から学び合いたいと思っていました。人間の出会いは非常に神秘的で深い意味が、そこに潜在しているようで、人との出会いは私には神との出会いのような気がします。一期一会とはよく言ったものです。どの勉強会もそうですが人々の個々の生育史の軌跡はどれも同じものは一つもなく、それぞれが個性的で美しいものですが、その美しさに気づかない人が多いのは残念なのとです。これからも、自分の生育史、人類の歴史の中に神の深い愛情を見いだせるように楽しく勉強を進めていきたいと思います。自分の人生の意味を知ればしるほと、どの人間にも天命があることに気づきます。皆様の天命とは何でしょう?
だいぶ前の話ですが、或る謡曲の練習日「松風」を謡いましたが自分の目指す声は、さっぱりでません。今は、諦めて5-6年、経ちました。どの道も修行からしか良いものは生まれないようです。太極拳は30年前に入門しました。始めたころは、毎週、一度練習して3年目にして、うん、これかな?というものを感じ、師範を取るのに20年かかりましたが、今の健康は、まさに太極拳のお陰です。それにしましても何かを志して、粛々と継続する難しさ、楽しさ、哀しさ、喜び、これらの感情は切なく、喜怒哀楽の連続。しかし、この喜怒哀楽は、人生の深い味わいを生んでくれます。今は、そう感じますが、それれにしても、あの青春時代の感情は何と激しく、切なく、かつ楽しいものだったことよ。今、ロシアの戦争が世界を空しくさせていますが、なんとか終結する知恵はないものでしょうか?小学生時代、アメリカの空爆に恐れをなしていたた人生でしたが、今は、当時は信じられない平和の心境です。一人森を散歩し、天に向かっては平和を祈り、地の野草にむかっては、何と、美しい世界よ、と感動しています。
勉強会で面白い事を感じました。それは人がそれぞれ持つセルフイメージが相当歪められているらしい、という事です。どう歪められているかと言いますと、本当は豊かなものなのに何故か、本人がそれを貧しくしている現実を見せつけられたからです。親の子供に対する不用意な言葉の繰り返しが、子供の美しさを略奪しているようです。美しいものを何故、見抜けないのかなあ、とも思いました。何が美しくて、何が汚いか、それの解釈は色々あるようですが、平素、人類が大事にしてきた神話、民話、小説、音楽、絵画等で数百年、存続維持されている古典を今からでも遅くないので、改めて再読し、真善美は何かをもう一度、味わいなおしてもらいたいなあ、としみじみ思いました。自分の中にある宝物を大事に育てていきたいものです。