五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

人類発生以来の祈り

2013年12月22日 | 第2章 五感と体感
今日こそ冬至ですね。昨日は一足早く冬至宣言をしてしまいました。
今年も柚子湯とカボチャで冬至を祝い、無病息災を祈願したいです。

昨日は、仕事場である学校の毎年恒例のクリスマスタブロでした。キリストの生誕劇といえば、我が子の小学生の時から毎年観続け、バトンを手渡されたようにいつしか私自身の生活に根付いた祭儀となるようになりました。

息子が小学一年生の時に演じたのは、イエスとマリアが宿を探す場面で、宿屋の主人1だか2でした。
台詞も一言。
「泊める部屋はありませんよ」というような台詞の一言。

その時の舞台衣装は、もちろんそれぞれの親が作るわけですが、宿屋の主人の衣装が、某学院のタブロに使用する衣装の色と同じなのです。毎年、この衣装を見るたびに、懐かしさが溢れてくるのです。

私が通った越前大野の幼稚園は、お寺が経営していました。父の転勤の関係で幼稚園を三か所経験しているのですが、このお寺の幼稚園は二回目に数カ月通っていただけです。でも、その時の印象はとても深く、毎週朝のお勤めがあり、何かの行事があるときには本堂の前の観音開きが全て開けられ、仏像を拝みます。
その観音開きが開けられ、仏様が見えてくる瞬間がとても待ち遠しく、まるで天国を見ているかのような至福感を味わっていました。次に通った幼稚園は、きれいな建物でしたし先生も優しかったのですが、私は本堂に繋がっている薄暗い教室の幼稚園のほうが満たされた喜びを感じていました。なんといっても毎日、お線香を立てた本堂で手を合わせられるのですから。

人は見神欲(デジデリウム)を持ち備えながら生まれてくるようです。
自分の幼い頃からの諸々の体験から立証できるので、私はそれを信じています。

一年のサイクルの基点である冬至と夏至に太古から人々は太陽に手を合わせてきました。

毎年同じ位置に太陽の光が届くことで、人は普遍性に対して畏れ敬う感情が生まれ、信じて見えてくるものが典礼を生み、祭儀として定着していきました。

毎日繰り返す祈りは、人類が発生して以来、ずっと繰り返されてきたようです。

自分の生まれ育っ環境によって育まれた「信じるもの」を大切にすることが自らを大切にすることに繋がっていることを忘れてはなりません。

先月歩いた熊野の道も、あまりにも古層が厚いため、見えてくる神様は多種多様で、見えてこない神様を想像するだけで押しつぶされそうになりました。ただ、今、この場に立ち、古層をほじくらずに手を合わせるだけで良いのだということを熊野を歩きながら思いました。

クリスマスからお正月にかけて、諸々の場で手を合わせる機会が多くなります。

手を合わせる対象は違えども、手を合わせる自分は自分以外の何者でもありません。手を合わせる自分に自分という普遍性を感じつつ、八百万の神を畏れ敬い礼拝したいものです。




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