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歩くことが唯一の趣味ですから。

東京湾の第二海堡

2020-02-01 | Weblog
幕末に黒船が来たのが怖かったんだろう。維新が起きて10年後、西南戦争で不平士族が片づいたら今度は
黒船(欧米の軍艦)に備えて東京湾に「海堡」と呼ばれる人工の要塞を築き始めた。天然の猿島にも要塞
があるし、横須賀の観音崎のあたりにも要塞がある。観音崎の観音はカノン砲の観音。


第二海堡に行ってみることにした

猿島には上陸したことがあるので、こんどは第二海堡に上陸してみる。(株)トライアングルがたまに
こんな船を出している。富津からも横須賀からも30分ぐらい。第二海堡は浦賀水道航路のそばなので、
国内外の船がいっぱい近くを通っていく。邪魔だから撤去しようという議論もあったそうだ。


第一海堡はとりあえず素通り

第一海堡は水深3~4mの砂の上、第二海堡は水深10m程度の砂の上、第三海堡は水深30mを超える
砂の上。まだ機械などない明治14年から、大正10年まで40年ほどかけて人力で大きな石を積み上げて
第一から第三までの海堡を築いた。


軍艦みたいな第二海堡が近づいてきた

やっとできたころ、大正12年に関東大震災が起きて、海堡に大きな被害が出た。第三海堡など使用不能
になったという。作るのが最も大変だったろうに。地震だけでなく波風の力でも海堡は浸食を受けて、
結局のところ砲台として役立てられることがほとんどなかった。40年もかけて作っているうちに時代が
変わり、軍艦ではなく飛行機が戦争の主役になったことも理由の一つ。


基本的に上陸が認められていない

たまに開催される見学クルーズでないと上陸できないらしい。観光のために整備されているわけじゃ
ないから、足場が悪い。怪我をしても自己責任だとか、何やかや誓約書を書かされて見学にきた。水も
ないし、トイレもない。天気が荒れたら雨風をしのぐ場所もない。


富津の漁師が積んだ間知石(けんちいし)

一間がどれくらいか知ることができる大きさに切られた間知石は、四角錐のように奥が細くなっている
ので波に洗われても崩れない。関東大震災でも崩れなかった。これを漁師が運んできて積んだという。
えらいことだ。それでも砲台として役に立つ機会はやってこなかった。


燃料庫にはレンガとコンクリートが

防湿のためにアスファルトも塗られていたが剥がれてしまった。レンガは当時の最新技術だったし、
コンクリートは最先端の希少な素材だったけれども、江戸時代のままの間知石よりも弱くて崩れた。
海堡にはコンクリートがふんだんに使われているが、見るも無残にぶっ壊れてる。攻撃を受けたわけ
でもないのに自然の力に負けた。


砲台だった土地が斜めに傾き、上に見張台が

レンガ造りでコンクリートをかぶせた防空指揮所は、関東大震災で土地が傾いた後にまっすぐ建てた
ものらしい。レンガには桜の刻印があって、小菅の収監所で西南戦争に敗れた不平士族が懲役として
焼かされたもの。


コンクリートの砲台は崩れまくりで危険

地下に弾薬庫や兵士の詰所があって通路で移動できたはずだが崩れてしまって何が何やらわからない。
崩れたものが波に洗われてどこかへ消えたりもしているようだ。本来は地下だったところが今は地上
になっていたりする。


2008年ごろの第二海堡

だいぶ浸食されている。許可を得ないと上陸できなくなったのは15年ぐらい前でしかなく、2005年
ごろまでは釣り人が小舟で乗りつけて魚を釣ったり、掩蔽壕(えんぺいごう=基地の穴)に寝泊まり
する人もいたという。浸食されて、ちょうどいい釣り場だったのかも。


護岸工事を施された現在の第二海堡

軍艦みたいだと思ったのは、もともとの様子ではなく、最近の護岸工事の結果そう感じたところも
少なくない。周囲の縁取りみたいなのは護岸工事するまで存在しなかった。


掩蔽壕が使えないように埋め立て工事した

見学クルーズの許可が出るようになったのは3年間ぐらい。それまでは遺跡を人に見せる意図などは
なく、勝手に使われないようにしよう、波に洗われないようにしよう、という工事が行われて10年が
過ぎた。こんどは修復・復元するべきタイミングかも。


FORT NO.2 と書いて第二海堡(砲台跡)


関連記事:   猿島




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