散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

上野国府とその周辺

2021-08-08 | Weblog
毛の国こと上野の国府の近くに総社と国分寺・国分尼寺が固まっている……ように見える、古い本の略図を頼りに
そのあたりを歩こうと思った。ネットで総社神社のアクセスを調べると、新前橋駅から徒歩15分、前橋駅からバス
15分と出て、この暑いのに徒歩は危険だからバスで行くために前橋駅へ。(東京オリンピックの男子マラソンで、
札幌の会場をその日の朝106人の選手が走りだし途中棄権30名という気の毒すぎる酷暑なので)



総社だけあって毎年1月14日・15日の夜中に筒粥と置炭の神事が行われる場所で、うらないの結果で五穀をはじめ
作物のその年の作柄と毎月の晴雨が表にまとめられて拝殿の東側に掲げられると古い本(1976年刊・群馬県の歴史
散歩)に書いてあるから、前橋駅の観光案内所で聞けばわかると思った。「総社に行きたいんですけど」と言うと
おばちゃん達が「そうじゃ?」と騒ぎだし、「国分寺跡があるところです」と付け加えたら、「国分寺は今は高崎
(だから前橋の管轄じゃない)」と訴えだした。国分寺跡が移転するようなことはないはずだけど、管轄が変わる
ことならあるかもしれない。バス案内所で尋ね直すと、総社を通るバスが2時間に1本ぐらい出るそうだ。



なんか変だと思って本を調べる。総社と国分寺は2kmぐらい離れているので、それくらいギリギリ歩けるだろう
と思ったんだが、あまり歩く人がいないらしい。どっちも前橋市内みたいなんだけど国分寺のほうは高崎市寄り。
11時10分に6番乗り場を出る新前橋行きのバスで総社神社へ。なんだ、新前橋駅からでも行ける(その方が近い)
じゃないか……。地元では明神さまと呼ばれてるそうで、明神前バス停で降りると総社の裏側だった。表に回って
撮ったのが上の写真。



ついでなので絵馬をながめる。聖武天皇10年に上野国内の名社549社を勧請して上野の総社としたそうだけど、
平安初期の成立とみるのが妥当だろうと例の本に書いてある。だったら国府や国分寺・国分尼寺よりずっと後の
創建だ。ここを起点に歩くけど、歴史的にはおまけ。絵馬には、「どうか今度こそ普通の人と出会えますように」
とか何とか記されている。これまで、普通じゃない人とばかり出会ってきたんだ。異常な人、または変態ばかり
と出会ってきたのか。大変だなあ。



それはともかく上野国府跡を探して歩く。毛の国は古墳が多い。このあたりが大和朝廷の前線基地だったからで、
関東の中心と見ることもできるが朝廷から見ればフロンティアでもある。大化の改新の直後、645年の8月1日に
国司が任命された上野国府は時代により多少の移動があったと考えられているせいか、地図で見るとかなり広い
範囲に描かれている。対照的に、小さな遺跡が旧総社神社の場所にポツンとある。旧総社神社の社殿は、現在の
社地から西北およそ200m。そこまで歩くだけでも、異様に汗が流れる。熱中症になりそう。



唐の律令制の国郡制にならって上野国の国府が置かれたのは、この元総社町のあたりと推定されている。711年
に新設された多胡郡が加えられ、日本三碑のひとつに数えられるという多胡碑(=上野三碑のひとつでもある)
はその記念碑だった。国分寺や国分尼寺より、上野国府は古く、もちろん総社より古い。遺跡が小規模なのは、
939年に平将門がここに攻め込み「新皇」を名乗ったから。その時点までは、関東の中心と目されていたのか。
1180年に足利利綱という土豪が国府を焼き払った。それから江戸時代まで荒れ果てたまま。



ここから国分寺跡まで、猛暑の中を2km歩かなくてはならない。飲み物を持ってくることを忘れた。コンビニ
か自販機があれば水分補給しようと思ったんだが、荒れ果てたまま……は言い過ぎで野原と住宅地しかないので
関越自動車道に出るまで、都合1時間ほど何も飲まず歩いた。セブンイレブンでアイスコーヒーを水筒に詰め、
はま寿司(回転寿司チェーン)で昼ごはんを食べて、13時すぎに再び歩きだした。



国分尼寺は、はま寿司の近くにあったようだけれど、ほとんど何も残っていないようなので素通り。もっとも、
国分尼寺と国分僧寺をセットで国分寺と呼ぶのが元々だから、いまある国分寺跡はいわば国分僧寺の跡になる。
国分寺のほうは遺構の一部が修復されて、見学者が利用するための駐車場などもある。徒歩だから関係ないが、
それでも駐車場を見ると期待感が少し高まる。



夢殿みたいな建物は、ガイダンス施設「上野国分寺館」……暗いので新型コロナまん延防止等重点措置が当日に
発出されたことを思い出し、臨時休館してるんじゃないかと思ってダメもとで入口を見に行ったら「開館中」と
表示してある。入場無料。この施設は例の古い本に載ってない。1980年〜88年と、2012年〜16年の発掘調査
の成果をふまえて建てられたんだろうか。ちょっと入ってみよう。



常駐のおじさんが約10分のビデオを上映してくれる。「30年前のビデオですから、国分寺の創建を1240年前と
アナウンスしているのはプラス30年して今から1270年前と思ってください」と言い残した。どっちでもあまり
変わらない気がしなくもないが、ざっくり1300年前じゃなくて「1270年前」とはっきり記憶してしまったから
やっぱり意味があったかも。



しかし、1280年前だったようだ。ビデオは40年前のものだったのか。聖武天皇が国分寺創建の詔を発したのが
741年。それからまもなく、全国でも早い段階で上野国分寺が建立された。749年に石上部、上毛野の両氏から
上野国分寺に献物されたことが「続日本紀」に記されているから、それまでに完成していたことになるという。
そういうものなのか。歴史の考証は大変だな。だったら1270年前で合ってるかも。



模型の左側にあった七重塔の、礎石などが見つかった場所に基壇が復元されていた。心礎を含む15個の礎石と、
土壇の高まりが残っていた。礎石2個を追加し、基壇外装の切石を並べて往時の姿に整えたとのことで、初層の
柱と柱の間は12尺等間で一辺10.8m、高さ60.5mあったと推定されている。全国最大規模だとか。といっても
感覚的によくわからないけど……。



ガイダンス施設の中に1/20スケールの模型があった。前橋市役所と同じくらいの高さがあり、高崎市役所?
ができるまでは群馬県内でいちばん高い建物(のイメージ)だったそうだ。



これでわかるかな? ちょっとわからないかな? 安土城の礎石がこんな感じだったような気がするんだけど、
確かなことはわからない。上野の国分寺(国分僧寺)はおよそ200m四方で、その西側に七重塔が建っていた。
つぎの航空写真でぼくがムラサキにマークした2か所のうち、左側にあるほうが七重塔の基壇。



もうひとつ、中央にあるのが講堂の基壇で、これは金堂と思われていた(例の古い本にもそう書いてある)。
しかし今世紀の第2期調査で、本来の金堂が確認されたことから講堂であったことがわかった。発掘調査も、
文献調査に負けず劣らず大変だな。講堂の跡には8個の礎石と土壇の高まりが残っていた。それだけで復元を
しようというんだから、やっぱり大変なことだ。



これが講堂の基壇。750年ごろにはピカピカの最新設備だった上野国分寺も、250年後の1000年ぐらいには
ボロボロになってしまい、築地や門がなかったという。平将門がぶっ壊したかもしれないし、それ以前にもう
ぶっ壊れてたかもしれない。それでも金堂はかろうじて残っていたとか、塔や講堂もあったとかなかったとか
いう話だけど、1300年ごろには何もかも滅びて国分寺跡には何もなかった。礎石と土壇の高まりぐらいしか、
ここにはなかった。そう考えると、現在とほとんど一緒だった。



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