手抜き登山だ。朝起きて、あらかじめ予約しておいた9時15分バスタ新宿(バスターミナル)発のハイウェイバスに乗り込めば11時には河口湖駅に到着する……はずだった。秋晴れの祝日、迷惑この上ない全国旅行支援(ばらまき政策)のせいもあり高速道路がひどく渋滞してる。2時間ぐらい余計にかかると運転手さんが頭を下げた。
お伽草紙に出てくる「カチカチ山」の猟奇譚はいまの山梨県、富士五湖の一つ河口湖畔の、遊覧船アッパレ号が出入りする船津あたりの裏山で無惨に繰り広げられた事件だ。その現場を訪ねるのが、2時間も遅くなってしまう。手抜き登山だから構わないけど、地道に上り下りする登山だったら13時スタートじゃ途中で日が暮れる。
道路状況が少し良くなり、正午すぎに河口湖駅についた。帰りは列車にしようと考えながら、カチカチ山ロープウェイのほうへ歩きだす。凄惨な殺しの現場、船津あたりの裏山は現在カチカチ山のニックネームで親しまれるほか、天上山という立派な名称もある。どんなところだろう。
その日、東京あたりは秋というのに夏のような蒸し暑さだったが、河口湖の水面はこう見えて標高800mぐらいあるので紅葉がさすがに美しい。暑からず寒からず、こんな快適な行楽地でその昔ウサギがタヌキをいじめ抜いて殺したのかと思うと幼少期に読んだ絵本がにわかに現実味を帯びてくる。ムカシ、ムカシノ、オハナシヨ……。
たしかオジイサンがいたずらタヌキをつかまえて、オバアサンにタヌキ汁にしてくれと頼んで山に行って戻るまでに、タヌキがオバアサンを騙して殺しババア汁を作ってオジイサンに食わせた。おいしかったもんだからオバアサンを食べてしまったオジイサンが悲しんでるのを知って、おせっかいウサギはタヌキを殺す決意を固めた。
ロープウェイは家族連れでぎっしり。カチカチ山のお伽ばなしを、まさに読み聞かせたり読み聞かされたりしてる現役バリバリのみなさんだから、老いさらばえた自分などより物語を鮮明に覚えてるだろう。ウサギはタヌキを山に誘い込み、柴だの薪だのを集めさせて担がせた。そして背後から火打ち石で放火した。
タヌキ 「おかしいね、なにやらカチカチって音がするよ」
ウサギ 「そりゃそうだわ、ここはカチカチ山だもん」
タヌキ 「カチカチ山?」
ウサギ 「そうよ、カチカチ山のカチカチ鳥が鳴く声よ」
タヌキ 「こんどはバチバチ、ボウボウ音がするぞ」
ウサギ 「このへんはバチバチのボウボウ山だから当たり前よ」
タヌキ 「熱、熱、熱、熱、熱! バチバチのボウボウだあ〜〜」
しめしめタヌキが焼け死んだと思ったウサギは、何日かするとタヌキがまだ生きてることを知り、とどめを刺すためタヌキに近寄って親切に声をかけ、よく効くクスリを塗ってあげるフリをしながら猛毒を塗りたくる……
タヌキ 「痛、痛、痛、痛、痛! なんだこりゃ死ぬ〜〜!」
ウサギ 「ウフフ……お大事に! (今度こそ死にやがれ)」
そんな陰惨な出来事があった裏山に詰めかけ、何事もなかったように富士山を眺める家族連れのみなさん。
それでもタヌキが死ななかったので、ウサギは頭にきてしまい、なんとしてもタヌキを確実に殺さなければと犯行計画を練りに練り、タヌキを泥舟に乗せて自分は木の舟に乗って仲直りを装いながら河口湖へ一緒に漕ぎ出した。泥舟が溶けだして溺れそうなタヌキをウサギは思いきり舟の櫓で撲殺しましたとさ……めでたし、めでたし。
そこから先は、ほんの10分ばかり歩けば山頂につくのに、富士山を見て満足した人々のうち山頂をめざす人はたった1割にも満たなかった。急に静かになった山道を歩くと、風もないのに木から落ちる枯れ葉の音が時おり聴こえて、深い自然の中に身を置く感覚を味わうことができた。こんな静かなところでウサギはタヌキを焼き殺そうとしたのか。誰にも見られることなく。
サイコパスというのは実に恐ろしいものだ。タヌキ汁にされないために反撃してババア汁をつくるのは緊急避難であり、正当防衛ともいえるが、ウサギがタヌキに執拗につきまとい親切を装って殺害するのは許されないことである。「カチカチ山」の絵本に親しむ幼い子らの心に、真の悪を見分ける目が培われることを切に願いながら下山した……おしまい。
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