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歩くことが唯一の趣味ですから。

壬生寺と八木家

2021-03-06 | Weblog
壬生の狼、壬生狼(みぶろ)と呼ばれた浪人の集まり、新選組がこの壬生寺でいつも剣術などの
稽古をしていた。芹沢鴨、近藤勇、土方歳三、沖田総司、平山五郎、永倉新八ら13名が江戸から
きて壬生の八木家に寝泊まりしていたから、この寺で武芸を磨いたわけだ。



隊士が増えると八木家では抱えきれないので、近くの農家に分かれて屯した。四条大宮から西へ
さらに歩く壬生のあたりは洛外、つまり京の外で、当時は農村だった。寺に入ると新撰組の映画
でみたような本堂がある。ここでロケをしたり、似た寺でロケをしたのだろう。



壬生塚という立て札がある。200円払って、どんな塚があるか見物した。池田屋の騒動があった
7月16日に毎年、隊士の慰霊供養祭として法要や剣劇奉納、歌謡ショーが行われるのだそうだ。
地下には歴史資料室もある。そこは撮影禁止だが、塚はいくら撮ってもいい。



「あゝ 新撰組」という歌の碑があった。三橋美智也が歌った曲らしい。横井弘作詞、中野忠晴
作曲、上野正雄編曲。「賀茂の河原に千鳥が騒ぐ またも血の雨 涙雨 武士という名に生命を
かけて 新撰組は今日も行く……」



芹沢鴨と平山五郎を暗殺して新選組の局長になった近藤勇の銅像があった。墓はここにはなくて、
三鷹市の龍源寺、岡崎市の宝蔵寺、会津若松市の天寧寺の3か所にあるという。千葉の流山でも
何か見たけど、自分のブログを読むと墓ではなく官軍につかまる前に隠れた蔵だった。



となりには近藤勇の遺髪塔があった。別の場所に立ててある木札を読まないと、遺髪塔だけでは
文字が薄れて何の塔だかわからない。それに比べると、はっきりわかるのは近藤勇に暗殺された
芹沢鴨と平山五郎の墓だ。



心ない人が石を削って持っていくので、あるとき御影石で復元したところ立派すぎて趣が変わり
ピンとこないということで元の墓石を同じ和泉石で作りなおしたとか。芹沢鴨と平井五郎、2人
で1つの墓に入ってる。新選組にやおいを求めるファンなら垂涎の的だろう。



そのとなりには隊士7名の合祀墓がある。ここまで来る前に通りかかった寺にも新選組の墓所と
貼り紙や立て札がしてあったから、小競り合いや内ゲバや戦で亡くなった隊士たちは三々五々、
あちこちに葬られているようだ。



ところで、あの本堂……例えば2004年頃の映画『壬生義士伝』では近藤勇から切腹を命じられた
隊士が腹を切ると見せかけて暴れ出し、本堂を石段を駆け登って逃げたとき介錯人の吉村貫一郎
が追いかけて首をはねたシーンだともう少し段が高かった気がするけど、気のせい?



お寺だけど絵馬掛けがあり、刀剣乱舞のファンが書いた絵馬がたくさん。



ミュージカル刀剣乱舞のキャスティングについて願っているのが多い。それはまだわかるけど……。



ネイリスト日本一になりたいというのは、あまり関係ないのでは? ところで、八木家のほうでは
1時間に1度ガイドつきで新選組の屯所のようすを見学できるそうなので、そろそろ頃合いだから
行ってみることにした。



八木家は現在、鶴屋という和菓子屋さんを営んでいて、店舗のある場所は幕末の当時は離れがあり、
そこに近藤勇が寝泊まりしていた。母屋のほうに暗殺された芹沢鴨や平山五郎、馴染みの遊女らが
暮らしていた。離れの近藤勇より格上だったというわけだ。



門の向こうの母屋を見学するには、鶴屋で1100円の「拝観料」(抹茶とお菓子つき)を払わないと
いけない。ちなみに写真撮影は門のこっち側までなので、殺害現場の写真などは撮れない。門から、
見える範囲だけしか撮れなかった。



文久3年9月18日どしゃ降りの深夜、剣客でもある芹沢らが泥酔したところを見計らって近藤一派が
襲いかかり、4人殺した。鴨居に刀傷が残っている。新選組の人たち、近藤勇が局長になってからも
何かというと分派しては殺し合っている。足かけ3年、壬生で粛清し合ってなお人数が増えたので、
西本願寺に移ったという。

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