散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

水戸の納豆工場

2017-07-11 | Weblog
水戸で午後から仕事だった。早めに行って、どこかを見物しようと思っても、水戸は何度も来ているし
暑いから屋外歩きたくない。涼しい美術館・博物館・歴史館のたぐいは月曜で軒並み休館。こんなこと
なら早めにこなければよかったのだが、ぼーっとしていても暑いので駅から徒歩圏内にある天狗納豆
の総本店(工場)まで炎天下を歩く。水戸駅の北口を背にして右へ、約10分。


こんなところにあったのか……

工場というのは郊外にあるものと何となく思っていたが、納豆は駅から徒歩10分のところで作ってる。
おもては店舗で、「こんにちはー」と入って店舗をそのまま通り抜けると、こんな看板が掲げてあった。
すでに納豆の香りが濃く漂っている。冷静な判断ができなくなりかけて、展示館と納豆工場、どっちへ
進もうか迷っていると、通りすがりの工員さん(通りすがりはこっちだっけ…)が、「2階が展示館、奥が
工場です」と声をかけてくれたので、どっちへ進んでもいいんだと確信する。


ひとまず2階の展示館のほうへ

水戸天狗党という人たちがいたのを思い出す。その水戸天狗党のことを偲んで、天狗納豆が生れたのか
と見当をつけて展示を見ても、どこにもそんなこと書いてない。怪しい。私は本職である探偵の心になって
展示資料の奥に隠れた秘密を探り当てようと目を光らせる。そう、編集者は世を忍ぶ仮の姿。


水戸で初めて納豆を製造・販売

したのが天狗納豆である、と展示の動画でアナウンスしてる。創業明治43年(1910年)……水戸天狗党
がヒドイ目にあったのは幕末のことだから、40年以上の開きがある。そんなばかなと展示物をよく読むと、
創業者の笹沼清左衛門は明治17年に納豆生産の先進地、宮城県の仙台に修行に行ったと書いてある。
へぇー、納豆って水戸より先に仙台で盛んに作られていたのか! そして明治22年に水戸鉄道が水戸と
小山の間で開通すると、清左衛門は観光客の土産として駅で少年たちに納豆を売らせることを思いつき、
やがて天狗納豆が水戸名物として有名なったと。


豆を蒸すセイロ(1/2大)

当時であれば幕末の天狗党と諸生党の対立は人々の頭にまだ鮮やかに刻まれていたはず……と思って
展示パネルを見たら、それっぽいことが書いてあった。やっぱり水戸天狗党の天狗納豆だったのだ。笹沼
清左衛門の家系も諸生党より天狗党だったのでは?


ワラで納豆を包むのは明治から

大豆を洗って水に1晩ひたし、蒸して納豆菌を植え、発酵させる。こう書くと簡単そうだけど、実際にそう
複雑なプロセスではないようだった。昔の言葉でいえばコツ、今の言葉でいえば品質管理が大切なのは
わかるけど、工場のほうを見学に行くとラインがとてもシンプルだった。


納豆菌を植えている?

洗って、ひたして、蒸した大豆に納豆菌を植えているように見える。そのあと容器につめて、発酵させたら
冷やして、包んで出荷する。


そのようにやってるらしく見える

納豆伝説は東北に多く、軍馬の従卒が腰苞に煮豆を詰めたまま2日ほど忘れていたら納豆になったという
のは宮城の伝説。また出陣に備えて煮豆を俵にして積み重ねておいたら粘りが出て、試しに食べてみたら
「なんとうまい豆!」が詰まって納豆になったというのは山形の伝説。このほか茨城には、源義家が水戸に
きたとき納豆の作り方を民に伝え、できたものが義家に献上されたから「将軍に納められた豆」ということで
納豆になったという、作り話っぽい伝説がある。時代がおかしいし、将軍っていう肩書もちょっと。


土産用はわざわざワラで包装

納豆のことばかり書いてたら、納豆の香りが部屋に漂ってる気がするからふしぎだ。このあと駅までとぼとぼ
歩いて戻り、カメラさんと待ち合わせて、糖の取材で常磐大学までタクシーをとばした。

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