散 歩 B L O G

歩くことが唯一の趣味ですから。

国分寺

2011-06-19 | Weblog
奈良時代、全国に国分寺と国分尼寺がつくられたって歴史の授業で習ったとき、それらは
いったいどうなったのか不思議だったんだけど、荒れ果てて跡形もなく消えたんだろうね。

たとえば、東京にも国分寺という地名が残っているけど、国分寺の建物はどこにもない。
東京の国分寺を訪ねると敷地の跡に石が転がっているだけで、そこに国分寺があった
ことを想像するのは、よほど物好きでないと無理。


ところが、若狭の国は違う!

東小浜駅の近くに、国分寺がちゃんと建っている。「全国にこんなのがあったのか~!」
と誰でもイメージできる佇まいで、東京の国分寺もこんな感じだったのかな?


あっちは薬師堂

なんて思いながらレンタサイクルを降りると、幼稚園児をつれたお母さんが国分寺に
入っていく。昭和47年から49年の発掘調査で、寺域218m四方を擁する国分寺であると
確認された……なんて解説を読んでみたり。


いわれてみれば四角い

現在の釈迦堂(国分寺の看板を掲げた建物)をひとまわり大きくした金堂を初めとして、
塔や講堂や回廊、南大門、中門、参道などもあったが、戦国時代に焼けたと。

あと、誰の墓なのか直径45mの円墳が寺域にあり、若狭姫神社ということになっていて、
江戸時代にお寺が再建されるまでそっちの方が目立ってたんじゃないかと思う。


中に入ってみると……

さっきのお母さんが、拝観料と引き換えに小さいパンフを渡してくれて、釈迦堂と薬師堂
を案内してくれた。釈迦堂(金堂)の屋根は元々、写真の地面の溝のとこまで伸びていて、
建物全体の規模もそれに応じて大きかった話とか、あっちには国分尼寺があったとか、
聖武天皇の詔勅により正式名称を「金光明四天王護国之寺」と定められ……

……普通の主婦の話し方をしていたお母さんが、説明するときだけ急に改まった口調に
なるの、団体さんが相手なら多分しっくりくるんだろうけど、マンツーマンで聞く場合には
どう対応していいものやら。(黙って聞いて、ハァとかホォとか相槌うったけど)


中門跡

「ゆっくりお参りください」と、お堂に残されたあとも外で様子を伺っているのがわかる
から、そんなにゆっくりはできない。けど、すぐに出るのも何だし、頃合いが難しい。

一通り拝観したので、またレンタサイクルをギシギシいわせて国分寺をあとにした。
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