歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

ホント!にホント!の雑談です。

2007年09月20日 | 雑談
今日はホントに雑談です。

このプログ何ですが、始めたのが去年の9月26日でした。


“これから毎日更新するぞ(^_^)書くことは沢山あるからね”

この一行だけでした。

記事らしい記事を書いたのは2日後の28日からですので、9月28日を一周年記念と考えています。

始めた頃は確かに書くことが沢山あり更新するのは楽でした。1ヶ月ぐらい毎日連続して更新していると、段々と「連続更新」に執着して、目標を100日連続更新としたのです。

ブログの更新を毎日やっていると、やらないと気持ちが落ち着かなくなるのでした。これって「ブログ更新病?」「ブログ中毒?」

退職後に3年ほど日記を付けていたのですが、いつの間にか中断していたので、ブログの開設は丁度良い日記の復活になったのです。

それで、100日連続が達成されると、200日連続が目標となりました。しかし、200日連続の頃は「かなりきつかった」のです。

まったく何を書けばいいのか、何も思い付かず、目標達成を諦めかけたりしました。その頃から、2~3日遅れで更新したり、最悪5日間、更新が途絶えたこともありました。

ブログを、書こう、書こう、書かなければ、と思いながら別の事をしていると、ホントに何も思い付かず、何も書けなくなってしまうのです。

兎に角、PCを起動し画面に向かい一行か二行でも書くと、書く題材が頭に浮かぶ?と云うか、湧いてくる?と云うか、いろいろな記憶と、いろいろな出来事と、いろいろな情景とが、いろいろに繋がりだして来る・・・・・・・と、気が付いてはいたのですが、これがまた、PCの画面に向かうまでが大変なのです。

200日連続を越えたころより、連続更新が途切れたりしたので、目標を「一年間」で「365本」に目標を変更しました。まぁ、そんなに拘る事もないのですが、やはり何か「目標」がないと・・・・・・。

兎に角です。書くことは考える事であり、自分の考えを整理するのにはホントにイイ事と、改めて認識した次第です。

それと、「ボケ防止」には大変に役に立つ様に思われます。

最近のアクセス数ですが、一日平均100前後です。一周年を前に2万は越えそうです。

やはり書けば、誰かに読んで貰いたいですからね。テーマによりアクセス数の増減があり、固定客は60人ほどのように思えます。

こんなものでも読んでくれる方がおり、ましてやコメントなどを頂くとホントに嬉しくなるものです。

読んでいる方、どうぞ何でも構わないですからコメントして下さい待ってま~す。(^0^)/

毎日必ず、決まった時間、それも朝早く更新するとアクセス数は増えるのですが、これは非常に難しいですね。

9月28日で一周年になりますが、これからは「何を」目標にしてやって行くのか考えないと・・・・・・。


それでは、また明日。 




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バケツで稲作 旨かった!ご飯に辿り着きました!

2007年09月19日 | バケツで稲作
本日、遂に! 自分で作った「お米」を、炊いて!「ご飯」にして食べたのです!

見て下さい。この中の「黒い粒」が、私が作った「紫黒米」です。見た目はまさに「お赤飯」です。


それでは、落ち着いて順番に説明致します。先日、2週間ほど前でしたか?関東地方に台風が上陸する前日に「稲刈り」をしました。

稲刈りは根元から刈り取ったのではなく、穂先部分を切り落とす「古代?」の方式で行いました。

12本の穂を一束にして、25本の束が収穫できたのです。1つの穂には平均して「60粒」の籾が付いていました。

ですから、

  60(粒)×12(本)×25(束)=18000粒

植えた苗は20粒ですので、900倍になった訳です。スゴイ!です。


この状態で乾燥した稲を、3束脱穀・・・穂から籾を落とす、籾すり・・・表面の籾皮を剥がす、を行い「玄米」にしたのです。

脱穀は「割り箸」2本の間に穂を挟んで、引き抜き籾を落としたのですが、これは簡単に呆気なく終了したのです。

次の「籾すり」をして「玄米」にする工程が、想像を以上に大変な作業でした。やる前には、籾殻は簡単に取れると思っていたのですが・・・・・・。


籾を擂り鉢に入れて、ボールで擦るのですが、「マニュアル」には「ボール」とだけあり、その作業の写真が掲載されていて、握った手の中に野球の「軟球」らしきものが写っていました。

しかし、我が家には「軟球」はありません。只一つある「ボール」は「まなちゃん」が置いていった、柔らかい「ビニールボール」だけです。


初めは、擦り付ける「強さの加減」が判らず、籾を潰して「粉に」なってはと思い、恐る恐る手加減しながら擦ったのですが、いくらやっても「玄米」にはならないのです。

少しずつ、押さえつける力を強くしていきました。すると、擂り鉢の中に「黒い粒」が現れたのです。


やった!と、思いそのままの力加減で擦っていると、玄米の黒い表面が剥がれ、白と黒の「斑玄米」が出てきたのです。

そうです、玄米が精米され始めたのです。これは「マズイ」と思い、作業を止めて、玄米になった粒を取り出したのです。

この「仕分け作業」が大変だったのです。その後は、擂り鉢に入れる籾の量を少なくして、ある程度玄米になった処で、擂り鉢を抱えて庭に出て、籾殻を団扇であおぎ風を起こして飛ばしたのです。

擂り鉢に入れる量少なくしたのですが、入れた籾の全てが玄米になるまで擦っていると、斑玄米が多くなってしまうのです。


籾を入れ、擂り鉢で擦って籾を剥がし、籾殻を団扇で飛ばし、籾と玄米の仕分け、以上の作業をくり返し行い、完成した「玄米」をハカリで軽量したら、45グラムありました。

それでも、3束の稲穂を脱穀した分の5~6割程度です、作業はそこで中断です。45グラムの玄米があれば充分です。

結局、45グラムの玄米を完成させるのに「2時間」を費やしたのです。

マニュアルには「2合の白米」に「玄米15グラム」を加えて炊くと、赤飯風に炊きあがると、書かれていました。


そして、本日(19日)の朝、遂に! 私が、自分の手で、丹精して、育て、大変な労力をかけて、玄米にし、そして、遂に、「ご飯」として炊きあがり、今朝の食卓を飾ったのでした。

味は、勿論、世界一、美味しいご飯でした!

4月に芽を出した、こんな小さな、小さな苗が、お米になり、ご飯になったのです。


ホントに感動的な朝食でした。

家族の誰もが、「ご飯」になって食卓を飾るとは思っていなかったようです。しかし、私は、小さな芽を出した時から、ず~と、ご飯になると信じていました。

感動と興奮の米作りでした。


これで、5月より「7回」続いた稲作報告を終了します。


それでは、また明日。 

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土浦市揚水ポンプのモーターは富士電機製で「皇紀2600年製造」と植え込みを覗くお婆ちゃん

2007年09月18日 | 土浦市の風景

昨日の続きです。

土浦港のヨットを横に眺め市街地に戻ります。港の先にある市営駐車場をの前を通り、道路脇の公園で休憩です。

公園の中に置かれている「揚水ポンプ」です。辺りを見回しても「解説・説明・案内」等の掲示物は見当たりません。

以前に来た時は、それなりの「解説」が書かれた物が何処かに立っていた様な気がします。記憶違いかなァ~?

今回は「銘板」の観察です。


先ずは左側の「モーター」からです。銘板が2枚貼ってあり、上の方は「株式会社飯村電工社」とあり、製造年月日が「1964年」とあります。

下の方には「富士電機製造株式会社」とあり、「製作年度 2600」と書かれています。

西暦ではありません。これは? もしかして? 紀元は2600年の「あの皇紀」による年代表記でしょうか?


右側の「ポンプ」は「株式会社荏原製作所」とあり、「昭和16年8月製造」と刻まれています。


ポンプが昭和16年ですから、モーターも16年かそれ以前に製造されたものです。調べてみるとやはり間違い有りませんでした。

皇紀2600年は、昭和15年になります。前年に製造された「富士電機」のモーターを「荏原製作所」が購入して、翌年「揚水ポンプ」に組み立て納入したのです。

それにしても、「荏原製作所」は「元号」で年号表記をして、「富士電機」は「皇紀」での表記、この違いを如何に理解すべきか? そして、この事実は何を物語るのか? 

この銘板の年号表記の違いの謎を解き明かす事により、戦前の天皇制、軍部、財界の関係に新たなる発見が?・・・・・・ナンチャッテ!そんな事ある訳ないですねェ。

それにしても、銘板はイロイロと面白いものです。


さてと、公園での休憩を終え、市民会館駐車場への帰路となります。常磐線のガードに差し掛かり、ここでも眼は自然と「銘板」探しを始めます。

ガードを行ったり来たりして眺め回します。煉瓦積みの橋脚に鉄製の橋桁、橋桁は私の好きな「リベット打ち」です。


イイです。赤煉瓦とリベット打ちの支柱。なかなかの組み合わせです。支柱と云い、煉瓦と云い、その「老いた退色具合」に流れた年月の「重さ」を感じるのです。


蒸気、ディーゼル、電気、いろいろな機関車に引かれた「貨車」や「客車」がこの上を通過して行ったのです。相当「重かった」はずです。

年老いたガード下を、年老いた「女性」が歩いて行きます。ガードの先で植え込みの中を探っているようです。

お婆ちゃん何歳ぐらいでしょうか、ここまでいろいろな事があったのでしょう。足取りはしっかりしていました。

年寄りの後ろ姿には「物語」が見えます。
お婆ちゃん、元気で!頑張って!

一瞬、さぁ! 俺も頑張らなきゃ! 何て思ったりして? でも? 何にを?

そうです! 忘れていました。「銘板」を探していたのです。頑張って探していたら、やっと見つける事ができました。


コレなんですが、残念な事に、銘板の上に何度も何度も塗装が重ねられ、判読は不可能な状態でした。残念です!

帰り際に改めて全景をじっくりと眺めていたら、風景が上下に分離してきたのです。


上半分の、青い空に白い雲、自動車道の高架が緩やかに左にカーブする風景は、遠い未来の幻に見えてきました。


下半分の、低く暗いガード下。遠い過去の風景に見えてきました。


暑い中を歩いて、疲れてきたようです。

土浦の町歩きは今日でお終いとします。


それでは、また明日。 


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土浦「港町の人探し」!

2007年09月17日 | 土浦市の風景
昨日の続きです。

常磐線の鉄橋の先に架かる「水郷橋」、この橋を越えると直ぐに桜川は霞ヶ浦にそそぎ込みます。

欄干の上に乗る「帆引き舟」を撮りました。水郷橋は新しく「のっぺり」とした「コンクリート橋」なので撮りません。

銘板にも「曰く因縁」も無さそうなので撮りませんでした。


「帆引き舟」は霞ヶ浦観光の目玉商品です、霞ヶ浦と云ったら帆引き舟、帆引き舟と云ったら霞ヶ浦です。日曜祭日には観光用に「出現」するそうです。

欄干の裏に回ると「指名手配」の顔写真と思ったら、よく見ると「訊ね人」の貼り紙でした。

この33歳の男性には、それなりに「曰く因縁」が有りそうです。何処に住んで居た人なのでしょうか。



土浦の人が居なくなっても土浦に貼り紙しませんから、きっと家族や友人達が、彼の立ち寄る可能性が高い土地に、貼って歩いているのでしょう。

33歳の年齢が中途半端で「ビミョー」です。「家出」と呼ばれるのは10代の前半から後半迄でしょう。

生活に疲れ家族を残し、姿をくらますのは40代前半から50代にかけてであり、これは「失踪」ないしは「蒸発」と呼ばれるものです。

33歳の「遅すぎた家出」か、早すぎる「失踪」のどちらでしょうか? 兎に角、見知らぬ土地で新しい人生を歩んでいるとイイのですが。

欄干の貼り紙に、様々な人生に思い巡らしたのですが・・・・・・・、それにしても「貼り紙」を作る際には、テープの「貼り代」を考えて作りましょうね。


話しが暗い方向に向かってしまいました。次は「明るいネタ」で行きます。

どうです! イイでしょ! 「港町クリニック」です。霞ヶ浦の湖畔に佇む、明るく爽やかな建物です。

「港町」と来て「クリニック」がイイのです。港町診療所、港町医院、ではダメなのです。明るく爽やかな「ノリ」にならないのです。

クリニックの言葉は「軽さ」を感じさせるのです。病人が来る処ですから、重い方より、軽い方がイイのです。

港町診療所とか、港町医院では、単なる風邪も重い「肺炎」になりそうな「不安」を患者に与えてしまうのです。

それにしても、霞ヶ浦の湖畔なので「港町」と付け、軽いイメージを大切にして「クリニック」と名付けるとは、「敵」もなかなかヤルナ!と、その時は思ったのです。

しかしです。少し先の電柱を見たら「港町」の町名表示を発見しました。

「港町」は単にここの住所名だったのです。「港町クリニック」、少し誉めすぎました。

確かにここ土浦は「港町」なのです。


土浦の駅から歩いて直ぐに港があります。


港には別れがあり、出会いがあり、哀愁があります。そうなのです港町は演歌なのです!

いつの日か、寒い夜更けに土浦の駅に降り立ち、狭い路地の突き当たりに見つけた小さな居酒屋、格子戸を開けると客は誰も居せん。カウンター席の端っこに、独り腰掛け酒を飲む・・・・・・。

何処からともなく聞こえて来る演歌のメロディー、勿論、カウンターの中には「風吹ジュン」に似た女将が、ガラス戸に映るネオンをぼんやり眺めている・・・・・・。

そんな酒も、偶には飲んで見たいと思いつつ、本日は閉店とします。


それでは、また明日。




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土浦「鉄橋銘板の謎?」を解く!

2007年09月16日 | 土浦市の風景
昨日の続きです。(更新が遅れホントは一昨日の続きです)

蔦の駐車場から市街地を通り、いつものように「水戸地裁土浦支部」の前にある自販機で缶コーヒーを買い、亀城公園に立ち寄りました。

土浦に来ると必ず亀城公園の「お猿さん」にご挨拶をします。淋しそうに毛繕いを黙々と続ける猿君に、コヒーを飲みながらイロイロと話しかけるのですが、いつも無視されています。


別々の檻に入れられた二頭の猿は、互いの境遇について時々は語り合い、慰め合っているのでしょうか。

休憩も終わり、淋しく孤独(そう見えるだけで、三食?昼寝付きを満足している?)な二頭の「猿」に別れを告げて、公園を「去る」のでした。

町中を抜け、桜川の土手に出ました。「この桜並木」の土手を始めて歩いた時は、長閑な田舎町の風情をタップリ感じたものです。

「この」と云っても写真を撮らなかったので、「どの?」と突っ込みが入りそうですが、残念ながら今回は撮っていません。

もう2年ほどここに駐車したままです。始めて見たその瞬間『エッ!』と思いました。周りの風景とはあまりにもかけ離れています。

迷彩色に塗られた、アメリカの軍用トラックが? ここはイラクか?、アフガニスタンか? 何故こんな田舎の駐車場に? ホントにオドロキでした。

まぁ。土浦は昔は「軍都」でしたし、今も自衛隊の基地もありますし、軍隊マニアの密度が高い地域なのでしょうか? 

まぁ。そんなこんなを考えつつ歩いていると、常磐線の鉄橋の下に差し掛かりました。


橋は、裏側?下側? このアングルが好きなのです。表より裏、上より下、変ですかねェ。

でも、表側よりも裏側を、見るなと云われると見たくなり、穴があれば覗いて見る、これぞ人間の探求心! 進歩発展の原動力! ではないかと思っております。

橋の裏側もイイのですが、最近は「銘板」に興味が湧いてきました。


こういう物を「銘板」と思っていたのですが、広辞苑で調べると「銘」と有ります。「銘板」という言葉は載っていませんでした。

金属や石に来歴を記したものが「銘」であるようです。そうすると「銘板」と云うのは、「馬から落ちて落馬した」と同じ事になるようです。

広辞苑に「銘板」がないからと云っても、世の中には「銘板屋さん」と云う商売があります。これって言葉としては「銘屋さん」が正しい表現なのでしょうねぇ。

それは兎も角として、この銘板なんですが、やはり気になるのは「年代」ですね。

この鉄橋は「着手」が昭和34年9月23日で、「しゅん功」が35年4月25日になっています。

工事開始を「着手」と云い、「竣功」を「しゅん功」と表記する処が「旧国鉄的」なのでしょうと、その時は思ったのですが・・・・・・。

それで、昭和35年の完成ですから、私が生まれて10年後です。その頃にこの鉄橋は完成していたのです。

『ふ~ん。なるほど、そうかそうか』

『ふ~ん熊谷組が造ったのか、そうか、そうか』

等と感心しつつ、鉄橋を眺めつつ、銘板を鑑賞する訳であります。

もう一本、鉄橋が有ります。


こちらは「着手」が昭和36年6月17日、「しゅん功」が昭和37年2月20日です。


そろそろ「塗装」の時期ではないかと、余計な心配をして眺めていました。

それにしてもです。「銘板」を眺めていると、やっぱり「しゅん功」が、気になるのです。

よく見ると、「橋りょう」とあり、「基ソ・そ」とあり、「しゅん功」です。3つの平仮名表記です。

これは、3つとも難しい漢字なので、鉄道好きの小学生にも読めるように、旧国鉄が「配慮」して、ひらがな表記にしたのでは・・・・・・・有りません。

絶対に間違い有りません! 答えは一つです! そうなんです! 銘板製作上の技術的な問題だったのです。

それは、銘板が「鋳造品」だと云うことです。ここまで来ると、『何だ。そういう事か』と、判った方も居ると思います。

そうなんです。単純に画数の多い「梁」「竣」「礎」は、この大きさの銘板では、鋳造加工では無理なのです。溶かした真鍮が流れないのです。

謎?が解け、そうか、そうかとスッキリしたのですが、銘板に刻まれた、「設計荷重」の「KS16」と「KS18」の文字が気になりだしたのです。

16と18では「強度的」にどちらが強いの? 「KS」って、何の略なの? 「K」は「国鉄?」、「S」は「standard」の意味? 

「基ソ根入 天端から7.250m」の、「基ソ根入」って? 「天端」って何処から?

何て考えたりして・・・・・・。

銘板一枚を眺めるだけで、こんなに楽しめるのです。

まだ土浦は続きます。


それでは、また明日。 



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土浦 「蔦と赤煉瓦」

2007年09月15日 | 土浦市の風景
昨日の続きです。

サバンナの風が吹く駐車場の奥にこの建物が有ります。

屋根は落ち廃屋になっています。以前に蔦が紅葉した時の写真を載せたことがあります。



夏が終わりに近づいて蔦の緑が深くなり、煉瓦の赤い色との対比が一段と鮮やかになり、朽ち果てつつある廃屋さえも、新鮮に見せてくれます。



夏の終わりは、煉瓦と蔦の季節です。





そして、これです! 素晴らしい!



真ん中が白い石積み、上下に赤煉瓦、這い上がる緑の蔦。

かなり計算された「構成」の様に見えますが、単なる偶然の作品です。


こちらは、以前にも載せたのですが、土浦市内の「黒塀と秋色の蔦」です。こちらも気に入っているので、またまた載せてしまいました。


今日は、これから忙しいので、ここで終わります。

明日も土浦です、まだいろいろあります。


今日も暑くなりそうです。


それでは、また明日。





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土浦の駐車場にサバンナの風が吹く。

2007年09月14日 | 土浦市の風景
先日、久しぶりの明るい陽射しに誘われて、土浦市内を歩いて来ました。

土浦は、何故か?蔦の多い町です。いたる処が蔦に被われているのです。古い廃屋のような建物から、病院、喫茶店、ラーメン屋、倉庫、道路の橋脚等々・・・。

これって、市としての統一イメージとしてデザインされているのでしょうか? 

市のど真ん中を抜けていく、高くそびえる「自動車専用道」とその「橋脚」は、蔦の緑で被い隠すことで、空を覆う圧迫感を和らげる効果を狙っているように見えます。

それと、4~5階建てのそれなりに大きな病院が、蔦に被われて「いた」のです。ここもそれなりに意図しての事だと思います。

この病院については、今回は確認していません、記憶が曖昧なのですが、以前に再度訪れた時は、蔦が消えて無くなっていたような気がします。

今回も、市民会館の駐車場に車を入れて市内を歩きました。この「怪獣」は、電信柱に絡まって繁殖を続ける、よくある「雑草」のツルです。

ゴジラが電線に前脚でつかまり、今まさに切断する寸前のシーン?


ゴジラと云えば、この「土浦ピカデリー」ですが、遂に力尽きて閉館してしまいました。

いろいろと「工夫を凝らして」集客をしている様子が、1年ほど前に新聞の地方版だったか、NHKのローカルニュースかで見た覚えがあります。


この映画館の脇を少し入った処に、4~5年前まで「霞ヶ浦劇場(だったと思う)」と云う、元映画館の「廃屋」が残っていたのです。

実に哀愁感満点の風情のある廃屋だったのですが、残念ながら取り壊されてしまいました。その頃は、歩き回るだけで写真は撮っていなかったのです。ホントに残念な事をしました。

多分ですが、そこの経営者と、この映画館の経営者は同一の様な気がするのです。ニュースか新聞でも、そんな事を伝えていた様な気がします。

閉館の原因は、隣のつくば市に出来た「8スクリーン」の「シネコン」に客を奪われた為です。

それと、市の中心部に向かって直線距離で200㍍ほど処に、もう一軒映画館があり、狭い市内で2館の営業は、観客数的にも無理だったのでしょう。

土浦ピカデリーの先にある「吉田食堂」です。何とも長閑な佇まいです。好きなんですけれど、でも入って見ようとは、チョットねェ? 眺めているだけにしています。



この駐車場ですが、道路から入った瞬間、この樹を見ると何故か? 遠~いアフリカのサバンナで、風に吹かれてポツリと、独りで立っている、孤独な樹に見えてしまうのです。


葉の少ない細い枝、細い幹、哀愁とロマンを感じるなのです。樹の姿が「サバンナの風」に見えてきます。

どうです!・・・・・・感じません? 私だけですかねェ? 写真で空気を伝えるのは難しいですよね。

この日も、間違いなく遠くからの風は吹いていました。

蔦の絡まる話しは明日になりました。

明日も土浦を歩きます。


それでは、また明日。

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安倍さんも?杉山さんも?何だかねェ~。

2007年09月13日 | 雑談
やっばり、「安倍首相」は辞めてしまいました。



安倍さんが首相であることに「違和感」があり、今でも首相と思えないと、一昨日ブログに書いたのですが、やっぱり本人も首相でいることに「違和感」があったようで、ホントに辞めちゃいました。

誰がどう考えようが、誰がどう云おうが「安倍ちゃん」に日本国の総理大臣は最初から無理だったのです。



育ちが良い、見た目が良い、人気がある、選挙に勝てると、自民党が「日本の政治」の為に選んだのでは無く、「自分達の選挙の為」に選んだ事が、そもそもの間違いなのです。

今頃になって、周辺では安倍さんの持病「潰瘍性大腸炎」を持ち出して「言い訳」をしていますが、こんな事は「百も承知」で担いだ筈です。

ホントに昨日はオドロキました。2時チョット過ぎにブログを書き終わり、『さぁて、近所を歩いて来るか』と、一階に下りると、おふくろがテレビを見ていて、『安倍首相が辞任だって!』と云うのです。

ホントに、ホントに『エッー!』でした。それから、自分の部屋に戻り、テレビを付け、5時過ぎまで釘付けでした。

安倍ちゃんの「健康問題」での辞任により、私は日課のウォーキングを中止せざるをなかったのです。このことは、私にとって重大な「健康問題」を引き起こす可能性があります。

一日一時間のウォーキングを、4日間天候不良により中止していた為、今日こそはと思っていたのに、これで、体重は1㎏増加し、空腹時の血糖値は3mg/dl上昇した筈です。

ホントに迷惑なタイミングでの辞任です。おふくろも楽しみにしている「大相撲中継」が3時を過ぎても始まらないので怒ってました。


大相撲と云えば、杉山さんの「記者証」没収事件ですが、私が昨日ブログに書いた様に、単なる「内輪揉め」でしたから、「お互いに誤解していました」で話しはまとまったようです。

杉山さんも二度とマスコミには登場しないでしょう。ニコニコ笑って相撲を楽しんで下さい。でも、よく考えると彼が記者証を持っているのは変ですよ。

彼は、相撲評論家でもなく、記者でもなく、ジャーナリストでもなく、記者クラブの「会友」だそうです。

会友は、「協会批判」をしてはイケナイそうです。訳が分からない話です。会友は記者クラブのお友達ではなく、相撲協会のお友達のようです。

もしかして、ホントは、「相撲記者クラブ」は「相撲協会お友達クラブ」なのかも知れません。お友達クラブの「会友」ですから、協会とはお友達なのです。

いっそのこと、協会関係者としての「フリーパス」を杉山さんに持たせてあげたら、双方供にスッキリするのではと思います。


それにしても、「安倍ちゃん」と云い、「杉山さん」と云い、話題の大きさは桁違いですが、二人は「世間」を「だまし」ていました。

安倍ちゃんは、政治家でもなく、「総理大臣」でもなく、単なる金持ちの「おぼっちゃま君」だったのです。

杉山さんは、報道機関出身なので「ジャーナリスト」だった思われていましたが、単なる、相撲好きの「おとなしい老人」だったのです。


それにしても、いい加減な世の中なのでしょうか・・・・・・・。しかし、あまり、立派な人達ばかりの世の中でも「息苦しい」感じがしますけど・・・・・・。

いつの時代も、こんなもん? 

それとも、時代が変化し始めた時は、変化の対応にズレが生じて、今まで、それなりに思われていた人達も、いい加減で、間抜けに見えてしまうのでしょうか?

まぁ。いろいろあります、今日は雑談でした。


それでは、また明日。  

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北の湖理事長!杉山元アナを虐めないで!

2007年09月12日 | 雑談
元NHK相撲アナウンサー「杉山邦博さん」何ですが、いつも、NHKの相撲中継で、花道脇の席で観戦する姿を拝見していました。

私は、NHKを退職後は「相撲評論家」として活躍しているものと思っていたのです。

今でも、杉山さんは「相撲ファン」には人気があります。以前、両国国技館の「場所入り」を眺めていた時に、杉山さんが「関係者入口」から入る際に、


『いょ!杉山アナ名調子!』の声が飛び、拍手が起きたのを目撃しました。


それで、今回の事件です。

彼が「報道関係者入口」、「力士・協会員入口」から出入りしていたのは、相撲記者クラブの会友として「取材証」を持っていたからでした。

でも、何故かあの人の雰囲気は「力士・協会員」関係者として、あの通用門を出入りしているように見えました。

「取材証」が没収されて、双方の意見を聞いていると、どちらも変なのです。

先ず北の湖理事長ですが、

『評論家の活動を止める気はない。だが、取材記者ではないのだから取材証は発行出来ない』

と、云っています。杉山さんが取材記者でないことは「とっくの昔に」に知っていた筈です。明らかに、「朝青龍問題」に対しての「協会批判」が気に入らなかったのです。

以前より協会は、杉山さんを「記者でもなく、ジャーナリストでもなく、評論家でもなく、「協会関係者」であり、「身内」と思っていた「節」があります。

また、杉山さん自身も、相撲が好きで好きでしょうがなく、放送、取材を長年しているうちに、いつの間にか相撲界の「身内」だと思う様になった「節」があります。

そもそも協会は、「NHK」そのものを、「身内」と思っている「節」がありますし、外部から眺めていると、「一体」の様に見える「節」がありました。

こちらの「節」は、報道機関としては、かなりマズイ状態です。

それで、身内の批判に理事長は「頭に来た」のです。彼の「朝青龍関係」の発言は「特に過激」でもなく、「普通」の意見でしたが、「杉山さん」だから問題にしたのです。

「これまでの付き合いからして、杉山さん、あんた!それはないだろう!」ってな事が真相だと思うのです。

直接的には、ある番組で他の人が「朝青龍の処分を決めるのに弁護士などの外部の人間を入れた方がよかった」発言に、隣に座っていた杉山さんが「うなずいた」事が直接のキッカッケだそうです。

これは、「身内」に対する「八つ当たり」でしょうね。


そして「杉山さん」ですが、

『うなずいたのは、同意ではなく、そういう意見もあるのか、と思っただけ。相撲評論家という肩書きもテレビ局が勝手につけたもの。私はそんな名刺も持っていない。いずれも誤解だ』

『朝青龍問題は伝承文化である大相撲の根幹を揺るがしかねない、と発言してきたが、相撲協会を批判したことは一度もない。こんなことになって残念だ』

杉山さんは、相撲評論家ではないそうです。記者でもなく、まして、批判する事を恐れているようですから、「ジャーナリスト」でもはありません。

杉山さんの現在の肩書きは「日本福祉大客員教授」だそうです。でも、もしかして、多分、脇に「元NHKアナウンサー」と書いてあったりして?

兎に角です。この「記者証」の没収事件は、単なる内輪揉めなのです。「報道の自由」何て、大げさな問題ではないのです。


北の湖理事長殿、鬱憤ばらしに、小柄で、気の弱く、そして相撲好の老人である「杉山さん」を虐めてはいけません。


それでは、また明日。



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「テロ特措法」は?「安倍首相」は?

2007年09月11日 | 世間話し
タイトルで、「安倍」の後に「首相」の文字を書いていて、どうしても「変」なのです。「安倍総理大臣」となると、全く現実感が無いのです。

未だに、「フルネーム」が覚えられないのです。歳のせいだけではないと思います。

安倍さんは、ホントに、間違いなく、今、「内閣総理大臣」なんですよねェ。どうも未だに信じられないのです。

副官房長官とか、副幹事長とか、副総理大臣の肩書きの方ピッタリ、シックリくるのです。

遠くない将来、歴史上において「安倍ちゃんの総理大臣は無かった事にしょう!」何て事に・・・・・・、なる訳ないか?

それにしても、「新テロ特措法」が成立しなければ、安倍さんは「辞職」を決意したらしいのです。

解散については「自民党内」でも反対が多く無理なようです。でも「あの安倍さん」ですから、「ヤケクソ自爆解散」もあり得るかも知れません。

それにしても、問題の11月で「消費期限切れ」の「テロ特措法」の正式名称を知ってました?

私も今始めて知りました。まさに落語の「寿限無」です。

【平成 13 年 9 月 11 日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法】

長~~い法律名なのです。法律名ってみんな割と長いみたいです。


それで、結局はどうなるのでしょうか?

世の中、いつまでも「アメリカの言いなり」では、やってられないと云った雰囲気が強いようです。

右も左も真ん中も、「日本は独立国家であり、アメリカの属国ではない!」で、それなりに、まとまっているように感じます。

「テロ特措法」に賛成する人達も、イラク、アフガニスタンに対する、アメリカ主導の「反テロ戦争」を強く支持している様には見えません。

兎に角、何と云っても、云われても、ここのところは、アメリカに逆らうのは得策ではない、「経済的」にも「軍事的」にも、アメリカには『これまで世話』になっているのだから、『ねェ。そうでしょう!』


確かに、「これまで世話」なりました。しかし、もう「そろそろ」、ここらでその関係も「清算」したいと、みんな思い始めたのです。

基準通貨のドルも、流通量でユーロに最近抜かれてしまいました。政治的にもアメリカ的自由主義も色褪せてきました。

それでも、唯一の超軍事大国を「世界中からの借金」でやっと維持している状態です。

アメリカと対立し戦争をした時代もありました。

無条件降伏で占領された時代もありました。

アメリカの「庇護」のもと、経済的な繁栄を享受した時代もありました。

アメリカが落ち目になったからと云って、「別れ話」を持ち出すのは何ですが、やはり、ここらで「普通の関係」に戻る時期ではないでしょうか?

しかし、この「普通の関係」の中身が難しいのです。

反米でもなく、親中でもなく、核武装でもなく、非武装でもなく、覇権を望むのでもなく、アジアで孤立するでもなく・・・・・・。

世界とのお付き合いを国連中心にやるといっても、国連が一つの意志で動いている訳でもなく、いつも正しい訳でもなく・・・・・・。

・・・なく、・・・なく、・・・なく、なくばっかり続きますが、ホントに難しい時代なのでしょう。

難しい時代?と云う事は、別な視点から見れば、何かが大きく変わる時代なのでしょう。もしかして、今は面白い時代なのかも知れません。


そんな時代の、臨時国会であり、「テロ特措法」であり、職責を辞する覚悟を表明した「安倍総理」なのです。


いろいろありますが、ここはやはり、小松政夫氏が云うように『どうかひとつ、ナガ~~イ眼』で見る必要がありそうです。

皆さんも『知らない!知らない!』何て云っていると、いつの間にか『どうして?どうして?どうしてなの?』何て、世の中になってしまいますよ。



それでは、今日は『さよなら、さよなら、さよなら』 

  

コメント (3)
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