歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

「岡埜栄泉」と「俊一郎さん」勘違いでした。

2006年12月31日 | 東京の風景

以前に、中野の哲学堂公園の近くで撮ったものです。

主人と思われる人が店先に佇んでいました。60代の半ばから後半に差し掛かった年格好にみえました。

看板を上目使いに暫く眺めた後、店先の商品ケースに目を落とし、考えるような眼差しで、じっと商品を見つめていたのです。

それを見つめる私は、横断歩道を渡った先で、横目でその光景を眺めていたのです。私も、相当怪しく見えたかも知れませんね。

看板は「錆び」てペンキが剥がれ、「和菓子」の文字と、「岡埜栄泉」の文字だけが、何とか「判読」出来る程度に残っています。

日差し避けの「巻き上げ式天幕」は、主人と人生を伴に歩んだ「証」であるかのように、「襤褸の幕」になっていました。
「店」も「主人」も相当に「草臥れて」いるように見え、流行っている店には見えません。

先ほどの主人は、「錆びて剥げ落ちた看板」と「襤褸の幕」を見つめ、創業当時の若かりし頃の、想いに耽っていた・・・・・・のかも知れませんね。

それで何ですが、この写真、最近改めて見直していて、疑問が生まれたのです。
「岡埜栄泉」と云えば、「老舗の和菓子屋」です。「こんな所」の「こんな岡埜栄泉」なんて、「何か。変」と思ったのです。

それで調べてみました。都内には30軒以上あるようです。中には「栄泉堂岡埜」何て、「ひっくり返った」店もありました。


そこで、先日、一番有名で一番創業の古い上野駅前の「岡埜栄泉総本舗」に、「駄目もと」で不躾なメールを入れてみたのです。



     【名物の豆大福】

『都内各所で見かける「岡埜栄泉」はどういう繋がりなのですが?』

昼頃に送信したのですが、夕方頃にはその返事が届きました。不躾な質問に丁重に答えてくれて、「恐縮」してしまいました。

-----以下引用-----

岡埜栄泉のルーツは正直不明です。
昨年もある雑誌社が追ったのですがわかりませんでした。
戦争で記録がほとんど焼けたのが大きな要因です。
うちで説明をさしあげてるのは
本家はもともと駒形にあり、姓を岡埜となのっていました。
駒形自体はもうすでに廃業していますが
そこからまず7軒にわかれました。
うちのような親戚筋もあれば暖簾わけもありました。
その見分けは岡野姓かどうかでたいていわかります。
その7軒からさらに暖簾わけが派生しいまのような状態になったと思われます。
もちろん勝手に名乗っているところもあるようですが。
誰も商標登録をしなかったのが不思議です。
どこも本家を名乗らないのはそれだけの証拠をもっていないからです。
ですから本家争いが起きないのです。
うちは岡野姓で現存する岡埜栄泉としては最古だと思われます。
ただうちより創業年が古い岡埜栄泉もあるようです。
それが事実なのかどうかはわかりかねます。
今は割りと
皆が頑張ればそれでよいという風潮にあります。
自然淘汰もされていくでしょう。
それぞれの店にファンがついているようですし。
ただまずいものを売る岡埜栄泉があるのも事実で
いっしょくたにされるのは少し抵抗があります。
うちは上野駅前です。
お近くにお寄りの際は是非いらしてみてくださいね。

では
岡埜栄泉 岡野大介

-----引用終わり-----

聞いてみるものです。
岡野大介様 ありがとう御座いました。


今回、調べていて「長い年月」に渡って、私が「大変な勘違い」をしていたことが判明したのです。

あの「元日本サッカー協会会長」、あの「国際オリンピック委員会委員」の「岡野俊一郎さん」の実家が上野駅前「岡埜総本店」だったのです。

私は「メキシコオリンピック」以来、「約40年」に渡って、岡野さんは「築地で老舗の蒲鉾屋さん」と誤解していました。「老舗」と「食べ物」は当たっていたのですが、和菓子と蒲鉾とは大違いです。

何故? どこで? どうして? 「蒲鉾屋さん」になってしまったのか? 不思議ですね。ホントに不思議。


兎に角。今日は大晦日です。蒲鉾は買いましたか?

それでは、みなさん良いお年をお迎え下さい。  




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「十間橋通り」 最終回 「高松プロダクション」

2006年12月30日 | 東京の風景
昨日の続きです。

十間橋通り、「東武亀戸線」の踏切です。「東武線」「京成線」は「下町庶民派」で「私好み」の私鉄です。「小田急」「東急」は「山の手ハイカラ派」で馴染めないですね。「西武線」は「中間派」です。


警報機の甲高い音を聞きながら、「ボンヤリ」と電車の通過を待っている・・・・・・。踏切って「何だか」いいのです。 空白の時です。


踏切を渡り少し行った所で、金属プレートの案内板を見つけました。

「高松プロダクション・吾嬬撮影所跡」とあり、大正時代、ここに映画の撮影所があったと書かれていました。その案内板を読み終え、ふと向かいの建物を見ると「高松プロ」の事務所に見えてきたのです。


「木製の窓枠」、「割れたガラス」に、「テープ」を貼った「修復跡」、「薄茶色のモルタル外壁」の「くすみ具合」。いいです。


案内板に書かれた、「高松プロ」「関東大震災」「マキノ映画」の文字を読み返し、通りの風景を眺め、大正時代の面影を探しました。



※家に帰ってからチョット調べてみました。

「吾嬬(あずま)撮影所」の「吾嬬」が気になったのです。たぶん地名の筈ですがこの辺りは「京島」なので、何で「吾嬬」なのか「地図」をみていたところ、見つけました。

近所に「あずま図書館」「あずま百樹園」がありました。調べるとこの辺りは、大正の頃は「吾嬬」という地名だったのです。

それと「高松プロ」を調べたところ、

「義憤の血煙」製作=高松プロダクション 
1925.09.11 有楽座 6巻 白黒 無声 。

吉頂寺晃 (キッチョウジ・ヒカル)
本名 (旧姓名) 岡崎光彦(岡崎 光)
旧芸名・別名 吉頂寺光・吾妻三郎・ 岡崎光彦
生年月日 明治39年4月7日生 初出演作品 昭和元年「高松吾嬬プロ」「男児の一諾」
経歴  高松プロダクション吾嬬撮影所研究生

何てものがでてきました。「吉頂寺さん」は、後年、「モスラ」や「ウルトラマン」にも出演していたそうです。

こんな顔の役者さんです。「ウルトラマン」で見たような気が、
「しない・・・・・・?。でもない・・・・・・?」


いや!この顔「見た」気がしてきました。こんな人が出てました。この人、「高松プロダクション」の「研究生」出身だったんですね。

「吉頂寺さん」もあの十間橋通りを歩いていたのですね。


こんな写真も見つけました。昭和30年代の「十間橋」です。


「十間橋通り」よかったです。

この日は、八広、四つ木を通り亀有まで歩きました。カレーで摂取した「カロリー」は全て使い果たしました。

暇人にとっても、「年末」は何かと忙しいです。2日には「孫」が遊びにきます。待ち遠しいです。

  さぁ。早く寝よ   



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「十間橋通り」 その2 「カレー屋さん」

2006年12月29日 | 東京の風景
昨日の続きです。

やっと「カレー屋」さんの話しになります。
出かける前に大体の場所を頭に入れて行ったのですが、十間橋を渡り、最初の路地を右に入り、後は「勘」を頼りに狭い路地を、それらしき「雰囲気」の場所を探し歩きました。

住宅街の中の「古い」「木造2二階建て」を改造した「カレー屋さん」なのです。ここまで書いてくると、「あ~。あのカレー屋さんね」と察した方もいるでしょう。



5分ほど彷徨い見つけました。「見つけた」と云うよりも「嗅ぎ」つけたのです。後は匂いのする方向を辿って行き、発見することが出来ました。知らない人が通りすがりに入って来ることは、絶対にない場所です。

一時少し前で満席でした。入り口脇にある「4畳半」の「ギャラリー」で10分ほど待たされました。

木造アパートを改造した店内は、始めて来た感じがしません。昔、友達が住んでいた下宿部屋の雰囲気です。広さは、六畳を二間の「ぶち抜き」です。


一人なのでカウンター席です。850円の「カレーランチのチキン」を頼みました。調理場が目の前なので、調理の様子がじっくり観察できました。



男性の調理人が1名、給仕の女性が1名です。二人の会話と容貌から「姉弟」のように見えました。

カレーは「インド風」です。「味、量」ともに合格でした。ライスの隣にのっていた「キャベツの酢漬け・・・・・・ザワークラウト?」が美味しかった。



接客態度も合格です。私が調理の様子しきりに観察したり、料理の写真を撮っていたので、プログでもやっている「暇なおじさん」に見えたのでしょう。

「変な悪口」でもを書かれたら困ると思ったのか、帰りに二人が玄関まで見送ってくれ、『今日は、カウンターですいませんでした。これからも宜しくお願いします』何て云われ、かなり「恐縮」してしまいました。

カレーを食べてお腹がいっぱい。十間橋通りを「八広」を目指しぶらぶら歩く事にしました。途中でいろいろと発見がありました。

面白いです。十間橋通りは 
長くなるので、この続きは明日にしま~す。

おやすみなさい。  


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「十間橋通り」 その1 「発条屋さん」

2006年12月28日 | 東京の風景
十間橋通りを歩きました。

一番の目的は「カレー」です。一年ほど前にテレビで紹介されたお店です。
この日は、総武線の亀戸駅で降り、「押上」方向に歩きました。


途中にあった、私好みの「渋い」、「煎り豆屋」さんです。


途中「亀戸天神」にお参りして、カレー屋さんに向かいました。亀戸天神は車で前を何回か通り過ぎただけで、お参りしたのは今回が初めてです。

思っていたより広い境内でした。大きな「灯籠」に「朱色の太鼓橋」、遠くには「高層ビル」印象的でした。


それで、「十間橋通り」なんですが、墨田区「向島」の先、「押上」と「文花」の間にある通りです。

墨田川にそそぐ、「北十間川」に「横十間川」が合流する付近にある「十間橋」が起点になっています。それで「十間橋通り」ですね。

話しは逸れますが、「北十間川」に「横十間川」とくれば、ただの「十間川」がありそうなのですが、残念ながらありません。

それに、地図で見ると「横十間川」は南北に流れていて「縦十間川」に見えます。普通は「南北」であれば「縦」と表現しませんか? 変ダ!「横十間川」


「墨田区、向島、押上、文花、十間川」、この言葉の響きが、堪らなくいいのです。下町そのものですね。「文花」は「ぶんか」と音読です。

そばには「立花」の地名があり、こちらは「たちばな」の訓読みです。「文花」も訓読みの「ふみはな」にした方が風情があるのにね。

「文花」と云えば、ここには「区立文花中学」があり、都内でも数少ない「夜間中学」があるのです。まさに下町です。


橋の上から眺めると、川に沿って建つ、工場、アパート、民家、商店の「くすんだ灰色」がかった風景は下町です。いい色合いの「寂れ感」です。

そんな風景をぼんやりと眺めていたら、左側の工場の「森発条株式会社」の文字に「え~っ! こんな所にあったんだ」とビックリしました。

「発条」は「ぜんまい」と読ませることもありますが、この「発条」は「バネ」を意味しています。この「森」さんは「バネ屋」さんなのです。

私が、20年ほど前に働いていた会社で「森さん」の「引っ張りコイルバネ」を使っていました。この会社「小物バネ」では、それなりに「有名」な会社でした。現在はどうなのか、ネットで検索してみたのですが「ホームページ」はありませんでした。

「バネ屋」さんで思い出すのは、「木戸バネ」です。
社長が緒形直人で、奥さんが酒井法子でした。朝の連ドラでワースト2位の低視聴率でした。話しが暗かったですからね、わたしは「森さん」の事もあり、近い業界の話しが出てくるので、それなりに面白かったですよ。

そう思い出しました。題名は「ファイト」です。主人公の弟が「壇」と云うのですが、「壇」は「弾」で、「はずむ」ということで「バネ」に「引っかけて」いたのに気づき笑いました。

これがホントの「引っかけコイルバネ」  違った!「引っ張りコイルバネ」でした。

それにしても、あの時の「酒井法子」は、芝居に「ノリピィー」の「ノリ」が所々に見えました。高校生がいる「お母さん役」は無理でした。

「お父さん役」の緒形直人は、「お兄さん」にしか見えませんでした。彼の芝居は暗いですね。


話しが「カレー」から遠く離れていきますね、カレー屋さんの話しは明日にします。

それでは、明日また見にきて下さい。 


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手遅れです「龍ヶ崎」  茨城シリーズ 最終回

2006年12月27日 | 龍ヶ崎の風景
龍ヶ崎市という町があります。茨城県以外の人はあまり知れませんよね。

常磐線、取手駅から二つ先の「佐貫駅」から、単線で 4.5㎞、2区間3駅の「関東鉄道龍ヶ崎線」の終点が「龍ヶ崎駅」で市の中心部です。

JR常磐線の駅名に「佐貫」ではなく、「龍ヶ崎」を付ければ、知名度が上がってそれなりに有利なことがあったと思うのですが。

常磐線を現在より、市の中心部を通過するように「曲げ」られなかったのですから、市内の駅名ぐらいは、せめて市の名前を付ければよかったと思うのです。

常磐線と国道6号(水戸街道)は「牛久沼」沿い通っていますが、その辺りは昔は湿地帯だったそうです。その為、宿場町の「龍ヶ崎」は、牛久沼を迂回した現在の位置に町が造られたそうです。何故か、仙台藩の領地です。

その「ズレ」を繋いでいるのが「龍ヶ崎線」なのです。1900年に開業ですから100年以上の歴史です。


これが、関東鉄道の「龍ヶ崎駅」の「駅前広場」です。何もありません。人も疎ら、車も疎らです。これでも、日曜日の昼頃なんですよ。完全に「寂れて」います。完全に「取り残され」ました。


これは「駅前」にある「元床屋さん」です。この光景が「龍ヶ崎」の全てを物語っています。



メインストリートにある、「町おこし」の「ギャラリー」です。寂しい風景ですね。もう無理なんですね、この『旧市街』は「起こ」しても、「起き」ません。
寝ているのではなく、息を引き取ってしまいました。

「コロッケ」で「町おこし」をと頑張っているようですが、日曜日に歩いても、コロッケの「文字」も「匂い」も町中には有りませんでしたよ。人も歩いていませんでしたしね。

そうなんです。『旧市街』と云ったのは、別の場所に「ニュータウン」が建設され、そちらの幹線道路沿いに「郊外型の大規模店舗」が進出して、全てがそちらに移動してしまったのです。

そういう「取り残された」「旧市街」何てところが「好き」なんですね。「面白い」のです。どうもねェ・・・・・・・すいません。

旧市街の商店主は「面白く無い」どころか生活がかかっていますから大変ですよね。しかし、時代の流れには勝てませんからね。


このレンガ造りの「廃墟」ですが、主は東京に住んでいるそうです。この建物も、駅から直ぐの所にあります。

調べてみたらここの主は昔「衆議院議員」もやっていた町の「大物」だそうです。町の「名士、大物、資産家、旧家」そんな人までがねぇ・・・・・・「脱出?」して行くようでは、困ったもんです。

この建物は「登録文化財」の指定を最近受けたそうです。
このまま「寂れて」いけば「町全体」が「登録文化財」に指定されるかも知れません。急がば回れの「町おこし」かもね。


この「住宅?」人の気配は感じません。「セメント瓦」の「劣化」の進み具合、外壁の「退色」の色合い、木製の窓枠と曇りガラス。

実にいい「寂れ感」、「うらぶれ感」です。植木の具合、空き地の広さも丁度いいです。懐かしさ満点の風景ですね。



こんな建物が、メインストリートには何軒か残っています。

諄いようですが、町の活性化は完全に無理です。手遅れですよ。
町の中心が移動してしまったのですから、「コロッケ」の「力」で中心を「元の場所」に戻す事は不可能です。

コロッケは大好きなので、コロッケが可哀想に思えてきます。コロッケには荷が重過ぎます。

まあ。兎に角です。私が「無理」だ「手遅れだ」なんて、云ってみたところで意味の無い事ですけどね。

懸命に「活性化」に取り組んでいる方々には「後ろの隅っこ」から、声援だけ送らせてもらいます。

『ガンバレ!コロッケ!』 あッ!違うか?


コロッケ、コロッケと書いていたら、コロッケの「匂いと味」が頭から離れなくなりました。

今夜は。絶対!「コロッケだ!!」   


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危うい街 「つくば」 茨城県シリーズ -4-

2006年12月26日 | つくば市の風景
つくば市の中心部に始めて行った時は「驚き」ました。田舎の中に突然「都会」が出現したのです。

道路は広く、街路樹は高く、建物は大きく、まさに都会でした。周辺には、宇宙開発から土木、産業、科学、農林関係の研究機関、国立博物館の植物園、民間の研究所、筑波大等の教育機関、デパート、ホテル、ショッピングビル、公園、シネマコンプレックス、秋葉のような電気街、等々、もうビックリです。

周辺の町の「賑わい」を、全て「吸収」してしまう「エネルギー」を感じます。

これがメインストリートです。

左側の建物が、コンサートなどが開催される「市民ホール」です。私はここで、オーケストラの生演奏を始めて生で聴きました。感動しました。



右に有る建物がデパートです。この最上階に「映画館」があり、以前はよく観に行きました。今は少し離れた所に「8スクリーン」の「シネコン」ができた為に、閉鎖されました。



中央広場です。休日には「フリーマーケット」や、屋外イベントが開かれます。


中心部のバスターミナルです。都内、成田空港、周辺部へのバスが出ます。TXが開通して、都内へのバスは減便されました。




エキスポセンターです。左側の円屋根は「プラネタリュウム」で、中学の時に「渋谷」で観た時以来、40余年ぶりに観たのですが、アニメと合成されて、音響も加わり立体的な物語仕立てで、飽きさせない構成でした。
今のプラネタリウムは単に星を観るだけではありませんでした。

遠くに見えるのは「実物大」の「H2ロケット」です。今年、ペンキの塗り替えをしたばかりです。


この交差点の地下に、TXの終点「つくば駅」があります。

左側の透明な筒状の建物が、地下駅の入り口です。



TXの開通に合わせてオープンした「ショッピングビル」です。「おじさん」「おばさん」は「まったく」対象にしていないことが「商品構成」で「ハッキリ」と判ります。高齢化社会とは無縁の町なのでしょう。新しい町、若い町ですからね。



駅周辺は「マンション」ブームです。売れているそうです。

ここまで書いて、『アレ! これじゃ!つまらない「観光ガイド」になってるじゃん!』 と気付きました。(気づいてよかった!)

『ナゼなんだろう? ドウシテなんだろう?』と考えました。

それは、「つくば」の街それ自体が「小綺麗感」だけで「人間臭さ」が足りないのです。

「たてまえ」だけで出来ている、何処か「胡散」が「臭さい」のです。
都市計画が先行して、「後」から「人の暮らし」が「入って来た」そんなところに何か「危うさ」があるのです。

整然として、綺麗で、匂いの無い街は、人が暮らすにはもの足りないのです。
こんな事を云っている、私が古いの?

古くて「ケッコー」です。 文句あるか!


大夫、酔いが回ってきました。本日は「更新」の遅れを取り戻す為に、1日で3日分を書きました。 1日4本でも可能!?


  お疲れさまでした   おやすみなさい。 



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どうするんだ「土浦」 茨城シリーズ -3-

2006年12月25日 | 街の風景
今回は土浦です。
霞ヶ浦の湖岸にあり、「海軍航空隊」、「予科練」があった「軍都」でした。いまでも自衛隊の基地があります。歴史のある町で戦国時代からの城下町です。

最近は、駅前の大型スーパー、ホテル、映画館の閉鎖が続き、商店街は「寂れ」が進行中です。

土浦市内にある、企業の支店や工場が、○○会社つくば支店、○○会社つくば工場の看板を下げています。

「土浦」の名称を避けています。「土浦」の名称を付けると「寂れ感」が「伝染」してしまうと感じているようです。

隣のつくば市に、「地位・名誉・金・人」を持って行かれてしまったのです。この傾向は、「つくばエクスプレス・・・・・・舌噛みそう。TXじゃ判らないしね」が開通して、さらに加速しています。



城跡の「亀城公園」に残る「城門」です。門は古いのですが、最近造られた「塀」が「新しくて」困ります。



宿場町の面影が残る町外れの坂道です。この先に「廃墟」に近い木造二階建ての民間アパートがあったのですが、写真を撮ろうと行ってみたら空き地になっていました。残念!

 


市内中心部にある観光施設「街角蔵」の脇の路地です。漆喰の外壁が美しいですよ。



市内には未だ幾つかの「レンガ造り」の「蔵」が残っていますが、少しずつ消えつつあります。




古い物が消えた跡に、こんな「トンデモ建築」が建ってられているのです。
「いったい!ここは何処の国?」 これが、ホントニ! 土浦にあるのです。

改めて写真を見ていると、空の青さといい、北アフリカの地中海に面した、イスラム建築?に見えてきました。

こんな建物でも、50年も経つと「登録文化財」に指定されたりしてね。



土浦の今を象徴している「亀城公園」のサルです。

いつ行っても、とても「寂しそう」です。檻には2頭居るのですが、壁で仕切られています。「小さな窓」があるのですが、互いにその存在を無視している様子で、二頭は悲しい眼をして、遠い所に「視線」を向けています。
これは「虐待」ですね。


ここは、「寂れ」つつある土浦の中で、唯一「活気」のある場所です。

昔は軍隊の基地があり「遊郭街」でした。今は自衛隊の基地になり、「元遊郭街」は「風俗街」として残っています。桜川に沿って道の両側に「風俗店」が500㍍ほど軒を連ねています。その周辺には飲食街があります。茨城県最大の歓楽街?

ここでまで書いて、思い付いたのです。何と云われようと、起死回生の秘策はこれしかないですよ。

「土浦」に有って、「つくば市」に無い、「つくば」に勝てる武器。そうです!「風俗」と「歴史」です! これで勝負です。

つくば市は「研究学園都市」なので、「風俗店」は不可能なのです。
歴史では戦国時代から続く土浦には、「逆立ち」しても追いつきません。

どうですか? 市長さん。 風俗には・・・・・・「抵抗感」がありますよね。
やっぱり、「歴史」を売り物にするしかないですかね。

土浦の町には、「色々なもの」があります。面白いです!
 


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怪しい町です 「石岡」 茨城シリーズ -2-

2006年12月24日 | 街の風景
石岡は、常磐線の土浦から二駅先の町です。

石岡駅は、ローカル線の「鹿島鉄道」の起点でもあります。霞ヶ浦の北側の湖岸を通り、海岸部の「鉾田」まで27.2kmを走っています。この線も、赤字路線で来年3月31日で廃止されることが決定しています。

1924年に開業していますから、83年で幕を閉じます。廃線前に一度は乗ってみたいですね。

鉾田まで「のんびり」ローカル線の旅です。自転車の車内乗り入れができるそうなので、車に「折り畳み自転車」を積んで行ってこよう。暖かくなる3月になってからですね。

鹿島鉄道の操車場です。左から2番目の車両は「レトロ感」満点です。これぞローカル線。


町のメインストリートには、「昭和ロマン」の匂いが漂う商店が幾つか残っています。昭和初期に流行した「商業建築」らしいのです。


履き物を商っている店です。色使いがなかなか渋く、重厚感がありいい建物なのですが、店先に並んだ商品の、「サンダル」、「運動靴」は「建物」に対して恥ずかしそうにしていました。


「赤」の「巻き上げ式天幕」。商店の軒先よくあるやつですが正式に何て名称なんでしょうかね? その「赤天」が建物の外壁と調和しています。

窓枠のアルミサッシの影響で、最近よくある、「古く見せかけた」建物の様にも見えてきます。



これは、「寂れ感」「くたびれ感」があって、「お疲れさま」と声を掛けたくなります。


これは、メインストリートから少し入った路地にある喫茶店です。

柱は「ギリシャの神殿」を思わせる「エンタシス」の様式を取り入れ、安定感と重厚さを表現したようです。

しかし、隣の和風建築と比較しても、階高があまりにも低く、2階の「エンタシス」は途中で切れています。

隣の「餃子・ラーメン」の看板と、背の低い「エンタシス」が、「侘びしさ・哀れさ」に加えて、「何か」「怪しさ感」が漂っています。

そうなんです。この「ちびっ子エンタシス」が象徴するように、今までの建物のすべてに「怪しさ感」があったのです。

建築当時、町並みの景観に対して「浮いて」いたと思われます。田舎町の相当に「怪しい建築」です。

すべての建物が、「木造建築」で。表面を「モルタル塗り」で「石造り」に「見せかけ」ているのです。

表面だけでも、「西洋建築」を取り入れる。これこそが、まさしく「日本的」なのかも知れません。この「怪しい建物」こそ、日本文化の伝統を表現している?

「怪しさ感」「危うさ感」の漂う田舎町です。そこが「面白い」のです。よかったですよ石岡。

※更新が遅れてしまった。年の瀬ですからしょうがないね。

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とり残された町「真壁」 茨城シリーズー1-

2006年12月23日 | 街の風景
茨城県シリーズの第一回目です。本日は茨城県の真壁町です。去年か一昨年に岩瀬町と合併して「桜川市」になりました。合併した後の名前が覚えられなくて困ります。

真壁と云ったって、茨城県の何処にあるか見当もつかないですよね。茨城県は何処にあるか分かりますよね・・・・・・。真壁は「筑波山」の山麓、北西側にある、小さな田舎町です。

町の外れににある、筑波鉄道(土浦~岩瀬)の「真壁駅」のホーム跡です。背景に見えるのが筑波山です。

1918年に開通して、今から20年前に廃止されました。現在は、全線がサイクリングロードになっています。


これは、真壁の手前にある踏切跡で、土浦・真壁間に「唯一」残る「レール」です。ただこれは「本線のレール」を保護する為に取り付けられたレールです。

こういう所に使われるレールは、本線で使用した後、再利用しているので、もしかして、今から90年前、開通当時に敷設されたレールの可能性があります。

そうだとすると「世界遺産」ではなくて、「茨城県遺産」でなくて、「桜川市遺産」の大発見?」




こんな佇まいの田舎町です。100何軒かの蔵や民家が、国の重要文化財の指定を受けているそうです。ここ数年、古い町並みを残す活動が行われ、案内板、説明板などが設置され、見物客も「ちらほら」見かけるようになりました。私も、この3年の間に4度訪れています。

気を付けないと、商売に繋げることばかりが先走って、嫌らしさがでて来ないか心配です。今のところは「無名」なので大丈夫そうです。ただ最近は、3月の雛祭りに、商店や、個人の家に雛人形の展示する事で知られてきています。


この商店は、案内書には必ずでてきます。現役で建物の傷みも少なく、重量感のある建物です。わたし的には「寂れ感」に欠けていて不満なんですがね。



時代劇で観たような商家に見えるのは、「幕?」が掛けられている為ですが、写真の見た目より、現物は「かなり傷んで」います。それなりに、持ち主が手を入れてました。


ここは町の中心部より少し離れたところにあり、以前に来たときは、舗装工事でアスファルトが剥がされ、地面が露出していて「寂れ感」がとても良かったのです。
電柱がなければまさに「江戸時代」でした。

写真の奥に見える「蔵」のアップが下の写真です。


「寂れ感」を越ています。、漆喰は剥がれ、土壁が露出し、屋根は崩れかけ、「朽ち果て中」です。こういうのが「好き」なんですね。


これなんですが、部外者の勝ってな意見としては、修理した「塀」と門の「時代差」が気になってしまいます。「塗装」で時代を付けて貰いたいなぁ~。何て思ったりして。


ここは現役の「造り酒屋」です。私としては「ナンバーワン」の建物です。中に売店があり、小売りもしています。

わたしは「日本酒」は「甘くて」飲みませんので、買ったことはありません。焼酎が専門です。「複雑」な「味」や「香」りのしない、安い焼酎が好きなんです。

建物が、その昔(50年ほど前)、母の実家の近所にあった「醤油屋」さんの雰囲気にそっくりで懐かしいのです。


鉄道が廃止され、時代から取り残され消えかけた町。そんな「うらぶれ感」が漂う風景に惹かれています。

それでは、おやすみなさい・・・・・・ 




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お疲れさまでした「青島幸男」さん!

2006年12月22日 | その他

「青島幸男」が亡くなりました。
彼の事を知ったのは、高校に入った頃です。その当時、「青島」は「ヒーロー」でした。

「カッコ良かった」のです。これまでに出会ったことのない存在でした。「努力」とか「苦労」とか、無縁に見えたのです。

才能だけで生きている。何をやっても「簡単に成功してしまう」そんな風に見えたのです。

映画「鐘」を観ました。生まれて始めての「ロードショー」でした。有楽町?、日比谷?、丸の内?、そんな都心の映画館でした。長い階段が脇にあった記憶があります。友達と数人で行ったと思います。

その時、舞台挨拶に来た「青島」を「生」で見ました。小柄なのに驚いた記憶があります。映画を見終わり、長い階段を降りて行くと、途中に青島が居て、数人の人と立ち話をしていました。

我々は、「彼」の存在に気が付かない素振りで、その脇を通り過ぎました。視線を向けたり、話し掛けたり、そんな大胆なことはできませんでした。

映画は、お寺にあるような「鐘」をトラックに積んで、走っている情景しか覚えていません。内容はまったく記憶にないのです。兎に角、映画まで作ってしまった青島に「凄い」と思ったのです。

歌、コント、映画、小説、役者、すべて大成功。
参議院議員に当選し、佐藤栄作首相に対する「財界の男妾発言」で喝采を受けました。

しかし、彼自身が、想定していなかった、東京都知事に当選し、「ファン」の「期待」大きく裏切り、その後は、第一線から消えていきました。

彼は、時代の批評家として天才でした。しかし、権力者の立場に回ったとき、戸惑い、悩み、混乱し、自信を失いました。何もできなくなり、役人の操り人形になることを自ら選択しました。

知事に「間違って」当選していなければ、批評家としてその後も長く、世の中に貢献していたと思います。


知っている「有名人」が「亡くなって」行く、そのことに「寂しさ」を感じる・・・・・。今までにないことです。

青島と言えば、クレージーキャツです。
ハナ肇、安田伸、石橋エータローがいなくなり、残るは、植木等、犬塚弘、谷啓、桜井センリの4人になりました。

「クレージーキャツ」の映画は、「底も抜け」、「天井も抜け」、すべてにおいて「突き抜け」、「通り越し」た、不思議な映画でした。


「青島幸男」「クレージーキャツ」不思議な世界を見せてくれました。

青島さん、面白かったですよ! お疲れさまでした。   

     おやすみなさい。。。。。。。  

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