歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“ちあきなおみ”は霊媒師?

2011年06月29日 | テレビの話し
昨日の続きです。

昨日は、“石川さゆり”の「天城越え」での“正面睨み付け”ポーズから、“ちあきなおみ”の、“おいでおいで”の「夜へ急ぐ人」を思い出し、二人とも、芸の興味が歌から芝居へと、すこしずつ移っていく過程がとても似ていると書きました。

番組のなかで、最近、「飢餓海峡」という、一人芝居をしている話しが出て、その舞台の一場面が流れ、“石川さゆり”は、「歌芝居」と呼んでいると、楽しそうに、生き生きと、語っていました。

その“歌芝居”なのですが、“ちあきなおみ”の一人芝居に、似ているのです。“ちあきなおみ”は、引退する頃は、歌よりも、芝居に重心が移って行きました。

“歌は演じるように、台詞は歌うように”に見たいな言葉がありました。歌を演じていると、段々と、芝居にはまってしまうようです。

彼女の曲は後半、ドラマチックになり、劇的になり、唄っていると云うよりも、まさに演じていると云った歌い方に変わっていき、そして、いつしか、一人芝居に辿り着いたようです。

ホントに怖い歌を、怖い表情で唄っていました、まさに、“霊媒師的”な、特異な個性の歌手でした。

感情表現が過剰で、演じることに酔っている、まさに、観客を忘れた“一人相撲”、いや、“一人芝居”でした。

自分の唄いたい歌、自分のやりたい舞台、そんなことが可能になると、そうとう危険なのです。観客の“聞きたい・観たい”と、ズレが生じて来るのです。

「ちあきなおみ」は、そのへんのズレが嫌になって消えて行ったような気がします。ですから、さゆりちゃん、歌芝居は、ホントに“ほどほど”にしないと・・・・・・、とても心配です。

観客は、むかし懐かしい、想い出の曲を聴き、懐かしいあの頃に思いを馳せるのですが、唄う方は、単なる懐かしい存在ではなく、いま現在を生きている訳で、あたらしい事もやりたいのです。ムズカシイのです。

それで、なんだっけ?

兎に角、女性の演歌歌手は、40代の頃から、いろいろとムズカシクなり、50代で、ほとんど“懐かしい存在”になり、60代で、ほとんど過去の人になってしまうのです。

“石川さゆり”も、わたしにとって、最近まで“さゆりちゃん”だったのですが、何か、ついに、とても、“ちゃん”とは、呼べない現実を、先日の“ショータイム”で見てしまった気がして、ちょっぴり寂しい気持ちになったのです。

この際です「ちあきなおみ」のように、そして「原節子」のように、やりたい事だけやって、引退を宣言することなく、いつの間にか伝説になる・・・・・・・。

いや、“さゆりちゃん”は、まだ、まだ、現役バリバリで、これからもいけます。スタジオ撮影の際は、前日の睡眠に、化粧に、特に照明には、十二分に気を付けて下さい。

「ちあきなおみ」の筈が、「石川さゆり」で終わってしまった。


きょうも、ホントに暑い!


それでは、また明日。


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“石川さゆり”は巫女ですか?

2011年06月28日 | テレビの話し
昨日は菩薩で、今日は巫女です。

“美空ひばり”が菩薩と云ったのはわたくしですが、“石川さゆり”を巫女と云ったのは、あの“なかにし礼”です。

先日、NHKBSの“ショータイム”で石川さゆりを採り上げていたのです。その時、ゲストの“なかにし礼”が、石川さゆりを前にして発言したのです。

石川本人は、その発言に対して、どう反応すべきか迷ったようで、結局、感想も、表情の変化も無いままに、話題は他に移りました。あの世と、この世を繋ぐ、霊媒に例えられても、頭の中はかなり混乱したのだと思います。

昨日の“ひばり”が52歳で亡くなり、そして、“さゆり”は今年の1月で53歳になり、“ひばり”を越えました。「津軽海峡・冬景色」が1977年で、その時19歳でした。

50代の歌手は“むずかしい”のです。ひばりもいまにして思えば、あの歳で終わって良かったのかも知れません。

それで、“石川さゆり”なのですが、画面でアップの映像を見て、えッ!、と、驚き、そんなァ、と、小さく呟いてしまいました。

ステージでのアップよりも、スタジオでのアップは表情がより鮮明に映るのか、目尻の皺、口元の皺、とても、とても、なのです。53歳を“隠しきれない”のでした。

去年の10月15日に

“最近では、「石川さゆり」が女性演歌歌手では、ダントツでナンバーワンだと思います。“天城越え”には強烈なインパクとがあります。艶っぽいイイおんなになりました”

と書いたばかりなのですが・・・・・・。

この日の“さゆり”は、画像の鮮明度とか、照明とか、化粧とか、そんな違いだけではなく、いくらか痩せていました。以前よりも顔全体が細く、頬に疲れが見えました。ダイエットをしているのか、50代のダイエットは顔の張りを失い、老け顔になる危険性があります。

女性は、“ぽっちゃり”で、“ふくよか”がイイのです。まさか、歳の所為ではないと思うのですが、どちらにしても心配です。

50歳代は、とても“ムズカシイ”のです。演歌は、男と女、出会いと別れ、色と恋い、寂しさ、儚さ、恨みと空しさ、50歳の頃から、だんだんと、実年齢の生活実態が、色恋の世界と遠ざかって行くのです。60・70代では絶対無理になります。

30代後半が頂点で、しばらくして、すこしずつ、すこしずつ、下り坂に入るのです。後は、過去の歌を、当時のファンが支えて行くのです。新しいヒット曲は無くなって行くのです。“もう、ひと花”はなかなか咲かないのです。

あの“ひばり”が52歳で亡くなりました。最後のヒット曲は、亡くなった年に唄った「川の流れのように」でした。

“都はるみ”最後?のヒット曲「小樽運河」は90年の復帰第一作で、“36歳”のときでした。

“八代亜紀”最後?のヒット曲「雨の慕情」で1980年で、“30歳”のときでした。この年の紅白で2年連続の大トリを務めています。前年は「舟唄」がヒットしての大トリでした。

それで、“さゆり”の最後かも?知れないヒット曲「風の盆恋歌」は1989年で、31歳の時でした。この年の紅白で初の大トリを務めています。

それでも、高齢化社会ですし、“石川さゆり”ですから、これからも、色恋でヒット曲が生まれるかも知れません。

それでも、やっぱり、「風の盆恋歌」のような、色恋と云っても、過去を辿り、思い出し、懐かしむ、“人生の盛りをふり返る的”な曲の可能性が高いと思います。

それと、気になったのは、皺と年齢と、もう一つ、最近の「天城越え」で、歌い終わってのポーズです。

女の、愛への、男への、激しい、執念とか、情念とか、そんなことを表現しているのでしょうが、正面を、見据えると云うか、睨み付けると云うか、虚空を凝視すると云うか、その眼、その表情を観ていて、ハッ!と、したのです。

それは、“ちあきなおみ”です。あの“おいで、おいで”の、「夜へ急ぐ人」の、“ちあき”を思い出したのです。旦那が亡くなった1992年、45歳の時に芸能界から消えて行きました。

二人とも、芸の興味が歌から芝居へと、すこしずつ移っていく過程がとても似ているのです。

それで、もしかして、なのですが・・・・・・。

今日のところは・・・・・・・。

この続きは、明日ということで。


それでは、また明日。


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美空ひばりは“菩薩”でした!

2011年06月27日 | テレビの話し
昨日は、「美空ひばり」を観てしまいました。

「美空ひばり」がテレビに登場する季節なのです。平成元年(1989年)6月24日、52歳でこの世を去ったので、今年は23回忌になるのです。

そんなことで、NHKも4時からと6時半からの二部構成で大変な力を入れたように見えます。でも、しかし、時間的にはゴールデンでもなく、BSでしたから、微妙な感じもするのです。再放送は地上波で平日の夕方あたりに放送するのでしょうか。

それで、やっぱり、美空ひばりは凄かったです。

初期の、東京キッド、リンゴ追分、ひばりの佐渡情話、間がなくて、晩年の、川の流れのように、愛燦々、みだれ髪、この辺りが好きです。

ひばり最大のレコード販売枚数を記録したのは“柔”だそうですが、この手の曲は、とても、どうも、ねェ~・・・・・・・です。

それで、観ていて、聞いていて、もしかして、これは、きっと“美空ひばり”は・・・・・・。

観衆を見回し、手を広げ、頷き、ほほえむ、あの表情は・・・・・・、そして、その特異な衣装、そうだぁ! これは、“菩薩”だぁ!と、思ったのです。

そうです。観世音菩薩です。観音様です。観衆は、ひばりの歌を観て聴いて、そして、悩み、嘆き、悲しみ、苦しみから、解き放たれ、一瞬の極楽浄土を観ているのです。

彼女の歌声は人間技ではありません。そういう、ことだったのです。そう云えば、むかし、むかし、あの“竹中労”が、そんな菩薩説を言っていたような気がしてきました。

戦後の混乱期、大衆のこころを、ぎゅっと、鷲づかみにしたのは“美空ひばり”でした。

社会党も、共産党も、総評も、新興宗教も、大衆のこころを掴めませんでした。美空ひばりには勝てませんでした。それは、美空ひばりが“観音さま”だったからです。

昭和も終わり、美空ひばりも終わり、すべてが、終わったままで、いまは、なにも、始まっていない? それとも、おわりの始まりですか・・・・・・。

21世紀に入って10余年、そして、福島で原発が爆発し、放射能汚染が日本全国を、世界を、覆うことになりました。

窓の外が暗いと、こころも暗くなります。


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三河島あたり

2011年06月24日 | 東京の風景
原節子・・・・・・・・・・・・・、

小津安二郎・・・・・・・・・・・・・、

『東京物語』・・・・・・・・・・・、

同潤会三ノ輪アパート・・・・・・・・・・・・、

三河島あたり・・・・・・・・・・・・・・・・、

















三河島あたり、でした。



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同潤会三ノ輪アパートあたり

2011年06月23日 | 東京の風景
先日の、原節子、小津安二郎、東京物語で

思い出しました

同潤会三ノ輪アパート

今は、もう、取り壊されてしまいました

2004年の撮影です

























同潤会三ノ輪アパートでした。


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エネルギー政策の大転換で解散総選挙!

2011年06月22日 | 世間話し
今日も暑い!

温度計は30度になっているぞォ!

私の部屋は2階、1階は2階よりも涼しいので、温度計を見ると26度、4度も低い。

ホントか? と、思い、1階と2階の温度計を、只今、交換してきました。1階の温度計は知り合いから貰った“カナダ”のおみやげ、2階の温度計は薬屋さんで貰ったオマケ、どちらも、信頼性に?なのです。

まぁ、温度計で確認するまでもなく、一階と二階には、それなりの体感温度に差があることは確かです。

それにしても、政治が、政局が、とても暑苦しい! マスコミも、野党も、与党も、菅降ろしの一斉攻撃で騒がしい。

こうも、全員が打ち揃って、辞めろ!辞めろ!の大合唱になると、どうも、何だか、引き摺り降ろそうとする連中の、思惑が、大義名分が、怪しいと云うか、何かくさいと云うか、臭うのですよ。

政治的に無能で、人格的にも欠陥があり、震災復興の遅れは、すべて、菅の政治的能力と人格的欠陥が原因である。そんな欠陥政治家が、辞任を表明した後も、いつになっても辞める様子が見られない、これでは、政治は前に進まないと、云っています。

がァ。ホントに、ホントに、政治の。震災復興の。停滞を全て、菅の個人的な資質にあると、丸投げしていいの?

辞めろ!辞めろ!と大合唱する、野党の政治家も与党の政治家も、政治的能力や政治的こころざしは、菅直人と、それほどの差は無く、みんな“ちょぼちょぼ”に見えます。

そのことは、菅も、その他の政治家も、国民も、それなりに、判っているのが、寂しく、悲しいのです。

1990年代にバブルが弾け、財政赤字、少子高齢化、政治も経済も低迷し、世の中は“お先真っ暗的”な状況での、大地震で、大津波で、原発爆発で、放射能汚染で、泣き面に蜂状態。

空白の20年が、空白の30年、空白の40年になるの・・・・・・。

バブル以降、ここ最近の政治は、首相が頻繁に交代して来ました、これは、政治家の能力低下したからでしょうか?

バブル以前の政治家と、以降の政治家と、そんなに変わりは無いと思います。全ての政策は、政治家が立案するのではなく、官僚が立案し実行していたのです。と、云うことは、なのです。

行政府の長、総理大臣は、全て“良きに計らえ”だったのです。総理大臣は、見た目で、それなりに“すわりが良い”政治家がなっていたのですよ。

え~~と、それで、何だっけ? もう暑い! 

今、アイスノンベルトを頭に巻いて来ました。これで、すこし、頭を冷やして、続けます。

え~~と、それで、辞めろコールに追い詰められ、“首相になりたかっただけ”と云われ、“無能”と云われ、“嘘つき”と云われ、菅サンは、もう、切れてしまったようです。

ヤケクソ状態で、興奮状態で、兎に角、このままでは、首相として歴史に“汚点を残す”と考え、兎に角、名を残す事に眼の色を変えたようです。

眼の色を変え、俄然、元気を出し、何をするか判らない状態の、追い詰められたネズミ状態の菅サンに、政治家も、官僚も、マスコミも、危機感を持ち始めているようです。

そうです。追い詰められたネズミが、脱原発の法制化、再生可能エネルギーの促進法の可決、発送電分離の法制化・・・・・、エネルギー政策の大転換で、戦後政治の大転換を、仕掛けてきたような噂が、どこからともなく、聞こえ始めて来たのです。

菅の延命策でも、動機が不純でも、何でもいいから、石油、石炭、核燃料等の、海外依存政策から、再生可能エネルギーによる“自立政策”を目指すべきです。

エネルギー資源の年間輸入金額は、23兆円とも云われています。そんな膨大な金額を海外に支払うよりも、その何十分の一を、再生可能エネルギーの、研究、開発、普及に振り向けた方が、とても、とても、とても、有意義なのです。

エネルギー政策は、政治的自立、経済的自立、軍事的自立、外交的自立、“国家の独立”に、安全保障に、とても、とても、重要な政策です。

兎に角、菅サン、動機はどうでも良いですから、エネルギーの“自立か?従属か?”を政策に掲げての解散総選挙を実施するなら、私は支持します。

“こんな場合に”と、云う奴らも居ますが、“こんな場合だからこそ”なのです。

菅直人さん、あなたは、もう、失うものは何も無いのですから、ここは、一発、イタチの最後屁でも、何でもいいですから、歴史的大転換に挑んで下さい。

これに成功すれば、普天間の辺野古移転とか、嘉手納統合なんて、とても、とても、とても“ショボイ”話しとなり、米軍の日本領土からの全面撤退の道も開けます。

菅さん、この政策は、政治生命を賭ける闘いです。いや、もしかしたら、生命そのものを・・・・・・・かも。

負ければ、田中角栄のように、塀の中に、でも、しかし、命を賭けても惜しくない、もう、失うものは何も無いのだから・・・と、あなたは、そう、思いつつあるのでは?

まぁ、動機や、理屈は、後で、どうにでも、説明が付くのです。兎に角、エネルギー政策の大転換を掲げて、解散総選挙です。

う~~ん。このクソ暑い日に、クソ暑い話しを、熱く語ってしまった。

それで、先ほどの、温度計ですが、入れ替えても、温度に変化はありませんでした。よって、二つの温度計は正しく計測していたことににります。

それにしても、暑い! 現在室温は34度です。



そして、現在の空間線量は 0.09μSv/h です。


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孫と一緒に昆虫採集

2011年06月21日 | その他
先週の土曜日に、孫がひとりで“お泊まり”でした。

小学校の2年生ですから、“ひとりでお泊まり”は、もう、まったく、問題ないのです。

土曜日は、牛久沼水辺公園で昆虫採集です。家に来る途中の車の中でも、昆虫!、昆虫! と、大変でした。バッタも、カマキリも、手で捕まえられると云ってました。


捕虫網を、振り回し、駆け巡ります。大変なパワーです。昆虫大好き少女なのです。


捕虫網に虫かごを持って、『これで“麦わら帽子”を被ったら夏だねェ』と、云った時の笑顔は最高に素敵でした。うっすら日焼けした顔は“夏の少女”です。


白鳥が“スキナ”を食べるのを発見し、バーバと一緒にスギナを夢中で採ります


ちょっとだけ腰が引けているところが、とても、とても、可愛いのです。


バシャ! バシャ!と、音をたて、賑やかに、スギナを食べていました。


いつの間にか、こんなにいっぱい白鳥が集まって来たのでした。


久しぶりの昆虫採集でした。成果は、モンシロチョウが二匹、小さなバッタが二匹、大きなコオロギの仲間が一匹、オレンジと黒の小さな蝶が二匹でした。

虫かごの中に、スイカ、キャベツ、アジサイの花を入れてやりました。翌日も、全員元気でした。

孫も、私も、大満足の“プチ夏休み”でした。

本番の夏休みには、待望の弟が生まれ、お姉ちゃんになるのです。


ホントに、ホントに、楽しかったァ! 


以上。じぃじぃバカでした


それでは、また明日。



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“原節子を何となく” その⑨ “晩春”壺のツボ

2011年06月20日 | 原節子

昨日の続きです。

今日まで“原節子 あるがままに生きて”を読みつつ、綴ってきたのですが、最終回の本日は、本の方は終わりとして、本とはまったく関係なく勝ってに綴ることにします。

それで、本日も、昨日の『東京物語』に引き続き、大胆仮説の第二弾、『晩春』の“壺論争”を採り上げ、わたくしも、論争の一画に加わり、小さな一石を投じようと思うのであります。

“小さな”何て控え目な表現をしましたが、何を隠そう、本音としては、過去の論争を蹴散らす、堅い、堅い、決意と確信を持って、新たなる解釈を展開します。

これを読んだ人は、頭を掻きむしり、眼から鱗がパラパラと落ち、ナルホド!そうかァ!と膝を叩き、手を叩き・・・・・・、何て結果を妄想しつつ、静かに、話しを進めたいと思います。

それで、“晩春の壺論争”ですが、結婚を決めた娘と父親が京都に旅行し、


旅館のシーンで、


笠智衆と原節子が枕を並べて眠っていると、一瞬床の間に置かれた壺が写り込むカットの意味をめぐるものです。


このカットを、

【アメリカの映画監督ポール・シュレイダー】は、これを父と別れなければならない娘の心情を象徴する「物のあわれ」の風情であるとの解釈。

【映画評論家のドナルド・リチー】は、壺を見ているのは原節子であり、壺を見つめる原節子の視線に結婚の決意が隠されているとの解釈。

【蓮實重彦】は、①父と子とはいえ性別の異なる男女が枕を並べて眠っていること自体が例外的である。②すべてを白昼の光の中に鮮明な輪郭を持って描いてきた小津が、月光によって逆光のシルエットになっている壺を描いたことも例外である。③それらから父と娘の間に横たわる見えない性的なイメージを表現している。

【映画評論家の岩崎昶】父娘の会話が旅館の寝床の上で交わされていることに注目し、この旅館のシーンを転機とし、父に対して性的コンプレックス(エレクトラコンプレックス)を抱いていた娘が、父から性的に解放される名シーンであるとしている。

と、云うように、娘の心理描写であり、そして、それが性的か否か、壺を見ているか否かという論争なのです。

先ずは、娘の視線が壺を見ているか、見ていないか論争ですが、これは論争にもならないと思うのです。


娘が、壺に視線を送るカットは有りませんし、送ったように思わせるカットもありません。


娘の視線の先は父親です。


父がもう寝るかと云った後、娘が部屋の明かりを消した瞬間、月明かりに照らされて、庭の竹の影が、白い障子に浮かび上がるのです。


この光と影の美しさ、日本的な美意識です。白い障子、竹の陰影、このカットは、日本的な美意識を象徴するカットです。

父を思いやる娘、娘を思いやる父、この関係も日本的なものです。


敗戦後、すべてが西洋化する傾向に対して、あらためて日本的なものを、日本的な価値観を、見つめ直し、再認識するためのカットなのです。戦争に負けたからと云っても、欧米の文化にまで、降伏した訳ではありません。


日本人の美意識は、明るく輝き、眩しい世界よりも、“陰”とか、暗い“闇”とか、陰影にあるのです。

それで、“谷崎潤一郎”なのです。彼が書いた有名な『陰翳礼讃』なのです。日本建築における、陰翳の美しさ、陰翳の取り入れ方、陰影の味わい方を語った随筆です。

谷崎と小津は同時代で、それなりの親交もあったようですし、小津も当然この『陰翳礼賛』を読んでいた筈ですし、読むまでもなく、和室の美、白い障子の美、灯りを消した部屋、、月明かりに映し出される、風にそよぐ竹の美しさ、日本の美意識なのです。

父と娘の想い、月明かり、風にそよぐ竹、すべて日本的な美意識なのです。日本の情感なのです。ものの哀れなのです。

それで、“壺”なのですが、は、確かに、心理学では壺を女性器の象徴として語られることも、あるそうですが、この壺は、あくまでも、暗い闇の部屋で、白い障子に映し出される情景に、花を添える“小道具”なのです。

普通、旅館の部屋には、花を生けた花瓶が付きものです。花を生けずに花瓶だけと云うことはありません。でも、しかし、このカットでは、花瓶に花は邪魔なのです。花を添える小道具ですが、花は添えないのです。

“主役は白い障子に映る陰翳”です。

と、云うことで、“壺論争”は、小津監督の意図から、ツボを外しているのです。

日本的な美意識の、“白い障子に映る陰翳”から場面転換した次のカットは、


これも、日本的美意識、龍安寺“枯山水の庭”なのです。日本的美意識のカットが続くのです。

主演した、原節子も、

『新鮮といっていいのかしら。今までの日本映画に見られなかった古い日本文化のすばらしさが感じられますものね。「晩春」は今までの小津さんの作品とちょっとちがうのではないかしら。形式的には、あまりかわっていないと思うんだけど、内容的には日本的で、そして高いところを狙っていられたように思うんです。それが終戦直後とちがって、日本人としての自覚に目ざめかけた大衆にうけたのね』(今村太平著『映画入門』社会思想研究会出版部1955年)

こんなことを語っています。

と、云うことで、壺論争は、ツボを外していたと云う結論になります。まぁ、当然、これは、私の勝ってな結論ですけどね。でも、しかし、かなり・・・・・・なのです。

以上で、“原節子シリーズ”は終了します。先週の金曜日に更新の予定が、週始めの月曜が最終回になってしまいました。いろいろあったのです。

それでは、また明日。


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北区立北中学校・桐ヶ丘あたり その②

2011年06月17日 | 東京の風景





























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“原節子を何となく” その⑧ 東京物語は家族の崩壊ではなく変遷です!ねェ?小津さん!?

2011年06月16日 | 原節子

昨日の続きです。

本日も、『原節子 あるがままに生きて』(貴田庄著 朝日文庫 2010年10刷)を読みつつ、綴っています。

それで、昨日予告した『東京物語』なのですが、この作品は小津安二郎監督にとっても、原節子にとっても、誰が何と云っても、代表作なのです。世界の小津、世界の“東京物語”なのです。

です。がぁ~、しかし、その代表作、世界の“東京物語”に対して、このわたくしが、何と、不遜にも、大胆にも、一言、苦言?を呈すると云うか、疑問?を投げかけると云うか、イチャモンをつけると云うか・・・・・・。

それで、先ずは、小津監督自身が“東京物語”について、こんな風に、とても短く、

『親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ。ぼくの映画の中ではメロドラマの傾向が一番強い作品です』(『キネマ旬報』小津安二郎〈人と芸術〉)

と、語っているのを、43章『東京物語』で見つけたのです。それで、問題なのは前段で“親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ”の部分なのです。



テーマとしては、家族とか、親と子とか、夫婦とか、絆とか、老いとか、死とか、別れとか、そんなテーマを、戦後の経済成長の中で、移り変わっていく様を描いたとの解釈が、一般的だと思います。

問題は、小津が大上段に“日本の家族制度がどう崩壊するかを描いた”と云うところです。日本の“家族制度”は、『崩壊』したのでしようか?

尾道の地方公務員の一家は、長男は医者になり東京で開業、次男は戦死、三男は大阪で国鉄の職員、長女も東京で美容院を経営、次女だけが尾道で教師をしていて両親と同居。



5人兄妹は、成長して、両親の元には三女だけが残り、一家は“バラバラ”になる。老いた両親は子供達に逢いに東京に出て来る。しかし、子供達は生活に忙しく、両親を快く持てなすことはなく、次男の嫁だけが二人を、快く迎えてくれるのであった。

それで、これが家族制度の崩壊なの?と思うのです。子供が成長し、経済的に自立し、結婚し、子供をつくり、親となり一家を形成して行く、これは、家族制度の崩壊ではなく“変遷”であり、いつの時代でも、くり返されてきたことです。



“崩壊”ではなく、笠智衆と東山千栄子の作り上げた家族は役割を終えたのです。育てた子供達は、次世代の家族を作り、その子供達も、いつの日にか・・・、そんなくり返しなのです。



笠と東山の老いた両親からの視点から見ると、苦労して育てたのに、子供達の扱いが冷たく感じるかも知れませんが、子供達は自分達の新たな家族を作り上げる為に、それなりに苦労しているのです。

子供が親になると、両親の存在は、自分の子供よりも小さくなるのです。笠と東山も、自分達が若かった頃、両親達をどう扱ったのかと考えれば、それなりに判るのです。



他人である次男の嫁が、自分の子供達よりも、快く持てなしてくれたと“感じた”のは、それは、嫁と云う“他人を前提”としているからです。次男の嫁、原節子には子供もなく、家庭もありません。まぁ、新たに家庭をもっていたら訪れることはあり得ません。



そんな、ことで、東京物語で描かれていたは、日本の、戦争直後の、家族の、変遷であって、“日本の家族制度の崩壊”ではない!・・・・・・、と思うのです。

だからと云って、映画そのものの評価とは、とくに、関わりはありません。確かに、とても、しんみりで、ゆっくりで、じっくりで、哀れで、感動的で、すばらしい映画だと思います。

それと、驚いたのは、この東京物語の撮影に入る直前に、原節子の実の兄である、カメラマンの会田吉男が、原の主演で、義兄の熊谷久虎が監督した『白魚』の撮影中に、列車に轢かれて死亡していたのです。



そんな悲しみの中での撮影だったのです。この列車事故で兄を失ったことは、その後の引退に繫がる、理由の一つだとも云われているそうです。知りませんでした。

本日は、世間の評価を、監督の意図を、大胆不敵にも、否定してしまいました。でも、随分前に東京物語を観たあと、世間の評価を、見たり、聞いたり、読んだりして、何か!変!と、胸の奥で抱いていた疑問を、ココにこうして世間に表明して、スッキリしました。

まぁ、そんなことでした。

“原節子 あるがままに生きて”を、読みつつ、綴るのは、切りよく今週で終わる予定です。 

今日も、午前中はおふくろを、“痒い痒い”で、いつもの皮膚科への通院で、午後の更新となりました。

それでは、また明日。


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