歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

白内障2回目の手術

2009年10月29日 | その他
去年の12月に右眼、今回は左眼の手術を行いました。

手術をしたのは私ではなく、87歳になる母ですけどね。

29日の朝8時15分に病院到着。入院手続きの受付は8時半なので、窓口で15分ほど開始を待っていました。早く受け付けを済ませば、手術の順番が早くなると思っていたのです。

一番に入院手続きを済ませ、次に眼科窓口に行き、手術の手続きを行ったのですが、結局、手術の順番は6人中3番目でした。受付の順番と手術の順番は関係なかったのでした。

前回の手術もそうでしたが、兎に角、待つのです。只、ひたすら待つのです。簡単な検査と診察を終えて、入院病棟に移動し、病室に入るまでまた待つのでした。

入院病棟は、前回と同じく小児科の病棟です。今回は個室が空いていなかった為、二人部屋ですと云われたので、別の患者と相部屋と思っていたら、二人部屋を一人で使用するとの事でした。

二人部屋を一人で使っても、個室料金ではなく、二人部屋料金で前回の半額でした。これには助かりました。

それにしても、旅館は一泊料金ですが、病院は一日料金で、一泊すると2日分の料金をとられるのです。

1日目は入室が11時過ぎで、それまで別の入院患者がいた筈で、2日目は10過ぎに退院ですから、11時過ぎに別の患者が入院してきた筈です。

と云う事は、1部屋で1日に2人の入院患者から1日分の料金を取っている事になるのでは、ここの処の計算はどうなっているの?

まぁ、細かい事は・・・・・・・、最近の病院の経営状態は“小泉カイカク”でかなり厳しいようですから、いろいろとあるのでしょう。

それで、手術の方ですが、病室から手術室に向かったのが3時15分頃、戻って来たのが3時50分頃でした。

私は、4時過ぎに帰宅。外に1日居るのはかなり疲れます。そんな事で、29日の事を、今日、11月2日に書いている訳です。

日記として、記録として、書いたのであります。まぁ、ブログですから、そういう事なのであります。

それでは、また。




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水海道“おもてなしと羽田美智子”と“ウェルかめ”で“チャーリー浜”

2009年10月28日 | 水海道の風景
昨日の続きです。

お茶を飲み一休みして、294号線を横断して水海道市街に入ります。いつもは354号線から市街に入っていましたので、初めてと云う事になります。

294号線から商店が並ぶ通りを走ります。懐かしさと、寂しさと、侘びしさと、いろいろ漂う、田舎町の宿場風景です。


黒塀に、白漆喰の土蔵。


ここで、あの看板を眼にして、以前に歩いた市街の記憶と繋がりました。“千姫おもてなし館”の文字。


「水海道は千姫と“なごみ”と羽田美智子」だったのですが、最近は“なごみ”から“おもてなし”に変わったのです。

信号を左に曲がり、百㍍ほど行った右側に“ひっそり”と“千姫おもてなし館”があります。

この写真は今年の7月に撮ったものです。逆方向から撮ったので“おもてなし館”が左側になっています。右側の“マスダ”とある4階建てのビルに、一年ほど前まで“千姫なごみ館”がありました。


こちらが、“なごみ館”から数十分の一に縮小された“おもてなし館”です。小さくなっても、それなりに頑張っているのです。


話は戻って、旧街道風の通りを直進し、354号線を突っ切り真っ直ぐ進みます。


学校が見えて来ました。


茨城県立水海道第二高等学校です。オゥ!何と云う偶然でしょうか、ここは、あの“羽田美智子さん”の母校では“あ~りませんか?”


“…じゃあ~りませんかぁ”と云えば、“ごめんくっさ~い”、そして“何処へ?”の懐かしいギャグ、そうです!あの“チャーリー浜さん”です。

“ウェルかめ”で、久々に茶の間に登場です。“怪しい無国籍料理?居酒屋”のマスターです。いい味だしています。

話が何処かへ逸れてしまいました。

新車の6段変速は快調に水海道を走っています。

まだまだ続きます。


それでは、また明日。


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小貝川土手を遡り“羽田美智子さん”の水海道へ

2009年10月27日 | 水海道の風景
今日の天気は台風一過で晴天です。

台風と云うと“台風一過ハダカで洗濯”の言葉を思い出します。台風の翌日は洗濯日和なのです。

久しぶりの晴天、それで午前中、自転車を走らせたのですが、行きは向かい風が強くギャは3速で漕ぎ、帰りは6速で快調に飛ばしました。しかし、追い風だと無風状態に近く、風を切る楽しみが味わえないのです。

それで、先日の日曜日(18日)に水海道へ行って来たのです。現在は石下町と合併して常総市なのですが、どうも、ピント来ないのです。

そう何です。となりの坂東市も、そして、筑西市とか、桜川市とか、もう、いったい、何処のことやら、何処の町と何処の市がくっついたのか、まったく判らなくなるのです。

話は、水海道です。一応いまでも、常総市の中に水海道の地名は残っているのです。学校とか、幼稚園とか、保育園とか、でも、常総私立水海道小学校と云うのは、どうも、しっくりこないのです。

まぁ、しっくり、しょうが、しまいが、私の勝手なのですが、それで、その日は、小貝川の土手伝いに右岸を水海道に向かってさかのぼりました。

靄っていました。


TXの鉄橋です。


農家?の庭先に色づく柿の実。秋です、秋の色です、秋の風景なのです。


沈下橋です。時代劇の撮影もできそうです。


昭和の匂いがします。外壁と窓枠の色使いがとてもモダンです。塀の色は、もう少し考えてほしかったです。


ススキとセイタカアワダチ草、これも秋です。


水道橋の鮮やかなブルー。眼に滲みます。


右岸から、対岸に渡ります。ここも沈下橋。


休日で、魚釣り。


土手を下り、294号線に出ます。自動販売機でお茶を補給。


294号線の車の流れに眼をやりつつ、お茶を飲み一休み。

さぁ、294を渡り水海道の市内に入ります。こちらから入るのは、初めてなのです。水海道と云えば、“千姫”と“なごみ”と“羽田美智子”なのです。

それで、“ウェルかめ”は、良さそうです。ふつうの演出で、ストーリーもわかり易いし、お母さんの“羽田美智子さん”も、お父さんの“石黒賢”も、娘の“倉科カナ”もイイです。でも、お祖父さんの“芦屋小雁”の芝居は、ちょっとばかり“臭い”です。

兎に角、初めての方角から市内に入ります。

それでは、また明日。




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休日の工場街はしっとり寂しい?

2009年10月26日 | 街の風景
今日は朝から雨です。

この冷たい雨は一日中つづくようです。

朝から雨、そして、月曜日、通勤していた頃、これは、もう、とても最悪の組み合わせでした。

でも、今は、のんびり外の雨など眺め、コーヒーなど啜っていられるのです。

雨の月曜日、しっとり寂しい風景が似合います。

寂しい風景と云えば、休日の工場街です。


灰色スレートの工場。丁度いい大きさの工場です。


工場街に隣接する住宅街。これがまた、とても寂しいのです。


赤茶けた錆びの浮く鋼鉄製のバケット?


何に使われ? 何を造っているの?


工場街の端にある資材置き場? 看板に“テトラ”の文字。


こんな処に、テトラです。あの海岸にある“テトラポット”の“型枠”のようです。


休日の工場街です。


あの有名な清涼飲料の配送車が並んでいます。ここは修理工場?


オッ! 建設機械?


まだ現役なのかも、修理待ち? 特殊な専用機?


何か、地面を“掻きむしる”ような装置が後ろに装着されています。


先日、ブラブラした土浦の先、“神立”の工場街でした。

暗く、冷たい雨の一日です。

書き終えた後は、雨の日にピッタリな、先日届いた“下山事件自殺説関係”の本をじっくり読み、あの時代にタイムスリップです。


それでは、また明日。





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利根川土手いろいろな風景

2009年10月23日 | 街の風景
昨日の続きです。

千葉県は印西市辺り、利根川土手を上流に向かって、快調にペダルを漕いでいます。

一目でわかる水位の危険度表示です。“水防団待機水位”には、そうか!そう云う水位もあるのかと、ひとり感心して眺めておりました。

一目でわかると云っても、住民のみなさまは“氾濫危険水位・避難判断水位”に至っても、じっくり眺めていては、とても危険だと思います。

“木下河岸跡”だそうです。当然、河の岸の跡ではなく、河岸(かし・・・船の荷物の積みおろしをする岸)のあった跡なのです。

でも、“跡”と云う事は、何らかの“痕跡”があるから、跡なのですが、じっくり辺りを見回したのですが、河岸をイメージさせるそれらしい“跡形”は見つかりませんでした。

“印西八景利根川の朝霧”とあります。


この赤茶色の建物、排水機場だと思うのですが、20年ほど前に、始めて海外旅行で成田空港に向かうとき、この土手下の、この道の、この建物の前を通過した記憶があるのです。


寂しく、細い、裏道伝いに、華やかな国際空港へ向かった記憶。何か、おかしな夢を見ていたような、そんな気が今でもしています。


脇には、川巡り乗船場の横断幕が掛かっています。このあたり、川を巡ってもそれほどの風景が・・・・・・、と思うのです。


河川敷に眼を移すと、何故か颯爽と馬に跨るおじさん。右隅の女性は、突然視界に入った馬に驚き、イスから立ち上がり後ずさりしているのです。


こちらの親子3人連れも、警戒し始めているのです。


しかし、馬上のおじさんに“大丈夫。恐くないから、さわってごらん”と云われ、頭をナゼナゼしているのです。子供達はチョットまだ恐い様子。


河原には、横笛を吹きながら歩く男性もおりました。土手にも河原にも、いろいろな事、いろいろな風景があります。


対岸に利根町役場が見えてきました。


橋を渡り、千葉県から茨城県に戻りました。“柳田國男の第二のふるさと”利根町です。


今度、いつか、利根町を走り回り、柳田國男の痕跡でも探したいと思います。

それでは、これで、“20インチ6段変速”の新車による、“利根川土手走り”を終わります。


それでは、また来週。



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利根川土手409号線で謎の黄色い線を追う!

2009年10月22日 | 街の風景
昨日の続きです。


それで、黄色い線を気にしつつペダルを漕いでいると、


この土手の自転車道は、何と県道なのでした。ふつう一級河川の、こうい云う土手の、こう云う道は、国土交通省の管理なのですが、何故かここは県道409号なのでした。


それにしても、黄色い線は何なんだ?と、思いつつ走っていると、土手下に“変な白い塊”に気付いたのです。


自転車を停めじっと見つめていると、その塊は牛と判りました。牛が横たわっていたのです。牛クンもこちらを見つめています。

最近は“生の牛”を見ていなかったので、あらためてその“でかさ”に感動。この牛は模様から云って乳牛の“ホルスタイン”でしょうか?

牛舎の入り口に置かれた換気扇から風にのって、あの牛糞混じりの臭いが流れてきます。う~~ん。高原の牧場の“香り”です・・・・・・・。


そう云えば、ここは千葉県です。“千葉の女は乳搾り”何て、のどかなギャグが昔流行ったことを思い出しました。誰のネタだったっけ?

それにしても、この黄色い線は? だんだん端に寄って来ます。ふつう黄色い線はセンターラインなんですけどね。


黄色い線に思いを寄せつつ走っていると、変な、かけ声と云うか、叫び声と云うか、聞こえてきたのです。

声のする方を見ると、軽トラの荷台に人が乗り、“犬を追い廻して”いるのです。犬の方は、何かを探して駆け回っているようで、どうも、これは猟犬の訓練と思われます。

河川敷では、いろんな人が、いろんなことをやっているのでした。


それで、黄色い線なのですが、何故か?ここで、意味もなく?端に寄ったかと思ったら、また直ぐに元の位置に戻り、何もなかったように先に進んで行くのでした。


印西市に入ります。何故か? この“印西”の文字を見ると、“印度”を思い、印度カレーが食べたくなるのです。まぁ、単に文字が似ているだけなんですけどね。


“公告”です。公が一般大衆に告げ知らせる看板です。何か厳しい規制が記されているのでしょうか? 


そうだぁ!もしかして、“あの謎の黄色線のことが告げられているかも”と、上から下までじっくり読んだのです。

しかし、“赤色”はあったのですが、黄色のことについては、まったく触れられていませんでした。若草大橋も載っていません、昭和46年に建てられた看板でした。

いったい、この黄色い線は何なんだ?と思いつつペダルを漕ぎ出し、直ぐ先を見ると、プッツリと、何も告げず、黄色い線はここで消えたのです。


消えた地点には、道路が分岐するように、2本の白い線が端のに向かって引かれています。何なんだ? 特に何でもないのか? 単に暇人をからかっているだけ?

まぁ、兎に角、黄色い線は消えてしまったのです。まぁ、一般大衆に告知するほどの理由はなく、それなりにある関係者だけに意味のある線であったのでしょう。

黄色い線が消え去っても、まだまだ、“土手走り”は快調に続きます。


それでは、また明日。


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利根川若草大橋は“ゴメン!20円”なのでした。

2009年10月21日 | 街の風景
昨日の続きです。

橋の袂で持参の弁当を広げ、川を眺め、橋を眺め、畑を眺め、時より通る車を眺め、“のり弁”を食べたのです。

“のり弁”と云いましても、あの元祖“ほっかほっか亭”の“のり弁”のように、「竹輪の天ぷら・白身魚のフライ・きんぴらゴボウ・昆布とかつお節の佃煮・海苔・大根の壺漬け」・・・こう書き出してみるとかなり豪勢?で290円は安い!

我が“のり弁”の方は、先ず、ご飯を入れ上に“かつお節”をふりかけ、醤油をまぶし、またご飯を入れ、そして、海苔を千切って醤油を付けて隙間なく敷き詰める、そして、最後に梅干しを中央に埋め込む、“古典的純粋二段重海苔弁”なのです。

これが、もう、とても、何とも、とてつもなく旨いのであります。青空の下土手で食べると、その旨さは、お腹にも、こころにも、やさしく染みるご馳走となるであります。

まぁ、それで、若草色の橋桁を眺めつつ箸を進めていると、この新しいと思われる橋桁が、溶接ではなく“リベット”で接合されているのを発見。リベットが復活したのでしょうか? 

それと、丸い穴の空いた鉄板が等間隔で溶接されています。これはいったい何? もしかして、橋桁の補修塗装の際に、足場を取り付ける為の“フック”でしょうか? たぶん正解かも。

それと、橋台と橋桁の間に見かけないモノが挟まっています。


これは、耐震性を向上させる為の、新たな“震動吸収型橋桁落下防止接合装置”でしょうか?


食事を一端中断して写真を撮ったり、景色を眺めたり、のり弁を食べたり、お茶を飲んだり、人の叫び声を聞き、何処から発せられたのか辺りを見回したり、振り返ったり、サイクリングのおじさんの挨拶に答えたり、食後にみかんをつまんだり、いろいろありの昼食でした。

それで、この橋は土手からは入れないように、それなりの柵がしてあるのですが、“サイクリングおじさん”は、柵の隙間から自転車を入れ、道路を横断し反対側の歩道を走って対岸に消えて行ったのです。

“おじさん”柵越えのとき“チョット失礼”と呟き、そして、私に向かって“コンニチワ”声を掛けて行ったのです。

その時“チョット失礼”の意味が良く判らなかったのですが、後でこの橋を渡るには、自転車も20円の通行料金を支払う必要を知ったのです。


後で知ったのですから、当然、私も、食後に、おじさんの後を追って、20円は支払わずに、対岸に渡ったのであります。

有料で有ることは遠~くに料金所が見えたので判ったのですが、まさか自転車にも通行料金が掛かるとは思わなかったのです。

これって、かなり、立派に、犯罪に、なりそう? 何かの?ときに別件逮捕の口実にされ、本件の自白を迫られ、無実の罪で服役して、十数年後に再審請求が認められ、無罪が・・・・・・。

まぁ、冗談ですが。今度、またの機会に20円払いますから、何と度ご容赦下さいませ。それにしても、受益者負担と云っても、自転車からまで、それも20円ぽっち徴収する事は無いと思うのですが、まぁ、このご時世ですから、それは、それなりに、仕方が・・・・・・。

対岸は、千葉県栄町です。


さあ、ここから折り返しです。ピカピカの新車は走りがラクチンです。


橋が完成したのは3年前なのです。


土手を上流に向かって走ります。


この黄色い線は何?

まだ、まだ、土手走りは続きます。


それでは、また明日。

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利根川の若草大橋の袂で“のり弁”

2009年10月20日 | 街の風景
本日は、小貝川から利根川土手を河口に向かって“新車”で疾走します。この季節、暑くもなく寒くもなく、土手は最高に気持い~~!のです。

これまで利根川土手を走ったのは、小貝川との合流地点迄でです。今回は新車で、20インチで、6段変速ですから、合流地点を通過し未踏の領域を走ります。

途中の景色は、まぁ、土手ですから、それほどの変化はないのです。昼が近づいてお腹が空いてきました。何処かで持参の弁当を食さねばと思いつつペダルを漕いでいると、この景色です。


“土手際”の化学工場でしょうか? タンクの周りをパイプが走り、材料の薬品を混ぜ合わせ、化学変化させ、何やら製造するプラントのようです。

人影の見えない、装置産業は何とも不気味で、謎めき、怪しさが漂います。でも、しかし、こんな、土手際の化学プラントから、身の回りに関係する製品の原料が作られたりしているのです。

すぐ側には、工場の基本形である、灰色スレート造りの工場。


小さくて見難いのですが、工場の敷地には“バイク”がぎっしり並んでいます。中古バイクの再生工場でしょうか? わたしの知らない、こんな処で、こんな事が、毎日行われていたのです。


お隣は、寂しくて、そして、とても懐かしい風景です。


土木資材の置き場?


残土置き場? 廃材置き場? 世の中、こういう場所も必要なのです。ホントに、わびしさ、寂しさ、懐かしさ、そして砂塵も・・・・・・、いろいろと、舞い上がり、漂うのです。


新しそうな?橋が見えてきました。


“若草大橋”だそうです。それでェ~、ですかァ、橋脚が若草色に塗られているのは?明るくて、爽やかで、真面目そうで、無難な名前です。


こういう橋の名前は、何処の?誰が?付けるのでしょうか? “オィ、チョット、それは”と思っていても、なかなか異を唱え辛い、微妙でムズカシイ橋の名前です。

通過する車の姿は、あまり見当たりません。


料金所が見えます。“有料橋”のようです。そのせいでしょうか、車が通らないのは?


ここに座って、昼食の“のり弁”を食べます。


ここで、休憩です。


それでは、また明日。


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みどり野駅周辺は開発工事だらけで埃だらけ!

2009年10月19日 | つくば市の風景
更新が途絶えておりましたが、パソコンの故障ではありません。

実は、長年(13~14年)に渡り愛用していた自転車がダメになり、遂に、新車を購入したのであります。購入に際しては、いろいろとあり、かなり迷いました。

故障は、前輪の“軸受けベヤリング”の破損です。ベヤリングのみの交換は無理なので、前輪の交換を考えたのです。

ホームセンターに行き、前輪の交換を予約したのですが、その時の話しでは“3千円で1週間”で入荷であったのが、翌日に電話が入り、価格が5千円に上がり、納期が3週間に伸びたので、即キャンセルしました。

ホームセンターに行った時、20インチで、折り畳み式で、6段変速で、LED前照灯付きで、1万5千8百円の自転車を見て、前輪交換か?新車購入か?、いろいろ迷った挙げ句、交換を決断したのですが、“5千円の3週間”を聞いて、即座に新車購入を決断したのであります。

それで、このところ、新車で走り回っているのです。何たって20インチで、6段変速です。以前の16インチで変速機無しとは、まったく走りが違うのです。新車ですから、音が静かで走りがスムーズで“漕ぎ心地”が何とも“気持ちイ~~”のです。

このところ天気も良く、毎日が“自転車日和”でブログの更新どころでは無かったのでした。あまり、更新を怠ると誰も来なくなるので、自転車日和の外を気にしつつ書いております。

それで、先日、新車で“みどり野駅”辺りに出掛けたのですが、いつもとは異なる道を選び、走っていると、こんな立派な門、塀、母屋のお宅を発見。


駅の近くの裏道、緩い坂の上で、前は畑で、陽当たり良好で、林を背にしたお屋敷です。どんな方がお住まいなのでしょうか? 門も塀も母屋も築後数年と云ったところです。もしかして、開発の恩恵でしょうか?

駅を目指して通りに出ます。真瀬鎌倉への分かれ道付近です。以前に何度か通っているのですが、気が付きませんでした。鹿島神社です。 


ごく普通の神社です。


面白い?事が刻まれていました。


このあたりの氏子は、祭礼費用に当てるため田圃を共同で所有したいたようです。沿線開発の為に売却し、その売却益で神社本殿の新築、境内の整備等に当てたようです。

祭礼費用を生み出す田圃を売却したけれど、「祭礼については将来にわたり無理なく執り行えるように“抜本的に改革”した」そうです。

う~ん。“抜本的改革”ですか、いつか、そのうちに、一度、その抜本的に改革された祭礼を見てみたいと思います。

神社から駅までは上り坂ですか、変速機付きですから、スイスイと数分で到着。

いつも、思うのですか、この二つのビル、間隔と云い、色と云い、形と云い、高さと云い、向きと云い、どうもしっくりしないのです。

みどり野は、付近の“みらい平駅”、“研究学園駅”と比較して、駅前空間が狭く見劣りします。

駅から、いつもとは違う道を走ります。駅前から4車線の道路が造られています。

南に向かって道路は伸びて行くのですが、何処に繋がるのでしょうか? それにしても、TX沿線は、道路に宅地に開発があちらこちらで、いろいろと進んでいます。

それで、何処から?そんなに人が移り住んでくるの?大丈夫かオィ!


工事現場の脇にこんなプレハブ小屋が、それと、何ですが、小屋の前に見えるのが私のピカピカの新車です。


最近は、こんなモノがあるのです。道路建設への理解を求めているようです。


内部はこんな感じで、温室状態でとても暑かったです。


道路は“南谷田部小学校方面”に伸びて行くようです。


道路工事の工法説明とか、


予定表とか、連絡先とか、


まぁ、兎に角、道路建設への理解を求めて、それなりの広報活動を行っているのです。国土交通省の指導なのでしょうか? 

それにしても、このような“工事情報案内所”を訪れる方は、ホントに、相当に、暇な私のよう人だけでしょうねェ。

兎に角、駅周辺は“埃っぽい”ので、裏道、細道、あぜ道に戻ります。

6段変速は快調で~す。

それでは、また明日。


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土浦脱線事故から“D51-651”で下山事件に!

2009年10月14日 | 下山事件
昨日の続きです。

何となく、他人の庭先を黙ってこっそり通り抜けるような、後ろめたい心境を抱きつつ、駐車場の片隅にある石碑に到着。

脱線転覆事故の犠牲者なのです。一列24名が4段ですから合計で96名。大惨事だったのです。


氏名の後に、
【ここに刻まれているものは事故裁判記録に掲載されている96名の方々の氏名であるが、この他にも事故がもととなって亡くなられた方も数多く居られるものと想像される。ここに併せてその冥福を哀心よりお祈りするものである】と刻まれています。

こちらは裏側なのでしょうか? 事故の内容は反対側に?

こちらが正面のようです。“慰霊碑”と刻まれています。すこし枯れ始めて居ますが、菊の花が手向けられています。遺族なのか、鉄道関係者なのか、いまでも訪れる方がいるのです。

手前に写っている“木の杭”が、事故から22年後の昭和40年に建てられた慰霊碑で、この御影石の慰霊碑は昭和61年に建立されたそうです。

こちら側に、事故の内容が刻まれていました。光線の関係で文面を鮮明に撮すことができませんでした。

それで事故なのですが、昭和18年の10月26日の午後6時40分頃に発生したようです。昭和18年と云う事は、敗戦の2年前になります。


石碑に刻まれている内容を要約すると、

【事故は、午後6時40分に貨物“294列車”が土浦駅に到着。構内で入れ換え作業中に誤って上り本線に進入して立ち往生、そこへ上り“254貨物列車”が進入し両車両は脱線暴走し、254貨物列車は桜川沿いの下り本線上に転覆。

この時、多数の乗客をのせた下り“241旅客列車”が接近しつつあり、急停車するが間に合わず、254貨物列車に激突。

旅客列車は脱線転覆。1、2両目は大破、3両目は鉄橋から斜めに傾き、4両目は桜川に方完全に水没した】

今から66年前、列車の“二重衝突事故”が発生し、この鉄橋から列車が転落したのです。死傷者100余名、死者96名の大惨事だったのです。


“この鉄橋”から転落と書きましたが、現在の鉄橋は事故から16年後に架け替えられていました。



それで、この脱線転覆事故が、あの“下山事件”とどう繋がるのか?です。

それが、この事件をネットで調べていたら、下山総裁を轢いた機関車が、この時に事故を起こした機関車“D51-651”だったとの記述を見つけたのです。

でも、しかし、複数の関連サイトを見ても、「貨物列車294」の機関車なのか、「貨物列車254」の機関車なのか、「旅客列車241」の機関車なのか、その記述はないのです。

「D51」は、主に貨物用に開発されたようなので、294列車か254列車のどちらかなのでしょう。

そうすると、「294列車」が本線上に立ち往生し、そこに254列車が激突したのですから、可能性としては「254列車」の先頭機関車は大破したもの思われます。

そうすると、事故後に修理され、その後に下山総裁を轢いた機関車は、事故の発端となった、「294列車」を引いていた機関車ではないかと、そう、思うのです。

この機関車「D51-651」は、2度も悲惨な事故に関係していたのです。ある人は、生産番号が「651」なので「ムゴイ」なんて、こじつける方も・・・・・・。

兎に角、これまでも、何度も脇を通りかかり、まったく気付かなかった石碑、その事故から“下山事件”に繋がるなんて、何かの縁かも?

そして、また、いつも覗くあるブログで最近“下山事件”の本が紹介されていたりして・・・・・・・、そろそろ、中断していた“下山事件”の話しを再開したくなったりして・・・・・・。

秋の夜長には“持ってこい”の推理ドラマなのです。さぁ、これから、本を注文します。再開は本を読んだその後です。

それでは、また明日。

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