歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“だから荒野”⑩亀田章吾クンの50円と80万円は継続のために必要な最低限度の経費と報酬でお駄賃なのだ

2015年02月27日 | テレビの話し
前回の続きです。

前回は、山岡孝吉の罪について、いろいろと憶測、推測を述べました。今度の日曜日が最終回で、そこで“山岡少年”の犯した罪もすべては明らかになります。

そして、謎を引っ張っていた亀田章吾クンのボランティア?も、それなりに、償い、赦され、認められるのでしょう。

それで、亀田章吾クンですが、前々回でしたか?、朋美に子供の頃、坂の上で暮らすお年寄りに、新鮮な魚を買って届けて喜ばれ、その度に“お駄賃として50円貰っていた”と、嬉しそうに話したのです。

そして、今回、亀田章吾クンがボランティアをしている、老婦人の甥が弁護士と現れ、“亀田が遺産を乗っ取ろうとしている!亀田は詐欺師だァ!これまでも、勝手に預金通帳から金を引き出している!”と、告げるのです。

亀田は金を引き出したことを認めます。そこで、朋美は、その金額を聞くと、驚く事に、何と去年一年間で“80万円”だったのです。

私が驚いたのは、それっぽっちで!と思ったからです。老婦人の“家の構え”から想像するに“はした金”だと、その程度で、弁護士を伴い、ケンカ腰で喚き散らすか?明らかに、甥が叔母の遺産を独り占めしたいとの、欲望が丸出しに描かれているのです。

亀田章吾クンにとって、年間80万円は最低限度の経費と報酬だと、小さな親切の、小さな必要悪で、お駄賃なのです。

そして、“山岡孝吉”も、そんな“お駄賃”を自分の通帳からも、勝手に引き出されていた事は知っていたのです。そして、それを許していたのです。

無料の善意だけの奉仕よりも、それなりに有料の方が、それなりに気遣いもなく、それなりに継続する。亀田と山岡との間で互いに暗黙の了解が成立しているのです。

もしも、奉仕を有料として、事前に、書面で契約書を交わし、毎月、毎月、請求書と領収書を交わす何てことは、人の温もりがなく味も素っ気もなく、善意も感謝もなくなるとのメッセージなのです。

“それを云っちゃ~、それをやっちゃ~、お終いよ的”なのです。とても、とても、寅さん的関係、それこそが、人の世の知恵なのだと・・・です。

作者の意図として、西洋的、キリスト教的、ユダヤ教的、契約社会、訴訟社会を否定している?かも?です。←これ、私の独断と偏見

もうひとつ、以前働いていた食堂の親方“泉谷しげる”に、朋美がお年寄りの為の、食事宅配サービスを始めたいと話した時のやりとりです。

親方泉谷は、
『それは誰のためのケータリングですか?』
『独り暮らしのお年寄りのために、少しでもお役にたてればと思って』
『それって、ボランティアってやつか?』
『いえ、それは・・・・・・』
『う~ん、そういうのって長続きしねえぞ~』
そして、
『ボランティア精神だけでもダメ。儲けばっかり考えてても駄目。難しいいんだよ、まあ、そこんとこよ~く考えてな』

魚を届けて50円、お年寄りのお世話をして80万円、そして、親方泉谷しげるに、商売としても、継続していく為にも、しっかりとした、それなりのやり方、それなりの心構え、云わせています。

一つのメッセージを、三つエピソードで、作者の意図を伝えているのです。と、云う、ことは、です。最終回で、孝吉の罪と償い、亀田の罪と償いは、それなりに絡んでくる筈ですが、でも、しかし、孝吉の罪は、とても、とても、重たい、原爆と妹の死ですから、どう絡ませるのか?

それと、朋美の、優太の、浩光の、罪と償いと、新しい人生の始まりに、どう絡ませるのか?

最終回では、これまでのすべてが、エンデイングに向かって、見事に、奇跡的に、一つのメッセージに集約されて、感動的な人間ドラマとして結実する・・・・・・そんな筈です。

まあ、兎に角、制作統括の“銭谷雅義さん”の、

『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』

の言葉に期待しています。


それでは、また。

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“だから荒野”⑨山岡少年の罪とは?妹は死んだのではなく!自分の行動で結果として殺してしまった!

2015年02月25日 | テレビの話し
前回の続きです。

それで、第七話のお話です。

サブタイトルが『悪魔と天使』です。

人のこころの内には、悪魔と天使が住んでいて、ときおり、ある場面で、悪魔にこころを支配され、いろいろな罪を犯す。

人はそれぞれに、生きていく上で、いろいろと大きな罪、小さな罪を犯し、それぞれに罪を背負い、くるしみ、さいなみ、つぐない、人生を送っている・・・・・・。

誠実とか、優しいとか、正直とか、真面目とか、自分自身に厳しい方は、一生その罪に向き合い、償い、生きていく・・・・・・。

それで、山岡少年の犯した罪です。


瓦礫のなかで、妹を見つけた山岡少年、


生きている!助けなければ!妹を背負い、荒野を彷徨い、


そして、でも、しかし、“何かが”あって、妹の小さな命の火は消えてしまった・・・・・・。


原爆の焼け野原で、少年のできることは限られています。あらゆる手を尽くした上での死であれば、罪の意識に嘖まれることは無かったと思うのです。

山岡少年の苦しみは、“ある場面”で、ある誤った行動の結果、妹を死なせてしまったと思うのです。その時、悪魔が山岡少年のこころを支配していた。

この山岡少年の姿、この食い縛る口元、これは原爆の被害に対してではなく、妹の死につながる、自分のとった罪深い行動への、怒りが、苦しみが、悔しさが、悲しさが、そうさせていた・・・、と思うのです。


山岡は平和祈念館で、毎日、毎日、写真と向き合い、少年の頃に犯した罪と向き合っていたのです。

ですから、山岡にとっての戦争は、被害者として、加害者として、二重に悲劇的で、とても、とても、罪深いのです。戦争とはそういう悲劇を必ず伴うのです。


と、云うのが、私の推測です。

それと、山岡少年の罪で思い出すのは野坂昭如の『火垂るの墓』です。戦争、焼け跡、兄と妹、そして、妹の死。

でも、『火垂るの墓』では、妹は栄養失調で亡くなるのですが、兄が妹の分まで食べて、妹を死なせたとの記憶はありません。

彼が、衆議院選挙で地元の新潟選挙区から立候補したときの、キャッチコピーが“飢えた親の顔を見たくない!”だったような記憶があります。

飢えた親は、子供の食べ物を奪い子を餓死させると、そう云う悲劇を戦争中に見て、そんな悲劇をくり返したくないと、そんな記憶があります。

もしかして、野坂少年は、無意識のうちに妹の分まで食べ、死なせてしまったと、そんなことが、あったのか?

『火垂るの墓』は自伝的な内容だそうで、野坂はそれ以来、いまでも、飢えて死んだ妹への償いとして、美食は避け、粗食で通し、常に腹一杯食べることをしない、と、何かで読んだ記憶があります。

私の、半世紀近い昔の記憶ですから、あてにならないかも?

でも、もしかして、山岡も?と、思ったのですが、山岡は第二話で、昼食にチャーシュー麺と炒飯を腹一杯食べているので、食料関連ではないと思いますが・・・・・・。

もしかして、危険な場面に遭遇し、一瞬、妹の存在を忘れ、無意識に、自分一人だけ、退避行動を起こし、結果として妹を殺してしまった?

山岡少年の、悪魔の囁きで犯した罪とは何だったのか? やはり、何らかのことで、自分を優先し、結果として妹は、死んだのではなく、殺してしまった・・・、そんな気がします。


次回、最終回ですべてが明らかになるのです。私の推測はどうなるか?


では、また。

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“だから荒野”⑧焼き場に立つ少年と山岡孝吉少年の犯した罪とは?

2015年02月23日 | テレビの話し
本日、第七話『悪魔と天使』を観ました。

この少年の写真、以前、何処かで見たことが・・・・・・・。と、思っていたのですが、思い出しました。

※写真は比較の為に左右を反転しました。

2008年8月7日に放送されたNHKスペシャル『解かされた封印~米軍カメラマンが見たNAGASAKI』のなかで採り上げられた写真でした。

タイトルは『焼き場に立つ少年』です。背中に背負っているのは息絶えた弟。食い縛る唇に血が滲んでいたそうです。火葬の順番を待つ、直立不動の姿勢が痛ましいです。


この写真から、桐野夏生さんは物語を着想したのかも?

安倍総理が、この写真を見て、きっと、『このような悲劇を再び起こさせない為に、だから積極的平和主義が必要』と、云う筈です。

平和の為の戦い、これまで言い古された戯言です。

ウクライナ、中東、アフリカ、アジア、今日も、この時間も、くり返されているのです。


悲し過ぎて、情け無くて、本日は、これで、お終い。
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“だから荒野”⑦収入が少なく優しく協力し合う家庭と収入が多く優しくなく協力も無くだから荒野の家庭

2015年02月22日 | テレビの話し
前回の続きです。

昨日、第六話「妻と夫」を見ました。

制作統括の“銭谷雅義さん”の、

『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』

この言葉があまりにも強烈であったが故に、期待が最大限に膨らみ過ぎ、見終わって、う~~ん、銭谷さんの“いままでの経験”に疑問を抱いたりしたのです。

でも、まだ、二話残っていますから、最後の最後に、これまでのストーリーで、気付かぬうちに仕込まれていた、いくつもの伏線が、一つに集約し、思いも寄らぬかたちで、思いも寄らぬ展開をみせ、経験したことのない、奇跡の瞬間を生み、深い人間ドラマとして、大きな感動を・・・・・・となる?

結論めいた推測を冒頭に述べてしまいました、これでは、今日は、これで終い!となってしまいます。“それじゃ~ダメじゃん!”と云う事で、気になったこと、引っ掛かったこと、そんなことから、思いを巡らしたいと思います。

久しぶりに大阪で再会するふたり、自分の都合だけを主張する浩光。朋美に“相変わらず最低”と云われ、“今までのようには生きていきたくない”と云われ、“大人になりなさいない”云われ。自立し始め、主張し始めた朋美に混乱する浩光。


そして、家に帰った浩光、“あなたの家は普通じゃない、親父がすごい冷たい、家で、あれほど何もしない人初めて見た”と、恋人の香奈から言われたと、気付き始め、主張し始めた長男健太に責められる。

そして、“香奈のうちは違う、共働きだからかも知れないが、家事を手伝ったり、みんなが協力して暮らしている、みんながみんな優しい”と、お母さんにも、優太にも、優しくしておけば・・・”と反省する健太。

妻からも、息子からも、夫として、父親として、失格と云われ、迷いつつも、いまだに責任は自分には無いと思っている浩光。

長男が出て行った後、“あいつもカモだな”と呟き、場面は次男優太のジオラマの中心に座る“カモ”に転換するのです。

朋美も、孝吉も、章吾も、みんなが見つめ、美しいと思い、呟き、涙する“ジオラマのカモ”は伏線なのです。

それで、です。優しく協力し会う家庭と、そうではない家庭と、その別れ道は、父親に問題あるのか、母親に問題があるのか、そのどちらにも問題があるのかです。そして、それは個人の資質に起因するのか、です。

“香奈のうちは共働きだからかも知れないが”と云わせていますが、この共働きが、かなり。かなり、大きいと思うのです。

協力しないと生きて行けない環境なのです。優しくしないと、理解し合わないと、協力は生まれないのです。生きて行けないのです。

衣食住を父親の収入だけで可能家庭では、協力しなくても、優しくなくても、理解し合わなくても、生きていけるのです。

父親として、養い、施し、保護していると、それなりに君臨してしまうのです。すべては一方的な上下関係として、専制君主として振る舞う、そんな“条件”が整ってしまうのです。でも、だからと云って、いまの世の中で、普通、そう振る舞う方は少数だと思います。

いまの世の中で、それなりの収入を得るには、それなりに、周りの状況を把握し、他人を理解し、他人の意見を聞き、調整しまとめていく力量が無ければ、それなりの地位、それなりの収入は得られないのです。

ですから、女好きで、ゴルフ好きで、薄っぺらで、バカっぽくて、でも、しかし、収入はある、そんな専制君主の浩光の存在に、リアリティが感じられないのです。設定として古すぎるのと思います。浩光は20世紀の父親像です。もしかして、桐野夏生さんのお父さんがモデル?

それなりに、朋美が疑問を抱き、不満を抱き、不安を抱き、家から逃亡する理由付けとしては、かなり荒っぽい設定だと思います。それと、朋美の責任が、料理下手しか描かれていないのは不自然です。

まあ、それは、それとして亀田章吾クンです。彼はこの物語の準主役のようで、毎回、ラストに、いろいろと謎らしき、伏線らしきシーンが描かれます。演じる役者さんは初めて見る方です。

純粋そうで、信頼できそうで、金には無頓着そうで、でも、そこには裏がありそうで、なさそうで、こころに傷があることは、間違いなさそうで、影が薄そうで、存在感のある、とても、いい役柄を、とても良く演じていると思います。

章吾の年齢から、親の世代が被爆2世で、彼は被爆3世でしょうか?そのことが、彼の心にいろいろ影響し、これからのストーリーに影響していくのかも?

本日、10時から第8話が放送されます。私は録画して明日の午後に観ると思います。

今度こそ大丈夫ですよね“銭谷雅義さん”


それでは、また。

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“だから荒野”⑥犯罪!贖罪!語り部は何を背負って何を語るの?

2015年02月20日 | テレビの話し
前回の続きです。

東京から九州の福岡を目指していた朋美が、いろいろあって長崎へ辿り着き、物語は展開していきます。

ふと、思ったのですが、高校時代の親友の滝川知佐子が福岡で美容院を経営し、高校時代の元彼は京都の医大へ進学し挫折し、長崎の老舗の陶器店に婿養子。朋美は東京郊外でマンション暮らし。

この三人は、いったい何処で高校時代を過ごしていたのか、ストーリーからはよく判らないのです。もしかして、見過ごしていた?それとも、ドラマのテーマとの絡んで、これから徐々に明らかに?それとも、ただ単に、必要性がないので触れないだけ?とか。

被爆地の長崎を舞台として、被爆をテーマとしてのドラマなのか、それとも、長崎は単に物語に、重さと厚さを加えるための、単なる背景なの?とか。

語り部の山岡孝吉の家に朋美が居候するのですが、80代の孝吉にとって、40代の朋美は若き人妻。同じ屋根の下で寝食をともに・・・、孝吉とて、こころに荒野だけを抱いている訳では無かろう、昼飯にチャーシュー麺に炒飯を平らげる老人なんだから、とか。

何て、横道的?枝葉末節的?下世話的な方面に思いを馳せたり、何となく、ドラマの展開に慣れたと云うか、飽きたというか、手の内が見えたと云うか・・・・・・。

そんな、こんなで、最初の頃は、面白い!面白い!と書きましたが、第四話あたりから、それとなく展開の謎が薄れ、結末が見えてきたようで、何となく面白みが薄れだし、15日放送の第六話は未だに観ていないのです。

それで、観てはイケナイ、イケナイと思い止まっていた、番組のホームページを先日、ちらっと覗いてしまったのです。

するとです、制作統括の“銭谷雅義さん”が、
『私も長くこの仕事に携わっていますが、今ままでに経験したことのない、奇跡の瞬間でした。これまで誰もみたことない深い人間ドラマが生まれたと思っています』
と、胸を張って、声高く、興奮ぎみに語っているのです。

今までに経験したことがなくて、奇跡の瞬間で、誰も見たことのなくて、深い人間ドラマで、兎に角、何か、歴史に残るような、大変なドラマのようです。

これは大変なことだと、こころを引き締め、思いを新たに、これまでの見た第五話までに抱いた思いを、手短に綴り終え、先ずは第六話を早く見なければと思う次第。

と、云う事で、原爆の地、長崎を舞台にしたことは、それなりに理由があり、心のなかの荒野と、戦争に寄って、原爆の炸裂に寄って地上に出現した荒野。この二つの荒野を絡ませての展開のようです。

心の荒野を意識した人間が、そのむかし戦争で、原爆で、荒野となった長崎で、いろいろと、彷徨い、巡り会い、悩み合い、求め合い、結末は、未来に希望を抱きつつ感動的に幕は下りる?

戦争を語り継ぐ、原爆を被爆を語り継ぐ、ムズカシイテーマです。先日も、沖縄戦を語り継ぐ、ひめゆり部隊の元隊員で、最後の語り部が引退する話しが新聞に載っていました。

親が、兄弟が、友が、死んでいく、殺されていく、その現場に居て、自分だけが助かった、生き残ってしまった、そのこころの傷は、苦しみは、体験者でないと理解できないのです。

それで、家族を失い、自分一人生き残った事への、償いとして、責任として、使命として、こころに荒野を抱え、荒野と向き合って、荒野を受けとめて、被爆の悲惨さを語り継ぐ“山岡孝吉”

訪れる人の少ない平和祈念館で、じっとイスに座り待ち続ける姿。偶に訪れる人達も、山岡の話は無視され、それでも語り続ける姿に、朋美の息子はこころを動かされるのです。でも、そう、簡単に、都合よくは・・・・・・とも、思ったりしました。、

それと、どうも、何か、一般論的に、抽象論的に、普遍的に、戦争の悲劇を悲惨さを、語っていくことの、歯がゆさと云うか、虚しさと云うか・・・、誰が、何で、どうして、ここに原爆を投下し、非戦闘員を虐殺した戦争犯罪だと・・・。

何て、思ったり、するのですが、それでは、敵を憎むとか、報復の連鎖とか、暴力に暴力で対抗する愚かさとか、いろいろムズカシクなるのです。

でも、しかし、戦争を、原爆を、人類が背負った罪として、贖罪として、何て、ことでは、何も解決しないと、思ったりするのです。

戦争は政治であり、経済であり、人間の仕業であり、かなり、かなり、泥臭い、銭金の絡む問題だと・・・・・・。

でも、原爆の、あまりの凄まじさ、惨たらしさが、敵とか、味方とか、そんなレベルを超えてしまったのかと・・・・・・。

話しが、おおきくなってしまいました。兎に角、だから荒野で、見方、考え方は、人それぞれなので・・・・・・。

人間、つらい事、悲しいこと、不安なこと、思いどおりにいかないこと、そんなことばかり、の、ようでもあり、面白く可笑しくもなく単調、の、ようでもでもあり、ただ云えることは、楽しいことはほんの少しだけ・・・・・・。

毎日が、楽しくて、楽しくては、そのうち単調になり、面白くも可笑しくもなくなるです。楽しくない時が続くことで、楽しいと思える時が現れる?

長崎の地で、朋美さんも、孝吉さんも、、章吾クンも、優太クンもそれぞれ、これから、いろいろと、絡み合って、
『経験したことのない奇跡が起こり、深い人間ドラマ』
が生まれる、そうなので、“銭谷雅義さん”期待しています。

それでは、第六話をこれから鑑賞します。


それでは、また。


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“だから荒野”⑤引き籠もる優太!逃げ出した朋美!そして優太も逃げ出し!二人は一緒に長崎の人に!

2015年02月18日 | テレビの話し
前回の続きです。

今日も寒い、冷たい小雨が降っています。それでも朝食後、それでも、いつものように45分歩いて来ました。朝は糖質を摂取するので食後高血糖対策は怠れ無いのです。昼頃から雪になるとの予報が出ています。

それで、だから荒野ですが、次男の高校生“優太クン”です。ドラマではよくある設定の“引き籠もり”なのです。

やっぱり、それなりに“引き籠もり”は社会問題なのでしょう。優太クンは学校で“いじめ”られているようです。どちらかと云うと、精神的なイジメのようで、いわゆる“無視”と云うやつのようで、それらから逃れるために引き籠りのようです。

心配する朋美に対して、『うるさい!ババァ死ね!』何て、お決まりの罵詈雑言を浴びせたりしているのです。まあ、彼としては、周りは荒れ果てた荒野なのでしょう。

でも、しかし、うるさいババァは自分を置いて家を出て行ってしまい、置いて行かれたと云うか、取り残されたと云うか、捨てられたと云うか、自分にもその責任の一端はあると云うか、いろいろ考え始めるのでした。

虐めは昔も“よくある”ことでした。いじめッ子、いじめられッ子も居ました。でも、しかし、引き籠もりは聴いた事はありませんでした。

昔と比べて、今の虐めは、肉体的な虐めより、陰湿な精神的な虐めが多い印象を受けます。こころの傷は、身体的な傷よりも、長く深く重く人を痛めつけます。

それで、昔は、家族も多く、兄弟も多く、経済的に貧しく、家庭内でも生存競争があったのです。食事にしても、それなりに積極的にならないと、エネルギー摂取もままならなかったのでした。

昔は、堪えるか、気にしないか、反撃に出るか、それなりに状況を打開するために、悪化させないために、闘ったのです。そうしなければ生きて行けなかったのでした。

今の世の中、それなりに、経済的には向上し、エネルギー摂取での争いは起きないのです。そのほかの生活環境も、黙っていても、それなりに与えられて育つのです。

すべてが、黙って居ても、何もしなくても、他者から与えられる環境なのです。自らが積極的に行動しなくても、それなりに生きて行ける環境なのです。

自分の置かれた環境を、自分の意志と力で変化させる必要もなく、訓練の機会もなく、泳ぎ方を知らないまま、社会の荒波に放り出され、驚き、もがき、苦しみ、不安を抱きつつ、敗北感を抱きつつ、自分の世界に閉じ籠もる・・・・・・そんな気がするのです。

で、一応、念の為、云って起きますが、私はどちらかと云えば、子供の頃、いじめっ子の部類でしたので、いじめられっ子の気持ちには疎いかも知れません。

それで、だから荒野で、優太ですが、優太のブログに母からのコメントが入り、母の家出の一端の責任を、母への甘えを、母の優しさを、そして、そして、互いに逃げ出した者として、いろいろな思いが募りつつ、家を出て母の居る長崎に向かうのです。

今日は、この辺でお終い。

久しぶりの連続更新です。

窓の外は、予報が外れた?ようで、雪ではなく雨が降ってます。

それでは、また。


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“だから荒野”④判り易い優しさ!判り難い優しさ!その絡み合いと行き違いで物語が生まれたりするのです

2015年02月17日 | テレビの話し
先日からの続きです。

今日は寒い!ホントに寒い!先ほどは小雪がちらついていました。太陽が顔を出さないとホントに寒い、炬燵でコーヒーを飲みながら書いています、と云うか、書き始めています。マグカップで2杯目、これから書き終わるまでトイレに頻繁に通う事になります。

それで、“だから荒野”ですが、これまで記憶を辿りながら、ここまで綴ってきました。かなり記憶違いがあるかも?

それで、一応、確認と記憶を呼び起こす為に、各回のタイトルを書き連ねてみました。話しとしては、二話目位まで触れてきたような気がします。15日放送の第六話“妻と夫”は録画してあるのですが未だ見ていません。

    1.逃げる主婦

    2.もうひとつの人生

    3.初恋の男

    4.母親失格

    5.息子の家出

    6.妻と夫

それで、第三話の“初恋の男”ですが、朋美の高校時代からの“親友滝川知子(YOU50歳)に進められて元彼に会うのです。

それで、私としても“何故に今更”と思い、朋美としても“何故に今更”と思いつつも、懐かしさと、変化の確認と、就職先の紹介と、いろいろな思いと、いろいろな期待とを抱きつつの再会。でも、ある程度予想はしていた、会わなきゃヨカッタ!となるのです。

もしも、元彼が今でも輝いて居て魅力的であったなら? もしも、元彼が今は輝きを失った情け無い中年男だったら? これって、どちらでも、会わなきゃヨカッタ!になると思うのです。

それにしても、医師を目指して挫折して、老舗の焼き物屋に婿入りした元彼。演じた役者は顔には見覚えはあるのですが名前は知りません。とても、情け無い感じで、何か、演技と云うよりも、役者としての個性がそのまま出ていたような?

兎に角、男運が悪いと云うか、男を見る眼がないと云うか、朋美も、そんな自分を顧みて、初恋の男と云い、亭主と云い、こんな男に惚れてしまった私って?・・・・・・。

きっと、きっと、二人の男は出会ったとき、とても、とても、“優しかった”のでしょう。男の、この優しさが、とても、とても、危険で、ムズカシイのです。

あるプレイボーイと云うか、女たらしと云うか、もて男と云うか、そんな男が、女性をものにするコツは、兎に角、マメであること、兎に角、優しくすること、この二つが重要であると、述べて居ります。

男の優しきはムズカシイのです。判り易く優しいのは危険です。ホントの優しさは分かり難いのです。判り易い優しさと、分かり難い優しさ、この二つが絡み合い、そして、行き違い、男と女の物語が生まれたりするのです。

今日は、とても、とても、寒いので、この辺でお終い。

雪は止んだようです。


それでは、また。

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『だから荒野』③老いた原爆の語り部が昼食にラーメン屋でチャーシュー麺と炒飯を食べる展開にニヤリ!?

2015年02月14日 | テレビの話し
前回の続きです。

前回もまたまたストーリーとは離れて、“履歴書と請求書”何て、とても、とても、お古いお話をしてしまいました。

今日こそ、間違いなく本筋の、何が、どうして、どこが面白いのか!と、云うお話です。ホント!

それで、偶然に見た第一話ですが、何と云っても、ひとつの家族が壊れていくのを、“のぞき見”すると云う、“げす”で“卑しい” とても、とても、“他人の不幸は蜜の味的”心根からでした。

話しは逸れますが、あの高視聴率テレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』ですが、あれは完全に茶の間にいて、他人の家のゴタゴタを堂々と覗ける、それが、それが、唯一、高視聴率を記録した要因でした。

まあ、考えて見れば、小説とか、ドラマとか、映画とか、他人のゴタゴタを覗き見て、それなりに世間を知り、己を知り、納得したり、喜んだり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり、不条理を感じたり、いろいろ勉強するものです。

それで、だから荒野ですが、夫からも、子供達からも、無視され、黙々と、ひとり寂しく過ごすそんな日常に、疑問と、不満と、苛立ちと、不安と、情け無さを抱き、家族から逃亡する46歳専業主婦の朋美。

それにしてもです、とても、とても、とても無神経な親子です。亭主も息子も、酷すぎる、こんな設定、こんなセリフ、こんな展開、有りなの?

朋美の誕生日、レストランの食事会で、亭主の運転拒否とか、主賓が到着する前に食事を始めるとか、息子は高校時代の朋美の作った弁当が、不味く、彩りも最悪で“森村弁当”とクラスで嘲笑されていたとか、亭主の“誰もお前のことなんか見ていないよ”発言とか。

こんな酷いことを本人を前にして、しかも、誕生日の食事会で云うか!人間として、最低!最悪です。京香さんが可哀想!いや、朋美さんが可哀想!と激しく思ったのです。

でも、しかし、亭主の運転拒否についてだけは、まあ、それは、それとして、それなりに理解できます。誕生日の食事会で、都心のレストランで、ディナーですから、誰しもアルコール抜きは考えられません。

ですから、フツウ、最低でも、行きは電車で帰りはタクシー、まあ、ここは奮発して往き帰りタクシーだと思うのです。でも、しかし、それでは、ドラマは展開しないのです。それは、それで、お約束で“それを云っちゃ~おしまいよ!”でした。

そして、それで、無神経な二人に朋美は“それじゃ~ねェ”と云って、二人から去って行くのです。この場面の、そのセリフ、その言い回し、その表情、いろいろな想いを感じさせる、とても印象的な場面でした。京香さんヨカッタです。

それで、原作は“桐野夏生”だそうで、新聞の連載小説だったようです。この方ですが本屋さんで棚に掲げられた名札で見覚えがある程度でした。

私は、名前から男性と思っていたら、1951年生まれですから、私とほぼ同年配63歳の女性だったのです。どうも、何か、男性作家が女性物を書くのは何か変だとは思っていまたした。序でに、本屋の名札で見かける、似たような方で、“銀色夏生さん”も女性でした。

それで、“それじゃ~ねェ”と別れを告げ、“荒野”に踏み入り、一人彷徨い、東京から長崎への旅のドラマが始まるのです。

途中、東名高速のPAで、亭主に逃げられ裸足で歩いていた若い女性とラブホに泊まり、翌朝車を盗まれたり、長距離トラックの運転手に優しくされたと思ったら、『それで、いくらなの?』と、主婦売春と誤解されたり。

それなりに飽きさせない展開で、次回の展開は如何に?と毎回終盤に謎を持たせる仕掛けで、巧く引っ張っていくのです。

それと、キャスティングがイイです。長距離トラックの運転手を“でんでん”が演じることで、それなりに、ドラマの意味づけとか、味つけとか、いろいろと厚み奥行きが深まるのです。

そして、そして、雨の中、舞い踊る朋美が、長崎で原爆を目撃した老人の語り部と、それに寄り添う秘書的な若い男との出会い。

謎を秘めた雰囲気を漂わせる、二人の男の登場となります。若い真面目そうで、謎めいた青年が、夜中に朋美の部屋に訪れ、朋美に言い寄ったり、朋美が拒んだり、迷ったり、ますます、どうなるの?どうなるの?は増幅されていきます。

それで、やはり、日常から逃げて来た46歳専業主婦が、それなりに、社会との関わりとか、歴史との関わりとか、生きるとは?とか、そんな普遍的な、お勉強的な事柄が入り込むと、見ていて、そうか、そうかと、納得感と、お得感が生まれるのです。

それにしても、長崎、原爆、被爆の語り部、とても、とても、とても重いテーマです。その思いテーマを、語り部を、静かに、暗く、重く、孤独に演じるのが、あの“品川徹”ですから、これは、もう、めいっばい重くなります。

しかし、設定と展開の重さを吹き飛ばす場面が有るのです。途中、田舎のラーメン屋で三人が昼食を摂るのですが、重く暗い品川徹が、何と、何と、チャーシュー麺とチャーハンを注文するのです。キャラクター的には、昼食は軽く“盛りそば”です。

視聴者を裏切るナカナカ巧い展開で笑ってしまいました。現実的としてはそれも有りかも、と思ったりしました。それにしてもダブルでの糖質摂取で食後高血糖間違い無し!

私も、40代前半までは、ラーメンにチャーハン、カツ丼に盛りそば、そんな人生を送っていました。そして、今、糖質制限の人生を送っています。でも、偶には、チャーシュー麺とチャーハンが食べたい! 半チャンラーメンでもいい!

かなり話しが本筋からそれてしまいましたが、本日は、この辺でお終いとします。


それでは、また。


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『だから荒野』②鈴木京香さんの顔は請求書ですか?いや違う!役柄に対しての覚悟の現れです!

2015年02月12日 | テレビの話し
前回の続きです。

それで、前回は面白い理由を幾つか上げたのですが、肝心のストーリーについては、ほとんど触れていませんでした。

ドラマですから、何たって、それはストーリー展開です。そして、登場人物のキャラクター、それを演じる役者の存在感です。

それで、この作品ですが、先ずは、父親としても、夫としても、まるで失格の“森村浩光”です。まあ、かなり誇張されたダメ男ですが、何故かこの程度で、それなりのハウジングメーカーで宣伝部広報課長の地位にいるのです。

どう見ても、どう考えても、この男では、この厳しい世の中で、この地位は、とても、とても、無理に思えます。住まいが立派過ぎは、住宅メーカー社員として特典ですか?

演じる“杉本哲太”は、それなりの役柄を、それなりに演じていますが、役者として、個性も、存在感も、あまり・・・・・・です。

そして、二人の息子です。大学卒業間近で就活中で女と同棲を始める長男。次男は高校生で引き籠もり中。まあ、設定としては、それなりに納得。二人の役者も、それなりに納得。

そして、ヒロイン朋美の“鈴木京香さん”です、46歳の設定なのですが、調べてみたら彼女も46歳でした。役者の年齢に合わせたのか、それとも単なる偶然でしょうか? まあ、45歳でも、46歳でも、47歳でも、特に、どちらにも問題はありませんけどね。

それにしてもです、画面に登場した京香さんですが、その容貌の変化には、驚きと云うか、ショックと云うか・・・・・・。

初めてお目に掛かったのが、映画『ラヂオの時間』でした。調べて見たら1997年の作品で、かれこれ20年近い歳月が経過していたのです。

体型は以前と変わらないのですが、容貌には年月の移ろいを感じずにはいられませんでした。近頃、体型はそれなりに、上げたり、寄せたり、締めたりと、便利な補整下着がありますが、容貌はナカナカとてもムズカシイのです。

46歳は、女優として、かなり、かなり、ムズカシイ年齢なのです。では、では、と思い、46歳の女優さんを検索してみたのです。

すると、46歳の方は、主だったところで、杉本彩とか、夏川結衣とか、石野陽子とか、飯島直子とか、そして、そして、我が町の隣り、水海道出身の“羽田美智子さん”がおりました。

羽田さんは、先日テレビでお目に掛かったばかりですが、容貌に老いはそれほど感じませんでした。他の方と比較しても、京香さん、ちょっと厳しいと思ったのです。

でも、しかし、女優として、存在感として、京香さんが勝っていると、私は、強く、強く思うのです。

男は歳を重ねることでの、シワとか、シミとか、タルミとか、それなりに人間としての、味わいとか、深みとか、重みとかに変わるのですが、女性にはマイナス要因になるのです。

“男の顔は履歴書、女の顔は請求書”と、むかし、むかし、大宅壮一が言いましたが、男には今でも当てはまりますが、請求書については、ちょっと、それは、今では?と思うのです。

むかし、女性の生き方は受動的で、男の要望に応え、受け入れ、身を任し、心を任し、唯々尽くし、そして、その結果としての変化が容貌に現れる、故に、請求書だと思うのです。

でも、しかし、現在、女性は強くなりました、自立しました。請求書の時代は終わったのです。溌剌として履歴書の時代なのです。

でも、もしかして、“京香さん”は、かなり古風な方で、請求書的なお方?で、これまでの、いろいろが、マイナスに作用して、いたりして・・・・・・・。彼女の私生活ついての情報は、まったく知らずに書いてます。

と、ここまで、かなり失礼な事を書き飛ばしましたが、今の、いま、はたと気が付いたのです。本当に失礼しました。

容貌の衰えは役柄の設定として、朋美としての、それなりの表現であり、演出であり、それを受け入れた、彼女の、女優としての覚悟の現れだと思ったのです。

画面に、スクリーンに、映し出される容貌は、メーキャブと、照明のあて方で、いかようにも見せられるのです。ですから、先日の羽田美智子さんも、それなりの効果で、あの容貌だったのではと、そう思うのです。

何か、ドラマの話しから、とても、とても、逸れて仕舞いました。


それでも、お時間なので、きょうはこれでお終い。


それでは、また。


ホント!失礼しました!


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“だから荒野”①砂漠には何も無く?荒野には物語がある?だから荒野?

2015年02月10日 | テレビの話し
NHKBSプレミアム、毎週日曜10時から放送、一話50分、八話完結、先日の8日が五話目の放送でした。

先ずは、兎に角、第一話を偶然?リアルタイムで見たのですが、とても面白かったのです。そして、2回目以降は録画をして、翌日の午後に見ています。私には夜の10時は遅すぎてリアルタイム視聴には無理があるのです。

それで、何処が?何が?面白いの?と、問われると、答えは、先ずは映像が綺麗です。

“フィルム”で撮影されたような仕上がりで、明るい風景ではそれなりに明るさを抑え、暗いシーンはより暗く、印象的な逆光のカットがあったり、クッキリ、カッキリでない処が、とても、とても、イイのです。

長崎の風景は、それだけで、エキゾチックで、ドラマチックで、素晴らしいです。東京から長崎へ向かうシーもそれなりに綺麗です。

46歳の朋美、日常からの解き放たれ、これまでの日常を洗い流す“雨の中で踊る?”シーン、いままでと、これからを、いろいろと象徴したのでしょうが、ちょっと無理がある演出ですが、まあ、でも、それなりにヨカッタです。

それと、音楽が、とても、イイです。特にギターの独奏シーンはとてもイイです。何処かで聴いたような気がする?とてもイイ曲で、とてもイイ演奏です。

そして、主演の“鈴木京香さん”がイイです。彼女を観るのは“ラジオの時間”以来です。そう言えば、先日、放送していました。このタイミングはドラマへの援護射撃?

それで、朋美に語らせた“砂漠が荒野に変わった”とは、如何に? 砂漠には何も無く?荒野には物語がある?だから荒野?なの?

それと、もう一つ、朋美に語らせた『・・・憑きものが落ちたように、夫の苗字が滑り落ちたのだ・・・』の表現は、見事と云うか、巧いと云うか、流石がと云うか、兎に角、やられました?

と、云う事で、中途半端ですが、本日はここまで。


それでは、また。


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