歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

今更『下山事件』ですが?しかし!謀略は今でも軍事外交の手段として活躍中でびっくりぽんや!

2015年10月16日 | 下山事件
もう、絶対に無いと思っていました。

でも、しかし、あの“下山事件”の本が出版されたのです。

著者は、あの『下山事件 最後の証言』の柴田哲孝氏です。最後の証言が2005年7月の出版ですから、一昔前の事です。

『下山事件 最後の証言』はノンフィクションですが、今回の『下山事件 暗殺者たちの夏』はフィクションなのです。でも、しかし、フィクションでしか真実に迫ることができなかったので、敢えて、小説の形式を選んだようです。

ちなみに、下山定則国鉄総裁は、謀略機関による暗殺で、実行組織に著者の母方の祖父が、深く、深く、関わっていたと、柴田さんは確信しているのです。

それで、ブログで下山事件に触れたのは、5年前の『下山事件謀略論はエンタメですか?』が最後でした。あの頃より“下山熱”は、すこしずつ醒めていたのです。

でも、しかし、もう絶対に無いと思っていた“下山本”が出版されると、やっぱり、読んでみたくなり、アマゾンで取り寄せました。

未だ、五分の一程度しか読んでいないのですが、とくに“びっくりぽん”の人物が登場したり、“びっくりぽん”の展開は未だありません。

これから物語は暗殺の実行段階に入ります。もしかして、新たな人物の登場と、新たな展開があったりして、びっくりぽん!と、叫ぶ!かもね。

それで、兎に角、亜細亜産業とか、ライカビルとか、参謀第二部(G2)とか、民間諜報局(CIS)とか、対敵諜報部隊(CIS)とか、シャグノン、ケージス、ウイロビー、キャノン、とか、懐かしい文字に、こころ踊るのです。

やっぱり、私より上の世代にとって、『下山事件』は最高の“エンターテインメント” なのです。

そして、そして、謀略は、けっして、けっして、過去の遺物ではありません。今も、世界の、あちら、こちらで、企てられ、実行されています。

策謀、陰謀、策略、計略、謀略は、いまでも、世界中で、現役で活躍しているのです。

イラク戦争、アフガン戦争、アラブの春、ウクライナ内戦、シリア内戦、みんな、みんな、深く静かに、いろいろな企てが、いろいろ国により、いろいろと行われているのです。

南シナ海もきな臭くなってきました。先日、来日中の米海軍制服組トップが、

『南シナ海の国際水域を米海軍の艦艇が航行することは挑発行為にはあたらず』
『米国は国際法上、岩礁を埋め立て造成した人工島の領有権は認められないと』

と発言したそうです。

また、カーター米国防長官も南シナ海情勢を意識して『米軍は国際法の許す限りどこでも航行・飛行する』と、発言しています。

中国は南シナ海の大半の領有権を主張しており、航行の自由を名目に中国の領海を侵犯することは許さないと警告しています。

そして、我が日本は、集団的自衛権の発動の具体例として、南シナ海での、中国との、軍事衝突を、安倍総理が国会で答弁しているのです。

中国、日本、米国、三国が南シナ海で、一戦を交える可能性が大きくなってきたのです。こういう状況で、必ず起きるのが、どちらが先に手をだしたか問題です。

歴史上、いつでも、どこの国でも、こういう状況では、策謀、陰謀、策略、計略、謀略の出番となります。


ホント! 来年は世の中の大勢の人達が、いろいろなところで“びっくりぽん”と、叫ぶ年になるような?

それでは、また。

※NHKの朝ドラを見ていない方にご説明します。“びっくりぽん”ヒロインの口癖です。朝ドラも、“びっくりぽん”で激動の時代に入り、徳川幕府が倒れ、明治維新を向かえる段階に差し掛かってくるようです。



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下山事件謀略論はエンタメですか?

2010年01月22日 | 下山事件
昨日の続きです。

今日で、下山事件はお終いです。

自殺説で書かれた佐藤一氏の“「下山事件」謀略論の歴史”を読んで、他殺説から自殺説に傾いたのですが、自殺説に傾くと、下山事件に対する興味は半減するのです。

自殺説に傾くと、他殺説の主張の根拠をもひとつ、ひとつ、潰していく作業に感心が向いていくのです。他殺説潰しも、やり始めると、結構、これは、これで、面白いのかも知れません。

それで、何ですが、自殺説の決定的な証拠となった、轢断現場付近を下山総裁がウロツキ歩いたとする目撃証言の数々と、なかでも決定的なのが、下山総裁が休憩した「末広旅館の女将」の証言です。

他殺説としては、ウロツキ歩いていたのは「替え玉」だとしています。目撃証言は警察の誘導質問と証言の改竄と主張し、特に、「旅館の女将」の亭主は、元特高警察官であり、謀略の一端を担っていたと主張しているのです。

でも、しかし、下山総裁の死が謀略であるならば、何故、自殺と見せかける工作をしたのか、わざわざそんな面倒なことをする必要はない筈です。

自殺、他殺、両方を匂わせ、曖昧なまま、謎を残し事件を終結することが、謀略側にとってで、どんな利益を生むのか、この点こそ、曖昧なのです。

他殺説あっての自殺説、自殺説あっての他殺説、お互いに、それなりに、同じ思いで、相互補間関係では、と思ったりすもるのです。

謀略説の方達の本は、確かに面白く、謎が、謎を産み、とどまることなく、何処までも広がっていくのです。歴史の真実を追究することより、謎を解く過程を楽しんでいる傾向が見られるのです。

また、他殺説を主張する方達には、暗黙の了解を感じるのです。兎に角、複雑怪奇な歴史的謀略事件の謎解きを、謎のまま、いつまでも楽しみ続けること。自殺説に有利な証拠にはなるべく、関わらないこと、近づかないこと、無視すること、そのように感じるのです。

矢田喜美雄の「謀殺 下山事件」(1973年)にも、そんな傾向を感じます。彼は、リアルタイムで事件を経験し、実質的に捜査にも参加された方ですから、当初は、それなりに、真実を追求されたのでしょう。

しかし、歳月の流れとともに、真実を追求するよりも、謎を解く過程を楽しんでいるように思えるのです。彼は、当初より他殺説でしたが、犯行主体が、当初の「左翼勢力」から、途中で「占領軍情報機関説」に変わりました。

「占領軍キャノン機関説」を追いかけるうちに、段々と、謎解きが、謎を呼び、その過程を楽しんでいる傾向に変化していったように感じるのです。

謀殺説を一冊の本にまとめたのが1973年です。事件が起きたのが1949年ですから、24年後、四半世紀の時の流れを経ている分けです。事件当時の緊張感も生々しさも消え、遠い過去の、想い出となり、物語となっていった、そんな気がします。

最近の、“下山事件平成三部作” 諸永祐司の「葬られた夏-追跡下山事件」、森達也の「シモヤマケース」、柴田哲孝の「下山事件最後の証言」は、事件後に生まれた世代が、「矢田喜美雄」の説をほぼそのまま引き継いでいます。

事件当時の、緊張感も、生々しさも、無縁な方達ですから、彼らの著作は、明らかに、大衆娯楽読み物になっています。たぶん、これが、“下山本”の最後だと思うのです。

もう、見たとか、聞いたとか、手伝ったとか、指示したとか、俺がやったとか、そんな生証人も、そろそろ、ほとんど、いなくなりました。

それにしても、佐藤一氏の“「下山事件」謀略論の歴史”は、読まなければヨカッタと後悔しているます。老後の楽しみを一つ無くしたようで、勿体ないことをしてしまって、、とても残念な気が・・・・・・・。

兎に角、死後轢断で、他殺説で、謀略説で、占領軍説で、キャノン機関犯行説の方々は、一度、佐藤一氏の“「下山事件」謀略論の歴史”をお手にとって下さい。


それでは、また、来週。

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下山国鉄総裁の異常行動は鬱病か?それとも単なる動揺か?

2010年01月21日 | 下山事件
昨日の続きです。

昨日は、訪問者が「358IP」 閲覧数が「894PV」で、暫くぶりの「350越え」でした。でも、しかし、そのなかで「下山事件」の閲覧数は「30弱」で、あまり人気はないようです。

それでも、続けて下山事件の話なのです。

確かに、一連の流れから結果として誰に利益があったと考えると、当時の占領軍の犯行では?と、思いたくなるのが普通です。

それに、その直後から発生した、三鷹事件、松川事件では、犯人として国鉄の組合員、共産党員が逮捕され、その後、最高裁で無罪が確定し、謀略であった事が証明されたのですから、最初の下山事件も、左翼勢力に対する謀略と考えても、無理はないのです。

下山、三鷹、松川、で、犯人が検挙されなかったのは、下山事件だけなのですが、何故、下山事件だけが、犯人を検挙のないままで、事件から半年も経たぬ12月31日に、警視庁の捜査本部が解散されたのか?

三鷹、松川は、それなりに準備され、計画された謀略事件であったが、計画が実施される直前に、国鉄総裁の鉄道自殺があり、急遽、左翼勢力の犯行説を流し、事後に謀略に利用したのでは? と考えられるのです。

突然の事故を利用した事後謀略ですから、左翼勢力を犯人としてデッチ上げる準備が無かったので、誰も逮捕することはなかった?

その後に、三鷹、松川の計画された謀略で、左翼勢力を犯人として検挙し、世論から左翼勢力を引き離し、衰退させることに成功した事で、もともと計画された謀略ではない、単なる“自殺”なので利用価値がなくなった段階で捜査本部は解散?

それでも、自殺か、他殺か、敢えて結論を出さず、それなりに反左翼キャンペーンとして利用し続けた。それと、当時の他殺説=左翼勢力説です。

自殺説としては、下山総裁の死の前日の行動で、先客がいる警視庁総監の部屋に入って、首切りの辛さを話したり、突然、面識のない法務長官の部屋に入って、電話を借りかけ始めたり、国鉄の公安局長室で、他人に出したアイスクリームを食べたり、精神的に正常ではない事実を指摘しているのです。

自殺説の佐藤氏は、下山総裁が「鉄道病院」で、“神経衰弱”と診断され睡眠薬が処方されている事実を指摘し、初老性の鬱病を患っていたとして、それを“自殺の根拠”にしているのです。

死の前日の異常行動は、首切り通告に対する組合側の反応を想定しての、単なる不安と動揺の現れなのか? それとも、鬱病で、かなり精神を病んでいたのか? 

このあたりは、かなり微妙で、わたしとしては、死の前日だけで、それまで特にその様な兆候があったとの証言は無いので、それほど精神を病んでいたとも思えないのです。

自殺説では、占領軍から“首切り合理化”の早期断行を迫られ、組合からは激しく反対され、大規模なストライキが計画され、この狭間で、悩み苦しみ、精神を病み、そして、自ら命を絶ったととされているのです。

遺体の状況から、わたしとしては、他殺説よりも自殺説なのですが、自殺の原因が、いまいちなのです、人間はある時、ある状況で、糸がプッンと切れるように、命を自ら絶つ事はあり得ますけど・・・・・・。

それでも、鉄道技術者で叩き上げで、鉄道に愛着を抱き、単なる官僚ではなかったと云われる下山氏が、鉄道自殺をはかったのか? 別の手段があったのでは、と考えるのです。

それと、自殺した場所ですが、何故、常磐線の北千住と綾瀬の間で飛び込んだのか、自殺する人間が場所を選ぶ時、それなりに、その土地との何らかの繋がりがあると思うのですが、そのへんは、どうも、ハッキリしないのです。

自殺説は、遺体の状況からは優位にあるのですが、死を選んだ動機、死を決行した場所と方法に、説得力の不足を感じてしまうのです。

今日は、こんな処で、お終いです。

それでは、また明日。


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歴史は誰かが描いた筋書きですか?

2010年01月20日 | 下山事件
昨日の続きです。

“「下山事件」謀略論の歴史”を読み、他殺説から自殺説に傾きつつ、書いているのですが、謀略説は話として面白く、いろいろと楽しめるのですが、自殺説は“身も蓋も”無く、“そうだったの!”で終わってしまうのです。

謀略論は面白く、タネが尽きないのです。すべての事象は、その人の、立場、考え方で、いろいろに解釈できます。自殺説は謀略説の論拠を一つ一つ潰して行く作業なので、あまり想像的ではないのです。

自殺説は、どうしても、他殺説の反論として存在しているところに、いまいちなのです。確かに、下山総裁が、人員整理で苦悩し、そして、線路に飛び込んで死んだ。ただそれだけの事実ですから・・・・・・、読み物として、物語が無いのです。

ですから、謀略論は、それなりに歓迎されるのです。諸永祐司の「葬られた夏ー追跡・下山事件」(2002年)とか、森達也の「下山事件-シモヤマ・ケース」(2004年)とか、柴田哲孝「下山事件 最後の証言」(2005年)とか、今でも出版されるのです。

3冊とも読みましたが、確かに、読み物として、物語として、面白いのです。この3冊は、3人が週刊誌の連載で一緒に仕事をして、後に、3人が別々に出版したのですが、新しい事実は、あまりありません。

あの時期の政治情勢を考えれば、確かに国鉄総裁の死は、占領軍に有利に作用し、左翼勢力が衰退するキッカケになった事は歴史的事実です。

1949年の1月の総選挙で共産党が35議席を獲得、7月5日に下山事件が、そして10日後に三鷹事件が、1ヶ月後の8月17日に松川事件が、翌年の6月6日に日本共産党が非合法化、6月25日に朝鮮戦争が勃発。

この流れを考えると、個々の事件が、偶然、バラバラに発生したとは、とても思えない、誰か、筋書きを書いた奴が居ると、思うのが普通です。

すべては「朝鮮戦争」に向かっての体制作りだったと、そう考えても、そう無理の無いことです。松本清張の占領軍謀略説は、朝鮮戦争は、南から北へ侵攻が開戦のキッカケとの立場で書かれていたのです。

しかし、現在では、朝鮮戦争は“北から南へ”の侵攻が、開戦のキッカケだった事は、歴史的な事実として定着しているのです。朝鮮戦争の初期の南の敗走を考えれば、準備万端の開戦でなかった事を証明しています。

それと、佐藤一氏が、左翼勢力の衰退は日本共産党の責任と云っているのです。1950年にコミュンフォルムから日本共産党の弱腰批判を受け、指導部は混乱し、占領軍に丸腰で武装解放闘争を挑み自滅したと、そう主張しているのです。

途中、少し整理すると、

①遺体の状況は、生体轢断であった事が明らか・・・・・・最新の法医学からの結論
②朝鮮戦争は南からの侵攻・・・・・・歴史的事実
③左翼勢力の衰退は日本共産党の自滅が原因・・・・・・コミュンフォルム批判

こういう事実に対して、謀略説はあまり採り上げないのです。特に、謀略説は、当初、共産党に近い立場の人達が多く、共産党の指導方針の誤りには触れず、占領軍の弾圧に責任を転嫁する傾向があったのです。

私としても、「下山事件」が発生した時期は、確かに、日本の政治状況の転換点となった時期と、ピッタリ重なりますが、そうは見事に、誰かが、一連の筋書きを描いたとは、思えなくなりました。

今日は、ここでお終い。


それでは、また明日。



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下山事件!結果有利で占領軍犯行説はどうなの?

2010年01月19日 | 下山事件

久ぶりの下山事件です。

前回は、去年の10月14日の「土浦脱線事故から“D51-651”で下山事件に!」以来です。10月の末に、自殺説の佐藤一氏の“「下山事件」謀略論の歴史”を読み、その後は、なんだか、他殺説、謀略説、占領軍犯行説に、興味を失っていたのです。

他殺説の根拠になったのは、東大法医学教室の「死後轢断判定」ですが、これが、かなり怪しくなってきたのです。これが怪しくなると、謀略説は根底から崩れさるのです。

事件当初より、東大の「死後轢断・他殺説」と、慶応の「生体轢断・自殺説」が争われ、実際に解剖した東大説が主流だったのです。死後轢断→他殺→謀略→占領軍の犯行説。

占領軍謀略説は、事件から10年ほど経った、60年安保闘争に前後して、松本清張氏が発表したのですが、時代の風潮からして、この説の方が受け入れ易かったのです。それ以降、ずっと謀略説が主流です。

“「下山事件」謀略論の歴史”の中で、北海道大学教授の錫谷徹氏の「死の法医学-下山事件再考」を採り上げ、錫谷徹氏の、死体の内臓破損、外部の裂傷状況などから、「立った状態」で、機関車の正面から衝突したとの見解を紹介し、立った状態→生体轢断→自殺説を補強しているのです。

「死の法医学-下山事件再考」は、1983年に書かれたもので、法医学もそれなりに進歩しているので、生体轢断は間違いないと断言しているのです。読んでいて、私も、何となく、そんな気がしてきたのでした。

錫谷徹氏には政治的な背景も利害関係も有り得ないと思いますし、純粋に法医学的な立場での見解ですから、これは、かなり信用できると思うのです。

「他殺説・謀略・占領軍説」での疑問は、殺害後に何故、総裁に似た男を現場付近を歩かせ、多くの人に目撃させたのか? 自殺工作の目的は? 他殺説の方達は、このへんどう説明していたんだっけ?

本日は、思いつくままに、いろいろ、脈略なく書いております。兎に角、とっかかりです。

それで、他殺説では下山総裁の殺害動機として、

①占領当初の軍国主義・国粋主義を一掃するために、民主主義勢力を育成した結果、左翼革命勢力の拡大を助長してしまった事。

②中国、北朝鮮での共産主義政権の樹立など、国際共産主義の拡大に対して、日本を反共の砦として位置づけ、左翼勢力の拡大を阻止する政策に変更した時期であった事。

③当時、10万人の首切りで労使対立が頂点に達し、大規模なストライキが計画されていた時期の国鉄の総裁を殺害すれば、国民は、国鉄労働組合内部の左翼勢力の犯行との印象を抱き、労働組合、そして国民から左翼勢力を切り離し、孤立させ、衰退させることが可能。

④朝鮮戦争の準備として、日本国内の兵站部門としての国鉄から左翼勢力を排除し、戦争物資輸送の安定を確保する。

結果として、総裁が殺害された事で、国鉄は首切り反対闘争は挫折し、組合の抵抗も無いままに、10万人の首切りが計画どうりに実施され、朝鮮戦争も勃発し、国内の左翼勢力は衰退した。

結果は、確かに、すべて占領軍に有利な方向に世の中の流れは変わったのでした。事件は誰にとって有利に働いたのか? と考えれば、答えは決まるのです。

それに対して、佐藤一氏は、でも、しかし、それは違う! と云っているのです。結果として左翼勢力の衰退は、日本共産党の指導方針の誤りで自滅したと云うのです。

それで、今日は、天気が良かったので、午前中は自転車で走りまわり、午後になってから書き始めたのと、問題が、問題ですので、とっかかりがナカナカで、時間もきたので、今日は、このへんで終わります。


それでは、また明日。


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土浦脱線事故から“D51-651”で下山事件に!

2009年10月14日 | 下山事件
昨日の続きです。

何となく、他人の庭先を黙ってこっそり通り抜けるような、後ろめたい心境を抱きつつ、駐車場の片隅にある石碑に到着。

脱線転覆事故の犠牲者なのです。一列24名が4段ですから合計で96名。大惨事だったのです。


氏名の後に、
【ここに刻まれているものは事故裁判記録に掲載されている96名の方々の氏名であるが、この他にも事故がもととなって亡くなられた方も数多く居られるものと想像される。ここに併せてその冥福を哀心よりお祈りするものである】と刻まれています。

こちらは裏側なのでしょうか? 事故の内容は反対側に?

こちらが正面のようです。“慰霊碑”と刻まれています。すこし枯れ始めて居ますが、菊の花が手向けられています。遺族なのか、鉄道関係者なのか、いまでも訪れる方がいるのです。

手前に写っている“木の杭”が、事故から22年後の昭和40年に建てられた慰霊碑で、この御影石の慰霊碑は昭和61年に建立されたそうです。

こちら側に、事故の内容が刻まれていました。光線の関係で文面を鮮明に撮すことができませんでした。

それで事故なのですが、昭和18年の10月26日の午後6時40分頃に発生したようです。昭和18年と云う事は、敗戦の2年前になります。


石碑に刻まれている内容を要約すると、

【事故は、午後6時40分に貨物“294列車”が土浦駅に到着。構内で入れ換え作業中に誤って上り本線に進入して立ち往生、そこへ上り“254貨物列車”が進入し両車両は脱線暴走し、254貨物列車は桜川沿いの下り本線上に転覆。

この時、多数の乗客をのせた下り“241旅客列車”が接近しつつあり、急停車するが間に合わず、254貨物列車に激突。

旅客列車は脱線転覆。1、2両目は大破、3両目は鉄橋から斜めに傾き、4両目は桜川に方完全に水没した】

今から66年前、列車の“二重衝突事故”が発生し、この鉄橋から列車が転落したのです。死傷者100余名、死者96名の大惨事だったのです。


“この鉄橋”から転落と書きましたが、現在の鉄橋は事故から16年後に架け替えられていました。



それで、この脱線転覆事故が、あの“下山事件”とどう繋がるのか?です。

それが、この事件をネットで調べていたら、下山総裁を轢いた機関車が、この時に事故を起こした機関車“D51-651”だったとの記述を見つけたのです。

でも、しかし、複数の関連サイトを見ても、「貨物列車294」の機関車なのか、「貨物列車254」の機関車なのか、「旅客列車241」の機関車なのか、その記述はないのです。

「D51」は、主に貨物用に開発されたようなので、294列車か254列車のどちらかなのでしょう。

そうすると、「294列車」が本線上に立ち往生し、そこに254列車が激突したのですから、可能性としては「254列車」の先頭機関車は大破したもの思われます。

そうすると、事故後に修理され、その後に下山総裁を轢いた機関車は、事故の発端となった、「294列車」を引いていた機関車ではないかと、そう、思うのです。

この機関車「D51-651」は、2度も悲惨な事故に関係していたのです。ある人は、生産番号が「651」なので「ムゴイ」なんて、こじつける方も・・・・・・。

兎に角、これまでも、何度も脇を通りかかり、まったく気付かなかった石碑、その事故から“下山事件”に繋がるなんて、何かの縁かも?

そして、また、いつも覗くあるブログで最近“下山事件”の本が紹介されていたりして・・・・・・・、そろそろ、中断していた“下山事件”の話しを再開したくなったりして・・・・・・。

秋の夜長には“持ってこい”の推理ドラマなのです。さぁ、これから、本を注文します。再開は本を読んだその後です。

それでは、また明日。

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土浦脱線事故から下山事件に繋がる?

2009年10月13日 | 下山事件
暫くお休みしていましたが、パソコンは何とか動いています。この間、台風やら、孫の運動会やら、いろいろありまして、それなりに忙しかったのであります。

更新をしないと、それなりに、何となく、気分的にしっくりこないのです。一日一回の更新は、それなりの達成感や満足感をもたらし、生活の“メリとハリ”になっているようです。

それで、先日、土浦市内をいつものように、ブラブラしていたら桜川の畔で、


柵越しに“犠牲者氏名”と刻まれた文字が眼に入ったのです。


この辺りは、これまでも何度も通っている場所です。しかし、このとき、始めて、この石碑に気付いたのです。

川の畔で“犠牲者”と云えば、川が氾濫して? それとも、何か? 石碑の反対側は高さもあり角度的に良く見えず、何による犠牲者なのか判明しません。

何なのか?と思いつつ、土手を歩いていると、町内会の倉庫を開けて入って行く70代と思しき男性を見つけ、もしかして・・・・・?。


自販機で缶コーヒーを買い、川面を眺め飲んでいると、先ほどの町内会の役員風の男性が倉庫から出て来ました。

もしかして、このお爺ちゃんならば、何か、きっと、“犠牲者”の事を知っている筈と思い、コーヒーを飲みつつ待っていたのです。

「すいません、ちょっとお聞きしますが、あそこにある石碑に犠牲者と刻まれていますが、何の犠牲者かご存じですか?」
「あァ、あれですか、あれは、戦時中にあそこで脱線事故があり、川の中に車両が転落して多くの犠牲者が出たのです」
「はぁー、そうでしたか」
「大事故で多くの犠牲者が出たのですが、戦時中と云うことで報道もあまりされず、石碑も戦後になって建てられたのです」
「石碑は新しいようですが?}
「いゃ。あれが建ったのは20年ぐらい前だったと、今は“国鉄”が柵を作って囲ってしまったので、えェ・・・・・・・」
「はぁー、そうでしたか、脱線事故ですか・・・・・・。ありがとうございました」



お爺さんは70代、もしかして、脱線事故での騒ぎを目撃していたかも? 残念ながら聞きそびれてしまいました。

あらためて、川面を見つめ、鉄橋を見つめたのです。これはもう、柵の中に入って、間近に石碑を確認しなければと思い、戻ることにしました。


石碑は“JR”の“独身?寮”の敷地の中にあり、先ずは玄関から入り、受付の窓口で来訪の目的を告げます。


受付の方は、JRを定年退職された“元助役さん風”の方で、机の上の書類に眼を落とし何やらボールペンで書き込んでいます。私の姿に気付くと、腰を少し浮かせて、目の前の小さなガラス戸をスライドさせ、こちらの反応を待っています。

「こんにちは、すいませんが、あちらの石碑を拝見したいのですが、よろしいでしょうか?」
「あっ、ハイ、どうぞ、そちらから廻って下さい」と右手を上げ、庭の方に向けたたのです。
「それでは、失礼します」

とても簡単に入れました。もしかして、目的とか、名前とか、住所とか、電話番号とか、聞かれたり、書類に記入したりとか、そんな手続きがと、考えていたのですが、以外とあっさり通過できました。

こんな時間に、おじさんがカメラを首からぶら下げ、この庭先を歩いて行くのです。とても怪しいのです。


それで、一階は広い食堂になっており窓ガラス越しに、並んだテーブルが見え、“賄い風”の女性がテレビを見ている姿見えたのです。

私は、“怪しい者では無い! ちゃんと、受付で来訪を告げ、許可を受けてここを歩いているのだァ!”と、胸を張り、堂々と、歩を進めたのであります。

女性の様子をチラッと横目で確認すると、一瞬、視線をこちらに向けたのですが、直ぐにテレビ画面に戻したようです。

この先に石碑があります。

あの“下山事件”との繋がりは次回と云う事で・・・・・・・。


それでは、また明日。


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“下山事件” 李中煥の証言は綻びだった?

2008年09月22日 | 下山事件
先週の続きです。

私・・・先週は、“長嶋フクさん”の証言が謀略だとしましたが、今日は、謎の韓国人の登場です。

その名は、“李中煥”日本語の読みでは“リ・チュウカン”と読むのでしょうか。

B氏・・・その「リさん」は、どんな方なんですか?

私・・・これがまた、なんとも謎の多い人物で、韓国と、ソ連のダブルスパイとか米軍の情報機関とも関係していたとか、訳が判らない男です。

B氏・・・それで、李さんは何をしたわけ?

私・・・下山総裁が殺害される“3日前”に下山暗殺計画の情報を、在日韓国代表部に持ち込んできた。以前から、いろいろな情報を持ち込んでは謝礼金をせびっていたようです。

彼の情報では、『殺してから列車に轢かせ自殺に見せかける』との事だった。その事が3日後に現実になったわけ。

この時に、下山暗殺計画の主体を、彼が言及していたのか?、していなかったのか? 

後で触れるけど、それが、米軍情報機関だったのか? ソ連の情報機関だったのか? どうもハッキリしない。

そして、事件が起きて5日後に再び訪れ、『殺害方法は腕の血管から血を抜かれての失血死』と、まで云ってきた。

古畑鑑定で、死因を失血死として発表したのは、事件が起きてから、1ヶ月後だった。

B氏・・・えッ。それって、大変な情報じゃないの、計画段階から知っていたと云う事は、実行犯の相当近い処に彼は居たって事だろ。犯行の主体は別にして、事実はその通りだったわけだから。

私・・・彼は、その5日後の7月15日に、米軍情報機関に、“占領軍作戦命令違反”で逮捕されている。

逮捕容疑は、7月10日、占領軍に「下山事件」に関する“偽情報”の提供となっている。兎に角、彼は事件の真相を知っている筈だ。

B氏・・・そこら辺から、何だかよく分からなくなるね。日本の検察は彼を取り調べているの?

私・・・そこらも変なんだけど、彼が強制送還待ちで小倉刑務所に服役中に、彼の方から、下山事件について話たいとして、検察に連絡してきた。

B氏・・・下山事件の情報を漏らした件で逮捕され、強制送還になったんじゃないの?それをまた日本の検察にしゃべるの? そんな事が可能なの? 何かよく分からないね。

私・・・それで、小倉刑務所で検察が供述調書を取っているんだけど、その内容もいまいちハッキリしないし、その調書も東京駅で何者かに奪い盗られているんだ。その為、再度、供述調書を取りに行っている。

B氏・・・奪い盗られる何て検察官としては、間抜けな話でもあり、謎めいた話でもあるね。

私・・・それで、検察に対して李は、犯行の様子、実行犯の名前、拉致に使用した車のナンバー等について供述したんだけど、その後の裏付け捜査で虚偽である事が判り、李に対する捜査はそれで終了したそうだ。

B氏・・・それは、絶対におかしいよ。事前に下山殺害を予告して、殺害方法まで知っていたし、その事実については虚偽でないわけだし。もっと洗って行けば真実に迫れた筈だよ。

私・・・そこいら辺も、確かに怪しいのです。事前に殺害計画を知っていた事実が一番の重要事項だし、それに、詳しい供述内容については、今も検察は明らかにしていない。

B氏・・・李は真犯人を知っている筈だ。検察も何か隠している。

私・・・ここで、私の推測ですが、李は情報屋として、ソ連にも米国にも情報を流していたわけだから、何かの“偶然”で計画を知り、事の重大さをあまり認識しないで、情報を売って小銭を稼ごうとした。

それを知った米軍情報部が口止めの為に逮捕し、事件後に事後工作として彼を利用したんじゃないかと思う。

B氏・・・確かに、逮捕した事実から、米国にとって不利な情報を流した事は確かだね。

私・・・その供述調書の内容なんだけど、事件から30年後の1979年に米国の国立公文書館で見つかった。

B氏・・・何て書いてあったの? まぁ、未だに犯人探しをやってるわけだから、決定的な事は何も書かれていない気がするけどね。

私・・・段々と、判ってきたみたいですね。その通りです。供述内容として、4項目が書かれていた。

①ソ連大使館で暗号係りをしているうちに下山国鉄総裁の暗殺計画を知った。

②計画実行者は秘密行動隊員で下山総裁に情報を提供するふりをして接近した。

③殺害方法は注射で呼吸を止め、血を抜いた。

④自他殺不明となるように轢断現場の常磐線レールに置いた。


B氏・・・犯行主体については、まったく触れていないの?

私・・・そうです。ソ連大使館で暗号係りをやっていて計画を知った事から、ソ連の犯行を“匂わす”程度だった。

B氏・・・彼の供述が「ソ連犯行説」ならば、米国が逮捕するのは理解し難い。

私・・・李中煥が“下山拉致計画”を事前に知ったのは、何らかの偶然による、情報漏れだと思う。

彼を逮捕し慌てて事後処理の工作を行った事で、結果として事件はより複雑に見えてきた。そんなところです。

B氏・・・そうすると“李中煥”の件は謀略ではないと云う事。

私・・・事後に綻びを取り繕っただけです。

それと、一部訂正があります。9月15日の「キャノン機関はヘボだった」で、松本清張もキャノン機関説であったと書きました。

ところが“日本の黒い霧”を読み返したら、彼は、

『このキャノン機関が下山事件に関係があるように云われているが、私はキャノン機関は関係ないと思う・・・』

『キャノン機関は・・・鹿地事件をやって、たまたま名前を暴露された・・・失敗した機関なのである・・・』

『軍諜報機関と云えば直ちにキャノン機関に結び着く今日のジャーナリズムの安易な常識はもっと改められなければならない』

と、ハッキリ書いていました。

“清張先生と私”は同じ見解でした。ここにお詫びして訂正します。

      ゴメンネェ! m(_ _) m


それでは、また明日。


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“下山事件” フクの証言は謀略?

2008年09月19日 | 下山事件
昨日の続きです。

私・・・それでは、本日から具体的な証言を採り上げ、検証していきたいと思います。先ず最初は、轢断現場付近を“下山総裁”が一人、彷徨いていたと云う証言からです。

これには、何人もの証言があり、自殺説の裏付けに使われているのですが、証言はあまり信用できません。

B氏・・・ずいぶん簡単に否定しますね。

私・・・何故かと云えば、この捜査を担当していたのが、事件現場の状況を一目見るなり、“直感的”に自殺と判断した捜査一課だからです。

全て、自殺を立証する方向での裏取りです。このような捜査手法は現在においても行われており、目撃者の証言を“筋書”きに合わせて、“誘導”したり、不確かな情報を断定的に書き換えたりするのです。

B氏・・・そう云えば、最近でも、何処かの地方都市で、選挙違反をでっち上げた事件が報道されていたね。

私・・・警察は、自ら作った筋書きに合わせて、逮捕者から自白を強制し供述調書をでっちあげ、数十人を起訴しました。これからすれば、目撃証言の都合のいい改竄なんて朝飯前です。

事件前に、轢断現場付近を彷徨く下山総裁の目撃証言も、偶々歩いていた男を目撃し、距離や周囲の状況から、細かい人相、服装は判別不可能でも、下山総裁らしき中年紳士を見かけたとの証言に変えられたのです。

その中で、自殺説を決定づけた“長嶋フク証言”があり、これが“最初の事後謀略”です。

B氏・・・自殺説として、かなり有力な証言なわけだ。それも、怪しいわけねぇ。

私・・・偽証だと思う。いゃ、明らかに偽証です。長嶋フクはこの旅館の経営者“長嶋勝三郎”の妻で、五日の2時頃に休憩したいと云って訪れた、下山総裁に応対したと、証言しました。

この証言は、事件後6日経った7月12日、西新井警察署に夫の勝三郎から電話で通報があったのです。

B氏・・・事件後に周囲の聞き込み捜査では引っかからなかったわけ。

私・・・事件後6日とい時間経過、捜査員の聞き込みではなく、電話による通報と云う点も怪しい。そして、決定的に怪しいのは、この“勝三郎”が戦時中の“特高警察”だった事実。

B氏・・・あの有名な思想犯を専門に取り締まるヤツねぇ。拷問とかやっていた。

私・・・そうです。この男の背景から、実行組織との繋がりが匂ってきます。それと、事件後、勝三郎の羽振りがよくなったという情報もある。

B氏・・・証言の報酬を手にしたわけだ。でも、その情報はあてになるの?

私・・・それは、オマケ的な情報です。兎に角、フクの証言が、服装、人相、体型、特徴的動作、等々の細部に渡り、完璧だった。

B氏・・・偶々訪れた客の特徴を詳細に記憶しているのは明らかに不自然だね。人間そんなに記憶力はよくないから。

私・・・それと、諸永裕司の「葬られた夏」のなかで、

『・・・下山はヘビースモーカーだった。それが、3時間も休んだのに、末広旅館にはタバコの吸い殻が一つも残っていなかった。しかも、水かお茶を飲んだときに唾液がついたはずのコップは洗われ、髪の毛一本さえ残されていなかった。このため、休憩したのが下山本人かどうかを血液型から特定することもできなかった・・・』

と云って、偽証の根拠の一つとしている記述がある。

B氏・・・タバコは唾液から血液型がばれるし、宿帳への記入は筆跡を残すから・・・と、云うわけで、偽物の影を消して行ったわけだ

私・・・そこは判るけど、事件後一週間近く経ってから、警察に名乗り出たわけだよ、いくら場末の汚い“連れ込み旅館”だからと云っても、一週間も灰皿やコップを洗わない方がどうかしている。

B氏・・・そう云われてみれば、変ですね。

私・・・宿帳の記入を断った事は怪しいと思う。でも、しかし、私としては、そもそも、この日、末広旅館にそのような人間は現れなかったと考えている。

わざわざ、偽物を使って目撃証言をでっちあげなくても、都合のいい証言はいくらでもできるからね。

B氏・・・旅館の出入りに際して他の目撃証言はあったの?

私・・・ありません。

B氏・・・それじゃ、下山総裁らしき人物が旅館に現れた事実だって疑わしいかもね。この写真は、いつ頃に撮ったの?

私・・・2年ほど前です。この門の脇にある木だけど、この繁り方から、当時からここにあったような・・・・・・。


     
これが当時の末広旅館だけど、雰囲気が似ているだろ。



B氏・・・しかし、よくもまぁ、暇だとは云えこんな処まで行って写真を撮ってくるね。

私・・・それは、もう、何たって行って見たくなるものです。現場を歩き、当時の匂いを探したくなるものです。下山病患者としては。

今日は、この辺で終わりにします。

それでは、また来週。



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“下山事件”の真相は?全体像は?

2008年09月18日 | 下山事件
昨日の続きです。

B氏・・・え~と。今日は、私の方から先に、これまでシリーズのタイトルにあるように、諸説を展開してきたのですが、少し整理したいと思います。

シリーズのタイトルを順番に並べると、

 ① 下山事件を考える?

 ② 下山事件は失敗だった

 ③“下山事件”複雑怪奇は事後工作!?

 ④“下山事件”検死100体の経験に意味無し!

 ⑤“下山事件”結果としての殺害

 ⑥“下山事件”キャノン機関はヘボだった!

 ⑦“下山事件”追及する側の思惑は?

と、云う事で7回も続けてきています。まぁ、よくもここまで、引っぱってきたもんだとは思うのです。

それで、3回目の“複雑怪奇は事後工作”についてですが、いまいちハッキリとした見解が無かったように思うので、もう一度、お願いします。

私・・・判りました。確かに読み返すと、事件を複雑怪奇に見せている原因は、事後工作である。として、話を進めていた筈が、その点について、ほとんど何も話していませんでした。

え~と。先ず、順を追って説明すると、下山事件は、計画段階では殺害を目的としていなかっが、結果として殺してしまった。その意味で失敗でした。

それで、結果としての殺害から、独自組織の独自計画の可能性を云いました。この組織も殺害までは考えていなかったと思うのです。

独自の要求に対して、総裁が最後まで抵抗したことにより、結果として殺害に到ったと。兎に角、拷問と云う手段が使われている事、これが決め手です。拷問は本来、殺害を目的としていません。

B氏・・・すると、キャノン機関も、独自組織も、結果としての殺害と云う事になるわけ?

私・・・そう云う事です。

B氏・・・そうすると、死体の処理方法については、殺害後に急遽決められたと? でも、それなりに事前に準備された、方法と場所が、選択されている様子が窺える気がするけど?

私・・・そこなんです。そこが「複雑な事後工作」と関係するのです。わたくしのスルドイ推理で、下山事件の全体像を“必要にして充分”“簡潔にして明解”に説明したいと思います。

B氏・・・そう。最初にそう云う全体像を明らかににして、そこから、個別の事実、個別の証言にそって、検証、解釈、推理、推測、憶測、等で、話を展開して行くぺきでした。

私・・・そうですが、話して、考えて、また話て、そして考えると云う、流れですから、そう旨く話は、理想的には展開しないのです。

B氏・・・そうすると、シリーズを進める間に、かなり検証、解釈、推理、推測、憶測は、変わってきたと云う事?

私・・・それは、まぁ~、日々、熟慮し、熟考し、思い巡らし、思い直し、それなりに頭を働かせた結果ですから、かなりの変貌を遂げている訳です。

B氏・・・そうだったのォ! 何か、自信ありげにしゃべっている様に見えたけど、もしかして、その場の勢いで、考えてもいなかった事もしゃべっていたりして?

私・・・まぁ。それは、それで、その場の勢い、いゃ。“ひらめき”と云う事もありました。

B氏・・・兎も角、それでは、あらためて“必要にして充分”“簡潔にして明解”な説明を聞きたいと思います。

私・・・それでは、

①下山事件は、ある国内の日本人組織が、計画実行したものであり、占領軍の情報機関は主導的には関わっていなかった。

②情報機関は、下山総裁が拉致された時点で、情報収集を開始し、殺害後に介入してきた。

③介入してき占領軍の情報機関はキャノン機関とは“別の組織”であった。この組織が、三鷹、松川の謀略工作を計画した情報機関である。

④総裁の轢断現場は、“別の謀略”の現場として、計画されていた場所であった。

⑤別の謀略とは、三鷹事件、松川事件の一連の破壊工作である。

⑥下山事件の現場は、本来であれば、“綾瀬事件”と云う、脱線転覆事件の現場になる筈であった。

⑦結果として殺害してしまった総裁の遺体を、列車に轢かせる事で、国鉄労組や左翼勢力の犯行を匂わせ、後に続く三鷹、松川の事件と合わせ、世論を組合、共産党から引き離す事に“利用”した。

⑧計画外で殺害した遺体を、列車妨害計画の工作員を使って遺体を轢断し、“自殺”に見せかける工作をした。

⑨計画されていなかった殺害、計画された列車妨害現場、この二つ結を付けた事で、自殺に見せかける工作に綻びが生じた。

⑩綻びを取り繕う為に、事件の捜査は曖昧な形で終結し、その後に「キャノン機関説」が流された。

⑪キャノン機関説を流す事で、“他の機関”の関与、実行組織の存在を覆い隠す事に成功している。

⑫キャノン機関説は別の情報機関による“陽動作戦”であった。陽動作戦に引っかかったのが、矢田貴美雄であり松本清張であった。

⑬事件後に、キャノン機関員の証言とか、関係者に近い筋からの二次情報、三次情報とか、犯行に加わったと云う人間の証言とか、謀略工作が行われた。

⑭キャノン機関説は米国にとって都合がよかった。キャノン機関の周辺をいくら探っても、まったく関与していないので、答えは出てこない。

⑮追及側のキャノン機関であるとの“思い込み”や、“決めつけ”や“願望”で作り上げた脚本に、現実の証言を無理矢理組み込もうとして、問題をより複雑にしてしまった。

複雑に見えるモノは、実は以外と単純であり、複雑にしているのは、問題を解く側の思い込みに原因がある・・・・・・そんな気がするのです。

B氏・・・何となく全体像が掴めてきた気が、そうすると、次は、その結論に到る、事実や、証拠や、証言とかを、そのストーリーに沿って説明してくれる。

私・・・その先に、分け入って行きますか? 

B氏・・・ここまで来たら、もう、途中で引き返す事はできません。行き着く処まで行こうじゃないの。

私・・・判りました。それでは、次回は、具体的な処に分け入ります。


それでは、また明日。



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