歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

稀勢の里は私的に“ほぼ優勝”で来場所に望みを託します

2016年03月28日 | 相撲の話し
誰が何と云おうと、云われようと、稀勢の里は『ほぼ優勝』でした。

今場所は下位力士との取りこぼしも無く、横綱の日馬富士と白鵬には敗れましたが、鶴竜には勝って13勝2敗の成績でした。

白鵬戦は、立ち会いでの駆け引きと気合いに負けて、優勝への闘志と緊張感の糸が切れかかり、翌日の日馬富士戦まで引き摺っての連敗。

しかし、千秋楽の豪栄道戦に勝って来場所につなげました。今場所、千秋楽まで優勝を争った経験は、きっと、きっと、稀勢の里を成長させた筈です。

兎にも角にも、ガンバレ!ガンバレ! 稀勢の里!です。

それにしても、です。終わってみれば白鵬で、そして、そして、優勝を決めた日馬富士戦の汚い、汚い、取り口は、横綱の名を汚すものです。横綱審議会は白鵬に注意勧告をすべきです。

優勝が決まると、表彰式を見ることなく観客の半分ほどは席を立ち場内は閑散、土俵下での優勝インタビューでは場内から激しい野次、白鵬は言葉を詰まらせ、涙を流しての謝罪。

しかし、支度部屋でのインタビューでは『稀勢の里関も変化があった文句ないでしょう』と云ったそうです。彼は判っていないのです。

ルールに触れなければ何でもありで、対戦力士がみんなが嫌がる胸の汗を、審判部に注意されても拭くことは無く、毎度毎度の立ち会いの張り差し、そして、顔面を覆い攻撃に、その果てには猫瞞し、これでは、いくら勝っても、いくら優勝しても、ダメ、ダメ、なのです。

やはり、日本への、日本人の想いへの、大相撲への、それなりの、理解と配慮、そして、謙虚さと尊敬が、自覚が、欠如しているのです。

ただ強いだけでは“大関”なのですよ、横綱は強いだけでなく、人格も、勝ち方も、問われるのです。

ここで、ひとこと云って置きます、当然ですが、白鵬がモンゴル人だから嫌いなのでは有りません。彼の、その土俵態度が、そして、土俵態度と裏腹な、その言動が嫌いなのです。

以前、双葉山を、尊敬し、目標とし、何て事を云っていたのですが、どこを、どう見ても、あの名横綱とは、違いすぎるのです。その辺は、本人も自覚しているようで、いまでは、まったく口にしなくなりました。

兎に角、来場所、白鵬は、気力、体力の温存場所になります。と、云う事は、成長した稀勢の里の敵ではありません。と、云う事は、稀勢の里が優勝となります。


兎に角、そう云うことになります。


それでは、また。


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稀勢の里が優勝!来場所も優勝!間違いなく横綱!相撲の風景が変わる!モンゴル時代が終わる!

2016年03月22日 | 相撲の話し
稀勢の里が目覚めました!

間違いなく!琴奨菊効果です。

あの琴奨菊が優勝したのですから、俺だって優勝はできる!と、確信したのです。

昨日の琴奨菊戦での立ち会いの変化、本気です、何が何でも、優勝!の想いが伝わってきました。

稀勢の里は変わりました。本気で横綱を狙っています。

先場所の琴奨菊の優勝で流が変わったようです。

モンゴルの時代が終わりそうです。

日馬富士は満身創痍でもう限界、鶴竜は横綱の地位を守るのに四苦八苦、そして、あの白鵬は何でもありで、最後の悪あがき状態で、横綱として、スポーツマンとして、人間として、品位も、品格も、人格も、資格も、投げ捨てました。

そして、あの照ノ富士ですが、“把瑠の道”を辿りそうな気配が漂っています。壱の城はあの程度の相撲取りで、幕内を上がったり下がったりで終わりそうです。

ハワイ時代が終わったように、モンゴルの時代も終わるのです。

三人の横綱に、モンゴル勢に、引導を渡すのは、稀勢の里、琴奨菊、勢、です。

年内には、稀勢の里も、琴奨菊も、横綱となり、『稀勢・琴時代』の到来です。

と、まあ、ここまで、かなり、かなり、強気に綴ってきましたが、それなりの、一抹の不安は隠せないのですよ。

稀勢の里が“単独”で“首位”は、これまでの事を思うと・・・・・・、かなり、かなり、とても、とても、不安なのです。

でも、しかし、これまでの稀勢の里とは違う!のです。

これから、鶴竜を、日馬富士を、白鵬を、土俵の下に叩き落とし、賜杯を抱いてくれるものと信じています。

特に、“汚い白鵬”には、張り倒し、かっぱじき、叩き出し、肉体的にも、精神的にも、立ち上がれないほどのダメージを与え引退に追い込んで下さい。

ちょっとばかり、興奮してしまいました。

兎に角、時代は変わるのです。

ついこの間までは、日本人の優勝は、遠い遠い気がしていましたし、横綱などは、夢のまた夢だったのです。でも、しかし、そのうちにモンゴル時代が、遠い、遠い、過去となるのです。

いつまでも、いつまでも、変わらず続くように見えても、時代は“何か”をキッカケとして“くるりんぱッ!”と変わるのです。

モンゴル時代の終焉は、いまにして思うと、あの旭天鵬の引退が象徴的だったのです。モンゴル勢の先駆者旭天鵬とは、つくば市の“駐車違反撲滅キャンペーン”で、袖すり合った仲なのでした。


兎に角、きょうの鶴竜戦が楽しみです。


隣町のオジサンとして、稀勢の里が賜杯を抱いた姿を、綱を締めた姿を、とても、とても、見たいのです。


それでは、また。




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龍ヶ崎で諸岡邸の再建された赤レンガ門塀は思いの外に素晴らしい仕事!素晴らしい風景!でした

2016年03月17日 | 龍ヶ崎の風景
前回の続きです。

八坂神社の先を右に入ります。


先ずは、仮設?案内板の説明を拝見します。


去年の10月に移築完成。去年新聞記事を見てから、そのうちに、そのうちに、と、思いつつ、そして、きょうの日となりました。


思っていたイメージよりも、とても、とても周囲の風景に馴染んでいて、違和感がありません。


当日(3/4)は、樹の剪定作業中でした。季節が進み背景の樹に葉が生い茂る頃は、緑を背景にしての赤レンガの門塀は、とても、とても、絵に成ると思います。


堂々とした門柱。


これが覆輪目地。かなり高度な技能を要求されると聞きましたが、単に、平らなコテを、半円のコテに返れば、手間は変わらない?と思ったりしたのです。

でも、しかし、よくよく眺め、よくよく考えると、結合部にかなりの手間が掛かりそう?と思えてきました。


こちらも、


こちらも、100年を越える時を経過した扉の取り付け金具。錆の具合がいいです。


それで、通りすがりの者が、こんな事云うのはなんですが、壁の裏側の補強の柱ですが、これはチョット残念。赤煉瓦風のタイルなど貼って頂きたい何て、思ったりしたのです。


兎に角、思いの外、移築とは思えない、昔から、ずっと、ずっと、ここにあった様な風景。


こちらが2005年9月に訪れた時の、

※廃屋好きとしては、この風景は捨てがたかった。

あの頃の諸岡邸。


背景に樹が茂り、石畳の両側が緑に被われる頃に、“諸岡邸の赤レンガ門塀”の移築は完成。


今年、夏の終わる頃に、また来たいと思いつつ赤レンガを後にしました。


それでは、また。


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龍ヶ崎の再建された赤レンガ塀を目指しつつアチラとかコチラとかに引っ掛かりつつ訪ねます

2016年03月15日 | 龍ヶ崎の風景
久しぶりの“龍ヶ崎”です。

関東鉄道竜ヶ崎線の終点、竜ヶ崎駅です。

そう云えば、関東鉄道竜ヶ崎線の始発駅?である“常磐線の佐貫駅”の駅名が、龍ヶ崎?か竜ヶ崎?に変更になる話し、いつ頃なの? そうなると、終点の関東鉄道竜ヶ崎線の竜ヶ崎は駅名変更?

まあ、兎に角、龍ヶ崎市の竜ヶ崎駅前は、とても、とても、閑散と云うか、長閑と云うか、静かと云うか、以前と変わらない佇まいです。


駅前の交叉点の佇まいはとてもスッキリ、誰も使っていなかった?歩道橋が撤去されたのです。それと、廃屋化した床屋さん?も撤去されていました。廃屋はわたし的にはちょっぴり残念。


以前にはかなり嵌って、度々煎餅を買いに来たお茶さんも健在。


こちらは、始めてのお目見え?“諸岡さん”は、もしかして、“あの諸岡さん”と関係がお有りなのでしょうか? 松下村塾ではなく“龍下村塾”の看板。何か政治関連の団体?


政治と云えば、斜め向かいには、現市長の一生会の事務所。“育メン”中山市長もそれなりに頑張っているようです。“育メン不倫議員”の話題で、新聞にコメントが掲載されたのを読んだ気がします。


こちらの看板も健在。それにしてもです、このクラブはいったいどんな活動をしているの?もしかして看板だけが健在?


見えて来ました八坂神社。わたしの記憶では、この先を右に入った処にある筈です。


ありました!見えました!赤レンガの塀と門柱が!


赤レンガに急ぎたいのですが、この看板も気に掛かるのです。“総事業費4千6百万円”の大きな文字、そして、竣工平成二十六年十月二十六日とあります。

すべては終了していると思いきや、4千6百万円はこれからの事のようです。七万円以上だと写真集が貰えるようです。こう云うものは、お金が集まってから”さてそれでは”となるものと思っていました。

兎に角、先ずは、神社にお詣りしてから赤レンガです。

ランドセルのお祓いがあるのです。


久しぶりに、片足つま先立ちの狛犬さんにご挨拶。


確かに、本殿のこちらも、


こちらにも、修復の手が入っています。


梅の花、イイです!


ホンモノ?と思ったら、ツクリモノの鳩でした。まあ神社に鳩は付き物。


それにしても、4千6百万円の修復ですか? いろいろ詰まらん計算をしつつ修復状況を眺めたりして・・・・・・。

兎に角、お賽銭を上げ二礼二拍手一礼して、赤レンガに向かいました。

いよいよ、お目当ての赤レンガです。

きょうはここまで。


それでは、次回。


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三隅研次監督の『剣』で市川雷蔵と三島由起夫で現在の改憲・護憲論争に思いを巡らします

2016年03月09日 | 映画の話し
『剣』を観ました。

市川雷蔵で、「剣」ですから、当然、時代劇だと思っていたら、それが、何と、現代劇でした。

見終わって感じたのは、自分の理解を超えた、自分とは異なる次元の、異なる思想の、有る意味で「怖い」作品でした。

兎に角、です。原作が、あの三島由紀夫ですから、純粋で、正しく、美しく、下界の生身の庶民とは異なる、高貴なる理想を追い求め、独り気高く悩み、独り気高く死んでいく、そんなお話です。

冒頭、太陽を見つめる少年の鋭い眼のアップ、それに被せて主人公の独白のナレーション、

『この時、俺は太陽の本質を見た、それは眩しくて、とても正視できない絶対の正義、その輝きを全身に浴びて、俺は強く成りたいと思った。強く正しく成りたいと願った、そして、剣を学んで俺はこのなかに、最も新鮮な、純粋な生命の耀きを掴みうると信じた』

何てことを語るのでした。とても、少年の頃に“太陽の本質”を見てしまうのです。ふつうの人では、太陽を見つめて、太陽の本質なんて、そんなことは考えない、思いもしない、そんな青年のお話です。

そして成長した主人公は、大学剣道部の主将として、酒とか、女とか、タバコとか、バクチとか、そういう下界の、下世話の、汚れと自己を隔絶したと云うか、遠ざけてと云うか、理想の剣の道を追い求め、理想の指導者像を追い求め、鍛錬の日々なのです。

そして、夏合宿で部員全員が規則を破り、その違反行為に対して、主将として一言も語らず、合宿の打ち上げの翌朝、剣道着で竹刀を携えた姿で、死んでいるのが発見されるのです。

何故? 自ら命を絶ったのか?

部員の違反行為は、単なるキッカケだと思います。成長するに連れて、世の中の汚れと隔絶することのムズカシさに、気が付きはじめるのです。

生身の人間として生きていく事は、それなりに下世話の、世の中の、汚れから、己を遠ざけて生きていくのはムズカシイのです。いつか、何処かで、それなりの、妥協を強いられるのです。

でも、少年の頃に太陽の本質を見た彼は、いま、ここで、自己の生命を断つことで、美しい正義を体現しつつ、汚れることなく、生を全うし、生を閉じたのでしょう。

でも、ねぇ、そんなことは、荒唐無稽で、高等遊民の、自己陶酔だと思います。まあ、周りに迷惑を掛けぬ程度に、どうぞ御勝手になのです。

それにしても、主人公の自死で想起するのは、何たって、市ヶ谷駐屯地での“あの事件”ですよ。

1970年の11月25日に、憲法改正のため自衛隊の決起呼びかけ、割腹自殺をした事件です。三島由紀夫45歳、私は20歳の時でした。

原作「剣」が発表されたのが1963年の10月で、5か月後の3月には映画化され公開、何とも素早いのです。三隅研次監督は63年当時、この小説の映画化に何を託したのか?

“60年の安保闘争後”の「剣」で、“70年安保闘争後”の市ヶ谷割腹自決事件で、どちらも、対米従属からの、日本国の自立が、憲法が、問われているのです。

そして、2016年のいま、自民党安倍晋三内閣で、憲法改正が、9条の改正が、具体的な政治課題となっているのです。

でも、しかし、三島が居た時代とは異なり、まったくの様変わり、改憲派にしても、護憲派にしても、言葉が軽いのです。

理想とか、思想とか、信条とか、そんな事とは無関係に、命を掛けるほどの事もなく、単なる政局として語られているのです。緊張感が、緊迫感が、現実感が無いのです。

やはり、理想があって、思想があって、体系的、大局的な政策があって、それを掲げた政党があって、論争があって、そして、選挙があって、国民の審判があって、その結果があって、国は、世の中は、まわっていくのです。

三島由紀夫が望んだ、米国から、占領軍から、敗戦国として、押し付けられた、戦後憲法の改正が具体的な政治課題となったいまの姿、彼の眼にはどのように映っているのか?

話しを戻します。

兎に角、あの頃、私が20歳のころ、こんな、思想的、政治的、映画があったのです。“市ヶ谷事件”を予告するような作品でした。

もしかして、もう、そろそろ、世の中に、具体的に、差し迫って、未来を掛けての、命を掛けての、緊迫感のある、そんな時代が始まるころかも?

でも、みんな、怖いから、気付き始めても、知らない素振り?

う~ん。本日、窓の外は暗く、雨雲が覆い被さり、昨日の陽気とは打って変わって、真冬の寒さに戻り、話しも、暗くなってしまいました。

そして今朝、眼の醒める直前に見た夢が、とても暗い夢だったのです。夢はその日の気分にかなり影響します。

兎に角です。「剣」は、とても、暗い作品で、意味深で、暗示的で、でも、それなりに、楽しめる作品でした。

とにかく。これでお終い。


それでは、また。


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つくしの子が!イヌフグリもタンポポも梅も水仙もパンジーもボケもアセビも咲いて!もう春で~す!

2016年03月04日 | 季節の風景
朝のウォーキングコース。

こんな畦道で、


土筆が顔を出していたのです。気付いたの3日前で、この写真は昨日撮影。


ホント!顔を出して間もない、“つくしの子”です。


♪つくし~の子が顔を出します! ♪もうすぐハ~~ルですねェ~~!と、キャンディーズを口ずさんでしまいました。


イヌフグリも、


名前の知らない花も、


名の知れたタンポポも、咲き始めました。


畑のビニールハウスでは、ゴボウも育ってきました。


畑の傍らでは梅が咲いています。、



我が家ではボケも、


馬酔木も、



水仙も、


パンジーも咲いてます。


早いです。


今年も、もう三月です。


春なのでした。


それでは、また。


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三隅研次の『斬る』で市川雷蔵の剣さばきに感服したり若き日の藤村志保に驚いたり

2016年03月02日 | 映画の話し

『斬る』を観ました。

前回の『剣鬼』と同じく、監督が三隅研次で、主演が市川雷蔵のチャンバラ映画です。

『剣鬼』が1965年公開で、『斬る』は1962年の公開ですから、私が12歳の頃の作品です。

映画が斜陽期に差し掛かりつつあった頃かと、後からふり返って見て、1950年代が頂点でしたから、60年代前半の真っ直中では、“ちょっと陰りが”位の認識が、ぼちぼち出始めた頃かも?

それで、『剣鬼』ですが、『斬る』と同じく、ストーリーも判り易く、テンポよく、画面に引き込まれる面白さで、やっぱり!チャンバラ映画はイイ!と思わせる作品です。

後で確認したら、上映時間は、何と、何と、驚きの1時間10分。それなりの物語を1時間ちょっとに、よくもまあ詰め込んだものだと、感心したのでした。

今回も、剣鬼と同じく、主人公には出生の秘密があり、その秘密が不幸を引き寄せ、悲しい結末を向かえるお話。

飯田藩の藩主が江戸屋敷に囲う「妾」に狂い、家来一同が藩の存続の危機として案じるなか、側女中“藤子”が「妾」の命を奪い藩の危機を救う、その藤子が後に主人公信吾の母となるのです。

藩主以外は救世主として考えているのですが、藩主にとっては寵愛する女を殺し憎き犯罪者。藤子を罰する為に、江戸から飯田藩に送られる道中、長岡藩の藩士「多田草司-天知茂身」に寄って奪還されるのです。

この奪還作戦は、殿の正妻、家老、そして家来一同の企てだったのです。妾を殺されて頭に血が上った殿に、冷静な判断が出来るまでの冷却期間を置く策なのでした。

草司と藤子は山奥でひっそりと暮らし、二人の間には子供も生まれ、それなりに幸せな日々、この“子作り”も策のうちでした。母となった藤子です、殿もそうは無碍に極刑を科すことは無かろうと考えたのです。

しかし、寵愛する女を殺された殿、いつまで経っても怨みを抱き続け、一年の歳月の末に遂に藤子は捕らえられ極刑を下されるのでした。

それで、飯田藩主以外は藤子を救世主として考え、打ち首を介錯を引き受ける者が居らず、夫である多田の介錯で藤子は命を絶たれるのでした。

互いに、藩政の混乱を避けるため採った行為、藤子の介錯で藩政が混乱するのは不本意、夫の手により命を絶たれるのは本望と、刀を振りあげた夫に、微笑み送る藤子、しっかり受けとめる多田章吾。

何とも、美しい情愛と云うか、何とも、恐ろしい信念と云うか、正義をつらなく、これぞ武士の鏡? 武士の妻の鏡? 自己の利益の為にでは無く、世のために命を捧げることの美しさ?

ホント! 美しいのですが、怖いのです。そして、藤村志保は怖さを秘めた女優です。

それで、何ですが、藤子の介錯を拒否する「飯田藩士達」です、藩主の怒りが治まって居ないのを知っているのに、隠れ住む藤子を、本気で捜し出すのは、何か変だと思うのです。

飯田藩主が女に狂い藩政を危うくしている話しは、長岡藩主にも伝わり、そうか、それでは、と、藩士多田草司を差し向け奪還作戦を決行したり。

刑の執行後、残された子供は、小諸藩の藩主の計らいで家来に育てさせたりと、飯田藩主以外世間も、周囲の藩も、上から下まで藤子の味方なのです。

そんな藤子を、世間の風に逆らい極刑にするのも変だし、そんな事情が幕府の耳に入らないのも変なのです。耳に入れば藩はお取り潰し、それが為に藤子は妾を殺したのですからね。

それで、飯田藩の藤子と長岡藩の多田と間にできた子供は、小諸藩の家臣の手に寄り育てられ、立派に成人するのでした。この飯田藩、長岡藩、小諸藩の関係がよく判りません。

成人し立派な武士となった“信吾(市川雷蔵)”は、突然、“何となく”諸国を巡る旅に出たいと云いだし、父も、藩主も、「不幸な運命の子」だからと、旅に出させて貰えるのです。

3年間諸国を巡り戻った信吾、何故か何処かで剣術の技に開眼していたのです。開眼する過程はよく判らないのです。兎に角、剣の達人になって返って来たのです。

そして、剣の技は不幸を招くのです、剣の“技”が“禍して”育ての親と「妹」を殺されてしまうのです。虫の息となった「父」から、出生の秘密を明かされる信吾。

信吾は直ぐに下手人を追いかけ、一瞬にして二人の下手人を切り捨てるのです。

この時の市川雷蔵の殺陣は見事でした。一瞬で二人を倒すのです、あまりの速さに、一度観ただけでは、何が起きたか理解できませんでした。

3度くり返して見て、やっと、刀さばきが解ったのです。私が高齢者で動体視力が落ちたこともありますが、それにしても、見事な刀さばき、市川雷蔵は凄い!と、ホントに、ホントに、感服した次第。

そして、父と妹の敵を討った信吾は、故郷を捨て旅に出るのでした。そして、いろいろあって、幕府の高官のボディガードとなり、攘夷で暴れ回る水戸藩に高官と乗り込みます。

幕府の命に従うよう説得する渦中、水戸藩の謀略に嵌り高官は虐殺され、信吾も高官の傍らで切腹自害で、物語は幕を閉じます。

それにしても、冒頭で“妾”に短剣で斬りかかった藤子を観たとき、あれ、この女優は誰だっけ、見たことがある、でも、誰? 暫くして、藤村志保と気が付いたのです。

晩年の藤村志保しか知らなかったのです。このときが映画出演の第二作目で、まだうら若き23歳でした。それでも、単なる美人女優ではない演技です。

それと、市川雷蔵ですが、この時、32歳と若いです、そして、この作品の5年後に亡くなります。

もう一つオマケに、ちょっこし映画の絶頂期を調べて見たら、制作本数を指標とすると、1960年が公開本数が547本で最高で、スクリーン数も7457で最高でした。

と、云うことで、市川雷蔵のチャンバラ映画は最高でした。


それでは、また。


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