歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

日本スペインに逆転勝利!ゴールライン割ってなかった?そして残念!脳しんとう高安!

2022年12月02日 | その他

ねぇ、ホント、もう、12月です。

もうすぐ、そこに、2023年のお正月が。

ホントに、ホントに、困った、と云うか、寂しいと云うか、この歳になると、クリスマスも、お正月も、待ち遠しくなくなる今日この頃。

今朝は、5時頃より見ていましたW杯スペイン戦。

普段も、4時頃には目を覚ましているのですが、一応念のために録画の予約していいました。

寝床の中で、起きて観戦するか、どうせスペインには勝てないだろうし、録画しているし、このままもう一度寝るか、等々、迷いつつ、ボンヤリしつつ、まどろんでいたのでした。

しかし、突然、もしや!と思い起き上がりテレビのスイッチを入れたら、日本の得点シーンのリプレイ映像が流れていたのです。

暫くは、日本の先取点なのか?同点ゴールなのか?勝っているのか?分かりませんでした。やっとLIVE画面に変わって、1-1と映し出され、同点と判明。

寝ぼけ頭で、これは、もしかして、スペインに勝ったりして?と思いつつ見ていたら、3分後には逆転のゴール。

しかし、シュート前に、ゴールラインを割っている可能性について、ビデオ判定。この時間、とても、とても、長かったです。

画面に映し出される録画を見ると、ボールの接点は明らかにゴールラインを越えて、端も越えているように、私には見えたのでした。

接点が越えていても、端がライン上にあればOKなの? ルールは知りませんので、判定が下るまで、かなり、かなり、長く、長く、感じました。結果はOKで日本は逆転。

こういう微妙な得点、勝ちを拾ったような? 兎に角、勝利の女神は日本に微笑んでいるようです。今大会は勝ち運に恵まれている?

負けそうな?ドイツに逆転勝ち、負けそうな?スペインにも逆転勝ち、勝てそうな?コスタリカには負けちゃいました。

コスタリカ戦と云えば、あの日は大相撲の千秋楽で、一差で先頭にいる高安が、一差で追う阿炎に本割りで負け、貴景勝を加えての巴戦。決定戦でも阿炎に負けて、先場所に続き、優勝を逃しました。

やっぱり、どうも、優勝には縁が無い高安?三度目の正直はありませんでした。

やっぱり、やっぱり、ここぞという一番に勝てない高安。

たぶん、当日寝床の中でも、土俵下で待っているときも、仕切り中のときも、高安の頭に、俺は絶対に負けない!との思いの端に、ほんの少し、もしかして!が過ったりしていたのかも?

今場所の高安は、先場所までとは違う!と思っていたのですが、やっぱり、先場所までの高安?だったような・・・・・・。

それにしても、決定戦での高安の脳しんとう、もし、阿炎が貴景勝に負けたら、貴景勝と高安との一番になるのですが、高安が土俵に上がるの危険ですから、貴景勝の不戦勝?

そうなると、貴景勝の優勝? それとも、阿炎と貴景勝での決定戦? こういう状況はは想定されていた?いなかった?

貴景勝が阿炎に勝ったらどうするの?、と、思いつつ、阿炎・貴景勝戦を見つめていましたが、あっさり阿炎が勝って、ヨカッタ!ヨカッタ!なのでした。

たぶん、審判団も、ヨカッタ!ヨカッタ!だった、と、思ったのでした。

それにしても、あの朝乃山ですが、幕下を2場所で通過しましたが、成績は二場所続けての、六勝一敗でした。私としては全勝で十両復帰と思っていたのですが、かなりの予想外。

たぶん、照ノ富士の復活の可能性は、限りなくゼロで横綱は不在となり、大関は貴景勝只ひとり、貴景勝の横綱昇進は限りなくゼロ。

兎に角、幕内力士全員、どんぐりの背比べで、次の大関、横綱の候補は、いまのところ幕内には、傑出して期待できる候補は見当たりません。

今年はすべての場所で、すべての優勝が初優勝でした。

何で?どうして?なのですが、これは、やっぱり、”八百長”が、ほとんど無くなった事の結果のようです。

この件に関しては、YouTubeで、あの”元貴闘力”が、そう話しております。

貴闘力と云えば、息子の王鵬が、それなりに一皮むけて期待が持てそうです。これから大関、横綱を期待できるのは、兎に角、王鵬、琴ノ若、豊昇龍、そして、そして、朝乃山なのでした。

阿炎に関しては、まだまだ様子を見ないと、なんとも、かんとも、云えない今日この頃です。

それでは、また。

 

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一時停止違反で7千円!Tシャツ1枚5千円でした!

2021年05月26日 | その他

昨日は、とても、とても良い天気でした。

以前より、Tシャツを買おう、買おうと思っていたので、朝から、行こうか、行くまいか、迷っていたのです。

何故、迷ったかと云うと、昨日は火曜日で、前日の月曜日に食料の買い出しにスーパーに出掛けていたからです。

現在、買い出し外出は、月曜と金曜の週二回に、自粛しているのです。 

昨日も外出しているので、金曜日まで待って食料品と一緒に買いに行くか?それとも、不要不急でも無いTシャツを買いに行くか?迷ったのです。

それでも、新しいTシャツを着て「♪気分も晴れて!きっと明日は良い天気!」との気分に負けて、家を出たのでした。

TシャツはいつものUNIQLOです。家から30分ほどの距離のショッピングモールを目指しました。

ショッピングモールは大きな道路に面し、右折進入が禁止の為に、途中より、裏道に入り、裏手からの進入にとなります。

いつものように、住宅地を抜けて、たんぼ道に入り、SPの建物が見え、小さな交差点にさしかかり、道が狭いために減速して通過すると、その先に警察官を発見。

彼は警棒?振り、停車を指示され停車、窓を開けると。

「一時停止の標識があったのですが、見えませんでしたか?」

「左右ともに視界が良いので、一時停止は必要ないと」

「この先に居る警察官の指示に従って下さい」

諦めて、云われるままに、無言で従います。先には、駐車場があり、警察官が待っていました。

「免許証」と云われ、差し出すと、免許証を見ながら、黙々といろいろと書類に記入し始めます。5分程度で記入終了。

「名前の読みは、○○で良いですか?」

「はい」

「お歳は?71歳で良いですか?」

「はい」

B4?の半切り程度のうす水色の用紙を差し出し。

「こちらが、いわゆる反則切符、名前を書いて、こちらに右手人差し指を押印下さい」

次に、もう1枚、反則金の支払い用紙を差し出し、銀行か郵便局で、一週間以内に7千円お支払い下さい。

言葉はそれなりに丁寧で、とても、とても事務的に、すべては終了。

警察官が書類を作成している間、

「あ~、やっぱり、迷っているときは、止めるべき!不要不急の外出は避けるべきだった!」と、ひとり反省タイム。

気を取り直し、気分を変えて、Tシャツを求めて駐車場を後にしたのです。

1枚1500円のTシャツを2枚買い求め、反則金と合わせて、1万円の出費。

運転免許証を取得して50有余年、初めての違反が、池袋の交差点で右折禁止を右折しての違反。40数年ぐらい前?

二回目が環七で夜の10時過ぎにスピード違反。30数年前?

三回目が京葉道路でのスピード違反。この時は後ろにパトカーが居るのは分かっていたのですが、制限速度は100キロと思っていたら、80キロで、捕まりました。20数年前

四回目が、確か、新井薬師あたりで、踏切の一時停止違反。20数年前?

五回目が、茨城か千葉の田舎道での一時停止違反。10数年前。

そして、今回、六回目で、一時停止違反。ほぼ10年に一度の交通違反。

一時停止違反が3回。一時停止違反は、すべて警察が網を張って待っているのです。

一時停止は、ホントに危険な場所では、誰もが一時停止します。

視界が良く、交通量が少なく、誰もが一時停止をしない場所に、一時停止の標識を立て、網を張っているのです。

まあ、どんな違反でも、捕まると、それ以降、それなりに安全運転に気をつける効果はあります。

帰り道では、いつもは制限速度60キロの中央分離帯のある、片側二車線の道でも、しっかりと制限速度を守って安全運転で帰宅。

それと、途中、郵便局によって反則金7千円を支払いました。

まあ、本日は、Tシャツが二枚で1万円と云う事でした。

まあ、昨日は「小難をもつて、大難を制す」と、云う諺ざを噛みしめて、こころ静かに、一日を過ごしたのでした。

それでは、また。

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母が亡くなりその後の手続はほぼ完了!そして後期高齢者の2割負担の猿芝居!

2020年12月10日 | その他

人が亡くなった後には、いろいろな届け出が、手続きが必要なのでした。

死亡届は7日以内で、これは知らない間に葬儀社が代行してくれました。代行料は一万円でした。

それで手続きですが、葬儀後に葬儀社から、

①「葬儀後の諸手続き・・・A4紙表印刷1枚」

②「手続きチェックリストA4紙表印刷1枚」

③「死亡届を提出してからの主な手続き・・・A3用紙裏表印刷1枚」

の3枚を貰いました。①・②は葬儀社の作成で、③が市役所の作成です。

貰ったときに、ざっと目をとおしたのですが、面倒くさそうで、しばらく放って置いたのです。

介護保険関係はこの中で、介護保険被負担者証、負担割合証を市の介護保険課に返却となっていたのです。

でも、しかし、亡くなって数日後?にケアマネージャーの方に連絡を入れ、その後、数日してお線香を上げに来てくれたとき、特に、届け出、手続きは要りませんと云われました。両方とも廃棄してくださいとの事でした。

それで、その他の手続ですが、葬儀終わったのが21日、それから暫くして、少しずつ、少しずつ、チラチラと目を通し始めたのです。

12月に入って、従兄弟たちがお線香を上げに来たのが8日の日曜日。そろそろ、来週からでも、手続きに動き出そうか、と、思い始めたのです。

そして、翌日、3枚の用紙に、しっかりと向き合い、じっくりと読み進めたのでした。でも、読めば、読むほどに面倒に思えてくるのです。

でも、まあ、そして、必要な書類、印鑑、通帳、健康保険証、国民年金、厚生年金の証書と手帳、埋葬許可証、それに軍人恩給の証書、等々を揃えました。

揃えたと云っても、これらは母が生前より、私に何かあった時は、このバックの中にすべて入っているからと聞いていたので、特段の手間は掛かりませんでした。

此処までは、いいのですが、ここからが大変なのです。

書類を持って市役所、そして、土浦の年金事務所へ出掛け、いろいろな証書・手帳を提出し、いろいろな書類に、住所だとか、氏名だとか、電話番号だとか、本人と届け人との関係だとか、いろいろ記入したりする、そんな事を思うと、とても、とても、億劫になるのです。

7日の月曜日は、まあ、週の始まりだし、きょうでなくてもと思い、行動は翌日以降に先延ばしを決定。

8日の朝を迎え、朝食、ウォーキング、洗濯物干し、食器洗い、トイレを済ませ、録画した朝ドラを眺め、そして、突然、ヨシ!行くぞ!と、立ち上がり市役所に向かったのです。

わたしは前もって計画を立て、それに沿って行するのは嫌いなのです。兎に角、その場の、そのときの気分で、突然、行動に移します。

この日は、市役所だけで、土浦の年金事務所は、またそのうちに、いつかまた、との考えでした。一日に二カ所で面倒な手続は、とても、とても、やりたくないのです。

市役所と書きましたが、行ったのは家に近い、市役所の支所「窓口センター」に向かったのです。

それで、手続きなのですが、市役所の本庁舎に行ったならば、手続きごとに、いろいろな窓口を行ったり来たりするのですが、窓口センターならばワンストップで済みそうなのです。

7~8分ほどでセンターに到着。時刻は9時10数分頃、中に入ると訪れていたのは私以外1名のみ。カウンターの中には4~5名の職員。

カウンターの前で「母が亡くなったので手続きに来ました」と告げると、年の頃なら50歳前半?男性が「それではあちらの席で」となり、国民年金関係、健康保険関係の、なんたら、かんたらの書類2~3枚に、母と私の、住所、氏名、郵便番号、電話番号、本人との関係、等々を記入。

次に、「厚生年金は土浦の年金事務所ですよね?」と云うと、こちらでできますと云われたのです。

そして、年金事務所に電話連絡して、何やらやり取りをした後に、書類を何枚か用意して、テーブルの上に置いたので、また、いろいろな記入作業か、と思っていたら、記入はその職員がすべてやってくれたのでした。私は捺印だけ。

これって、もしかして、原則として当事者が記入するのを、こいつに記入させると時間が掛かると判断し、さっさと自分で記入したのかも知れません。それにしても、こちらとしては楽ちんの対応。

必要な戸籍謄本も、住民票も、揃えてくれて、今回は亡くなられた手続きなので、発行は無料との事でした。

年金証書、年金手帳を渡し、預金通帳(私の)のコピーもしてくれて、これですべて終了。後日、土浦の年金事務所に行き、面倒な手続をする手間が省け、ほんとうに助かりました。

帰りに、心を込めて、しっかりとお礼を述べて、窓口センターを後にしたのです。ホント!「○○主査さん」ありがとう御座いました。センターを出たのが9時40分過ぎ、ほぼ30分ですべては終了。

それで、何で、こんな面倒な手続きをするのかと云えば、死亡届を出した時点で、年金の振り込みが停止されるので「未支給金」とか、「葬祭費」とか、「死亡一時金」とか、の請求手続きなのでした。

これらの手続きが、とても面倒だと思った方は、何もしなくても大丈夫なのです。数年後に請求権が失効するだけですから。

でも、しかし、この手続で、十数万円から数十万円が支給されるので、私としては面倒でも、しっかり手続を行ったのでした。まあ、振り込まれるのは、来年の一月中旬ごろ?

軍人恩給の手続が未だ残っています。こちらも、「住基ネット」の活躍で、死亡届が出されると、直ちに支給は停止されるそうです。こちらは、もう少し時間をおいてから手続をします。

まあ、これで、母の亡くなった事による、事務手続はほぼ終了。

まあ、これだけで済んだのですから、かなり楽なのでした。これが、電気、電話、ガス、水道、新聞等の支払い口座の変更手続とか、土地建物の登記の変更とかが加わると、これは、もう、相当に大変。

まあ、兎に角、それなりに、いろいろ経験にはなりました。まあ、こんな事は、人生で1回か?、2回ぐらい?の事でしょう。まあ、経験したからと云って、それがどうした?程度の事でした。

まあ、兎に角、そんな事でした。

それにしても、新型コロナは大変な事になっています。

菅内閣の支持率も低下しています。

それでも、選挙では勝てるので、あまり危機感は無いようです。

それにしても、後期高齢者の医療費の負担割合を、1割から2割に変更する改正案ですが、自民党案が年金額170万円以上、公明党案が240万円以上。

両党、どちらも譲らず難航なんて、わざとらしい報道。本日、両党の党首会談で200万円で合意したとの報道。とても、とても、分かり易い展開、私の予想どおりでした。

もう、これは、240万円と170万円の間をとってと云うか、最初から、40万円は、所謂、その筋で云う「糊代」なのです。公明党の顔を立てる、わざとらしい猿芝居。

菅首相、ガースーとか、スガーリンとか、云われていますが、この方、ほんとうに、筋が悪い、危険な政治家です。

まあ、その話は、そのうち。

 

それではまた。

 

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母の葬儀が終わりました!安倍晋三に地検特捜より事情聴取の要請!すこし気分晴れてきた!

2020年12月03日 | その他

前回の続きです。

13日に入院し、それ以降の出来事の日付感覚が、かなり、かなり曖昧になっています。

13日の入院は、はっきりと記憶しているのですが、亡くなった17日の日付が曖昧なのです。

何故か入院は5日間だった事は覚えていて、時々思い返して、亡くなったのは、5日後で、13、14、15、16、17日と数えてしまうのです。

18日、葬儀の日程を打ち合わせている際にも、「20日(金)通夜、21日(土)告別式で如何ですか?」と聞かれて、「えッ!そんなに先なの?」と云ってしまったり。頭の中が13日で留まっているのでした。

こんな状態ですので、記憶を辿り、記録として綴りつつ、気持ちの整理をしていきたいと思います。

それで、13日は暗くなってから病院から帰宅。ヘッドライトを点灯しての運転は、かなり、かなり、暫くぶりで、それとなく、ちょっぴり不安でした。所要時間は20分程度。

姉に入院したことを知らせたのは、入院した当日、医師の説明を受けた後です。

その後、直ぐに姉の長女にも連絡。長女は看護師で、旦那は循環器が専門の開業医。病状を告げそれなりのやり取りが、二人とあったのですが、ほとんど記憶無し。

14日は、歯ブラシ、カップ、服用しているクスリ、ティッシュペーパーを持って病院へ。現在、コロナで面会は禁止なのですが、ナースステーションと繋がった観察室に案内されました。

ベットに横たわり、酸素吸入のマスクを付けた母の姿。辛そうで、苦しそうで、看護師さんが、「息子さんが見えましたよ!」と母に声を掛けても、あまり反応はなく、私としても、何も言えず、顔を見つめるだけで、直ぐに退室しました。

病状としては、そこそこ安定しており、直ちに命に別状無いと聞き、それなりに安心して帰宅。

15日?の午前?だったか、午後?だったか、病院から連絡が入り、きょう、医師からの説明がありますから、と、来院要請。

病院への道すがら、どうなんだろう?どうなんだろう?もう危ないの?と、思いつつ到着。入り口で検温、手の消毒を済ませ、エレベーター前で係の人に、来院理由を説明、来院者氏名、入院者氏名を記入し、名札を貰い、エレベーターで3Fへ。

ナースステーション前の小部屋で待つこと10数分?医師が現れ、

「病状が急速に悪化している。治療をしても回復の見込みは無い、治療は患者にも負担がかかる、治療を中止して、家族の了解のうえ、緩和ケアに切り替えたい」

と告げられました。

私は、母の辛く、苦しい状態から早く解放してあげたいと思い、

「はい、わかりました、よろしくお願いします」と迷うこと無く、即座に返答しました。

「それでは、麻酔薬の投与を行い・・・」これから先の医師の説明はよく覚えていません。

一言だけ、「どのくらいもつのですか?」「患者さんそれぞれで、今日中かも知れませんし、数日かも知れません」、はい「わかりました」

これで医師から説明は終わり、看護師に案内され、観察室の母の姿を暫く眺め、退室。病院から姉に連絡し、明日、こちらに来るとの返答。

16日、時間はまったく記憶無し、姉と旦那が、姉の息子の車で我が家に到着。病院に連絡し、2名だけに限って面会を許可される。

17日、午前中に姉と二人で面会。帰宅後の午後2時頃に病院より危篤の連絡が入る。2時半過ぎに病院に到着し病室に案内され、母は2時19分に亡くなったことを告げられる。

酸素吸入は続けられていて、強制的に酸素が送られ、一見、呼吸をしている様に見えました。医師の説明では、酸素吸入は家族が見えるまで続けるそうです。

2時半過ぎに葬儀社に連絡し、1時間から1時間半後に、そちらに到着すると告げられました。

私の家はつくば市で、病院は取手市、葬儀社も取手市ですが、霊柩車は土浦市から来ると告げられました。

この間、待っている時間は実際に長かったのですが、それ以上に、とても、とても、長く感じました。

葬儀の細々とした事とか、母をもっと早く病院に連れて行けばよかったとか、親戚への連絡とか、いろいろと考えても、なかなかまとまらず、兎に角、霊柩車はいつ来るのか?とか。

もしかして?間違えて他の病院に?と思い、葬儀社に電話を入れると、退社ラッシュに巻き込まれ遅れているとの連絡が入ったそうで、もう少しお待ちくださいとのことでした。

暫くして、葬儀社の方が現れ、遺体は病院の裏口より霊柩車に乗りました。姉と私は自分の車で後に続き、10分ほどで葬儀社に到着。簡単な打ち合わせをして、詳しくは明日との事で帰宅。

18日の午前中に葬儀の打ち合わせ、金額がはるのが祭壇と、納棺式でした。兎に角、葬儀社ペースで、あれやこれや、そのほか、数十項目を決めていくのです。何が何だか分からないまま、進められます。

私としては、兎に角、総額で、予想の、予算の、範囲を超えたなら、細かい項目を詰めようと、細かい項目には葬儀社ペースに任せました。

結果としては、ほぼ予想の、予算の範囲内でしたので契約成立。

通夜と告別式で、前日に打ち合わせした「川の流れに」と「愛燦々」がシンセサイザーの生演奏で流れたのには驚きました。

シンセサイザーの生演奏は、これまでの葬儀で、見たことも聞いたこともありませんでした。今、初めて、見積書を見たら、二日間の演奏代が13万円とありました。

まあ、もったいない気もしたのですが、当日演奏された女性の生活とか、葬儀社の売り上げとか、社員の生活とか、まあ、世の中は、こんな事で、成り立っているわけですから、それなりに納得。

それに、生演奏の際、式場内の照明が落とされ、祭壇に照明が当たり、司会者より「故人を振り返り、あり日の想い出に浸り・・・」のコメントともに、シンセサイザーから曲が流れると、それなりに心に染みるものがありました。

20日の通夜、21日の告別式、火葬、すべて滞りなく行われました。

母が亡くなってから、十数日が経過しました。

朝起きて、顔を洗って、食事の支度をして、洗濯機を回し、食事をして、朝のウォーキングをして、洗濯物を干して、歯を磨いて、食器を洗って、コーヒーを飲んで、ネットを覗いて、テレビを見て、昼食、夕食、就寝。

あれから、毎日、毎日、同じ事を繰り返しているのですが、やっぱり、母の居ない日常は、とても、とても、変です。

あれで良かったのか? もっとできることがあったのでは? あの時、何で、あんな言い方をしてしまったのかとか、いろいろ、悔やんだり、悩んだり、反省したり、いろいろと思いを馳せる日々。

兎に角、70年間も一緒に同じ屋根の下、暮らしてきた重さは、それなりなのです。

兎に角、「人間は事故や病気では死な無い!死ぬときは寿命!」と、わたくし、常々考えています。

兎に角、わたくし、独居老人の仲間入りをしました。

それでも、楽しく、元気に、過去は振り返らず、前を見て、生きていきたいと思う、今日この頃。

これからも、惚け防止の為に、ブログを更新したいと思う所存。

それと、きょう、安倍晋三前総理が、東京地検特捜部より、任意の事情中聴取の要請を受けているとのニュースがNHKから流れました。

これは朗報です。任意から、逮捕、起訴、有罪、実刑収監を期待します。単なるガス抜きに終わらせない為には、世論の力が重要です。

それでも、安倍が実刑くらって、塀の中に入っても、世の中は良くなりません。多少は空気が綺麗に? 

 

まあ、兎に角、それでは、また。

 

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母が旅立ちました98歳で急性心不全でした!もしかして?ロキソニンプロフェンNa錠60㎎が引き金に?

2020年12月01日 | その他

11月17日に、母が旅立ちました、98歳でした。

年齢的にも、そう遠くない、いつの日にかは、と、思ってはいました。

でも、その日は、突然でした。

10月の半ば頃、腰の痛みを訴え、立ったり座ったりが辛そうでした。特に、捻ったり、打っ付けたり、転んだり、といったことは無いとの事でした。

一週間ほど市販の湿布薬を貼って様子を見たのですが、痛みに変化はなく、10月29日、近所にある掛かり付けの診療所で受診。

この診療所は親子二人の医師がおり、父親はどちらかと云えば整形外科担当で、息子はどちらかと云えば内科担当、のようです。

29日当日の診察は息子が担当、問診、触診、レントゲン撮影。診断結果は骨には特段の異常は認められず、その場で痛み止めの注射、痛み止め薬の処方で、診断は終了。

痛み止めの薬が、少し気になり、医師に副作用の心配は無いか質問すると、「強い薬ではなく、重大な副作用のエビデンスは無い」との回答。

帰り道、薬局で28日分の「ロキソプロフェンNa錠60㎎」を受け取り帰宅。

薬は、一日三回、朝食後、昼食後、夕食後に服用。29日の夕食後から服用を開始。

最近の母ですが、「飲み忘れ」は無く、「飲んだのを」忘れ、私に「飲んだっけ?」と、服用後、一分置き位に、2~3度聞いて、「飲んだょ」と、2~3度云われて納得する状況でした。

そのため、クスリの服用は私が管理することにし、飲んだ後すぐに、カレンダーに赤いマジックで○を記入。母から「飲んだっけ?」と聞かれるとカレンダーを指さし「赤い○が付いているでしょ」と答えると母は納得。

痛み止めを飲み始めて2~3日後に、痛みの具合を聞くと、「効いているような?いないような?」との返事。

一週間ほどしても、効いているような?いないような」状態が続きました。その頃より、身体を動かした後の呼吸が、少しずつ、少しずつ、荒くなり始めたのです。

以前より、動いた後は、口呼吸で、暫く、ハッ、ハッ、ハッ、繰り返していたのですが、飲み始めて1週間位より、以前よりも増して呼吸が荒くなり、落ち着くまでの時間が長くなったのです。

そして、11月の第二週の前半から、動作が遅くなり、夜間トイレに行くのが辛いと云い始めたのでした。

※このころ、痛み止めの「ロキソプロフェンNa錠60㎎」に、それとなく気になりネットで検索すると、心不全には禁忌、原則禁忌で、高齢者には注意となっていました。

11日にポータブルトイレを部屋に設置しました。しかし、13日の朝、部屋を覗くトベットに腰掛けてじっとしているので、どうしたの?と効くと、「おしっこがしたい」と云うのです。

でも、立ち上がって一人ではベット脇のポータブルトイレに行けなかったのです。私が介助し用を済ませたのです。

このとき、これは、もう、医師の診察を!と思い、掛かり付けの診療所で午後の予約を取ったのです。

診察は2時半、2時15分に着替えを手伝い、介助しながら玄関まで来て、靴を履かせようとしたのですが、立ち上がると、「今日は止めよう」と辛そうに云うのです。

容態は、今日より明日のほうが悪くなるのは明らかなので、何とか連れて行こうと思ったのですが、母は呼吸は荒く、とても辛そうにして、座り込んでしまったのです。

私は、後ろに回り座って抱きかかえ、立ち上がろうとしたのですが、母の身体がとても重く、立ち上がれないのです。後で医師から聞いたのですが、下半身に水が溜まって浮腫んでいたのです。人によって5~10㎏ほど水が溜まるそうです。

玄関で、私も座り込んで、母を後ろから抱きかかえながら、これは、もう、救急車だと決断、母に告げると頷いたので、ポケットから携帯を取り出し119番。

待つ時間は、とても、とても、長かったです。救急車が来て、消防車が来て、隊員に状況を説明。以前、心肺機能で検査入院した病院名を告げ、隊員が連絡し病院側の了解を得て搬送。

私は自分の車で後を追ったのですが、途中で道を間違えてしまい、たぶん?10数分のロス。病院に到着、受付に告げ、一番奥の方の緊急処置室に案内され、看護師に廊下の椅子で待つように指示される。

部屋のドアが開いた際に、中の様子を窺うと、酸素吸入のマスクを付け、点滴されベットに横たわる母の姿を確認。

暫くして(救急搬送後よりの時間経過が判然としません)医師が出てきて、

「これから病棟に移動します」と告げられ、

「容体はどうですか」と聞くと、

「未だ、なんとも云えません」

「命の方は」

「判りません」と云って立ち去って行きました。

看護師さんから「緊急処置は院長がしたので、これから病棟で循環器専門の医師が診察治療を行います」と告げられました。

1Fから3Fに移動、ナースステーション前の小部屋で待つように云われました。暫くしてと云うか、かなり時間が経ってと云うか、医師からの説明がありました。

いろいろ説明があったのですが、記憶できたのは、「急性心不全」で、「入院期間が3週間ていど」しか覚えられませんでした。

「ロキソプロフェンNa錠60㎎」の服用ついて問うと、「もしかして、今回の引き金になった、かも、知れません。でも、断定することはできません」と告げられる。

説明が終わると、看護師から「入院診療計画書」が渡されました。今、それを見ると、「診療計画」の欄に、「非侵襲的陽圧呼吸、酸素吸入、強心剤の点滴、利尿剤の投与で初期治療を開始します。いずれ内服に変更し、リハビリテーションを開始します」との記載。

説明が終わると、「入院診療計画書」サイン。そのほかに、入院生活用品使用申込書」、「身体拘束に関する説明・同意書」、「入院申込書(兼誓約書)」、「入院についての自己申告書」、「日常生活用品リース申込書」等などに、住所、氏名、生年月日、電話番号、等などを記入。

そして、最後に入院保証金5万円を支払い、この日は、これで帰宅。

医師の説明を聞いて、直ぐに命の別状は無さそうなので、それなりに安心して帰宅。外はもう暗くなっていました。その晩はあまり寝られませんでした。

記憶が消えない前に、記録として残そうと思い、綴りました。でも、書こう、書こうと思いつつ、この日になってしまいました。

入院が13日で、亡くなった17日、20日・21日が、通夜・告別式。

今日は、もう、12月の1日で、亡くなってから2週間が過ぎました。

 

本日は、ここまでとします。

 

それでは、また。

 

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暑い!暑い!暑~~~い!で財布行方不明事件!

2020年08月14日 | その他

毎日、毎日、毎日、暑い!暑い!アッツ~~~イ!

ホントに!ホントに!ホントに!暑っちい~~~!

暑さの余り、ぼ~と眺めるTwitter、ぼ~と眺めるテレビ、そして、一日が暮れていきます。

そんな日々の繰り返しのなか、先日、スーパーに買い物に行き、一通り買い物が終わりレジに向かい、財布を確認すると、無いのです!ポケットに財布が無いのです!

アッ! 車の中に置き忘れた!と、カートをレジの手前10㍍ほど手前で端に寄せて、駐車場に向かったのです。

車内を確認したのですが、見つかりません! これは、もしかして、家の玄関に忘れて来た!そうだ!靴を履くとき、手に持っていた財布を下駄箱の上に置いた!そうだ間違いない!

買い物かごは置いたまま、直ぐに家に引き返したのです。約10分ほどで到着、玄関を開け、直ぐに下駄箱(下駄は入ってません)の上に視線を向けると、財布は見当たらず。

あれっ?と、思った、そのときでした。記憶が蘇ったのでした。

そうだ!スーパーに入って、買い物かごをカートに乗せた、そのとき、財布をかごの中に放り入れたんだ!

直ぐにスーパーに引き返します。道すがら、やっぱり惚けたか? いゃ!そうじゃない暑さの所為だ!財布は大丈夫か? 

情けないやら、可笑しいやら、不安やら。否定したり、肯定したり、慰めたり。頭の中は、それなりに覚醒しつつスーパーに到着。

入り口でアルコール消毒をして、慌てず騒がず平然と、目標の商品棚の先の、通路の脇にカートを確認、よく見るとカゴの隙間から財布が見えていました。

ヨカッタ、ヨカッタで、平然と中を確認し、財布をポケットに入れレジに向かったのです。

本日は、何とも、みっともなくも、情けない、お話でした。

 

それでは、また。

 

 

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世界はパンデミックでも!円高・株安・原油安でも!私のまわりは春爛漫!

2020年03月09日 | その他

いまを、記録します。

近所のドラッグでは、一昨日よりティッシュペーパーが店頭に並び始めました。

覗いたのは午後2時過ぎでしたが、普段よりちょっと少なめですがありました。数人の客がいたのですが、特に買い求める様子なし。

本日も、2時過ぎに覗くと、トイレットペーパーが、普段よりもかなり少ないのですが棚に並んでいました。

マスクとかアルコール除菌剤は、まったくありません。

ティッシュやトイレッペの需要は、新コロとは無関係ですので、そろそろ落ち着くのでした。

マスクとかアルコール除菌剤は、新コロ騒ぎで需要は激増で、まだまだ、暫くは、店頭に並ばないでしょう。

兎に角、大変な世の中になったのです。

本日、日経平均株価は千円以上下げて、2万円を割りました。円は102円台の円高、原油はほぼ半値の20ドル台に暴落。

アメリカ、イタリア、フランス、イギリス、ドイツ、そしてイランと、新型ころなは感染拡大中。

WHOは政治的判断で、いまだにパンデミック宣言は出していませんが、もう、まさに、パンデミック状態です。

世界同時株安で、間違いなく「新型コロナウィルス恐慌」です。

あの「スペイン風邪」によって、世界が、日本が、世の中が、日々の暮らしが、どのように変化したのか? 調べて見たい。

兎に角、それでも、二週間ほど前より、田圃のあぜ道には、

青紫の「いぬふぐり」が咲き、

赤紫の「ヒメオドリコ草」が咲き、

黄色いタンポポが咲いています。

一週間ほど前には、ウグイスの初鳴きを聞き、数日前には目白の姿も見かけ、アリの姿も見かけました。

桜の開花ももうすぐ。

世の中、もうすぐ春爛漫!

 

人間、病気や事故では死にません、死ぬときは寿命。

 

それでは、また。

 

 

 

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新年のご挨拶です!古稀です!双子ちゃんが遊びに来ました!

2020年01月06日 | その他

2020年が明けて本日で六日目となりました。

昨日五日で、わたくし、目出度く?古稀を迎えたのでした。

昔は70年も生きるのは「古くから稀であった」、のですが、今ではあちこちで、70歳を見かける時代。

ホント!夕方スーパーに買い物へ行くと、老人ばかりが目につくきょうこの頃。

働き方改革で、年金受給開始年齢も65歳から70歳へ法改正は既定の路線。

少子高齢化で、労働力不足で、70歳まで働く時代で、因みに私は、53歳で現役を引退しました。おかげで70歳でも元気ハツラツ!オロナミンC!なのだァ!

兎に角、歳を重ねると、幼い子供を見ると、とても、とても、可愛く、愛おしく、笑顔になるのです。

そうです! 3日に双子ちゃんが遊びに来てくれたのです!

姪の家族、甥の家族、総勢10名での昼食は、賑やかで、和やかで、華やかで、楽しい時間でした。

甥の嫁さんは妊娠七ヶ月です。春には可愛い赤ちゃんの誕生です。みんな、楽しみに待っているのです。

食後は公園で遊びます。

ホントに、ホントに、よくしゃべり、よく歩き回り、よく走り回り、元気を、笑顔を、いっぱい、いっぱい貰いました。

ホントに、ホントに、楽しいひとときでした。

大おばあちゃんも、笑顔で元気になりました。

双子ちゃん! ありがとう!

また遊びに来てねェ!

 

それでは、本年も、当ブログのご愛読を、宜しく、御願い!たてまつり~ま~す~~。

 

 

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高齢者講習に行って来ました!講習時間は1時間50分ほどで終了!費用は5千百円でした!

2019年10月25日 | その他

先日、一ヶ月ほどまえに予約した、高齢者講習に行って来ました。

前日の午前中に教習所から電話が入りました。高齢者なので講習日を忘れているのでは?との計らい? 

講習は9時20分からの受付で、9時40分から講習開始と告げられました。

当日、9時5分前に家を出て、近所の自動車教習所には9時15分に到着。時間前ですが、受付は開始されていました。

公安委員会からのハガキ、免許証、受講料5100円を渡し、「高齢者講習」と書かれた札を貰い、首から提げて隣の建屋の食堂で待機。食堂内には十数名の高齢者。

時間になり、2名の教官が現れ、食堂裏手のプレハブ建屋の前に移動。講習室と検査室と書かれた2つの入り口、名前が呼ばれ6名ずつの2グループに分かれます。受講者は12名のようです。

わたしのグループは講習室に入りました。テーブルに椅子が一列、前方には60数インチの受像機。テーブルには「全日本指定自動車教習所協会連合会」発行の「いつまでも安全運転を続けるために」と、「茨城県指定自動車教習所協会」発行の小冊子。

小冊子内容の要点説明と、ビデオでは安全ベルト着用の有無での、衝突事故の被害状況を鑑賞。40分程度でお終い、免許更新時の講習とほぼ同内容。

グループが入れ替わり、今度は検査です。通常の視力検査、夜間視力検査、動体視力検査、視野角検査。結果は「ふつう」で問題ナシ。でも、自分では普通以上と思っていたのですが・・・。

次は、いよいよ車に乗ってコースを走ります。3名ずつの乗車で、4台の講習中の表示を屋根に取り付けた車に分乗。

教官が外周コースを一周して、いよいよ講習の開始。年齢の若い順との事で、私が一番目です。

先ずは、運転席に座り、シートベルトを装着。後方視界を確認、方向指示器を点灯して、コースに入り、外周コースを一周半して、内側コースに入り、「方向転換」、所謂車庫入れです。

右から、左から、と選択は可能で、自宅の車庫入れは右からなので、「右」を選択したのですが、前方の講習車が先に右側コースに入り、こちらは自動的左側コース。

講習車はセダンタイプの中型、ボンネットもトランクもわたしの車より長く、アクセルも、ブレーキも、ハンドルも感覚が異なり、走行もガタゴト・ギクシャクと違和感があり、車庫入れは一発で入らず、一度切り返しをして入庫。

次は、大小のS字コース、その次に、左右に遮蔽物がある丁字路の通過、次に、障害物を避けて、反対車線の通行、次に、スラローム走行、まあ、こんなもんんだったと。

途中に、信号、横断歩道、一時停止、それに徐行の標識があるコースを走り、数分?で終了。車から降りて、教官から注意事項を聞きます。

教官曰く、「先ずは、運転には特に悪い癖は無く問題ナシ。但し、遮蔽物のある丁字路での一時停止の位置が前に出すぎ、徐行の標識の見落とし」を指摘されました。

その場では、黙って聞いていましたが、丁字路での停止位置は車体の違いによる感覚の問題、徐行標識の見落としは、徐行を必要とする道路状況にない場所だった為。

まあ、特に問題無く終了。後は残り二人の走行にお付き合いしながらコース上を眺めると、高齢者講習の車が4台、教習中の車は1台のみ、少子高齢化の波をかぶり、教習所の経営もかなり厳しそう、高齢者講習は貴重な収入源?

三人の走行講習が無事終了して講習室に戻り、「高齢者講習終了証明書」を頂き、11時半ごろに教習所を後にしたのでした。

いま手元の終了書証明書を見たら、発行は『茨城県公安委員会』となっておりました。

免許証の交付の実務も、警察と交通安全協会が代行していますし、公安委員会の実態は、我々の目の前に姿を見せません。

デモや集会の届け出は先は公安委員会ですが、実態は警察。公安委員会は何処で、何をしているの? 音はすれども姿は見えず、まるでおまえは屁のような? 

まあ、兎に角、これで、高齢者講習は修了。

一時間五十分で5,100円でした。これで、更新時の講習はナシ。

次回は75歳で、認知症の「検査」があります。検査ですから、合否判定となります。不合格となると免許証の更新は不可能となります。

まあ、そんな先の話は、鬼が大笑い。

 

それでは、また。 

 

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ありがとう! 兼高かおるさん 合掌!

2019年01月10日 | その他

今朝のニュースで知りました。

いまから12年前の記事です。

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先日の深夜、「名曲のアルバム」を見ていて思い出しました。

「兼高かおる世界の旅」です。中学生の頃から、20代前半まで見ていたような記憶があります。

最初のころは「白黒」だった気がしたのですが、調べてみたら、「カラー」で放送されていました。アレ?と思ったら、我が家の受像機が「白黒」だったのです。

遠い昔のテレビ番組と思っていましたが、「1990年」まで放送されていました。放送開始は1959年からです。



放送は日曜日の11時ごろだったと思います。兎に角、夢のような番組でした。「兼高かおる」さん素敵でした。綺麗でした。

それと、彼女が「日本人」として世界を回ると、「何か変?」と思ったりしました。容貌は西洋人ですし、英語はペラペラでしたから、外国の人達は「日本」と云う国は、「ヨーロッパ」の「端っこ」の国と思ったのか? 一度は聞いて見たかったのです。そんなことも思い出しました。


提供が「三井物産」で、後援?協賛?があの今は無き、航空会社「パンアメリカン航空」でした。そう「パンナム」です。垂直尾翼の「あのマーク」鮮明に覚えています。



番組は「パンナム」の「大型ジェット旅客機」が大空を飛んでいるシーンから始まったような気がします。もしかして、FMの「ジェットストリーム」のイメージと重なってしまった?

「世界の旅・三井物産・パンナム・ジェット機」この言葉の響きを聞いただけで、ドキドキしました。手の届かない「遠い夢」「憧れ」・・・・・・そんな時代でした。

見た事も、聞いた事も、行った事もない、遠~い国の「見知らぬ風景」。南の国の「青い空・紺碧の海・白い波・白い雲」・・・・・・。



見知らぬ「ヨーロッパの街角」歴史を刻む、建物、石畳、見るものすべてが、新鮮でした。不思議でした。驚きでした。



夢の海外旅行が現実となり、誰でも手軽に海外旅行に行かれる時代となった、1990年に番組が終了しました。

それで、「誰でもいける時代」なったのですが、私の場合、海外旅行はバブルの時代に「会社持ち」で行った、「香港」と「グァム」の2回しか経験がありません。

少し無理をすれば自腹の「海外旅行」も可能ではありましたが、「少し無理」するほどの「欲求」が生じなかったのです。

今は、私にとって「見知らぬ外国」は「夢と憧れ」のままで、大事に「とって置きたい」・・・・・・そんな気がしています。

私にとって、見知らぬ外国の、見知らぬ街の、夢と憧れナンバー1はスペインの「アルハンブラ宮殿」です。



スペイン、グラナダ、アルハンブラと見ただけ、聞いただけで「あの曲」、あの「幻想的」で、「寂しく」、「もの悲しく」、「やわらか」な・・・・・・ギターの弦を弾く音、そして、夕陽に照らされた「宮殿」の「情景」が目の前に現れてきます。

これって、宮殿」の建築的素晴らしさと、「曲」の素晴らしさですね。そして、宮殿が「スペイン・グラナダ・アルハンブラ」であること、曲が「ギター演奏」であること等、幾つかの重なりが生んだ、奇跡と云ってもいい出会いだと思います。

曲と宮殿はふたつで一つの「芸術」です。


そうだ。「兼高かおる世界の旅」でした。

番組の終了後の翌年。1991年に、アメリカの「自由と繁栄の象徴」、「パンアメリカン航空」が倒産しました。

調べてみると、「パンナム」は番組終了のかなり以前に降りていて、後半は「スカンジナビア航空」の協賛になっていました。知りませんでした。

夢の番組、「兼高かおる世界の旅」の想い出でした。ホントに「かおる」さんは「素敵」でした。「綺麗」でした。


今夜は「アルハンブラ宮殿の想い出」を聞きながら飲みます。

Recuerdos de la Alhambra アルハンブラの思い出


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日本も、私も、未来に夢を描けた、ホントに、ホントに、いい時代でした。

兼高かおるさん、ありがとうございました。

ご冥福をお祈りします。

     合掌

 

 

 

 

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