先日、いつものように、ボンヤリと、YouTubeで懐かしの "70年代フォークソングを眺めていたら、「南こうせつとかぐや姫・神田川」のチャンネルが表示されたのです。
私としては、当時(1960年代後半~70年代前半)、フォークと云えば、プロテストソングで、岡林信康でした。
そして、政治の時代が終わりを告げる頃、登場したのが、"四畳半フォーク" で、その代表が、かぐや姫の神田川。
当時、ケッ! ふざけるなッ! と、厳しく、激しく、 軽蔑の眼差しを送っていたのでした。と、云う事で、意識的、積極的には聞いておりません。
まあ、積極的に聞かなくても、それなりに流行っていたので、それなりに耳には入ってきました。
それと "神田川" と連なって想い出されるのは、当時、街中で、
『こちらは~、チリ紙交換です~、ご家庭で~、ご不要となった~、古新聞、古雑誌を~、トイレットペーパーと交換いたします~・・・』
と、トラックから流れるスピーカーの声。
見ると、首にタオルを巻いた若い男女が、荷台で古新聞、古雑誌を積み込む風景。いかにも、二人は同棲中の匂い。まぁ、私の、勝手な、想い込み? これって、同時期に流行った、週刊漫画アクション連載の "同棲時代" の影響かも?
兎に角、"神田川とチリ紙交換" が、私の、確かな、70年代の記憶なのです。
それで、神田川なのですが、当時は、私、目黒の不動公園近くの、八百屋の二階の、風呂なし、トイレ共同の4畳半で、向かいは銭湯といった環境で細々と生きていました。
" いつも、いつも、先に出て、寒さに震え、石鹸をカタカタ鳴らし、銭湯の入り口で待つ、そんな女性を目撃したことはありません。
銭湯には、何処でも、脱衣所に大きな時計があり、浴場からもよく見えました。同棲中の二人が、入るときに出る時間を約束していれば、問題なく、片方が寒さに震えて外で待つことは無いのです。
そのころよく、脱衣所や、浴場から、名前を呼び、"そろそろ出るよ~" の声を掛け合う風景は、よく眼にし、耳にしました。
と、云う事で、神田川が流れてくる度に、嘘つくんじゃねぇ! と、独り小さく吠えていました。詩の情景は、明らかに、嘘です虚構です。
そうです、作詞、喜多條忠氏の、創作です。いつも、いつも、寒さに震えて彼を待つ女。いまでは、ありえない、半世紀前の、昭和の男が思い描く、女性像・女性観なのでした。
それで、話は飛んで、目黒繋がりで想い出すのは、" ミッキー安川 " です。彼は、当時、" テレビタレント" と云う職種の "はしり的存在" でした。
目黒駅を降りて、山手通りに向かって、行人坂を下り、左手に五百羅漢、続いて、目黒雅叙園の前を通り過ぎ、目黒川を渡り、山手通りに出て、歩道橋を上り、渡り、下った先に、一時、博多ラーメンの店があったのです。
博多ラーメンは豚骨ラーメン、当時は珍しいラーメンでした。私が目黒に引っ越して暫くして開店したのです。
珍しさに魅かれて覗いたら、カウンターの中にいたの、なんと、なんと、テレビで見かける、ミッキー安川が居たのです。店員は彼一人。
博多と云えば、豚骨ラーメンで、紅ショウガで、替え玉で・・・等々、テレビで見る、聞く、流ちょうな語り口のうんちくを聞きつつ、ラーメンを啜ったのです。
味としては特に覚えていません。一度しか行かなかったので、多分、口に合わなかったのだと思います。このとき、一人ではなく、二人で入ったような? そんな、薄っすらとした記憶があります。サカイ君 だったか? それともタカハラ君だったか ?
それで、ミッキー安川の豚骨ラーメン屋ですが、暫くして消えていました。博多ラーメンの東京進出、早すぎたようです。調べて見たらミッキー安川さん、2010年1月に76歳で亡くなられていました。
そのほかに、目黒で想い出されるのは、権之助坂 (坂の途中のバーに一度だけ入った記憶が)、野口ジム、目黒不動、甘藷先生こと青木昆陽のお墓、大鳥神社、目黒寄生虫館、林試の森公園・・・等々です。
寄生虫館だけは、通りから中を覗いただけで、館内には入っていません。入り口はガラス張りのドアで、中の様子が見えました。確か、大きな(数メートル)ガラス管のような中に、サナダムシが吊り下げられていた記憶があります。
うん、懐かしくなりました。こういう、過去を懐かしむのは、老いの証? 人生終末の証? まあ、兎に角、目黒周辺、涼しくなったら、歩いてみたいです。
はい、本日の認知機能低下防止対策は、昔の記憶を辿る旅でした。
それでは、また。