歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

⑧ 家康覚醒 ! 信長殺して天下取り ! 嵌められる光秀 ?

2023年07月31日 | テレビの話し

はい、本日も、『どうする家康』の話となります。

中盤の山場であり、見せ場であり、家康の松本潤も、瀬名の有村架純も、信康の細田佳央太も、大熱演でした。二人の自害シーンは見ていて、それなりに、目をうるうるさせてしまいました。

ドラマとして、史実には残されていない、当事者たちの内面を、人間として、母として、父として、夫として、妻として、息子として、大胆に、ドラマチックに、目っいっぱい、これでもか、これでもかと、感動的に描きあげました。

でも、しかし、史実としては、「築山殿〈瀬名〉と信康」は武田側に接近したとして1579年、家康の命により処刑されたとしか残されていません。そこに、どんな人間ドラマがあったのか、想像するしかありません。

ドラマでは、"瀬名の夢"に武田勝頼も、家康も巻き込み、"慈愛の同盟"は着々と拡大しつつあると思われたが、勝頼の裏切りにより、信長に知られる。

勝頼は、企てを信長が知る事になれば、信長と家康との戦になる、と考えての行動でしたが、結果は、戦は起こらず、信長は、家康に、瀬名と信康の処刑を命じ、二人の死で終結。

このドラマ展開、信長と家康を対立させ戦わせ、その間隙を突いて、武田勝頼が勝利する企みは不発に終わります。これは、とても、無理筋の展開。

そして、そして、"瀬名の夢"に家康も賛同し、それに向かって共に行動していた家康に対しての、信長が考えた、罪に対する罰は、愛する、妻と息子を、自分の命で処刑させると云う、かなり残酷な罰でした。

この展開は、とても、とても、感動的でした。 

それにしても、この展開は、二人に対しての二重の裏切りであり、そこまでして、家康はなにを望んでいたのか、画面から読み取れませんでした。

ドラマチックな展開です、新しい解釈です。でも、これは、史実としては、とても、とても、無理があります。でも、しかし、それは違うという、確かな資料は残されていません。

毎度おなじみの磯田道史氏によれば、

『いくら信長に言われたからといって、家康がまったくの事実無根だと考えていたら、さすがに嫡男は殺さないでしょう。多くの研究者が、岡崎の信康と築山殿の処刑の裏には、対武田の外交方針をめぐって、浜松の家康たちとの路線対立があったとみています〈柴裕之『徳川家康』〉 』

私もこの説が、事実に近いと思います。

そして、その後の家康は豹変し、『ぶらり富士遊覧』の回では、信長に、気持ち悪いほど、上様、上様と、下にも置かぬ、誰が見ても不自然な接待を繰り返すのです。

信長は、自ら滑稽踊りを率先して踊る家康の姿に、二人の処刑を命じたことの恨みを、悟られないための行動と、信長も、そして、画面を見ている視聴者も、誰しも分かる、描き方をしています。

『富士遊覧』は、武田勝頼が敗北し武田家が滅亡した1582年に行われました。瀬名と信康の処刑は1579年ですから、3年の月日が経過しています。

そして、ドラマ終盤、家康の豹変を問いただす家来たちを前に『わしは、信長を殺す。天下を取る』と宣言します。家康覚醒です! 

そして、本能寺まで46日のテロップが映し出され、つづくの文字。

そうか、そういう事か!と、思いました。

瀬名が覚醒し、夢を語り、集い、そして、信長の命で、瀬名と信康を見殺しにした家康。

この史実とは、かなり異なる無理な展開は、"本能寺の変"に対する、"新たな視点"へと繋げる布石だったのです。

明智光秀の "本能寺の変"は、日本史最大のミステリーとして、戦国史筋で、巷で、ありとあらゆる説が、唱えられています。

実行犯は、明智光秀で間違いないのですが、先ずは動機で、恨み説、野心説、操られ説等があります。

それに加えて、犯行は、光秀の単独犯説、複数犯説とがあり、動機とも、 いろいろ絡み合い、訳の分からない状態のようです。

古沢良太氏の、この展開では、明らかに家康の絡みを示唆して、次回に続くとなります。

ここで、ここまでのドラマの筋立てに沿って、家康の心のうちを、ちょっとだけ覗いて見たいと思います。

自分も賛同した"瀬名の夢"、自ら下した妻と息子の死に対して、一つの答えが、信長を殺す、天下を取るの言葉だと思います。

信長を殺し天下を取るとの宣言は、信長への恨み、復讐心ではなく、瀬名と信康の夢を、実現する宣言。

家康は、慈愛の心、徳治主義の正当な政治、王道を望んではいるのですが、日本列島が多数の国に分裂していた、群雄割拠、下克上の戦国の世は、王道では覇道に勝てない。との現実的な選択。

21世紀の現在も、平和の為の戦争が、防衛の為の侵略が、世界中起こっています。やはり、地球上に、多数の国家という形態が存在する限り、戦争は終わらないのです。

話が大きくなりました。話を戻します。

兎に角、この先の展開が気になります。

明日あたりには、溜まっている三本『安土城の決闘』『本能寺の変』『伊賀を越えろ』を視聴の予定。

それでは、また。

 

 

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⑦『どうする家康』信康は壊れ!瀬名は覚醒!慈愛の心で結び付いた国!

2023年07月29日 | テレビの話し

本日も、飽きずに懲りずに「どうする家康」をネタに綴ります。

それで、家康の正室瀬名が武田と通じ、謀り事を企ているとの情報を、息子信康の正室五徳が、父の信長に知らせるのでした。

徳川の動きを監視するように言われていた五徳、手紙を書くシーンで五徳は涙を流すのです。父への忠誠と、夫信康への裏切り、心は揺れ動くのです。

手紙には、そのへんの事情が、信長にも読み取れる表現があったのか? それとも信長の政治的な判断で、直接的な制裁は行わず、この件には関わりのない、家康の伯父水野信元を、武田に通じていたとして、家康に成敗を命じるです。

水野忠元も、家康も、信長の家臣、それを、岡崎城にて、家康に成敗を命じたのでした。この辺りの展開が、ちっと解りずらい描き方です。

涙を流しつつ手紙を綴る瀬名。手紙を読んだ信長、手紙を読んだ後、焼き捨てる一瞬のカットに「せな」の文字がを映し出されます。

何故、信長は家康に、「せな」成敗するように命じなかったのか? 五徳が今回だけは見逃してほしいと懇願し? それを信長が受け入れた?

この見せしめ策は、娘五徳への愛から、それとも、「瀬名成敗」を命じたならば、家康を武田側に追いやる危険性を考えた? 多分、家康に一時の猶予を与えた政治的判断だったのでしょう。

この見せしめ、ちっと解りずらい為に、わざわざ、岡崎城に呼びつけた伯父水野信元の口から『信長の考えそうな事だ、徳川の内部に居る、武田と通じている者への見せしめ』と云わせた、説明的シーンを加えたのでしょう。

史実は、もっと単純で、解りやすいと思います。それでは、身もふたもないので、古沢良太氏としては、それなりの新たな視点で、それなりの人間ドラマとして描いたのでしょう。

それで、なんですが、戦国時代、同盟関係から敵対関係への変化は日常茶飯事、しかし、織田と徳川の同盟は堅い同盟でした。

それなのに、それなのに、設楽原後、信長は、家康がもっとも危険な存在と認識して、娘五徳に監視を命じたのです。それに従って瀬名の行動を報せた五徳。このような展開となっています。

しかし、徳川を監視するように命じるこのシーン、驚き、慄く五徳。でも、しかし、そも、そも、家康の息子に、信長が娘を嫁がせたこと自体が、政略結婚であり、監視の役割をも持っていた筈、わざわざ大げさに命じる事も無いのです。

設楽原の戦い後、織田との力の差を見せつけられて、家臣となった家康。対等から、上下関係になった後も、何故に、信長は家康を危険視したのか、まったく描かれていません。

今の我々は、史実として、家康の天下統一を知っていますが、この時点での信長が家康を危険視した動機や経緯は、画面からは読みとる事はできません。

これは、史実と異なる、瀬名と家康、息子信康との感動的な、ドラマチックな人間ドラマへの、序曲への、伏線なのです。

その後、武田と徳川の戦は続き、息子信康は壊れていきます。武田との戦で父家康と対立したり、戦いの先頭に立ち敵を殺しまくり、タカ狩りの帰り僧侶を切り殺したり、家来を怒りに任せて切りつけたり。

これらは事実のようで、信康の粗暴な性格を表す出来事と、これまで、その筋では解釈されていました。このドラマでは、戦に疲れ精神を病んだ結果の行動と描かれます。

僧侶を切り殺した夜、母瀬名に信康が、

『僧侶にどうあやまればよいのか・・・。皆が強くなれと云うから私は強くなりました、しかし、私は、私でなくなりました。いつまで、戦えばよいのですか・・・いつまで殺しあえばよいのですか』

と、泣きながら訴えます。

ここで、母瀬名は覚醒し、夢を語るのです。ここからが、古沢良太氏の新たな視点で、腕の見せ所。

これまで、ドラマでは瀬名の住まいは、岡崎城に近い「築山」、家康は浜松城、信康の岡崎城と、三人の別居生活。これは、事実で史実。変えると歴史改ざんとなります。ドラマでは、家康と瀬名の別居生活についての理由は明確にされていません。家康、瀬名、信康、この三人の関係は良好と描かれます。

それで、磯田道史氏の説明。

『築山殿と云う呼び名が、家康との不仲を象徴しています、家康の正室は前にも述べたように、今川家の重臣の娘でした。そのため駿河御前と呼ばれていたのですが、長篠の合戦の前後には、家康は彼女を岡崎城からも追い出して、築山のある屋敷に押し込めてしまいました。そこで、築山殿と呼ばれるようになったのです』・・・「徳川家康 弱者の戦略」から引用。

ドラマでは、駿河御前の名は一切出てきません。瀬名と家康の関係が終わっていたら、この先のドラマチックな展開にはなりません。

新たなる解釈により、悪女瀬名〈通説〉は、政治にも、経済にも通じ、政略家であり、はたまた、宗教者のような、大変な人物として描かれています。家康さえも、瀬名の構想を聞き、口をあんぐりと開け、驚き、戸惑い、混乱し、納得し、妻の偉大さにビックリ仰天なのでした。

瀬名の、「夢・政治構想」は、

『瀬名の夢、戦をするのは貧しい、奪いあうより、与えあう世の中、奪うよりもらう、コメが足らぬなら、コメがたくさんある国からもらう、塩が取れる国ならば塩を、海があれば魚を、金山があれば金を、相手が飢えたるときは助け、己が飢えたるときは助けてるらう、奪い合うのではなく、与えあうのです与え合うのです。さすれば戦はおきません』

とか、

『同じ銭を使い、商売を自在にし人と物の往来を盛んにする、さすれば、この東国に巨大な国が出来上がるも同じ。そのような巨大な国に信長様は戦を仕掛けてくるでしょうか、強き獣は、弱き獣を襲います。強き獣と、強き獣はにらみ合うのみ。にらみ合っている間にも、我らのもとに集うものはどんどん増えるに違いありません。この国は武力で制したのではなく、慈愛の心で結び付いた国なのですから』

古沢良太氏が、このように瀬名を描いたのは、一説には、今川義元の姪とも言われ、そのことから、義元の思想的影響を受けていたとの設定を導き出したのかも?

家康も人質時代に、義元から「世を治めるのは、覇道ではなく王道である」と、強く、強く、叩き込まれていました。

覇道は、力をもってする一時的支配。王道とは、徳治主義による正統な政治。これは、儒教の政治理念・・・孟子が唱えた有名な言葉だそうです。

瀬名は、儒教的な、文化的権威を重んじる義元の影響を強く受けていたと解釈。また、瀬名と家康の関係として、正室瀬名を亡くした後、死ぬまで正室を迎えなかった事実から、瀬名との関係のそれなりの根拠として創作?

まあ、私としては、正室は瀬名で"こりごり"として、側室や側女が居れば、それで十分満足と考えたのだと?・・・そうですよね家康さん。 

兎に角、この新たな解釈の方が、ドラマチックで感動的です。新たな解釈がなければ、新たな"家康ドラマ"を作る意味はないですからね。

本日も、長くなりました。

年寄りの、ボケ防止に、最後までお付き合いくださり、お礼申し上げます。

これでお終い。

いよいよ”本能寺の変”です。 

古沢良太氏があらたな視点で、どう組み立てるのか、どう見せてくれるのか、とても、とても、楽しみです。

それでは、また次回。

 

 

 

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⑥ どうする家康!どうして良太 ? 新たな視点 ! そして信康は壊れ ! 瀬名の夢 !

2023年07月26日 | テレビの話し

先日、5本まとめて見ました。見れば確かに面白く、続きは、この後の展開は、となるのでした。

視聴したのは以下の4本。

      6/11 第22回『設楽原の戦い』

      6/18 第23回『瀬名、覚醒』

      6/25 第24回『築山へ集え!』

      7/02 第25回『はるかに遠い夢』  

それで、後期高齢者を前にして、いつの頃か、ドラマを見ても、本を読んでも、すぐに記憶が薄れてしまうのです。

大相撲は4~6時までを録画して、6時半ごろより、一杯飲みながら、食事をしながら、視聴しているのですが、見ているときは、それなりに、勝敗を記憶している「つもり」なのですが、翌朝になると、誰が勝って、誰が負けたか、ほとんど覚えていない今日この頃なのです。

そんな、こんなで、見たら、それなりに調べ、それなりの感想を、意見を、綴ることで記憶にとどめ、ボケ防止と暇つぶしに努める今日この頃なのです。

それで、6/11放送の第22回『設楽原の戦い』ですが、因みに、長篠城の近く設楽原で戦ったので『長篠・設楽原の戦い』とも云うみたいです。

武田軍による、徳川の出城、長篠城攻めで、落城寸前の窮地から救うため、援軍としての織田・徳川連合軍。

野戦へと誘導しての設楽原、作戦は織田信長の主導です。信長は、武田軍の得意とする「野戦」を敢えて選択しました。

織田軍は、土塁を積み上げ、馬防柵を広く一直線に展開、これを見た武田軍の家臣たちは「信玄公は、十分なる勝ち目なき戦は決してなさいませんでた」と勝頼に進言。

勝頼は「だから武田信玄は天下をとれなかった、手堅い勝利を百重ねようが、一の神業には及ばぬ」として、一の神業に賭けて突撃。 

突撃する武田軍、防御する織田軍となり、実質的には城攻めと変わらない戦となりました。武田軍の予想した織田軍の鉄砲は一千丁。

いつの世も、戦の常識として、攻撃側は防御側の3倍の兵力を必要とするらしいのですが、この時、攻撃する武田軍一万五千人と鉄砲千丁、迎え撃つ信長・家康軍三万人と鉄砲三千丁。勝ち目はなかったのです。

ところで、話は、ウクライナの反転攻勢ですが、かなりの膠着状態。攻守逆転で、防御のロシア軍、攻撃のウクライナ軍、どちらも、負けさせない、勝たせない、米国主導の管理・代理戦争。

兎に角、一方に肩入れせず、ゼレンスキーにも、プーチンにも、四の五の言わせずに休戦!停戦!

はぃ!  話を戻します。

そして、信長は、武田の予想を超えた三千丁の鉄砲で、勝頼の騎馬軍団を迎え撃ったのです。それで、この鉄砲戦ですが、ドラマでは、巷の定説、世にいう織田の「三段撃ち」が描かれました。

でも、この火縄銃の欠点を補う「三段撃ち」ですが、信頼性のある記録は残っていないそうです。織田が勝利した要因は鉄砲の数と、「弾と火薬」の質と量の違いであって、三段撃ちではない、との説が、いまでは、その筋で定説のようです。

しかし、今回、NHK大河は、あえて、最近、戦国歴史筋での定説を否定し、世間の通説、「三段撃ち」を描きました。

たぶん、これは、単に、三段撃ちが、映像的に戦闘シーンとして、絵になること、そして、信長の戦法の先進性を際立たせる、視覚効果を優先したものと思います。

とにかく、三段撃ちの連射で、武田騎馬軍団の突撃は、ものの見事に鉄砲の的となり、馬防柵を前にして撃ち殺され、死体が積みあがっていくのです。

戦闘の様子を高台の陣から見下ろす、信長、秀吉、家康、そして、家康の息子、信康。

信康『これが戦でございますか、これはなぶり殺しじゃ』

刀や槍での殺し合いと、鉄砲での殺し合いに、それほど残虐性に差はないと思います。短時間での大量死と、長時間での大量死の差だけのような気が・・・。

この衝撃に、信康は、優しさは、武将としての弱さ、強くあらねばと、その後、戦場で勇猛果敢に戦い続け、精神を病んでいく・・・との解釈で描かれます。このことで、『瀬名覚醒・築山へ集え・はるかに遠い夢』へと、物語は繋がっていくのです。

古沢良太さんの解釈はドラマとしては面白いですが、史実としては受け入れがたいと思います。

秀吉『ああ 面白いように死んでいくわ~ 実に愉快でごぜいますな~』

ホントにこの作品での秀吉の描き方は、私のイメージを覆す、立身出世のためならば、残虐なことも、軽薄を、盲従を、装うことも厭わない、計算された、非情さ、異常さを感じさせます。でも、しかし、これが、真実の秀吉なのかも、そんな気がしてきました。

家康「一体、何丁の鉄砲を・・・」

秀吉「三千丁でごぜ~ます。もはや兵が強いだけでは戦は勝てん。銭にもっとるもんが勝つんだわ、最強の武田兵も、虫けらのごとくだわハハハハハ(笑)」

信長「やめよッ! 最強のつわものたちの最期を謹んで見届けよ。武田勝頼・・・見事なり」・・・このセリフ、これまでとは異なる内面を垣間見せ、かなり、意味深。こん後の展開への布石かも・・・。

それで、このドラマでは、家康は、信長の戦い方の、先進性に、残虐性に、そして財力に、恐れを抱き、これまで対等な同盟相手であった、信長と家康の関係が、主君と家来の関係へと変化した。と、描かれています。

私が調べた限り、『設楽原の戦い』以降、家康が信長の家臣になったとの事実は、見つかりませんでした。

磯田道史氏も『信玄は、家康を対等な交渉相手として、国主として、みなしていなかった・・・ここは重要な点です。信長は、家康に無理難題も押しつける厄介な存在ではありますが、一貫して、家康を対等の同盟相手として扱い、家来扱いはしていません』と、弱者の戦略で述べています。

しかし、まあ、時代考証の静岡大学名誉教授の小和田哲男氏が家来説を認めたのですから、きっと裏付けとなる、それなりの資料はあるのでしょう。家康の家臣化は、今後のドラマ展開に必要不可欠な要素となる?

もしかして、かなり消極的な判断として、家臣化を否定する資料は無いとして、家臣化を認めた?

それで、今回、はじめて、NHK番組HPを覘いてみたら、

 『今、もっとも期待される脚本家のひとり

      古沢良太が、新たな視点で、

      誰もが知る歴史上の有名人、

      徳川家康の生涯を描く』

と、なっていました。"新たな視点"なのです。この作品は原作はなく、すべて古沢良太氏のオリジナルだそうです。

知りませんでした、古沢良太氏(50歳)、今、"もっとも期待"され脚本家の"ひとり"だそうです。期待されている方は、他に何人いるの? 期待しているのはNHK、脚本家業界筋、それとも、世間一般で・・・。

つまらん突っ込みを入れてしまった。兎に角、それなりに期待されている古沢さんが"新しい視点"で描いた作品な のです。

ついでに、調べてみたら、過去、61作の大河で家康を扱った作品は2作だけでした。

1983年「徳川家康」 原作---山岡荘八 脚本---小山内美奈子 家康---滝田栄

2000年「葵 徳川三代」 原作なし 脚本---ジェームス三木 家康 ---津川雅彦

もっといっぱいあった気がしたのですが、しかし、戦国時代〈末期〉を舞台にした作品は19作あり、大河の三分の一で、やはり、戦国時代〈末期〉は人気があるようです。

話は戻します。

設楽原の戦いが「1575年」、その4年後の1579年に「瀬名と信康の処刑」その3年後の1582年3月、武田勝頼敗北し自刃し武田家滅亡。

そして、そして、その3か月後の、6月2日に"本能寺の変"で、織田信長が自刃。

本日は『設楽原の戦い』の話がながくなり、第23回『瀬名、覚醒』、第24回『築山へ集え!』、第25回『はるかに遠い夢』のお話は次回とします。

今回も、それなりに、あっち、こっち調べたので、それなりに、歴史のお勉強になりました。段々戦国時代に嵌りそうです。

それでは、次回、また。   

 

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⑤ ”どうする家康” 室町時代は南北朝時代と戦国時代で混乱・混迷・動乱の時代

2023年07月17日 | テレビの話し

最近、またしても『どうする家康』見ていません。

もう、5・6回分の録画が溜まっています。やはり、何というか、戦国時代で、家康とか、信長とか、秀吉とか、話が重たいのです。

そんなことなら見なきゃいい!との声が飛んできそうなのですが、それでも、やっぱり、そこは『NHK大河ドラマ』です。

話は重たいのですが、製作費も重たく、役者の顔ぶれも重たく、それなりに見ごたえも重たいのです。見始めてしまえば、それなりに引き込まれているのです。

そしてまた、重たいドラマを見て、その感想を綴ることで、これは、これで、ボケ防止となり、暇つぶしとなるのでした。

まあ、そんなどうでもよい前置きは、この位にして、話は、本題に入ります。本題とは云っても、前置きに毛の生えた程度ですが…。

そもそもです、以前にも触れたと思うのですが、戦国時代って、いつ頃から、いつ頃まで?とか、戦国時代の前はなに時代?とか、これまで歴史にはあまり興味が無かったので、いろいろ疑問が湧いてくるのでした。

そこで、歴史のお勉強となり、数年前に買い求めた『いっきに学びなおす日本史 古代・中世・近世教養編・・・東洋経済新報社刊』のページをペラペラ捲ってみたりしている今日この頃なのです。

そもそも、戦国時代とは『応仁の乱が終わった1477年(文明9年 )から、織田信長が足利義明を擁して上京し、天下統一の機運の見え始めた1568年(永禄11年)頃まで』の、ほぼ百年弱だそうです。

でも、しかし、私のイメージとしての戦国時代は、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、今川義元、徳川家康たちの、戦国武将と云うか、戦国大名が戦乱に明け暮れていた頃なのです。

今川義元1519年生まれ、武田信玄1521年生まれ、織田信長が1534年生まれ、豊臣秀吉1537年生まれ、徳川家康が1542年生まれ、

家康が一番年下で、秀吉が5歳年上で、信長が8歳上、信玄が21歳上、義元は23歳年上なのでした。家康、秀吉、信長が同年代といったところでしょうか。

この三人組が大きく歴史に登場するのが、義元が信長に敗れた「桶狭間の戦い」1560年辺りからです。家康18歳、信長26歳。この辺りからが戦国時代のイメージ。

信長の上洛まで8年間が私の戦国時代。「応仁の乱」から約百年続いた戦国時代のまさに末期の末期。でも、戦国時代と云えば、家康、秀吉、信長のイメージ一般的uなのでは?  

それにしても、「応仁の乱」は聞いたことはありましたが、戦国時代の始まりとは知りませんでした。

以前、何かで、京都のある老舗の女将が「うちの店はこの間の戦争で焼けました」と云うので、聞いた方は、てっきり「第二次大戦」と思って聞いていたら、どうも話が変なので、問いただすと、その戦争とは「応仁の乱」だった・・・何て、老舗の自慢話。

それで、応仁の乱ですが、1467年から1477年の10年間、西軍、東軍に分かれて、京都全市を戦場として闘われた戦争なのです。

これも、何か聞いた話ですが、闘っているうちに、いろいろな思惑と打算が絡まって、いつしか、何が何だか訳が分からなくなって、1477年ごろには、戦闘の当事者の守護大名が、ぽつり、ぽつりと帰国し、京都市内での戦闘は自然消滅し、戦いの舞台は全国へと、これぞ戦国時代の始まり。

ところで、戦闘と云っても、槍や、弓矢が飛び交い、騎馬軍団が駆け巡り、足軽の大集団が激突! 何て戦闘ではなく、数十人の小競り合い程度の戦闘が、街角のいたる所で繰り広げられていた。何てことを、NHKの歴史番組で見た気がします。

『いっきに学びなおす日本史』によると、

『応仁の乱において、戦闘の主体は騎馬武者による一騎打ちから、足軽による集団戦に移行していった。足軽は南北朝時代から見られた雑兵で、農民や無頼のが多く、軽装で敏捷に行動した。応仁の乱で多数の足軽が用いられるようになると、その無統制もはなはだしくなり、土倉を襲撃し、放火・略奪・乱暴狼藉をしばし行った。公家の目には、これも下克上のきわまりだと映り、足軽を「ひる強盗」として非難』

何て、記されています。

ちらっと、歴史を眺めると、室町時代は、混乱と、混迷と、動乱の、時代のようです。前半が、朝廷が南北に分かれての「南北朝時代・・・1336年~1392年」で、1467年から1477年が応仁の乱で、応仁の乱が終わって、そして戦国時代が始まるのでした。

なんとなく、なんとなく、歴史の繋がりが、ボンヤリと見えてきました。話はドラマから離れましたが、兎も角、『どうする家康』のお陰で日本史への興味が湧いてきました。

「守護大名」とは何ぞや? 鎌倉幕府とか、室町幕府とか、幕府とは何ぞや? その統治機構は? 朝廷との関係は? そもそも、家康は何で江戸に幕府を開いたのか、なんてことにも興味が湧いたりしている、今日この頃です。

そろそろ、溜まっている録画を視聴したいと思います。瀬名が中心の話が続きそうです。

本日は、これで、日本史のお勉強を終わります。

 

それでは、また。

 

 

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④ 権威権力で秦の始皇帝から中国共産党!そして頼朝、信長、家康に想いを巡らす!

2023年07月04日 | 世間話し

このところ、天気予報では曇りの日々が続いていますが、日中かなりの時間、太陽が顔を出し、梅雨時なのに洗濯物がよく乾き、とても、ありがたいと思う今日この頃。

はい、いつものように、ボケ防止の為、いろいろ頭を使います、動かします、考えます。兎に角、歳をとるにつれ、頭を動かすと、以前より頭が熱くなり、頭に汗をかく傾向が、より顕著になった気がします。

それで、”頭を使え!”と云う言葉を聞くと、思い出すのは相撲の稽古中に、親方が弟子に”もうすこし頭を使え!”と指導したら、弟子の力士は、頭を相手の身体に擦りつけたそうで、馬鹿!そう云う事じゃない!と親方に怒鳴られたそうです。

因みに、脳は、一日に消費するエネルギーの20~25%を占めるそうで、重さは体重の2%程度なので、頭を使うと、それなりにお腹が空く?

はい、それでは、話は変わって、権力と権威のお話、これが気になっているのです。

前回、

「頼朝も、家康も、マッカーサーも、権力と権威を分離して、権威として、文化として、歴史として、天皇制を存続させた」

と書きました。

日本は「神の国」という方が居られるように、神代の昔から、令和の現代まで、元号が、天皇制が、存続しているのです。

何故なんだろう、どうして何だろう、と、私は考えるのです。

それで、先ずは、天皇朝廷が権力と権威をともに支配していた時代から、平安後期、武士が権力を奪取し、鎌倉幕府を成立させた時代あたりから考えます。

因みに、鎌倉幕府の成立年ですが、これまでは、源頼朝が朝廷より「征夷征夷大将軍」の官位を与えられた1192年を、鎌倉幕府の成立…「いい国...1192年...つくろう鎌倉幕府」…としていました。

それが、いまでは、鎌倉幕府の成立は実質的に武力により権力を奪取した1185年と…「いい箱...1185年...つくろう鎌倉幕府」…見なすのが、日本史学会?の最近の風潮と 本郷和人さんが「世襲の日本史」で述べていました。

まあ、それは、それとして、天皇朝廷より、権威も権力も奪取して、鎌倉幕府の成立とはなりませんでした。天皇の権威に歯向かう事は、しなかった?できなかった?

それで、古来より、政治、経済、宗教等々、日本が手本としてきた中国の支配構造なのですが、「秦の始皇帝」より現代まで、権力と権威を併せ持つ「皇帝」による支配が続いていたのです。

何故に、中国では権力と権威が分離せず、何故に、日本では権威と権力が分離したのか、権力を失っても、天皇の権威は、神代の昔から、現代まで存続しているのか?

それで、なんですが、皇帝の居なくなった、現代の「中華人民共和国」では、共産党が権威と権力の中心にいます。

これは、秦の始皇帝以来の支配体制です。これって、もしかして、共産主義の問題ではなく、中国固有の歴史的、文化的な問題なのかも?

何て、ことで、その答えが書いてありそうと思い、このところお世話になっている、NHK出版発行の新書本「腐敗と格差の中国史」岡本隆司著 850円+税を、先日、買い求めたのでした。

新書本です。850円+税です。それなのに、それなのに、

「…高位を独占する門閥と下積みに沈淪しつづける人々とが、かくて截然と分断される。ここに貴賤の差別が牢乎と固まった…」

何て記述が、そこかしこなのです。

そして、そして、嚮導、不羈、反撥、趨勢、挙措、膾炙、何て、小難しい熟語が、旧漢字も、そこかしこなのです。

「ムズカシイ事はやさしく、やさしいことは深く、深いことは面白く」これこそ!自分の思いを広く知らしめる、基本の基、いろはのい、です。

これは、たぶん、著者の岡本隆司さんは、かなりのご高齢かと思いきや、1965年生まれで58歳前後で、文学博士で中国が専門のようです。中国に関わると、やたらムズカシイ漢字を使い、小難しい表現を好むようになるの?

そのせいでしょうか、私が先日買い求めたものは、2019年4月10日第1刷本でした。3年間増刷なし、まあ、この手の本はあまり売れない?

ヤバイ!かなり、かなり、悪口を綴ってしまった。

話は戻して、兎に角、何故に、中国では権力と権威が分離せず、何故に、日本では権威と権力が分離したのか、権力を失っても、天皇の権威は、神代の昔から、現代まで存続しているのか?

これらは、わたしとして、とても、とても、大きな謎です!疑問です!ホント!何故なんだろ?どうして何だろう?

まあ、私としては、大雑把ですが、中国は、大陸国家で多民族国家、日本は海洋国家で、四方を海に囲まれた島国国家で、「ほぼ」単一民族国家。

この違いが、大きな要因では、と、思ったりしているのです。では、では、その結論に至る過程とか、理由とか、求められても、お答えするのは、とても、とても、ムズカシイのです。

天皇朝廷時代から、武家の鎌倉幕府の時代に移行した頃、権威としての天皇という存在を、将軍頼朝、配下の武将たち、一般の武士たち、そして、一般庶民は、どのような存在として認識していたのか? 何て、考えたりしているのです。

天皇一族の、権威と権力の正当性を、神との連続性を、現した『古事記』は、和銅5年(712年)に、『日本書紀』は、養老4年(720年)に編纂されています。

この二つの物語は、500年ほど後の、武家社会に、一般庶民に、どの程度浸透していたのか?

印刷技術の無い時代ですから、写本に写本を重ねての500年です。このあたりの事情は、とても、とても、知りたいです。

源頼朝も、織田信長も、徳川家康も、天皇よりも自分のほうが偉いと思っていた節は、それなりに、垣間見られる事象がちらほらなのですが、権力者として、それなりに権威を利用した方が得策と考えていたようなのです。

因みに、突然ですが、世の中で、ひっそりと、囁かれている説で、かの経済学者ケインズの、金融市場における投資家の行動パターンとして、「美人コンテスト理論」が知られています。

…ケインズは、玄人筋の行う投資は自分自身が良いと思うところに投資するのではなく、他の人が良いと思う投資先に投資する…と考えました。

これは、美人コンテストにおいて、自分が美人だと思う人に投票せず、他の多数の審査員が美人だと思うだろう、候補者に投票する、行動パターンに類似する…。

この行動パターンは、天皇制にたいする認識に、それとなく繋がる理論のようです。

源頼朝も、織田信長も、徳川家康も、天皇を自分は偉いとは思わないが、世間一般は、みんなは、多数は、偉いと思っているだろうから、それなりに処遇し、利用する方が得策、と、考えていたのかも?知れません。

因みに、わたくし、いまでは、統合の象徴としての天皇は必要だと考えています。

本日、家康からは、かなり、かなり、逸れました。

まあ、それでも、それなりに、ボケ防止とはなりました。

兎に角、これでお終い。

それでは、また。

 

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