歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

志村坂下・蓮根町 ⑮ スダジイで「こころ旅」で火野正平で山手線か?山の手線か?で占領軍の影が! 

2017年03月30日 | 東京の風景

一週間とちょっとのご無沙汰でした。

東京歩き、志村坂下・蓮根町シリーズです。

そして最終回です。

兎に角、歩いたのは1月の7日で、今日は3月29日で我が家のご近所でも、ちょっぴり櫻が開花しました。

そして、朝のウォーキングでマスクを外しても、眼も鼻も異常無しになりました。スギ花粉は峠を越えたようです。まあ、歳の所為で身体も年々花粉に過剰に反応する能力が低下したようです。

まあ、兎に角、それで、氷川神社に居るのです。

境内の木々は板橋区の保存樹木に指定されていました。

スダジイだそうです。所謂、ドングリの木です。

ちょっと調べたら、驚きの事実が判明しました。もしかして?驚くのは私だけ?

スダジイのドングリは食べられるようなのです。それも生でもOKだそうです。ドングリはすべて食べられないと思って、60有余年生きてきたのです。椎茸のホダ木もシダジイだそうです。

スダジイは鎮守の森の代表だそうです。もしかして、飢饉に備えて植えたのでしょうか?アオダイショウなどの住処になっていることもあるそうです。以前、我が家の庭にも青大将は姿を見せたことがありました。 

そう云えば、思い出しました。あの、「こころ旅」の自転車オジサン火野正平が以前生で囓っている場面がありました。

それにしても、「こころ旅」は7年目に入ったそうです。火野正平が自転車に乗れなくなるまで続きそうです。彼と私はほぼ同年齢。

それで、兎に角、話しは氷川神社を後にして、帰途につくのでした。都営三田線の駅を目指すのです。

蓮根駅前通りに出て、さて、右に行くか?左に行くか迷ったのですが、右に曲がった方が巣鴨に近く乗車料金が安いと判断。

地下鉄の高架?を辿って駅を目指します。

高架下を通って左に曲がります。

駅が見えて来ました。

志村三丁目駅です。

こんな処に駅があるのです。駅前広場もありません。バス停もありません。お洒落な店もありません。でも、都営三田線なのです。

都営三田線は板橋区の外れから、都心の大手町、日比谷を通り、三田、白金、高輪、目黒まで通っています。ここも東京、ここが東京、これでも東京と、沿線の風景は驚くほどの変化するのです。 

Suicaで改札を通過します。地下鉄ですが階段を登ります。

ホームにはホームドアが設置されています。

志村三丁目の先で、三田線は本来の地下鉄になります。

巣鴨で降りて、JRは、アレッ!山の手線?山手線?どっちだったっけ? はい!直ぐに調べます。

調べました。そうでした! 山手線と書いて「やまのてせん」が正解でした。第二次大戦後、占領軍の命令で「山手」と書いて、「やまのて」は判りにくいので、「やまて」となったのです。

そして、1971年に駅名に「ふりがな並記」が決まったとき、「やまて」から、歴史的経緯を考慮して、本来の「やまのて」に戻ったのでした。こんな処に戦争の影が、占領軍の影があったのでした。

私は1950年の生まれですから、物心が付いた頃には「やまてせん」でした。そして、21歳になって「やまのてせん」となり、いまでも、時々、どっちだか?判らなくなるのです。

1971年頃までは、「やまのてせん」と云うと年寄りと見られ、若い人は「やまてせん」と呼んでいたのです。

そして、いまでは、若い人は「やまのてせん」で、年寄りはいまだに「やまてせん」と呼ぶ方がいるのでした。

兎に角、まあ、わたしには「やまのて」でも、「やまて」でも、この際、どっちでもイイのです。

兎に角、都営三田線志村三丁目から、巣鴨で山手線に乗り換え、上野で常磐線に乗り換え、帰宅の途に着いたのでした。

と、云う、事で、今回の「志村坂下・蓮根シリーズ」は、どっちでもイイ話しで終わります。

 

それでは、また。

 

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稀勢の里の優勝は奇跡でもなく!神がかりでもなく!冷静な分析による作戦勝ちです!

2017年03月27日 | 相撲の話し

昨日の千秋楽は、興奮しました、感動しました。

稀勢の里は立派でした、横綱の責任を果たしました。

でも、しかし、本日の各局のワイドショーは、気持ち悪いほど、稀勢の里を神格化しています。

そこで、一言。

稀勢の里は、プロとして、冷静に、照ノ富士を研究していました。

当日、照ノ富士は病院に行き、肘と膝の治療を受けていた情報を、稀勢の里は知っていた筈です。とくに肘が悪化し、前日よりテーピングが大きくなっていました。

そして、琴奨菊戦での変化を見て、照ノ富士の「膝と肘」は相当にダメージを受けていると判断したのです。

稀勢の里は千秋楽の照ノ富士との一戦に賭けました。

鶴龍戦にはケガの悪化を避けて、全力を出さなかったのです。

そして、千秋楽、本割り、決定戦、ともに照ノ富士の痛めている肘をきめ、振り回したのです。

稀勢の里は、とても、とても、冷静に、優勝への作戦を考えていたのです。

奇跡ではありません、気力、知力、体力、心技体の勝利だったのです。

一言でした。

でも、それでも、ホントに感動しました。

本割りで勝った時は、右の拳を振り上げヤッタァ~!と思わず叫んでしまいました。

決定戦で勝った時は、両手の拳を突き上げて、ヤッタァ~!ヤッタァ~!ヤッタァ~!と、何度も叫んでしまいました。

土俵下でのインタビューにも泣けました!

ありがとう!稀勢の里!

ありがとう!横綱!

      

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稀勢の里が!まさか!まさか!の逆転優勝!照ノ富士は琴奨菊戦での立ち会いの変化で!本日の結果は予見されていた!

2017年03月26日 | 相撲の話し

やりました!稀勢の里の逆転優勝です!

誰もが予想できなかった、奇跡の逆転劇でした。

でも、しかし、優勝したから云うのです?、が、わたくしとしては、それなりの、伏線を読み取っていたのです。ホントです。

この記事を読んで下さい。

http://blog.goo.ne.jp/cocoro110/e/e294aa6d8127ad53ca2b80a0eda1bc37

断って置きますが、優勝を祝って、いつもより、かなり、晩酌の量が多めととなっておりますのです。

お見苦しいてん、お聞き苦しいてんはありますが、そこは、稀勢の里優勝と云う事で、お許し願います。

それで、兎に角、先ずは、高安の援護射撃に拍手を送ります。

そして、高安のインタビューが、相撲中継の終了間際にちょっとだけ流れたのですが、高安は泣いていたように見えました。

稀勢の里が見せた勝負への、執念に、意地に、拘りに、責任に、感動し、感銘したのでしょう。

まさに、まさに、稀勢・高時代の幕開けです。

それで、伏線を読み取っていた話しです。

それは、昨日、琴奨菊戦で、照ノ富士が立ち会いで変化して、はたき込みで勝ったのを見て、稀勢の里は判った!のです!

そうです!私が言っていたとおり、照ノ富士の膝は勝ち進むに連れ、ダメージが重なり悪化させていたのです。

琴奨菊の出足を食い止める力は残っていなかったのです。それが、立ち会いの変化だったのです。

それを見ていた稀勢の里は、鶴龍戦は捨てたのです、千秋楽の照ノ富士戦に集中させたのです。

その結果、稀勢の里の、気力と、体力と、知力が、照ノ富士を圧倒したのです。

気力、体力、知力、まさに、心技体です。

稀勢の里は、正しく、横綱になりました。

次は、高安の番です。

でも、しかし、ホントに!ホントに!ホントに! 

ヨカッタ! ヨカッタ! ヨカッタ!

横綱稀勢の里 バンザイ!

それでは。

 

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大相撲は 『稀勢!・高!時代』に・『茨城時代』に突入します!

2017年03月22日 | 相撲の話し

まさか! ホントに!

もしかして、このまま、千秋楽まで行ってしまうかも?

稀勢の里と高安の千秋楽決定戦が、かなり、かなり、現実味を帯びてきました。

3月15日に“高望”みとして、稀勢の里と高安の優勝決定戦にふれたのですが、ホントにここまで、両力士が健闘するとは思っていませんでした。

そして、そして、何よりも、高安の、落ち着き、自信、力強さです。これまでの対戦相手を圧倒しています。稀勢の里よりも安定しています。

優勝候補は、10目を終わって、1敗の照ノ富士、栃煌山、全勝の稀勢の里、高安の四人に絞られましたが、先ず、栃煌山の可能性は、かなり、かなり低いので、実質は三人の争いです。

高安は照ノ富士との対戦は終わっているので、稀勢の里と照ノ富士戦が優勝の行方を決定する筈です。

稀勢の里が照ノ富士に勝てば、千秋楽に同部屋決戦となるでしょう。

同部屋決戦となれば、兄弟子の稀勢の里が勝ちます。

心配なのは! こんなことを書いたりすると、本日の取り組みで、二人とも負けたりして?

いや、そんなことは、絶対に!絶対に!ありません。

それよりも、照ノ富士の好調に勝ち進んでいることが、とても、とても、心配です。

誰も云わないので、ここで、ハッキリと云います・

照ノ富士は、いまのところ“好調”のようですが、目先のカド番脱出の為に、かなり、かなり、無理をしての“好調”だと推測しています。

勝進めば、進むほど、膝へのダメージは積もり積もって、悪化していくと考えます。長~~~い眼で見ると、とても、とても、とても、マイナスとなる事でしょう。

把瑠都、琴欧州の辿った道です。

照ノ富士の膝の故障は、もう、ケガでは無く、これは、もう、「持病」です。

まあ、それは、それとして、高安、稀勢の里の同部屋対決です。

茨城県どうしの同県対決です、隣町対決です、土浦市と牛久市、どちらが勝っても茨城県です。

大相撲は茨城県の時代!

大相撲は稀勢・高時代に突入! 

本日、11日目、高安は鶴竜、稀勢の里は嘉風です。

それにしても、今場所の高安は稀勢の里よりも「横綱相撲」を取っています。

高安が初優勝するかも?

 

それでは、また。

 

 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑭ 懐かしの氷川神社で!幼稚園に!コヨリに!お祖母ちゃんに!思いを巡らします

2017年03月20日 | 東京の風景

志村坂下を、蓮根町を、まだまだ歩いています。

やぶ岩で550円のタヌキそばを食べ終わり、目指すは氷川神社です。

このバス通りは、十数年前までは、年に一度か二度は車で通り過ぎる事がありました。車窓からチラチラと横目で景色を懐かしんでいました。

そして、本日、ゆっくり、ゆっくり、懐かしのあの頃に思いを巡らし、想い出に浸りながら、歩きまわります。

この交叉点の、角から二軒目のビルは、小学校の同級生の「やまぐちクン」の家です。

「ヒコー堂 山口書店」彼の家は、昔から文房具と本を商っていたのです。私の方は山口クンを記憶していますが、山口クンは間違いなく私の事を記憶していない筈です。真ん中の子が山口クンです。

店の前には池袋行きのバス停がありました。このバスに乗って池袋のデパートに行って買い物して、大食堂で「お子様ランチ」を食べるのが、当時、我が家の一大イベントでした。今は何処行きのバスが通っているの?

あの頃、東口には三越、西武、丸物が、西口には東武と、4つのデパートが池袋にはありました。三越は何か高級そうで縁がありませんでした。西武と丸物が行き付?でした。

いまでもあの頃のデパートの夢を見ることがあります。屋上の遊園地にお子様ランチは、とてつもなく心躍らす夢と感動の世界だったのです。

神社を目指して、大東文化大の方向に歩きます。

見えて来ました。

変わらない風景です。

 大正13年(1924年)にこの地に「還座」したようです。そうすると、私が子の地に生まれたのが1950年ですから、私よりも26年先輩なのです。と云うことは、あの当時はそんなに古くは無かったのです。

この佇まい、そう、こんな感じです。

この石畳に石橋、とても、とても、何か、落ち着いてしまうのでした。ひんやりと湿っていて、苔のような神社の匂いを感じます。

本殿?拝殿?は鉄筋コンクリート製で新しそうです。

実は、実は、わたくし、そのむかし、この本殿の前で記念撮影をしているのです。

幼稚園の頃の写真です。全員紙で折った兜を被っているので端午の節句、こどもの日の記念写真のようです。 

あの頃の私にズームアップします。

 

なかなかの面構えです。とても、とても、悪戯小僧だったようです。

この頃、親爺の自動車修理工場の景気がよかっようで、長屋住まいの身には、幼稚園は身分不相応だったのです。たぶん一年ほどしか通わなかったと記憶しています。

それで、幼稚園と云うと、今でも、時々思い出すと、とても、とても、とても、悲しくも寂しい、胸キュンの想い出があるのです。

当時、幼稚園の送り迎えは父の母(私の祖母 )がやっていました。父は母親が50代前後にできた子供で、当時は80歳近かったと思います。いつも着物姿でした。

ある日、幼稚園に行く途中で、私が突然思い出したのです。前日に先生から「明日は“???”を一本持ってきましょう」と云われて、細い紙の紐を見せられたのです。

今にして思うと、それは、当時、ホッチキスの無い時代、閉じ紐として、事務用品として、閉じ紐として、一般的に良く使われていた「コヨリ」だったと思います。

私はもちろん、事務用品とは無縁なお祖母ちゃんも、コヨリなど知らなかったのです。知らない人が、知らない人に説明するのですから、これは、もう、絶望的。

祖母には、よく判らない言葉で「細い紙の紐」を何とか説明しようとしたのです。祖母は胸元から取り出した、鼻紙にする新聞折り込みチラシをぐグシャグシャと棒状に丸め、見ていた私は、違う!違う!と叫び、祖母は困惑し、悲しそうな顔をして・・・・・・・。

この後の、顛末は、まったく記憶に残っていません。きっと、きっと、悲しすぎる結末に、子供ごころに、自己防衛の為に、記憶を消し去ったのだと思います。

いまでも夢に見ることがあるのです。おばあちゃん!ホントに!ゴメンなさい!

話しを変えます。氷川神社でした。

最近はやりのポリエチレン製のしめ縄。稲藁に意味があると思うのですが、これがご時世?、神様もそれなりに妥協し納得?

とにかく、氷川神社で、幼稚園で、紙の閉じ紐で、おばあちゃん、ゴメンなさい!なのでした。

それにしても、幼稚園でコヨリは、いったい、何に使ったのでしょうかね。

今日は、これまで。

次回が最終回です。

それでは、また。

 

 

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稀勢の里が横綱です!土俵入りです!未だに信じられない!毎日が期待と不安の日々なのです!

2017年03月15日 | 相撲の話し

大阪場所がはじまりました。

毎日が期待と不安の日々なのです。

綱を締めての土俵入りの姿、いまだに信じられないのです。

 それなりに横綱らしくは見えますが、

 どうも、しっくりこないのです。

 あの稀勢の里が、

ホントに! 横綱になったの?

ホントに、ホントに、ホントに、不安と期待の日々なのです。

初日が豪風、二日目が正代、そして、昨日は貴の岩、三連勝はしたのですが、どうも、まだ、落ち着きがないのです、ぎこちないのです。

土俵態度も、横綱としての余裕を、見せよう、見せようと、意識しているところが、見えてしまい、まだ、まだ、自然体ではありません。

前半戦で取りこぼしがなければ、中盤戦までは全勝でいけそうですが、後半戦が、もし、稀勢の里が頭一つ抜け出すと、プレッシャーに負ける危険性があります。

理想としては、千秋楽に優勝を懸けて同率での対決が、稀勢の里には有利に働くと思います。

千秋楽決戦の相手は、白鵬でもなく、鶴竜でもなく、日馬富士でもなく、高安との同部屋対決を期待しています。かなりの高望み?

でも、ホント! “終わってみればいつも白鵬”の時代が過ぎ去り、誰が優勝するのか?まったく予想できない時代に入り、ホントに、ホントに、ハラハラドキドキで、期待と不安の大相撲、イイです!

本日の対戦相手は“蒼国来” まずまず安心。

それでは、また。 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑬ お昼は志村坂下一丁目の生そば「やぶ岩」で「たぬきそば」を美味しく頂きました! 

2017年03月13日 | 東京の風景

前回の続きです。

生まれ故郷の東京は板橋区蓮根町・志村坂下界隈を、過去の痕跡を探しつつ、想い出と夢と妄想の世界を楽しみつつ、彷徨っています。

そろそろランチタイムで、そば屋を探しつつ歩いて居ると、この町に相応しい?そば屋を見つけて暖簾をくぐります。

内装はこんな感じで、テーブルも、腰掛けも、壁の色も、黒塗りの板に白文字の“お品書き”も、テレビの配置も、とても、とても、町のおそば屋さん的な佇まいです。

先客は一人、チビチビとビールを飲んでいます。店内禁煙はとても良い事です。

右から左に向かって価格順に見事に整列(丼物の一部を除く)。価格設定は、東京の外れで板橋区の外れとしての価格設定となっています。

上段の「ちゃんぽんうどん」の隣で消されているは「八宝うどん」です。その下の黒マジックは「冷やし中華」で、その右の黒マジックは「八宝丼」です。

中華系を抹消したようです。それにしても、「ちゃんぽんうどん」とか、「八宝うどん」とか、「八宝丼」は見たことも、聴いた事も有りません。「八宝丼」は、世間で云う「中華丼」だと思います。

見たことも聞いた事も無いモノを、味わってみたい衝動に駆られたのですが、ここは、やはり、店に入る前から、堅く心に秘めていた私の定番「たぬきそば・550円」を注文。

やはり、何と云っても、日本ソバと云えば「たぬきそば」で決まりです。ホントは「もり」が一番なのですが、この日は冷え込んでいた為、暖かいモノが美味しいのです。

奥でオッサンがビールを飲んでいたので、注文しようかどうしようか迷ったのですが、以前、寒い日に外出してビールを飲み、突然の尿意に焦り、トイレを探し駆け込んだ苦い想い出が蘇り断念。

こちら、今では遠い昔の想い出「セットメニュー」です。50代の前半頃までは「カツ丼にもりそば」とか「カレーにもりそば」とか、セットでないときは、必ずすべて「大盛り」で注文。きっと、きっと、あの頃から、食後血糖値は爆発していたのです。

こういうセットメニューの写真を見つめていると、何か、やっぱり、とても、とても、魅力的に見えてくるのです。

 それで、「たぬきセット」ですが、価格が850円から840円に書き換えられているのです。経営的な判断で、価格の微調整をおこなったの?と思ったら、上の「おしながき」を見ると、840円となっており、調整ではなく、書き間違いの訂正のようです。

この写真入り「おすすめセットメニュー」は、きっと息子か娘にパソコンで作らせたのでしょう。店は私とほぼ同年代の夫婦で商っていました。

それで、この奥さんですが、やたらに腰が低く、馬鹿丁寧な応対なのです。もしかして?サングラスに口ひげで、店内を撮影している私が、とても、とても、怪しく見えた?

それで、たぬきソバが到着。汁の香り、揚げ玉の香り、そばの香り、久しぶりの、日本そば屋の香りです。最近は汁を飲むための道具も付いてきます。そして、おしぼりも。

なかなかケッコーなお味でした。最後の、一本、一滴、一欠片まで、美味しく頂きました。

東京都板橋区志村坂下一丁目の「生そば やぶ岩」さん、ごちそうさまでした。そうでした、器もヨカッタです。

本日は、ここまで。

 

それでは、また。 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑫ ガラスは割れ!鉄扉は赤錆!夢まぼろしの町工場の前はモダンな外観の富士ゼロックスでした!

2017年03月09日 | 東京の風景

未だ、まだ、マ~ダ、志村坂下、蓮根町辺りを彷徨い歩いています。

今では暗渠となってしまった「どぶ川」を辿り、生まれ故郷の、面影と痕跡を探し求めて・・・。

 

この「元どぶ川」の暗渠の上に作られた緑道、そして、方向的に、距離的に、この場所辺りに「花林糖工場」があった気がするのです。

家から、坂下方面に向かい、城北公園を抜けて、二・三百メートル歩き、どぶ川を渡った右側にその工場がありました。写真では左側のマンションが建っているあたりです。

兎に角、この辺りには、零細工場的と云うか、町工場的と云うか、そんな中小零細企業の工場が建ち並んでいたのです。そんな工場の間を縫ってどぶ川が流れていました。

暫く佇み、当時の工場の姿を想い浮かべつつ、マンショの方向を見つめていると、川面には得体の知れない油が流れ、得体の知れないニオイを漂わす、そんな風景が蘇ってくるのです。

それにしても、どぶ川も、お洒落に変身しました。あの頃のニオイはまったくしません。

 

そんな想いを抱きつつ歩いていると、驚きの光景が出現。

まさに、まさに、これこそ、あの頃です。

夢幻の風景と云っては大袈裟ですが、夢のワンシーンに登場しそうです。

スレートの外壁、割れたガラス窓、ガラスに針金が・・・。

赤錆びた鉄板の扉。残念なのはフェンスが、とても、とても、新しいのです。

この工場の佇まいから、母が一時、近所の主婦仲間と連れだって働いてた、町工場を思い出しました。そこで母達は、ミカン箱と云うか、リンゴ箱と云うか、そんな木箱の解体をしていたのです。短期間だったと思います。

「株式会社 高垣商店」さんのお蔭です。それにしても、高垣さんは、何を商っていた?いる?のでしょうか? 入り口の門柱と鉄の扉は、それなりに最近の塗装とお見受けしました。

道路を渡り、暫し、高垣商店の全景を見つめてしまいました。

そして、遠~い、遠~い、昔の、想い出の世界に誘われた風景の真ん前には、何と、何と、真逆の、現実の世界に引き戻す、あの富士ゼロックスのサービスセンターの姿。

時代は変わって、こんな大企業がです、どぶ川が消え暗渠となり、町工場が消えマンションが建つ、そんな志村坂下なのでした。

そして、向かいには大企業を睨んで建つ、中小零細企業の味方?日本共産党の板橋地区委員会?の事務所です。板橋区は土地柄?革新系?が強いのです。

東京の外れ、板橋区の外れ、志村坂下には、いろいろと、ゴチャゴチャと、あるのです。 

こんな、何でもない風景がイイです。

こちらの櫻は、私が生まれる前から、ずっと、ずっと、ここで花を咲かせていたように思います。

  

こちらの、何でもない風景もイイです。

志村坂下を彷徨っていますが、そろそろお昼の時間になりました。

昼はそば屋に入りたいと思い、ウロキョロとそば屋を探しつつ、ある神社を目指します。

この先は次回とします。

それでは、また。

そうでした、記録的な意味で、書き記すのですが、3月1日、朝のウォーキングで「つくし」を発見。そして、その2日後に「ウグイス」の鳴き声を聞きました。

春が来たので~~~す!

そして、明日は早めの、お彼岸の墓参りを予定しています。

もうすぐ、櫻の開花、お花見です。

では、また。 

 

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森友学園の周りに集う!あの人も!この人も!瞞されたのではなく!籠池と同類の騙りの輩!

2017年03月07日 | 世間話し

しかし、困ったと云うか、何を考えているのと云うか、あの北朝鮮はです。

金正恩朝鮮労働党委員長は、どう見ても、正気の沙汰とは思えなく、なりつつ、あるのです。

これまで、中国も、米国も、ロシアも、韓国も、日本も、暴発しそうでしない、そんな綱渡り的戦略の北朝鮮を、それは、それで、それなりに“有効利用”してきたのです。

でも、しかし、金正恩体制は、かなり、かなり、ヤバイ領域に踏み込みつつあります。もう有効利用の範囲を超えつつあります。

最後は中国の決断次第です。最終局面を向かえるのは以外と早い気がします。

“金正恩”は、身内からも、側近からも、党上層部からも、軍上層部からも、一般兵士からも、一般国民からも、見放されていると思います。

ですから、いろいろな予測とは、まったく異なり、それほどの混乱も無く、呆気なく金正恩体制は崩壊するような気がします。

それにしても、降って湧いた“森友学園問題”です。 

安倍政権としては、これまでに無い、政権基盤を揺るがす危機に発展するかも知れません。

安倍政権が過去となった時、ふり返ると“あの時”が終わりの始まりだったと、それが、いま“この時”かも知れません。 

自民党は5日の定期党大会で、総裁任期を最長2期6年から3期9年までと党則を改定しました。安倍氏は党内でも一強、議会勢力でも一強で、支持率も60%前後で一強。

安倍体制は盤石も盤石で、トリプル盤石で、向かうところ敵無しで、これ以上は無い体制を確立した時点で、終わりが始まるのです。

森友学園では、園児に教育勅語を朗唱させていたそうです。これは、天皇主義者から云わせれば、不敬行為として罰せられる重罪だそうです。

勅語とは『天皇が国民に対して発する意志表示のお言葉』であって、国民は朗唱するのではなく、頭を深々と下げ押し戴くものだそうです。

それにしても、森友学園問題で、出てくるは、出てくるはの、嘘偽りの数々、右翼を偽り、民族派を偽り、天皇主義者を偽り、まさに詐欺師の典型のような籠池某と云う不逞の輩。

天皇陛下をも、自分の商売に、思惑に、利用する犯罪者です。そして、その周辺には、いろいろな利害で繋がった、同類が仲良く集っていたのです。

天皇主義者を騙り、天皇を利用するのは、籠池某だけではありません。仲良く集っていた連中は、瞞されたのではなく、同類の“騙り”です。

と、云う、事で、晋三くんも、昭恵ちゃんも、ねぇ!

と、云う、事です。

 

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑪ 懐かしの“青星ソース”は“ユニオンソース”から“おたふくソース”へ

2017年03月02日 | 東京の風景

前回の続きです。

志村坂下から蓮根町を彷徨っています。

坂下にあったヘビ屋と三木屋の探索を諦め、中山道を戸田橋方向に引き返します。

懐かしいあの頃の匂いを漂わす風景です。

木造モルタル二階建てのアパートです。外壁がモルタル塗りでなく板張りであったら、私が住んでいた“引き揚げ者住宅”に似ています。

アパートと云えば「UR」です。この辺には、UR物件が、あちら、こちらに散らばっています。

ホンダの2輪専門の販売店です。その昔は2輪車で、少し昔は4輪車の販売店で、そして、今は二輪車販売に祖先帰り、都内で車が無くても暮らしに不便は感じません。地方では車は必要不可欠、一家に2台、3台はあたりまえです。幼い頃には考えられない変化です。

あの頃は、車を所有するのは“お大尽”だけでした。でも、しかし、我が家にはいつも車があったのです。父が車の修理屋をしていたので、商売モノを乗り回していたのです。その頃、私は「車屋のしんちゃん」何て、呼ばれたりしていたのです。

中山道から裏通りに入ります。モルタル二階建てに惹かれます。

 モルタル二階建ての民家、以前は食べ物屋を商っていたようです。所謂、仕舞た屋。

有りました!これです!この風景が、あの頃です。

この屋根の上に、もう一つ屋根が、こんなのがあったのです。

この排気筒も、とても、とても、むかしなのです。

我が引き揚げ者住宅の向かいにあった城北公園のその先は、こんな感じの町工場(まちこうば)が点在していました。町工場好きは幼き頃に刷り込まれたのでした。

そう、工場(こうば)で思い出しました、それは「こうば」と云うよりも、「こうじょう」的規模のソース会社の「製造所」があったのです。脇を通るとソースのイイ匂いがしました。

名前が思い出せないのですが、ネットで調べたら有りました! 「青星ソース」です。「1957年(昭和32年)には板橋区坂下2丁目9番7号に板橋工場を建設」とありました。

そうです!「青星ソース」でした、思い出しました。

  • 1949年(昭和24年)12月:青星ソース株式会社として台東区で創業。
  • 1957年(昭和32年)3月:板橋工場完成を機に、本社・工場を板橋区に移転。
  • 1968年(昭和43年)3月1日:大町ソース株式会社ら2社と合併し、青星大町ソース株式会社に社名を変更。
  • 1969年(昭和44年):ユニオン食品株式会社ら8社と合併し、現社名ユニオンソース株式会社に変更。
  • 1970年(昭和45年):京塚昌子を起用し、スポットでCMを流す。
  • 1991年12月:今市市(現日光市)にマヨネーズとケチャップの製造工場完成。
  • 2005年(平成17年)
    • 1月:本社を現在地に移転。生産拠点を日光工場へ集約し、ソース専用工場棟完成。板橋工場閉鎖。
    • 4月:オタフクソース株式会社と業務資本提携。
  • 2006年(平成18年):オタフクソースがユニオンソース特級ウスター・中濃・とんかつソースを発売[9]
  • 2009年(平成21年)10月1日:持ち株会社化に伴い「お多福グループ」の子会社となる[10]
  • 2010年(平成22年)9月期:業務用ウスターソースなどの生産がをオタフクソースから当社へ移管[11]
  • 2012年(平成24年):本社を日光工場内に移転。営業部はオタフク東京本部に移転。

 ※wikipedia調べ

1957年に板橋工場が操業開始したのですから、私が7歳の頃です、私が匂いを嗅いだころは、まだ、できたてのホヤホヤだったのです。

私にとっては、遠い、遠い、そのむかしの、懐かしのソース工場は、現役バリバリで今も活躍しているのでした。

それにしても、青星ソースは、私の知らないところで、波瀾万丈の道を辿っていたようです。通産省の行政指導による業界再編ですか? 

それにしてもソース業界は大変な業界なの? 青星ソースは、企業として、それなりの“リソース”を持っていたので、現在まで生き延びたのでしょう。 

ユニオンソースでは、ソースに、マヨネーズに、ケチャップに、焼き肉のタレも作っているようです。

今度、スーパーに行ったら、ユニオンソースの製品を探してみたいと思います。あったら必ず買い求めたいと思います。

60年前には匂いを嗅いだだけなので、しっかりと味を確認したいと思います。

フライにソース、メンチも、コロッケも、トンカツも、ハムカツも、クジラカツも、レバカツも、イカフライも、ポテトフライも、ウィンナーフライも、とんかつソースをいっぱいかけて食べるのは、最高に!大好き!で~~~す!

と、云う事で、本日は青星ソースでした。

それでは、また。

 

 

コメント (2)
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