歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

③『どうする家康』で岡田准一の信長・ムロツヨシの秀吉はとても嫌な奴です!しかし二人供はまり気持ちよさそう!

2023年06月25日 | テレビの話し

「どうする家康」ですが、最近は、と云うか、最近も、と云うか、3本ほど録画が溜まっています。

以前より、そうなのですが、見始めたら、それはそれなりに面白いのですが、見始めるまでが、なか面倒と云うか、億劫と云うか・・・。

何故かと云えば、見ていると、いろいろと調べたくなってしまうのです。唯々見て楽しめば良いのですが、そこが、その、疑問が湧いたら、即調べねば!解き明かさねば!と云う、悪いネバネバ癖が頭をもたげるのです。

まあ、兎に角、ボケ防止、暇つぶしなのです。

そもそもです、何故に、下剋上の戦国時代が始まったのか? 当然、その前の時代に原因があった訳だが、それって何? 

そもそも、戦国時代は、武力による権力闘争の時代で、戦闘で、武装集団で、武士の時代。それでも、武士、戦国大名の「上位」には、将軍が居て、その上には朝廷・天皇が居た訳です。

朝廷と、幕府と、戦国大名との関係は?どうなの?国家とか、権力とか、天皇とか、公家とか、朝廷とか、幕府とか、将軍とか・・・、権力構造、支配構造の変遷は如何に?とか、調べたくなったり、解き明かしたくなったり、なのです。  

権力構造の、支配統治構造の変遷で時代を区分するとしたら、現在の日本は、どういう時代区分になるの?

そんなことで、「いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編」をペラペラ捲ってみたりしています。

縄文・弥生時代があって、古墳時代があって、奈良時代があって、平安時代があって、鎌倉時代があって、室町時代があって、戦国時代があって、江戸時代があって、明治、大正、昭和、平成、令和と今に繋がる訳です。

「縄文・弥生時代」が三世紀半ばころまで、4世紀頃に大和朝廷が成立し「古墳時代」が始まり、七世紀後半から8世紀後半までが「飛鳥時代」

8世紀後半から12世紀後半までが・・・こんなに長いとは知りませんでした・・・「平安時代」このあたりまでが、「権威と権力」を併せ持つ天皇・朝廷の時代。

そして、1192年、武士の「源頼朝」により「鎌倉幕府」が成立。武士が権力を握る時代になるのです。

しかし、しかし、頼朝は天皇・朝廷を権威・権力の座から排除し、自らが最高位を奪い取ったのではなく、天皇・朝廷より「征夷大将軍」と云う、地位を与えられ、権力を手にしたのです。

そして、そして、戦国時代は徳川家康によって終わりを告げましたが、家康も天皇により「征夷大将軍」の地位を与えられ、徳川幕府が大政奉還するまで、天皇より与えられた「征夷大将軍」が続くのでした。

大政奉還で明治時代となり、「権力と権威」を天皇は再び手にし「神聖ニシテ侵スヘカラス」存在となりました。

そして、昭和20年日本は第二次大戦に敗北し、天皇は象徴(権威)となり、権力は天皇から切り離され、ふつうの、一般の、大衆の、国民のものとして「主権在民」となりました。

現在の日本国は、天皇を国家の象徴とし、その存在は国民の総意に基づく、立憲君主制の国家となっているようですが、象徴とは?国民の総意とは?とても、とても、大変で、むずかしいのです。

頼朝も、家康も、マッカーサーも、権力と権威を分離して、権威として、文化として、歴史として、天皇制を存続させました。

国家として、統合の象徴として、その存在意義を認めざるをえなかった?

歴史のIFとして、「本能寺の変」が起こらず、織田信長が天下を統一し、それなりに、織田政権が継続していたら、天皇制は歴史から消えていたかも?と、東大史料編纂所教授の本郷和人氏が、「世襲の日本史 階級社会はいかに生まれたか」(NHK出版新書)で、

『・・・信長はきわめて合理的な精神の持ち主・・・安土に建てた總見寺と云う寺院で自身をご神体として拝ませていた・・・自身を神にしようとしたぐらいですから「天皇はいらない」と言い出しても不思議ではありません』

と、述べています。

と、云う事で、話しは「どうする家康」戻ってきました。それにしても、岡田准一の信長は、とても、とても、やな奴として描かれています。それに、ムロツヨシの秀吉も、とても、とても、やな奴として描かれています。でも、しかし、二人は役柄にはまり、とても気持ちよく演じています。

戦に勝つためには、何でもありの、このやな奴二人に対して、「タヌキ親爺?」と云われた家康は、家族を愛し、家来を思いやり、平和を願う、とても、とても、いい人に描かれています。

まあ、ドラマですから、解釈、表現は自由ですので、歴史的事実さえ変えなければ、兎に角、面白可笑しく、ハラハラ・ドキドキはOKです。

本日、これで、お終い。

 

それでは、また。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

② ”どうする家康” 瀨名の有村架純と千代の古川琴音の怪しさ!妖しさ!対決!

2023年06月03日 | テレビの話し

”どうする家康”見ています。  

今回は珍しく”3~4本まとめ見”ではなく、5月28日放送の「岡崎クーデター(20)」を単独で視聴しました。

このクーデターですが、一部の家臣団により、武田との開戦直前に起こされるのです。

それなりに、段々と興味をそそられ「どうなる家康?」との思いに駆られつつある今日この頃。

兎に角、三河松平家は、東に駿河の今川、西に尾張の織田、北の信濃に武田と、三方を強国に囲まれていた弱小国。

そんなこんなで、家康の母は、織田方に近い”水野家の娘”、妻は、今川方に近い関口家の娘だったりしているのです。

家康は幼少期には織田、その後、天文16年1547年に家康数え6歳で今川義元に人質に出されているのです。人質とはいえ、今川家では身内同然に育てられていたようです。

こんな松平家ですから、家臣団も一枚岩では無く、織田派と云うか、今川派と云うか、反織田派と云うか、反今川派と云うか、いろいろだったようです。

ドラマでは、このクーデター、反乱の決起情報が内部より、家康の妻瀬名が事前に知る事となり、失敗に終わったのです。

このクーデターの理由をドラマでは、”桶狭間の戦い”以降、今川から織田に乗り換えた事で、信長から徹底的にこき使われ、休むこと無く各地での戦の日々、家臣団の”戦疲れ・織田疲れ”が原因と描かれています。

この件について、磯田道史さんは「徳川家康 弱者の戦略」で、今川は伝統と格式の老舗企業で、織田は無理難題を押しつけるが、急成長するベンチャー企業」と述べています。

又、両者の違いを、今川は文化権威の信者、織田は軍事暴力の信者、権威で支配統治するのか、力で支配統治するのか、との違いを述べています。

確か、だいぶ前の回で、人質時代の若き家康が、今川義元から、国の統治は、仁愛に基づく王道であるべき、武力による統治、覇道であってはならない・・・云々、いろいろ叩き込まれていました。

そして、織田信長のやり方は、家臣に「織田疲れ」を生じさせ、その最終的帰結が明智光秀による”本能寺の変”だと述べています。

これって、磯田さんの独自解釈?単に独自表現?まあ、それにしても、なるほど、なるほど、と思ったりするのでした。

桶狭間の戦いで、王道が覇道に負けて、家康は宗旨替え、織田との同盟関係を結び、戦いの日々。そして、家臣団の反乱。

そして、そして、家臣団の反乱に止まらず、妻の瀬名が、武田の秘密工作員の”千代”と接触、怪しい動きをするのでした。

※千代は古川琴音

桶狭間で織田が勝利し、今川義元は戦死。家康は今川から織田方に宗旨替え。この頃より瀬名は、織田方となった家康を快く思っていなかった?と云うか仲は終わっていた?

桶狭間以降、浜松城に家康、岡崎城には妻の瀬名、息子の信康、娘の亀姫。家康一家は別居生活で家庭崩壊?

それにしても、武田の配下、千代ですが、敵の情報収拾、内部攪乱工作と、かなり優秀な工作員です。演ずる古川琴音の”妖しさキャラ”そのまま?

それに対して、今回の千代によるクーデター工作、そして、以前に領内であった一向宗の反乱、ともに、千代の工作と見抜いていた瀨名。

”可愛いキャラ”の有村架純ちゃんが、可愛い顔で、可愛い声で演じることで、とても、とても、底知れぬ不気味さ感がありました。

どうも、二人は手を組むような雲行きで、次回に続くとなりました。

次回は如何に?ですが、ネタバレになりますが、瀨名と信康は、歴史的事実として、家康の命で処刑されたそうです。

次回(6/4)は、このあたり顛末が描かれると思います。

それなりに、期待しています。

 

それでは、また。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする