歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

龍ヶ崎“般若院の葉桜”と“大統寺の狛犬 ”

2008年04月30日 | 龍ヶ崎の風景
先日、龍ヶ崎に行って来ました。

今年は満開の桜を楽しんだのですが、“新緑の葉桜”を眺めたくなり、先週行って来ました。

どうですか? なかなか、葉桜も、それなりに、良いものですよ。


幹と云い、枝と云い、この角度からの“ひねり具合”が、とても良いのです。桜色に染まる時期も、新緑に染まる時期も、どちらも美しいです。


新緑の桜を眺めた後、時間があるので周囲をぶらついていたら、予想外の処で、予想外のお寺を見つけました。

龍ヶ崎には何度も来ているのですが、何故かこのお寺を見落としていたのです。


参道の石畳と云い、樹下の六地蔵と云い、山門と云い、本堂と云い、境内の緑と云い、広さと云い、配置と云い、全体のバランスがトテモ良いのです。

お寺としては珍しく、山門前に据え置かれた青銅の狛犬。


かなり、目立ちます。


この狛犬に近づき、台座の部分を“コン・コン”と拳で叩いてみたのです。私には何でも叩いて確認する癖があります。

それで、叩いた結果なのですが、思って居たよりも、かなり薄い感じの軽い音がしました。たぶん厚さは2~3㎜程度と思います。

本体部分も叩いて見たい! そんな衝動に駆られたのですが、“それは幾ら何でも失礼”と、何とか思いとどまりました。

そして、この六地蔵です。大人の立ったままの視線に合わされているようです。

ふつう良くある六地蔵はかなり低く、しゃがまないと視線が合わないのです。お地蔵様の背丈と云い、台座と云い、それなりに考えられているようです。


それと、このお地蔵様のお顔がモダンなのです。誰かに似ているのです。


暫く見つめていたのですが、思い浮かばず山門を潜ります。



振り返ると、山門の屋根にかかる新緑。なかなか結構です。



これから、境内を見学し、本堂にお参りします。

この続きは、次回とします。


それでは、また明日。


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万博記念公園の“隣”はツツジ色!

2008年04月29日 | 季節の風景
昨日の続きです。

ニラレバ炒め、餃子、タンメン、チャーハンを食べ、これから、摂取したカロリーを消費する為、科学万博記念公園に向かいます。

“つくばエクスプレス”の駅としては、終点のつくば駅に向かって、みらい平、みどり野、万博記念公園、研究学園、終点のつくば駅となります。

公園に行くのに“万博記念公園駅で降りると、ふつうのヒトの足で、田畑や原っぱの細い道を、40分位は歩く事になります。

この日は、車で移動です。みらい平から万博公園に行くのは、知らない人には判り難いのです。

つくばエクスプレスの各駅は、周囲はそれなりに道路が整備されているのですが、ホントに周囲だけで、少し行くと直ぐに昔の「農道」状態になります。

広くて新しい道は、直ぐに、古くて狭い道になります。昨今の“政治状況”により、道路整備はかなり遅れそうです。

途中にある「五角堂」です。この建物は“まぁ。そうか”と云うような、そんな処なんですが、


向かいの“塀”と云い、


隣のお寺に続く“塀”と云い、“こんな処に!、こんな風景が!、へぇー”と、思うケッコウな佇まいなのです。


連れが始めて、“へぇー”と、思ったところで、公園に向かいます。


公園に到着。新緑がイイ!


うす紫の藤の花もイイ!


公園の端っこです。通りの反対側に民間の研究機関が並んでいます。並んでいると云っても、各機関の建物は広大な敷地に“点在”しています。

建坪率は相当に低いのです。知らない人は、隣の公園の“続き”と思う事でしょう。各研究機関との境を示す、塀や、柵や、その手の仕切類はほとんど見当たりません。



残念ながら、ハナミズキは散り始めていました。去年はツツジとハナミズキが同時に咲き競っていたのです。

      【去年の4月29日撮影】

ツツジが眼に痛いくらいです。連れも携帯の待ち受け画面にすると云ってシャッターを切っていました。


この道は、各研究機関の間を縫って通る、人専用の散歩道です。

ホントに! スゴイのです。毎年来てしまいます。この時期は、公園よりもこちらの方が花でいっぱいになります。


ツツジに顔を近づけ撮っていた連れの顔が、何と!ツツジ色に染まり輝いて見えました。

それにしても、この緑! 何と表現していいのか“ツツジ色”
ホントに!、ホントに!、ホントに!、鮮やかな対比です。


左手が、増築中のアステラス製薬の研究所です。この先に、日本電気の研究所があります。


青い空、白い雲、新緑、ハナミズキ、ツツジを眺め、最高の腹ごなしになりました。

皆さんも、是非、二人連れで連休にお出掛け下さい。ツツジはこれから、もっと、もっと、綺麗に咲き誇りますよ。ホントに!


それでは、また明日。



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変貌した“みらい平駅”で“ニラレバ炒め”

2008年04月28日 | 街の風景
世の中“ゴールデンウィーク”が始まりました。私は“年中ゴールデンウィーク”ですが、それなりに、何となく、その気になるのであります。

それで、“我孫子シリーズ”は暫くお休みして、今週は“ゴールデンウィーク特集”何て、まぁ・・・・・・、そう云う事で、行きたいと思っております。

途中で、気が変わるかもしれませんが、兎に角、今週は“特集”でなのです!

それで、“特集”の内容ですが、ここまで“特集”を何度も使っておいて、言い難いのですが、かなり“ご近所の特集”です。

兎に角、私には“ご近所”でも、遠くにお住いの方からすれば“遠方”ですから・・・・・・、兎に角です、それなりに、満足し、納得のいく、見所を吟味した、そんなつもりで居ります。

そこで、昨日は“ニラレバ炒め”と“ツツジ”と“新緑”を味わう事とになりました。

先ずは、何故か“つくばエクスプレス”の“みらい平駅”に向かったのです。


あまりの変わり様に驚きました。駅の隣には高層マンションがそびえ立っています。

「このマンションなら、駅から“数十歩”だし、雨の日にも傘が要らなくて便利ね。価格もそれなりで・・・・・・、歳をとったらこういう処がイイかもね・・・」

と、そびえ立つマンションを見上げて、“連れ”が呟きました。そうなんです、きょうは二人連れなのです。マンションは1900~2600万円でした。


少し離れて、戸建て住宅のエリアが出現していました。


お洒落に造られています。


外部からは上手く遮断され、人と車の道も分離されています。こちらは4~5千万位でしょうか?


いつの間にか、こんな住宅地が出現していたのです。皆さん、いったい何処からこの地に移り住んで来たのでしょうか。


この写真は2年前に撮ったのですが、遠~くの方から“地平線”の彼方に、緑色の“かまぼこ屋根”が見えたのです。


今では、駅の近くに行かないと駅舎はまったく見えません。


一通り駅の周囲を観察して、いよいよ、昼食です。

今日は、駅前スーパーの脇にあるこの店に入ります。最近、つくば、土浦の辺りで見かける様になった、中華のチェーン店です。


この“茨城珍来”と云う店名、他にも、タダの“珍来”と、もう一つ“珍来軒”と云う、似かよったチェーン店があるのです。

元は一つで、枝分かれしていった様に思えます。創業35年だそうです。60年近く生きてきた「おじさん」にとって“35年”は大したことでは有りません。

店内は昼時で満席でした。五分ほど待って窓際のタバコの煙が臭う“禁煙席”に着席。メニューです。お安い価格帯になっています。


餃子2皿、一皿190円で380円、ニラレバ炒め一皿530円、チャーハン500円、タンメン630円を注文。合計で2040円です。

二人掛けテーブルにいっぱい並びました。久ぶりのレバニラ、チャーハン、タンメンは美味しかったです。


さすがに「一皿“5つぶ”190円」の餃子は、何と云っても190円のお味でした。何故か、餃子は5「つぶ」と表記してあります。


辞書を引くと、「つぶ」とは、“丸くて小さいもの”とあります。餃子を一粒、二粒と数えるのを“生まれて始めて”眼にしました。

この餃子が5つぶで190円ならば、私が普段作る“自慢の餃子”ならば、一皿5つぶ500円でも問題ありません。

二人供、久しぶりの“ラーメン屋さん”の料理に満足しました。さぁ。これから、摂取したカロリーを消費することにします。


蓄積させてはいけませんから、近くを歩きます。


それでは、また明日。


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関東大震災は怖かった!?

2008年04月25日 | 建物の話し
昨日の続きです。

外に出ました、改めてこれが新館の建物です。三部屋あり、それにトイレで、各部屋の広さは10畳ほどだったと思います。

ホントにお寺か神社の佇まい。朝鮮半島に調査に行った際、あちらの建物の様式が気に入り、取り入れたそうです。そう云われて見ると、そんな雰囲気があります。


この写真は、我孫子見学の終盤に撮ったものです。画面中央の林の中に建っています。大通りとの間は未だ空き地になっています。


この空き地にもそのうち建物が建ってしまうことでしょう。手賀沼の湖畔に建っていた別荘は、町中の裏通りの別荘になってしまいます。

知らない人が通りがかりにこの建物を見れば、間違いなくお寺か神社と思う筈。


昭和2~3年にかけて(正確な記録がない?)建てられたようで、大正12年の関東大震災の経験から、建物の基礎部分は鉄筋コンクリートにしたそうです。

堅固さんは、震災で恐ろしい惨状を目の当たりにしたか、自らもかなりの恐怖を体験をしたのかも知れません。

寝室を母屋ではなく、強固な基礎の上に立てられた新館にしたのも、恐怖の記憶に依るものかも知れません。

基礎部分は床下倉庫になっています。

“展望室”のガラス窓は出窓になっていたのです。腰掛けの下は何も無いのです。強度的にはかなり弱いです。


鋳造品の金具で補強して有りますが不安な構造です。展望室の出窓構造は基礎が出来上がってからの設計変更でしょうか。


出窓部分もしっかりとしたコンクリートの基礎の上に造ってほしかったです。


これを見てからですと、出窓に巡らす腰掛けに安心して座り、のんびり酒も呑めなくなります。


これで、新館部分が終わったのですが、未だ母屋があるのです。ガイドの方の親切丁寧な説明を受け、村川さんの別荘見学はまだ続きます。

それでは、また明日。



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「白樺」と「柳」に“嘉納治五郎”

2008年04月24日 | 建物の話し
昨日の続きです。

外に出る前に、この軸の説明がありました。これをみても何が何だか読めません。堅固の奥さん遠縁に当たる「中島廣足」(1792年~1864年)の書だそうです。


堅固さんは熊本出身、廣足さんは郷土の国学者です。堅固さんは座右の銘としていたそうです。

それで、書かれている内容なんですが、脇に現代語訳がありまして、


みんなが寝る頃になって、机に向かい勉学に励む訳です。この頃は、西洋に追いつけ追い越せで、エリート達は寝る間も惜しんで勉強していたのです。

堅固さんの書です。“克己”とあります。「こっき」と読むそうです。おのれにかつこと。意志の力で、自分の衝動・欲望・感情などをおさえることだそうです。     
   

私は、衝動、欲望、感情の赴くままに生きています。

堅固さんの肖像画です。明治生まれの男は髭を蓄えるのです。私は昭和生まれですが髭を蓄えています。

   

堅固が熊本出身と云う事で、この我孫子に別荘を建てたようです。熊本が何故、我孫子かと云うと、堅固は熊本の第五高等学校の出身で、当時の校長が「嘉納治五郎」だったのです。

あの講道館の嘉納治五郎です。治五郎さんが、我孫子に別荘を建てたので、堅固も誘われ、白樺派も誘われたのです。

白樺派と嘉納治五郎に繋がりがあるとは知りませんでした。

我孫子と白樺派の繋がりは治五郎さんだったのです。白樺派の柳宗悦の義母は治五郎の姉だそうです。

治五郎さんは講道館を創った“柔道一直線”の柔道家としてしか知りませでした。文武両道の教育者だったのです。

この別荘に来なければ、わたくし一生、嘉納治五郎を単なる柔道家と思い込み続けていたでしょう。

まぁ、それで特に問題が起きる訳では有りませんが、それでも、これまでの認識が書き換えられることは、これまた楽しいことです。

それと、治五郎さんの実家は“灘の生一本”で有名な酒造業を中心とする、嘉納財閥に連なる人だったのでした。菊正宗酒造”も、“白鶴酒造”も嘉納一族の会社なのでした。知りませんでした。

進学校で有名な“灘高”は、嘉納財閥が創設した学校だったのです。創設の中心になったのが治五郎さんだったのです。知りませんでした。

それで、調べ序でに「第五高等学校」を調べてみると、熊本大学のホームページに“旧制第五高等学校”のページがあり、

著名教授として、嘉納治五郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーンの名前がありました。

それと、著名な卒業生には、寺田寅彦、大川周明、宇野哲人(知りません)、大内兵衛、池田勇、木下順二、梅崎春生(知りません)、佐藤栄作、とありました。

村川堅固の名前は残念ながら有りませんでした。  


今日は、新館の外回りの話を予定していたのですが、話の方向が少しだけずれてしまいました。

それでも、いろいろと調べ、いろいろと新しい発見があり、私としては、それなりに楽しかったです。

明日は、間違いなく新館の外回りです。


それでは、また明日。



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旧村川別荘で大正、昭和を語る?騙る?

2008年04月23日 | 建物の話し
昨日の続きです。

手の挟まるドアを開けると、2面に窓を大きく切った“パノラマ展望部屋”です。当時は、ここから手賀沼を一望できたようです。

今では、住宅、マンション、家電量販店等の広告塔が建ち並び、パノラマ展望を遮っています。


この部屋で、友人、知人、家族等と供に、眼下に広がる手賀沼の風景を眺めながら、楽しく語らい、お茶を飲み、酒を酌み交わし、食事をしたのでしょう。

時は、大正から昭和初期、ゆっくりとした時間が流れていた筈です。当時のインテリ層は豊かだったようです。

ガイドの方の話では、村川教授は雑司ヶ谷に自宅を構え、箱根方面にもう一軒別荘を所有していたそうです。当時の帝大教授は相当な収入があったようです。


窓際に巡らした腰掛けに座り、「いいなぁー、こんな処で、一杯やりなから、ぼんやり景色を眺める・・・・・・ふーん、堪らないなぁー」と云うと、

「私も、見学者が来ない時にはここで本を読んでいます」とガイドさん。真面目な方なのです。

私としては、ここはやっぱり、楽しく酒を飲む方に行ってしまうのです。この場所は教育委員会が管理しており、会議室として一般に開放しているそうです。

「みんなで我孫子の歴史を語る会」・・・何て騙って、勉強会と偽り、宴会何てやって見たい・・・・・・そんな妄想が頭を過ぎりました。

【窓を開けずに雨戸が閉められるとの説明中】

このガイドの方ですが、温厚で、優しく、穏やかで、親切で、丁寧な方でした。ボランティアの見本のような方でした。

このガラスを見て下さい。シワの様な歪み。


こちらには“えくぼ”があります。


このガラスは、たぶん建物が造られた当時のままだと思います。と云うことは“80年前?”の板ガラスかも知れません。

平面度が悪く波打ったガラスは見たことがありますが、この様なガラスは始めてみました。波打ちガラス以前の製法かも知れません。

こちらの天井の“シミ”に時代を感じます。


展望部屋の奥にある部屋です。寝室として使われベットが置かれていたそうです。青漆喰の壁がなかなかモダンです。こちらは引き戸になっています。


こちらも会議室として使用しているため、エアコンが取り付けられていたり、ポットや湯飲みが置かれていたり、折りたたみ式のテーブルや椅子が置かれていたり、現代の日常が入り込んでいます。

会議室としての使用頻度はそれほど無い様な気がするのです。もったいない使い方と云うか、残念と云うか、もう少し何とか・・・・・・と云うか、昔の匂いをそのまま感じる施設であって欲しいような気がします。

わざわざ、ここで会議室をする事もないと思うのです。全室、大正、昭和の色で染めて欲しいのです。

そして、季節が変わる毎に、静かに、和やかに、大正、昭和を語る“おとなの宴会”・・・何てものを、催したら如何なモノかと思う次第です。

こちらは“厠(かわや)”の前にある“手水場(ちょうずば)”の電灯です。昭和のロマンが“匂い”ます。

但し、トイレの方は水洗になっておりますから“臭い”ません。


つぎは、建物の外回りを拝見します。


それでは、また明日。

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バーナード・リーチ様 これって椅子?腰掛け?

2008年04月22日 | 建物の話し
昨日の続きです。

それでは、いよいよ内部の見学です。変わった屋根の新館から覗くことにしました。

室内に入って先ず眼に付くのはこの写真です。左側が“堅固さん”で、右側が息子の“堅太郎さん”です。

親子2代、東大教授をしていたのです。息子の堅太郎さんですが、この顔、誰かに似ている気がします。こんな顔の役者を見た覚えがあります。

堅太郎さんはホントに“先生顔”をしています。


玄関から入った直ぐの、この部屋に写真が立てかけてありました。部屋に入った第一印象は、アレ?築後80年ってこんな感じ?


何か新しいのです。床、壁、天井、ドア、どれもが歳月を経た変化を感じさせないのです。

“これで? 80年ねぇ~? ふぅ~ん? だったのです”

床の「寄せ木斜め張り」とか、照明器具とか、ドアとか、それなりに“最近風”のデザインのせいなのか。


それと、各材料の表面状態なのですが、それほどの経年変化を感じさせないのです。特にドアですが、数年前に取り付けた様に見えます。


そんな思いで部屋を眺めていると“何処からともなく”60代後半の男性が現れました。

「今日は!ご案内致しますよ」と、笑顔で話かけてきました。ボランテイアガイドの方です。

「どちらからですか?はじめてですか?」と聞かれ、つくば方面からと答えると、アンケート用紙を渡されました。

住所と、氏名と、見学回数を、嘘偽り無く、正直に記入しました。記入した用紙を手渡すと、変わりにガイドパンフをくれました。

先ずは、第一印象の“古くない感じ”に関連した質問をしました。

「全体に古さを感じないのですが、特にあのドアは、かなり新しい様に見えますが、あれも建築当時のままですか?」

「はい。そうです」

私はドアに近づき、眼で眺め回し、手で撫で回しながら、「これって、材質は“ラワン”ですよねェ」と、ラワンの処を強調して云うと、

「ラワンは当時、高級な素材だったのです。それにこの模様は手で彫ったもので・・・」と云いながら、隣の部屋に置いてあったバックの処に行き、手帳を取りだし戻ってきました。

手帳を身ながら「このドアの彫刻は“○○○彫り”と云うそうです」と、丁寧に教えてくれたのですが、残念ながら“何彫り”だったか忘れてしまいました。

説明を聞きながらドアノブを持ってドアを閉めると、手が柱とドアの間に挟まれてしまうのです。

このドアは、指先だけでドアノブを持ち、閉め終わる際には相当な注意が必要です。

たぶん、襖や障子の“引き戸方式”の建築経験しか無い、そんな大工さんの仕事と思われます。やはりここら辺に築80年を感じました。


玄関を入った直ぐ脇にある“腰掛け”です。あの“バーナード・リーチ”のデザインと云われているそうです。陶芸だけではないのです。


ガイドパンフには“椅子”とありますが、これは明らかに「腰掛け」であって、「椅子」ではないと思います。

椅子は、全体重を預け“ゆったり”と“くつろぐ”ものです。この背もたれに体重を預けると、そのまま後方に転倒しそうです。

造りも華奢で、安定感に欠け、かなり座り難い感じがします。これは、ほんの一時“腰だけを休める”為だけの、“腰掛”けだと思うのです。

ふつうの民衆の、ふつう生活の中で使われる、ふつうの職人の造った、ふつうの道具類に、それなりの価値を見いだしていった白樺派としては、何か変な気がするのです。

デザイン優先で実用無視。これでは、単に芸術品を造る目的で、椅子の様に見えるオブジェを造ったと、見える、思える、そんな気がする・・・・・・、のです。

やっと、白樺派が登場しました。建物の見学は、これから沢山見る処があります。


それでは、また明日。


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“村川堅固”の別荘は屋根が“堅固”

2008年04月21日 | 建物の話し
先週の続きです。

お寺のような、神社のような“子の神大黒天”の階段を下り、自転車を置いた所に戻りました。

途中で60代の男性とすれ違ったのですが、かなり辛そうな表情でした、休み休み、ゆっくりとした足取りで登って行きました。


足腰に御利益があるのでお詣りに来たのでしょうか、それにしても、参拝の度にこの階段を何度も登り下りしていると、結果として、足腰は間違いなく強化されます。

さて次は?と、ペットポドルのお茶を一口飲んで、自転車に跨ったがり数㍍行った処で、道端の足元に案内板を発見。


700㍍行くと“志賀直哉邸跡”、950㍍行くと“杉村楚人冠碑”とあります。直哉は知っていますが、「楚人冠」と云う方は、いったいどんな人何のでしょうか?

先ずは700㍍先の“直哉邸跡”を目指しペダルを漕いだ途端、何やら“見学施設らしき建物”が、丘の中腹に見えたのです。


少し戻って、入り口に架かった案内板を見ると“旧村川別荘公開中”とあり、“入場料金”には触れていないので“無料”のようです。


“旧東京帝国大学教授”の“村川さんの別荘”だったようです。現在は市の施設になっているようです。


それで、これを読んでいたらて「・・・景勝地と知られた子の神(現延寿院)境内に隣接して・・・」とあるのです。

これからすると、子の神大黒天は“古い名称”で、現在の名称は“延寿院”と云うことになります。となりの何処にも延寿院の文字は有りませんでした。

ますます判らなくなった“子の神大黒天”? いや。“延寿院”?です。
     

兎に角、村川さんの別荘を拝見する事にします。建物は二軒あり、こちらが“元我孫子宿本陣離れ”を解体移築した母屋です。


大正10年(1921年)の移築です。新しい建物を移築する事はあまり有りませんから、建物は明治時代のものかも知れません。

最初に“本陣離れ”との記述からのイメージと、現物の母屋とはかなり落差があります。“本陣”の建物ではなく、あくまでも本陣の“離れ”なのです。

見た目は、ふつうで、何処にでもありそうな、古い木造平屋建ての、田舎の民家と云った感じです。

こちらが新館です。見た目は、“ふつう”ではなく、かなり変わっています。


先ず眼に付くのが“屋根”です。かなり大げさな屋根です。入母屋造りで銅板張りです。

屋根の造りは、どう見ても“神社仏閣”です。かなり“冗談好き”な方と思ったのですが、職業が帝大の教授で、名前が“堅固”ですから、かなり本気で建てたのかも知れません。

それでは、内部の見学です。

ボランティアのガイドさんが居て説明してくれるそうです。

さぁ、どんな方が?、どんなガイドを? してくれるのか、楽しみです。


それでは、また明日。


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大国主は大黒天?でマハーカーラ?でした!?

2008年04月18日 | お寺・神社
昨日の続きです。

市役所の坂を下り通りに出ます。直進すると手賀沼を渡り16号線に出ます。ここで右折して、手賀沼に沿って我孫子駅方向に走ります。


郊外型のレストラン、車のディラー、家電量販店、食品スーパー、ホームセンター等が並ぶ、何処にでもある最近の風景です。


ラーメン屋の先に、何やらお屋敷風の塀が見えてきました。


なかなかの門構え、庭の植木もそれなりに手が入っています。


造りは古い様式ですが、建てたのはここ最近の物と思われます。この道路が造られた後で、建てられたものでしょう。

お屋敷が大きい為、全景の撮影は道路を渡り反対側からです。写真は“電柱”と電線が邪魔な為、後処理で取り除きました。右下に電柱の一部を残しておきました。

余談ですが、“電柱”と書きましたが、これはかなり“若ぶった”のです。普段はあまり電柱とは呼びません、“電信柱”と云ってしまうのです。

私の年代が“電信柱世代”の最後ではないかと思います。

ウロキョロしながらペダルを漕いでいると、遠くの小高い丘に、お寺か神社へ続く階段を発見、少し戻って丘陵際の小道に入り階段を目指します。

“ガイドマップ”を見ると、この小道に沿って“白樺派の痕跡”があるのでした。マップには、“ハケの道”とあります。

丘の上に“子之神大黒天”があるようです。マップには“卍”のマークが描かれています。


昔は、ハケの道が手賀沼に沿った道だったようです。

“ハケの道”の「ハケ」は辞書によると、

【ハケ】
 丘陵山地の片岸。ばっけ。関東から東北地方にかけての呼称。

【捌け】
 水などが溜らずに流れ去ること。「水―の悪い低地」
 商品が売れさばけて行くこと。「―がよい」

【捌け道】
 水などの自然に流れ出ていく道。はけぐち。

やはり、先ほどのお屋敷は最近まで、沼縁の田圃か湿地帯だったようです。

自転車は、通りの金網の柵にチェーンで繋ぎ鍵を掛け置いていきます。高い、高い石段を登ります。前方には中年女性の二人連れ。


大きな本堂の屋根が見えてきました。


それなりの雰囲気の“本堂”と境内です。


“金のわらじ”


足、腰に良いようです。


石段を登ってきたのですが、本堂の脇に“山門”があり、その先には駐車場がありました。


“山門”から連なる桜も綺麗なのです。それでも、さきほどから“何か変”なのです。

この“山門”どう見ても、“鳥居”に屋根を付けたデザインなのです。寺の山門と、神社の鳥居を足して二で割った、神仏混淆スタイルなのです。

寺の境内の“一画”に、鳥居があり神様を祀っているのは良く見かけますが、ここまで“対等な混淆”は“はじめて”です。

何でも、はじめての経験は良いことです。楽しいく面白いことです。

お寺であるような、神社でもあるような、どちらとも云えない“雰囲気”が漂っている“子の神大黒天”それでも、公式には“お寺”なのです。

兎に角、有り難い神様、仏様なのです。

改めて見ると、本殿も“どことなく神社”の雰囲気を漂わせているのです。名前が“子(ね=鼠)之神”で“大黒天”です。

大黒天を調べてみると、

【大黒天】だいこく‐てん

(梵語 Mahãkãla  摩訶迦羅) マハーカーラ

密教では自在天の化身で、仏教の守護神。戦闘神あるいは忿怒神、後に厨房神とされる。七福神の一。頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえる。

わが国の大国主命と習合して民間信仰に浸透、「えびす」とともに台所などに祀られるに至る。
→きのえねまつり。

本来はマハーカーラといい、マハーは「偉大な」をカーラは「時」もしくは「暗黒」を意味するため「大暗黒天」とも呼ばれ、青黒い身体に憤怒の表情をした神であった。後に仏教、密教に取り入れられ、日本においては仏教の伝来と共に日本古来の神と習合され、独自の神となった。

神道
日本においては、大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、習合して、当初は破壊と豊穣の神として信仰さる。後に豊穣の面が残り、七福神の一柱の大黒様として知らる食物・財福を司る神となった。

袋を背負っているのは、大国主が日本神話で最初に登場する因幡の白兎の説話において、八十神たちの荷物を入れた袋を持っていたためである。また、大国主がスサノオの計略によって焼き殺されそうになった時に鼠が助けたという説話(大国主の神話#根の国訪問を参照)から、鼠が大黒天の使いであるとされる。

        引用終わり

以上、そんな、ことなのです。

マハーカーラが、偉大な暗黒の神であり、偉大な黒で、大黒で、大国主の国(こく)と、大黒の黒(こく)が、共通するために、大黒=大国となったようです。

兎に角、宗教は人間の“都合”に合わせて“変幻自在”なのです。何と云っても人間が中心です。

細かいことに囚われないことは、とても良いことなのです。

“子の神大黒天”はとても、勉強になりました。

白樺派はこれからです。明日はちょっとだけ白樺派が出てきます。


それでは、また明日。


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我孫子で“それとなく白樺派の痕跡を探る!”?

2008年04月17日 | 街の風景
昨日の続きです。

市役所への坂道、これからのスタミナの配分を考慮し、自転車を漕いで登るの断念しました。ハンドルを握りしめ、エッチラ、オッチラ押して、玄関前の広場に到着です。

市役所はそれほど大きくは有りません。坂の途中で幾つか“市役所別館”と書かれた建物を見かけました。手狭になってあちこちに分散しているようです。

間違いなく“市役所!”と云った建物です。


室内も、間違いなく市役所の風景です。玄関を入って辺りをゆっくりと見回し、パンフ類が置かれたラックを探します。

左隅のカウンターの前に“パンフ類”のラックを見つけました。


それで、この室内の写真なんですが、撮るには“かなりの勇気”がいるのです。

怪しまれず、普通に、何気なく、ごく自然に、いいひと顔をして、こっそりと、且つ堂々と、パチリとやるのです。

が、しかし、何か“イケナイコト”をしている様な、そんな気持ちになるのです。室内撮影は、かなり難しい雰囲気を“ヒシヒシ”と感じるのです。

もしかして、これって犯罪? そんな気持ちにさせられるのです。

写真を撮り終わり、ラックに近づきパンフ類の中から“観光ガイドパンフ”を素早く見つけ出し、何気なく、さり気なく、表紙を確認し、フツウの顔をして、その場から立ち去りました。

皆さんが忙しそうに出入りする玄関脇の自転車置き場で、ペットボトルのお茶を呑みながら、パンフの内容を確認しました。

これが我孫子市の観光ガイドパンフです。所謂ふつうのポケットサイズです。広げると新聞紙全形サイズになります。


“9回折り畳んで”このサイズになります。2回数えたので間違い有りません。

今回も、いつものように事前準備はあまりやっていません。メインは“それとなく白樺派の痕跡を探る”そんなところです。

有りました。〈2.我孫子宿と白樺派の文人等を訪ねる〉


志賀直哉、武者小路実篤、バーナード・リーチ、柳田國男は知っていました。杉村楚人冠?はじめて聞いた人です。

市内に痕跡の残っていない“柳田國男”よりも、白樺派で痕跡の残る“柳宗悦”を載せるべきでは?何て思ったりして。

今、気が付いたのですが、二人とも名前に‘柳”が付いていました。特に意味は有りません。何となく“柳繋がり”の縁があるような、タダそんな気がしたのです


白樺派の痕跡を探るのですが、特に白樺派を知っている訳ではなく、志賀直哉も、武者小路実篤も読んだことはまったくないのです。名前を知っている程度です。

これから、少しだけ、調べてみる、作品を読んでみる、そんなキッカケになればと思っているのです。

実は、ホントのところ我孫子には“何かありそう”と思い、ちらっと調べたら“白樺派”が出てきたのです。

何か面白そうな我孫子に白樺派があったのです。この程度の事前準備で我孫子を走り廻ります。そして、いつものように神社仏閣と町並み見物です。

大まかなコースを頭に入れて、いつもの様に“行き当たりバッタリ方式”で走り回ります。

それでは出発します。スタートは“楽チン”な下り坂です。それにしても、この景色、この建物が気になります。


これが、下から見上げた市役所の庁舎です。


役所は常に“高い視点”に立ち、世間の様子を窺う必要があるのです。

さぁ。何があるのか? 何が起きるのか? 我孫子の市街を走り廻ります。


それでは、また明日。


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