歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

天気が良くて大安で元気に自転車で病院へ

2010年09月29日 | その他
この日を逃すと、当分はお天道様にお目にかかれないので、自転車で出掛けました。

目指すは病院です。

病院へ行くのは、9月7日に大腸の内視鏡検査で“発見”され“切除”した、ポリープの件です。

切除したポリープは検査の時、わたしもこの眼で、色、形、大きさ等、しっかり確認し、わたしの知識のすべてを使って判断した結果、特に悪性ではなく、問題なし! と判断し、医師も、又、問題なし! 判断していました。

でも、しかし、万に一つ、悪性である可能性が“ない訳ではない”のです。一応、病理検査の結果が判明するまでは安心できません。

そして、“大安”のこの日に、結果を聞きに行ったのです。検査をした9月7日も、そして、本日の9月29日も、ともに“大安”です。何となく、そうなったのです。

9半頃に家を出て、病院到着は11時でした。受付を済ませ5分ほどで診察室に入ると、若い医者がパソコンの画面を眺めていました。

数十秒の沈黙、そして、

“問題ありませんね、悪性でもなく、悪性と良性の境界型でもなく、まったく問題のない良性のポリープでした、安心して下さい。一応、一年後に検査を受けることをオススメします”

予想どおりでしたが、医師がPCの画面を覗いている数十秒間は、あまり気持ちのよいものではありません。患者としては、医師の表情の変化をじっと観察してしまいます。

医師が、“小首を傾げたり”しないか、“眉を寄せたり”しないか、ちょっとした表情の変化を見逃しては成らずと、じっと見つめてしまいます。

表情の変化もなく、悪性でもなく、ヨカッタ、ヨカッタ、なのでした。

会計で360円を支払い、病院を後にしました。


それでは、また明日。


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ブログ開設から5年目に入ります

2010年09月28日 | その他
2006年の9月26日に開設しましたので、27日より5年目に入ったのです。

“それで? だから? どうしたの?”と、問われても、困るののですが、兎に角、3・4日前より、鼻風邪を引いたようで、くしゃみ鼻水なのです。

それで、昨日の晩から一日2回の鼻炎の薬を飲んでいまして、頭が普段より、とてもボンヤリしていまして、今日書くテーマを決めていたのですが、何とも、とても、如何ともしがたいのです。 

それで、窓の外の雨を眺めつつ、開設4年目の話などしつつ、お茶など濁そうと思いつつ、ボンヤリ頭をコヒーで目覚めさせつつ、ほお杖えをつきつつ綴っているのです。

2006年の9月に開設したので・・・・・・、2010年の9月26日で4年目で・・・・・。だから、9月27日からは5年目に入る・・・・・・、でェ~、いいのですよねェ~。

5年目に入る訳ですが、だからと云って、まあ、とくに、考えを新たにするとか、開設当時を懐かしむとか、そんなことも、無いのです。う~ん、これでは、開設4年目にあたっての話にはならないか・・・・・・。

まぁ、兎に角、昨日の時点で、累計アクセス数が22万、閲覧ページ数が63万になりました。

これも、ひとえに訪問して下さった、皆々様のお陰で御座います。

ここに厚く、御礼を申し上げ奉りま~~す。

5年目に入ったこれからも、引き続き、そしてコレまでにも増して、ご贔屓、ご鞭撻のほど、何と度、何と度、よろしく、お願い、致し奉りま~~す!!!!!!

まぁ、今日のところは、こんな事で・・・・・・、横になって、寝転んで、ボンヤリとテレビなどを眺めて一日すごそうと思います。

それでは、また明日。






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ちょっと遅れで敬老で似顔絵で孫は天才画家でした! 

2010年09月27日 | その他
昨日の日曜日、いろいろな都合で、ちょっとだけ遅れの“敬老の日”でした。

可愛い孫がお祝いに来てくれました。

そして、そして、こんなに素敵で、そっくりで、とてもビックな似顔絵をプレゼントしてくれたのです。

88歳の母は感激! 7歳のひ孫とは81歳の年の差です。


敬老の日は、わたしの母だけが、その対象と思っていたのですが、孫にとっては、私たちも“敬老”なのでした。

ばーばにそっくりです。


これは、わたくしの似顔絵。


三人の似顔絵、とても、とても、素晴らしいです、特徴をしっかりと捉え、大胆な筆遣いで、大きな用紙をいっぱいに使って、のびのびと自由に描いているのです。

う~ん、ピアノもですが、絵の方も、かなりの素質です。天才画家かも知れません。

でも、本人は“お医者さん”になると、この日も云っていました。

“病気になったら治してあげる”と、ハッキリとした口調で云ってくれました。

将来が楽しみです。

本日は、かなりの“じじバカ”で、失礼しました。


それでは、また明日。



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ケアンズに行ってきた・・・。

2010年09月20日 | 世界の風景
ケアンズに行ってきたのは、わたしではなく・・・“姪”なのです。

“格安のジェットスター”で行ったそうです。往復で6万円ぐらいで行かれるみたいです。何たって、茨城空港から上海まで片道4千円の時代ですから、オーストラリア往復6万円も驚かなくなりました。


とてもシンプルな機内食です。デザート?の真っ赤な“KitKat”に、旅への誘いを感じます。


ホテルからの眺め、


リゾートです。


青い空、青い海、水平線には緑の小島、南の国です。


こちらのホテルにも泊まったそうです。


誰もいない浜辺、打ち寄せるさざ波、海にはヨット、たたずむ女性・・・・・・。何を隠そう、わたしの可愛い姪です。


こんなところで、美味しいカフェオレなど二人で楽しんだそうです。


珍獣。


“オージービーフ”の群れが歩いて来ます。


何と云っても、オーストラリアと云えばコアラ。


何と云っても、オーストラリアと云えば有袋類。


観光客は日本人ばかり? もしかして? 韓国、台湾、中国の方達でしょうか?


“世界の車窓から”の風景です。


姪の写真を許可なく勝ってに使って、オーストラリアはケアンズでした。

今日は祝日です、“敬老の日”です。23日は秋分の日、そして、お彼岸でもあり、それなりら忙しいので、今週はお休みとします。

それでは、また来週まで。

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“父親たちの星条旗”くり返される反戦映画とは・・・

2010年09月16日 | 映画の話し
9月も半ば、やっと涼しくなりました。外は雨です。

それでも、まだ、8月からの、途切れ途切れの終戦特集で、戦争映画のお話です。

今日は「父親たちの星条旗」です。第二次大戦の大平洋戦域での激戦地、硫黄島攻略作戦を描い2006年制作の作品です。

わたし知らなかったのです。戦いのあった年号も硫黄島の地図上の位置も、戦闘での両軍の死傷者数も、まったく知りませんでした。

それで、映画を見終わって調べると、戦闘があったのは1945年2月19日から3月17日で、大本営が玉砕を発表したのが3月21日で、その後、司令官以下300名による戦闘が3月27日にあったそうです。終戦の5ヶ月前だったのです。

終戦の年の5ヶ月前だったとしたら、米国は勝利がもう直ぐそこに見えていて、前線の兵士も国民も士気は高揚し、戦費は使い放題で、軍艦も航空機も戦車も爆弾も、作り放題だと思っていました。

でも、かなり、そうではなくて、4年も続く戦争に、兵士も国民もかなり疲れていたようで、戦費も底をついていたようです。

硫黄島での1ヶ月の戦闘で、日本軍の死者が「2万129名」、米軍は死者「6千821名」負傷者「2万1865名」で、計「2万8千686名」だったそうです。

“擂り鉢山この英雄的な光景”が、米国の士気を高揚させ、戦費調達の為の国債販売に一役買ったそうなのです。4人の兵士も、撮影者も、それを利用した軍部も、政治家も、撮影された状況は知っていたようです。


映画の冒頭で、

「皆、物事を単純に考えている、善か悪、たいがいは、そんな単純なものではない」
「彼らは、自分たちを英雄だと考えていなかった」
「戦争で行われているのは、信じがたいほどの残虐行為、それでも、大義名分が欲しい」
「それには分かりやすい真実が必要、説明はいらない」
「いい写真が撮れれば、それが戦争の勝敗まで左右する」
「英雄とは必要に迫られて人が作るものだ」・・・・・・


この写真一枚で、4人の兵士が“英雄”とされ、戦時国債の販売促進係として、全米を引き回されたのでした。

この映画が作られたは2006年で、あの「2001年」の“9・11”から5年目です。

9・11の報復として、テロとの戦いを宣言し、世界中に、“自由と平和を守るアメリカに正義あり”として、世界中に“有志連合”に加わること要求し、有志連合に参加しない国は敵と見なすと、世界に“正義か悪か”の“善悪二元論”で、二者択一を迫りました。

思い起こせば、あのとき、ブッシュ大統領の呼びかけに答えて、小泉純一郎首相が世界で一番最初に手をあげて、有志連合に加わったと思います。

まあ、そんな背景からイーストウッドは映画の冒頭で「皆、物事を単純に考えている、善か悪、たいがいは、そんな単純なものではない」と云わせたのでしょう。

それにしても、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争、いゃ、それ以前の戦争でも、大きな戦争が終わると、戦争関連の文学、映画が数多く創られました。

戦争はドラマチックで、究極的な状況で、人間に厳しい選択をせまります。反戦でも、非戦でも、厭戦でも、物語が生まれす、物語が創り易いのでしょう。

反戦でも、非戦でも、厭戦でも、まして好戦でも、それなりに、その意識に近い人達が、自分の意識にあった映画や文学に触れるのでしょう。

それで、「英雄とは必要に迫られて人が作るものだ」と云ってましたが、どう見ても、必要に迫られていた筈ですが、戦況を逆転するような“英雄”は、ベトナム戦争以降は作れませんでした。

“英雄的行為”に見える一枚の写真で、戦争の勝敗は左右されないと思います。

誰しもが、疑う事なき“それなりの大義”がなければ、戦争は、そうは勝てないのだと、そう思います。ベトナム戦争以降、アメリカにそれなりの大義がなかったのです。

でも、しかし、誰しもが疑う事なき戦争の大義など、この世にはありません。

敵も、大義を正義を掲げて戦っています。“正義の敵は、もう一つの正義だァ”と、かの“クレヨンしんちゃん”も、云っていたそうです。

それで、映画“父親たちの星条旗”ですが、アメリカ人が創り、アメリカ人が観るならば、それなりの反戦的で、良くできた映画だと思います。

でも、アメリカは、それでも、これからも、いろいろな大義を創り出し、熱狂して、世界の平和と自由の為に、戦争を起こすかも・・・・・・。

そして、また、新しい、反戦映画が生まれ・・・・・・。もう、戦争関連映画はいりません。

まあ、兎に角、いろいろ、勉強できる映画でした。


それでは、また明日。


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小沢一郎に一度やらせたかったです

2010年09月15日 | 世間話し
菅直人でした。

「政治と金」で「長期間準刑事被告人扱い」の小沢一郎と、「市民運動家出身?」で、就任から3ヶ月の現職総理大臣の戦いでした。

マスコミの「クリーンな政治」と「コロコロ変え反対」キャンペーンに負けたのです。政策とか実行力とか、そういうことは、まったく無視されました。

小沢一郎の落選後の会見や挨拶等の表情を見ていると、本人は悔しさよりも、安堵の思いを抱いているように見えました。彼は、党首選を通して期待感の大きさに、驚き、戸惑っていたのかも知れません。

小沢一郎のイメージが、ホントに単なるイメージだけであり、その“剛腕”ぶりを“表舞台”で、官僚相手に、米国相手に、ホントに通用するのか、私は見たかったのです。

これで、小沢は表舞台には、二度と登場しない? 

そうなると、今後いろいろな局面で、もし首相が小沢だったら、別な局面になっていたかも? 何て、叶わぬ望みと不満を国民に抱かせつつ、いつしか忘れ去られてしまうのでしょうか。

一度、総理大臣をやらせて、ダメであっても、それなりに諦めがつくのです。それなりに納得が行くのです。

官僚主導から政治主導へは、これで、当分と云うか、暫くと云うか、10数年は、いゃ、ずっと、ずっと官僚主導が続くのでしょう。そうであれば、政治主導よりも、官僚主導に新たなる期待を抱いた方が現実的なのかも・・・・・・・。

ナンダ、カンダ云っても、現状の政治風土、選挙風土から勝ち上がってくる政治家よりも、国家公務員上級試験から勝ち上がってくる官僚の方が“まし”なのかも知れません。

でも、しかし、最近のマスコミによる、高級官僚への天下り批判、そして、効率的側面から官から民への流れに対して、公務員の志気はかなり低下していると、その筋では囁かれています。

政治家もダメ、官僚もダメ、これでは、夢も希望もなくなり、日本の未来は、閉じて、塞がれ、真っ暗になってしまいます。

戦後、アメリカに占領され、アメリカの保護と指導のもとで、繁栄を謳歌していたのですから、そのアメリカが衰退期に入ったようですから、子分も一緒に衰退期?

歴史を見ても、世界の主役は交代期はいっているようですから、日本も過去の栄光は、そろそろ忘れ、アジアの隅っこで、それなりに温和しく、静かに、清貧に暮らした方が・・・・・・。

そうです、その方が、病気も減り、自殺も減り、空気も綺麗になり、温暖化にも、良いこと尽くめかも・・・・・・。

当然、食料、エネルギーも国内で賄うのです。米と少々の野菜と魚で、腹六分目で、暗くなったら眠り、明るくなったら起きて、のんびり、ゆったり、唄って、踊って、笑って暮らすのです。

民主党の代表選挙の話から、かなり逸れてしまいました。

でも、まあ、そろそろ、時代はそんな方に、ゆっくり向かうのかもね・・・・・・。


それでは、また明日。

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“海軍はなぜ過ったのか” ② きわめて日本的な問題ですか?   

2010年09月14日 | テレビの話し
昨日の続きです。

それで、この「反省会」ですが、終戦後25年経った、昭和55年から130回、11年間行われ、毎回3時間ほど、参加者は40人程度で、録音時間は400時間だそうです。

聞いていて呆れるのは、「軍令部には長期的な計画を冷静に研究するスタッフがいなかった」、「本当に国力その他検討して対米戦に勝てるのか、勝てないのか 本当に検討していなかった」、何てことを、戦争を計画した“軍令部作戦課”の軍人が発言しているのです。

どうも、時代の、勢いと云うか、流れと云うか、空気と云うか、強硬論に流されてしまったと云うか・・・・・・、冷静で客観的な分析に基づく主張は、弱気だとか、軟弱だとか、で排除されると云うか、口にも出せない空気だったのでしょう。

大日本帝国だとか、皇国だとか、神国だとか、神風だとか、勇ましい精神論におされて、沈黙するしかなかったのでしょう。いつの時代も、勇ましく派手な主張をする勢力が多数派になるのです。

“15歳の志願兵”で、配属将校が「鬼畜米英に対して誇れるものは質である、物量に対して質的優位である」と叫んでいるのですが、当時、ほとんどの国民は質的優位に疑問を抱いていなかったように思います。

我が日本国は西洋列強と比較しても、“質的優位”にあるとの認識は、いったい、いつ、どこから来ているのでしょうか。

明治維新後、和魂洋才で、追いつき追い越せで、西洋の科学技術を取り入れ、日露戦争で大国ロシアに日本海海戦で勝利した、あの日露戦争あたりが自信と云うか、過信と云うか、誤信と云うか、始まりだったのでしょう。

番組の中で、「軍隊は過去の戦争を戦っている、それも勝利した時の成功体験で・・・」と、大平洋戦争を「日本海海戦の戦術で、大艦巨砲主義で戦って」負けたと、半藤さんが発言していました。

過去の戦争を戦うのは日本海軍だけなの? 米国海軍は新しい戦略、戦術を採用したことで勝ったの? もし、そうならば、なぜ米国海軍は過去戦争ではなく、新しい戦略戦術を選択できたのか? 
戦争資料館の口髭の方が、「これまでの戦争は、戦争開始時の戦力で最後まで戦っていたので、開戦時の兵力で、勝敗の帰趨はほぼ決まっていた」と発言していました。

このことが、国力的に差があっても、開戦時の兵力では、それほど大きな差はないので、軍部が開戦に踏み切った理由であると、言いたかったようですが、そこまではっきり言いませんでした。

でも、しかし、第二次世界大戦では、開戦時の兵力では勝敗の帰趨は決まりませんでした。どうして、これまでの戦争と異なり、米英は開戦時の兵力ではなく、開戦後に軍備を増強してまで戦ったのか?

第二次大戦は、日独伊の「全体主義国家」と、米英連合諸国の「自由主義国家」との戦いでした。「国体」として自由主義の方が優れているので、戦意も兵器の生産力も、全体主義国家を上回ったので、連合国が勝利したのか?

全体主義国家には、自由な言論が無いために、「戦争の長期的計画」がなくても、過去の「開戦時の戦力で勝敗は決まる」と云っても、「日本国は質的に優位にある」と云っても、「神国とか皇国とか神風が吹く」とか云っても、「デタラメな戦況」を流しても、誰しも、反対意見は、思っていても、口に出せない・・・・・・。

そこいらが、見かけは、まとまっている、ようで、まとまっていない。強いようで、強くない、全体主義の特徴故の弱さなのでしょうか。

話をちょっと、反省会に戻します。

それで、組織の弊害の話ですが、軍令部の作戦課に所属していた方が「長期的とか、国家的とか、そんな大方針は上の方で考えている、と、思っていた・・・」発言しているのです。

国家よりも海軍、海軍よりも軍令部、軍令部よりも作戦課、結局、個別部署の論理でしかなかった戦争戦争計画、組織全体を束ねる代表者は、判断を個別部署に任せていたのです。

全体的視点で、各個別専門分野から上がってくる、分析結果とか方針とか計画とかを、全体的視点での、分析、調整、評価、判断、責任等を放棄して、下へ、下へと、責任を転嫁し、下は下で、上へ上へと、責任を転嫁しているのでした。

特集の3回シリーズを見た視聴者から「海軍も、今勤めている会社も、同じような組織の問題点を抱えていたことを知り驚いた」何て感想が多かったようです。

これって、とても日本的な問題なの? なぜそうなるの? どうしたらいいの? でしょうか。

それで、番組最後にディレクターが、

『判断を誤ったのは、
“過去の成功体験への固執”“自らの所属部署を何よりも大事にする”事が原因。

“なぜ多くの犠牲者が出る前に止められなかったのか”については、“当初の勝ち戦への国民の熱狂が”と、“それを煽ったメディア”に責任の一旦が・・・。

との発言がありました』

でも、それだけなの・・・・・・? ちょっと、物足りない結論と云うか教訓です。NHKとしては、この辺が限界なのでしょう。

最後に出席した3人から、

「戦争の教訓を伝える・・・口髭資料室」、「時代の動きに敏感になる・・・沢地」「時代の選択を誤らない為に学ぶこと・・・半藤」

と述べていました。

すべて、とても、とても、難しい課題です。

戦争の教訓は、考え方で受け止め方は異なります。

時代の動きに敏感になっても、考え方で反応のしかたが異なります。

時代の選択は、すべて、その時点では、正しいと思っています。過ぎ去ってから、振り返らないと、正しかったのか、過っていたのかは判りません。

まぁ、そんな、こんなを考えた、特集番組でした。


それでは、また明日。


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NHK“海軍はなぜ過ったのか” ①国体護持  

2010年09月13日 | テレビの話し
もう9月ですが、それでもまだ8月の夏休みに観たビデオの話しを続けます。

今日は、NHK特集“海軍はなぜ過ったのか”のお話です。この放送に先立って、「海軍あって国家なし」、「特攻やましき沈黙」、「戦犯裁判 第二の戦争」の3回が放送されたのです。

この3回の特集番組が放送されるのは知っていたのですが、3本ともまったく見ませんでした。暑苦しい夏の、暑苦しい終戦特集は“ちょっとどうも”で、見ませんでした。

でも、やっぱり、それなりに気にはなっていたので、この回“海軍はなぜ過ったのか”は「まとめ的」で、あの「沢地さん」と「半藤さん」が出演すると云うことで、一応録画しておいたのです。

それで、見終わってと云うか、途中でと云うか、「日米開戦前後」の海軍中枢の軍令部にいた「エリート軍人」の「生の声」を聞いていると“冗談じゃねェ!”“ふざけんじゃねェ”なのです。

でも、冷静に、落ち着いて、じっくり、考えると、戦争を計画した中枢の軍人は、“まぁそんなもん”かも知れないと思ったのです。何と、云っても、負けた戦争を指揮した軍人ですから。

第二次大戦の日本の戦死者(日中戦争を含む)は、軍人軍属が230万人、民間が80万人の、計310万人。アメリカの大平洋戦域での戦死者は9万2540人、ヨーロッパ戦域の戦死者が20万2057人で、計29万4597人でした。

大平洋戦域での戦死者は、日本はアメリカの30倍以上です。アジア諸国の犠牲者は、日本の数倍でしょうか?

戦死者の数からも、日米の正規軍同士の戦いは“メチャクチャ”だったのです。特攻と玉砕ですから、敗北が明らかになっても、死に続けたのですから・・・。これは、もう、国家間の紛争解決手段としての武力行使ではなくなっています。

では、いったい、何だったのでしょうか? 敗北が明らかになってきた時点で、戦争に勝利する事が目的ではなく、日本の「国体=天皇制」を守ることが目的となっていった・・・・・・・? 話が、難しく、微妙な方向にそれてきました。


それで、3人の方ですが、戦争資料館の方、沢地さん、半藤さんが、3回の放送を見て、番組の最後に結論的に、「戦争の教訓を伝える」、「時代の動きに敏感になる」「時代の選択を誤らない為に学ぶこと」を最後に述べていました。

でも、ネェ~、「教訓を伝え、学び、時代に敏感に」と云いますが、これって全部、かなり、ムズカシイことだと思います。

番組の冒頭で、「軍令部」にいた軍人が、反省として“明治末期から、大正、昭和に進むに従い、思い上がり、傲りが高じ身の程を知らぬ暴走をやり、ついに日本を破滅に追い込んだ”と発言していました。


この発言は、戦争に負けて30数年後に過去を振り返っての発言ですから、リアルタイムでは、当然、主観的には「思い上がりも傲りもなく、身の程を弁え、冷静に、沈着に、客観的に、状況を把握し、正しい判断を下していた」わけなのです。

他の反省会に出席者した、高級将校であった彼らの発言からは、負ける戦争を“勝つと思い込んだ”その事に反省し、戦争そのものを反省しているとは思えませんでした。

彼らは負け戦から、軍人としての責任において“次の戦争への教訓”として、語り伝える為に、昭和55年から11年間をかけて録音テープ400時間を残したような気がするのです。

第一次大戦後の1928年(昭和3年)にできた“不戦条約”の第一条には、“国家政策の手段としての戦争の放棄”、第二条には、“国家間の紛争解決手段としての武力行使の違法化”が謳われていました。主要国、そして日本も、調印していたのです。

でも、しかし、それでも第二次世界大戦争は起こったのです。

戦争は、愛する、親、夫、恋人、子供、兄弟、姉妹、を亡くし、傷つけ、辛くて、悲しくて、残虐、残酷で、非人道的で・・・・・・・、そんな現象を伝えても、学んでも、ナカナカなくならないのです。

でも、現実は、民族間、宗教間、国家間の紛争解決手段としての武力行使は、まったく有効ではなくなっていると思うのです。それでも、戦争がなくならないのは、人間は、やっぱり、争い好きなのでしょうか・・・・・・。

ここらで、いったん、お終いとします。


それでは、また明日。


※今朝、2年4ヶ月ぶりに忘れかけていた目眩が始まったのです。下を向いたり、首を後ろに反らすとやばいのです。
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スカイツリー帰りは東向島駅・・・“旧玉ノ井” からです

2010年09月10日 | 東京の風景
昨日の続きです。

そろそろ昼時、お腹も空いて来ました。

夏はやっぱり、牛丼とか、カレーとかが食べたくなるのです。夏だから、暑いからと云って“さっぱりしたものがァ”何てことは、生まれてこの方、60年、一度もありません。


牛丼とカレーと云えば、これはもう“すき家”です。ありそうな通りをウロキョロしていると、やっぱり、こんなところにありました。


スカイツリーの傍なのに、昼時なのに、通りを人がそれなりに行き交っているのに、女性店員もそれなりに若くて、可愛くて、愛想いいのに、何故か店内に先客は2名のみ、どうして・・・・・・。


静かな店内で、メニューを眺めていたら、ハンバーグが眼に入ったのです。ここは奮発して、カレーにハンバーグをトッピングして、“味噌汁サラダセット”も注文しました。

カレーは“お母さんのカレー”で、それはそれで懐かしい家庭の味でした。しかし、ハンバーグの方は、お母さんの味でもなく、滅多に味わうことのできない、慣れない手付きで作った“お父さんの味”でした。100円ハンバーグですから致し方ありません。


お母さんカレーを食べ、お父さんバークをそれなりに味わった後は、通りを行き交う、人の流れ、車の流れを、ゆったり眺めつつ、コップの水を啜りつつ、しばしの休憩です。

久しぶりの東京を、久しぶりに歩いたせいか、足裏に多少の痛み感じ、帰りは何処の駅まで歩こうか考えたりして・・・・・・・。帰りは、いつも、身体の疲れからか、ちょっこし寂しい気分になるのです。

休憩を終え、支払いを終え、通りに出ます。先ずは、足の様子を見て、東武伊勢崎線沿いに歩くことにしました。調子が良ければ北千住駅まで、悪ければ来たときと同じ東向島駅とボンヤリ決めて歩き出したのです。

コースは来た道を避けて、今まで通ったことのない道を選んで歩いたのですが、曳舟の先辺りから雨がぱらつき始め、傘を買い求めようか?、どうしようか?と迷いつつ、歩いていたのです。

雨の様子は、まあ、これくらいなら傘はいいか程度で変化がなさそうだったのですが、足の方の様子が、ちょっとでしたので、東向島を目指すことに決めました。

足の調子が良ければ、街の様子を眺めつつ、いろいろ想いを馳せるのですが、足裏の痛みに意識が向かってしまい、ただひひたすら歩くのみとなってしまいました。

こんなことは、以前、マメの膨らんだ足で、赤羽から亀有に向かって歩いた時以来です。まあ、今回は足裏の筋の痛みでマメほど辛くはありません。

そんな、こんなで、東向島駅に到着。足裏に意識が向かっているそんな頭で、ふと眼にした看板を見て“アレッ!何か、ちょっと変!”と思ったのです。


何か、以前とデザインが変わったようなのです。


家に帰って以前の写真と見比べたら、作り換えてあったのです。変!と思ったのは“旧玉ノ井”の文字が微妙に小さくなっていたからです。やはり、ここ東向島は“(旧玉ノ井)”に物語りを感じていたので、そんな想いがちょっとした変化を気付かせたのでしょう。


そんな、こんなで、疲れた身体に心地よい冷房のきいた車内、流れていく景色をボンヤリと眺める、午後の東武伊勢崎線です、もう、何とも、この、寂しさ感、都会の片隅感がとても良いのです。

鐘淵駅です。ここも寂しい駅です。隅田川と荒川と小さな運河に囲まれ、広い空き地の先に灰色街、灰色の工場が・・・・・・そんなイメージを抱く街。


この中学は、もしかして、たぶん、夜間中学が“ある”と云うか、以前は“あった”と云うか・・・・・・、と思います。


堀切駅、


牛田駅、


もう、あのモノクロの“東京物語”の世界です。

映画の頃とあまり変わらない東武伊勢崎線の車窓風景、何て、思いに耽っていたら、この風景に
眼を冷ましたのです。

何じゃこりゃ! 過去から、現在を飛び超え、未来が出現。いつ、こんなところに、こんな大学ができたのか? 知らなかったです。“東京未来大学”一瞬、冗談だと思いました。すごい名前です。 


東武伊勢崎線の風景も、すこしづつ変わっているようです。


これで、7月13日からの、途切れ途切れの、スカイツリー・シリーズを終わります。


それでは、また来週。

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スカイツリーの下“東京都指定食堂”は消えていました

2010年09月09日 | 東京の風景
今日は8月5日で中断していました“スカイツリーシリーズ”を突然ですが再開します。やはり、何と云っても、何事においても、途中で放り出したりする事は、とても、イケナイことなのだと、思ったりして・・・・・・。

それで、押上駅の地下道から地上に出て、工事フェンス間を抜けて浅草通りに出たのです。この日の昼食は“或る食堂に決めている”と、シリーズの最初の頃に書いたのですが、それが、この辺りなのです。

でも、しかし、そこは工事フェンスに囲まれ、食堂は消えていました。


或る食堂とは、数年前に通りがかりに見つけた、あの“外食券食堂”の流れを汲む“東京都指定食堂”の看板を掲げる“大衆押上食堂”なのです。何とも、哀愁がそこはかとなく漂う食堂でした。



スカイツリー関連開発で消えてしまったようです。でも、もしかして、隣の複合施設ビルに入居するのでしょうか? でも、しかし、経営者は同じでも、いくら何で“大衆押上食堂”とは名乗らないと思います。

※これが以前通りがかりに撮ったものです。保存したCDを探し出すのが面倒で、古いブログからコピーしたので、そのせいか画像がちょっとです。

でも、ピッカピカの超高層ビルで、イタリア料理や、フランス料理のレストランと並んで、“東京都指定大衆押上食堂”は、とても面白いと思うのです。


「東京都指定大衆押上食堂」での食事を諦め、スカイツリーの見学です。来ています、


もう、いっぱい来ています、歩いています。


工事は土曜日もやっているようです。休みは日曜日だけの週休1日のようです。


歩いています。


ローカルテレビ?の取材も来ています。女性リポーターは何処かで?いつか?見たような? かなりの若作りが、痛かったです。


真面目そうなお父さんが、真面目そうに写真を撮っていました。


路地から見上げるスカイツリーは、かなりの圧迫感です。



やっぱり!もう、有りました! スカイツリータオル! 1本200円で3本だと500円。これでいくと2本で350円で、4本600円ですか? 暫く様子を見ていたのですが、残念ながらまったく売れていませんでした。


ママと一緒にオチビちゃんも見学です。でも、彼の視線はクレーンに向いています。


私も、しばし“マストクライムクレーン”を見つめてしまいました。林立する景色、なかなかです。


このガードマンの方に「てっぺんのクレーンで、ツリー建設資材をつり上げるシーンは頻繁に見られますか?」と聞いたら「私わたし、初めて今日、この現場に派遣されて来たのまったくわかりません」との返事。


川岸はこんな風に整備されるようです。


あちらが、浅草から出ている東武線の業平橋駅です。高架のホームからはツリーが一望です。


周囲を歩き回り、そろそろ時計は12時を回りました。昼食場所を探します。


それでは、また明日。


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