歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“イスラム国”の人質問題とこの時期に安倍総理の中東訪問はかなり計算されていた節が無きにしも非ず?

2015年01月26日 | 世間話し
世間の耳目を集め、連日の大騒ぎとなっているこの問題ですが、“水面下”から浮上し、世間に知られる事になったのが、先週20日の火曜日でした。

“湯川遙菜さん”がシリアでイスラム国に拘束されたのが昨年の8月中旬で、“後藤健二さん”がシリアでイスラム国に拘束されたのが昨年の10月中旬でした。

昨年の8月から、湯川さんの解放条件について、イスラム国側から何らかの接触があり、“交渉らしき事が日本政府と密かに続けられていた”と、そんな情報を耳にしますが、それなりの真実だと思います。

そして、今年1月7日、週刊紙「シャルリー・エブド」がイスラム過激派に襲撃され、12人が射殺され、欧州はイスラム過激派に対する糾弾で騒然、イスラム圏ではイスラム教に対する冒涜として「シャルリー・エブド」に対する糾弾で騒然。

そして、安倍総理は、欧州、中東が騒然とする真っ直中の、16日~21日の日程で中東の、エジプト、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治区の4カ国・地域を訪問。

17日にはエジプトで、イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」対策として、イラクやレバノンなどに、2億ドル(約240億円)の支援を表明。

そして、その3日後に、“イスラム国”が動画サイトで、二人の拘束者の動画付きで、2億ドルの身代金の要求を、72時間の期限を付けて公表しました。

この時期の中東訪問に対しては、それとなく外務省筋は反対していたようですが、安倍総理の強い意志で訪問は実行されたようです。

と、まあ、簡単に経過をまとめてみました。

それで、“湯川遥菜さん”ですが、昨日の晩の11時過ぎに投稿された画像を見たのですが、後藤健二さんが、湯川さんと思われる写真を手にしていました。テレビ新聞ではモザイクが掛かっていましたが、モザイク無しの画像を見ても、判然としませんでした。

それで、この間、湯川さんの“民間軍事会社”の人的な、組織的な、背景的な関係とか、彼の中東でのこれまでの行動とか、後藤さんとの関係とか、あまりと云うか、まったくと云うか、報道されません。

これは、たぶん、今、報道すれば、命の危険が増す事柄があるとして、“イスラム国”を利するとして、報道を自粛しているか?それとも政府筋からの指示なのか? 

まあ、いま、の時点での“そういう”報道は、どちらにしても、差し控えた方がよいとは思いますが、でも、しかし、問題が収束しても、一段落しても、たぶん、報道はされないと思います。

でも彼のブログ『♪ HARUNAのブログ ♪』は現在でも閉鎖されていません。これを読むと、かなりの戦争マニアか?武器マニアか?で、単なる一般人の物見遊山の中東訪問でないようです。

それに対して、後藤さん関係は、これまでの戦場報道とか、戦場の子供達への想いとか、彼の小中高での人となりとかは、かなりこまく報道されています。

でも、肝心の、今回の、渡航目的が、ジャーナリストとしての、報道目的としての、中東訪問ではなく、湯川遥菜さん救出が目的であった事。

その事の経緯が、二人の関係が、ほとんどまったく報道されていません。彼のフリージャーナリストとしての功績は素晴らしいと思います。

でも、しかし、解せないのは、戦争の悲惨さを報道してきた彼が、何故、戦争オタク的な、民間軍事会社の経営者に、共感を抱き?、関係を持ち、危険を冒してまで、救出を実行したのか?不思議です。

“袖振り合うも多生の縁”と云う事で、湯川さん救出に向かったのでしょうか? 何か、そんな、単純明快ではない、かなり複雑な背景が、あるように思うのです。

もし、そんな、複雑な背景があるとしたら、イスラム国側に察知されたとしたら、とても、とても、危険な事になります。

兎に角、後藤健二さんの無事解放を祈るだけです。

それと、もっと、もっと、危険な事は、この間の、イスラム過激派の一連のテロ事件が、自衛隊の海外派遣へ、海外での武力行使へ、集団的自衛権へ、憲法改正へ、そして、“戦後レジームからの脱却”への議論に影響を与える事です。

この時期、この中東訪問は、かなり、かなり、高度に、緻密に、深く、静かに、計算されていた可能性も、もしかして、もしかして・・・・なのです。


それでは、また。


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映画『セントラル・ステーション』で万引き犯へためらい無き銃弾の日常と通貨危機を考える

2015年01月20日 | 映画の話し
先日、いつものように録画しておいた『セントラルステーション』を観ました。

まず、驚いたのは、冒頭での“銃撃シーン”です。

エッ!ホントに撃つの?脅し?威嚇?と、思っていたら、殺さないでくれ!と命乞いをした瞬間、躊躇いもなく至近距離から銃弾が発射されました。

撃たれたのは、露天商から雑貨品?を盗んで逃走した、窃盗犯と云うか、万引き犯と云うか、たぶん貧しい青年。

撃ったのは、露天商から所場代を徴収し、露天商の商売を、それなりに守るマフィヤ?の男。たぶん撃たれた青年は死亡したようです。

無抵抗の万引き犯を、警察に引き渡すことなく、撃ち殺しても特に問題は無し、これが、この国の日常風景?

この惨劇は、坦々と、日常の一コマとして描かれています。作品のストーリーとは直接的に関わりは有りませんでした。“この国”の、“この街”の、このドラマの背景としてのワンシーンでした。

舞台のこの国は“ブラジル”で、この街は首都の“リオデジャネイロ”です。

ブラジル映画は初めて観ました。ホントに驚きです。ブラジルってそう云う国だったの?でした。いつ頃の作品と思ったら1998年制作でした。

ワールド杯が半年前の6月でした。16年前のブラジルが描かれているのです。ワールド杯の時も治安が悪いと云われていましたが、16年前のブラジルには驚きました。今でも、そんなに変わらないの?

兎に角、未だ、貧しいのです。何か、終戦後の貧しい時代を描いた、あのイタリア映画の、モノクロームの、あの『自転車泥棒』的な世界でした。

主人公は六十代と思われる独身女性で、文字の書けない人を相手に、駅頭で手紙など綴る代書屋をして暮らしているのです。

訪れる客は、自分の想いを伝えるために、いろいろな人生の断片を語り、その想いを手紙にしたためるのですが、その手紙、ほとんどが投函されないのです。

代書料金が1レアル、郵送代が1レアル、でも、彼女の勝手な判断で破り捨てられ、ゴミ箱に投げ捨てられるのです。主人公は、それほどの善人でもなく、それほどの悪人でもなく、かなり、平均的なブラジル人?

それで、対円1レアルの本日午前の為替相場は『44円30数銭』です。98年当時を調べてみたら、112円90銭でした。“98年”を境にしてブラジル経済は混乱していったのです。

作品は“98年制作”と冒頭に書きましたが、ちょっとだけ詳しく調べたら、ブラジル公開が1998年4月3日でした。

それで、通貨危機ですが、1997年7月からの“アジア通貨危機”98年8月からのロシア通貨危機、そして、“1999年1月”からのブラジル通貨危機とつながるのでした。

と、云う事で、この作品はブラジルの経済危機直前に制作されたのでした。と、云う事は、庶民の暮らしは、映画で描かれていたよりも、公開後は、もっと、もっと、厳しくなった?

と、云うことで、本日は社会科のお勉強でした。

でも、映画をキッカケとして、世界を、ちょっとだけ覗くのも、それは、それで、映画の楽しみ方なのです。

作品の話しは、次回とします。

たぶん、もう少し、社会科のお勉強は、続くかもね。


それでは、また。





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シャルリー・エブドは“週刊チャーリー”と表記で言論の自由に?マークが?そして、チャーリー浜は何処に?

2015年01月15日 | 世間話し
どうも、何か、変?、と、思っていたのです。

やっと、マスコミも、それなりに、“週刊チャーリー”の編集方針に、疑問を投げかけた、記事や意見が、ちらほら、目にし、耳にするようになり、少し安心しています。

テロは絶対に、絶対に、容認できません。しかし、表現の自由を錦の御旗に、イスラム教を侮辱することも、絶対に、絶対に、容認できません。

11日のフランス全土での大規模デモに、“9・11”の報復として“テロとの戦争”を宣言した、あのアメリカの、あの熱狂が、オーバーラップするのです。

不況で低支持率の“オランド大統領”も、テロとの戦争を宣言したようです。オランドも、週刊チャーリーも、表現の自由を守る!“自由・平等・博愛のフランス!”と云いたいのです。

でも、です。外から冷静に見ていれば、明らかに、そこには、フランスとしての、フランス文化優位の、上から目線からの、匂いを強く感じるのです。

イスラム教文化圏の“経済的貧しさ”から逃れ、キリスト教文化圏に移住してくる現状を、文化の優位性と誤解しているのです。

GDPと文化とは直接的な関係性は有りません。貧しくても豊か、豊かでも貧しいのです。

それで、チャーリーですが、イスラム教が偶像崇拝を堅く禁止している事を承知していながら、“ムハンマド”を描いて、“すべてのイスラム教徒”を侮辱し、原理主義者を挑発し、そして、それこそが、フランスの“エスプリ”であり、表現の自由だと叫んでいるのです。


確かに、彼らは、それなりに“イスラム教侮辱”にも命を懸けているのでしょう。でも、しかし、ちょっとお門違いだと思います。もっと、もっと、命を大切にして下さい、と、私は。云いたい。

それにしても、日本のマスコミの“シャルリー・エブド”と云う表記ですが、“エブド”固有名詞ではないので、日本語では、“週刊”と翻訳表記すべきです。

そして、“シャルリー”は親しみ易い英語表記で“チャーリー”とすべきです。元々は、アメリカ漫画の、“チャーリー・ブラウン”から命名したそうですから。

そもそも、“シャルリー・アブド”は、“週刊チャーリー”で、“軽いのり”で、少し怪しい、少しいかがわしい週刊紙なのです。フランス語に弱い我が国では、高級そうな誤解を招きます。

そうなんです!チャーリーと云えば、アノ!吉本新喜劇の“チャーリ浜”です。最近はまったく見かけなくなりました。

チャーリー浜は何処に?


それでは、また。





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映画『ツレがうつになりまして』を観て病気は生活環境?習慣?それとも体質?遺伝?を考える

2015年01月12日 | 映画の話し
先日、いつものように録画しておいた映画『ツレがうつになりまして』を観ました。以前、同じ原作で、NHK制作のテレビドラマも観ていました。

テレビドラマは2009年放送で“藤原紀香と原田泰造”でした。映画は2011年制作で“宮あおいと堺雅人”です。

配役によって作品のイメージは、それなりと云うか、かなりと云うか、変わることを改めて確認した次第。

それと、二人の住まいが、テレビではマンションで、映画ではそれなりに古い、昭和の匂い漂う庭付き一戸建て、住まいが異なると、生活感が異なり、流れる時間が異なり、作品から受けるメッセージも異なってくるのです。

まあ、テレビドラマでもそれなりにですが、フツウ、映画では、かなりオープニングとエンディングの場面は重要で、それなりのメッセージを込めるものです。

それで、映画では、オープニングで庭付き一戸建てをクレーン撮影でズームインして、エンディングは縁側に寄り添う二人を配してズームアウトするのです。

暖かな陽ざし、庭の草花、縁側で寄り添う二人、もう、これで、安心、安心、で、ヨカッタ!ヨカッタ!で、観客は映画館を後にするのです。

やはり、それなりの古さで、木造で、庭付きで、一戸建ては、人間の暮らしの速度が緩やかに流れそうで、暖かそうなのです。

それに対して、やはり鉄筋コンクリートの高層アパートは、心と身体によく無さそうに思えるのです。鉄筋も、コンクリートも、冷たいのです。高いところは不自然で不安になるのです。

確か、以前、高層階に暮らす住民に、心と身体の変調を来す確率が高い、なんて研究結果を見たような気がします。やはり人間は地面の近くで、草花や樹に囲まれて、ノンビリがイイのです。自然なのです。

それで、作品の方ですが、地面近くに住んでいたのに、心を病んでしまった訳です。何故?どうして?なのです。

住環境はヨカッタのですが、先ずは性格が、キッチリで、キッカリで、几帳面で、真面目過ぎるのです。そして、職場はクレーム処理の窓口で、毎日、毎日、謝りの日々で、神経を磨り減らすのです。

そして、遂に、こころは、その許容量を超え病んでしまうのでした。

主人公は、私と、かなり、かなり、性格が異なり、そんな事で悩むか?と思ったり、それなりに同情したり、観ていました。実は、何を隠そう、この私も、むかしクレーム処理係にら長らくと云うか、半生を献げていた?のでした。

でも、当時、私は、鉄筋コンクリートの低層アパートで暮らしていましたが、鬱病に罹らずすみました。鬱病は何故?発症するのか?

作品のなかでは、原因は、性格とか、職場環境とか、体質とか、いろいろな要因に触れており、鬱病は心がひく風邪で、誰でも罹る病との説明がされています。

誰もが罹る?でも、しかし、精神的なストレスへの耐性が、人に寄って異なる処が、とても、とても、ムズカシイのです。

私は、知っている人は知っていると思いますが“二型糖尿病”なのです。二型糖尿病は生活習慣病とされています。生活習慣に問題がある病とされています。

でも、しかし、同じような食生活をしていても、発症する人と、しない人がいるのです。と、云う、ことはです。生活習慣は二次的な要因で、一次的な要因は体質なのです。元もと、インシュリンの分泌が少ない体質だと思うのです。

ですから、鬱病も、同じ職場で同じストレスに晒されても、何故?発症する人と、しない人に別れるのか?これも、体質だと思うのです。性格や、根性の問題では無いのだと思います。

心の安定は、神経の物質、ドーパミンと、ノルアドレナリンと、セロトニンの三つバランスで安定が保たれているそうで、心を平常心に保つのがセロトニンだそうで、セロトニンの減少が鬱病を発症させるそうです。

と、云う、ことは、鬱病になる人は、ストレスを受け、心の安定を保つ為、セロトニンが消費され、その生成限度を超えた時、発症する? 生成能力には個人差があり、同じ環境でも、発症する人、しない人がいる。

する人、しない人がいる、これが問題なのです。タバコを吸っても、肺癌になる人と、ならない人がいます。でも、肺癌でも、それなりに同情されます。

でも、心の病は、ナカナカ同情されません。心が弱いと云うのは、世間では、とても、とても、マイナスイメージで、同情されにくいのです。身体が弱い人は、それなりに同情されます。

心が弱い、気が弱い、根性が無い、こんなことは、自分の気持ちの持ちようで、どうにでもなる、と、思われているのです。

こころの病は同情されず、身体の病は同情され、でも、生活習慣に起因する病は、自己責任で同情はされません。大酒飲みの糖尿病患者は、失明しても、脚を切断しても、心筋梗塞、脳梗塞、人工透析でも、あまり同情されません。

と、云うことで、長くなったので、病は、体質で、体質は遺伝と云う事でまとめとします。まあ、兎に角、そんな事で感想とします。

これからの時代、間違い無く、心の病は、増えます。職場環境が、生活環境が、人間を取り巻くすべての環境が、人間の生理を超えてしまっているからです。と、偉そうな、ご神託を述べて終わります。

でも、私を取り巻く環境は、緊張感の欠片も無く、ストレスが少な過ぎて、とても、とても、耐性を低下させているようで、心配しているのです。ストレスは有り過ぎても、なさ過ぎても、とても問題なのでした。

そうでした。最後に一言、“藤原紀香と原田泰造”のテレビドラマの方がヨカッタです。堺雅人は生理的にダメなのです。それと、オジサンとしては“宮あおい”より、“藤原紀香”の方が“魅力的?”なのです。作品の出来とは関係ないのですが・・・・・・・。

と、云う事でした。

それでは、また。




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映画『クレアモントホテル』で英国の祖母と孫の関係に思いを馳せる

2015年01月09日 | 映画の話し
先日、録画しておいた“クレアモントホテル”(2005年制作イギリス・アメリカ合作)を観ました。

出だしは、とても、退屈で、退屈で、時間のムダのようで、停止ボタンに指をかけようか、どうしょうか、迷っていたりしたのです。

それが、少しずつ、少しずつ、それとなく、なんとなく、じんわりと物語にのなかに引き込まれていったのでした。

ストーリーとしては、配偶者を亡くした老婦人、一緒に暮らしていた娘の家を出て、旅に出て、ロンドンのホテルで一人、これまでの事、これからの事、いろいろ考え、整理し、清算し、それなりに、新しい出発を・・・、何て、思って観ていたのです。

ところが、この老婦人、先ずはたったひとりの可愛い孫、でも、今では自立した26歳の男、電話を入れても留守、手紙を書いても返信無し、一ヶ月が経過しても逢えない話しからドラマは始まるのです。

この展開には驚きました。日本ならともかく、舞台は英国です、その英国の祖母が、何故、それほど孫に会いたがるの?と思ったのです。

欧米では、成人した子供は親と一緒に暮らすのは、とても憚られる事だと、そう記憶していたのです。ですから、祖母と孫との関係となれば、それは、それは、もっと、もっと、距離がある、と、そう思っていました。

この私でも、祖父母にとっての孫の存在は大きく、孫にとっての祖父母は、意識の片隅に小さくボンヤリと存在する過去だと思っております。

これからが長い青年と、これからが短い老婦人では、なかなか互いの関係はムズカシイのです。いつまでも可愛い孫は過去のものです。

それにしても、日本とあまり変わらない関係に、驚いてみたり、やっぱりそうかと、納得してみたり、そうこうしているうちに、少しずつ面白くなり、展開が気になり、そして、ラストまで観てしまったのです。

それで、孫に会えない老婦人と、孫と同い年の小説化志望の青年とが、トラブルをキッカケにして出会うのです。そして、物語が始まるのです。

この青年なんですが、登場したとき、わたしにはどう見ても、汚らしく、貧乏くさく、好男子には見えなかったのです。ジーンズの綻びも、肩まで伸びた長髪も、お洒落と言うよりも、経済的困窮の結果としか見えなかったのです。

それで、いろいろあって、この青年をホテルでの昼食に招いたとき、その出で立ちにびっくり、借り物の上下のスーツはサイズが小さく、ツンツルテンの上着とズボン、ネクタイはそこらの切れっ端的で、靴は履き古しで、とても、とても、ショボイク、トンデモスタイルなのです。

でも、しかし、ホテルの同宿の老人客も、ウエイトレスも、全員が、何と素敵で、何と立派な青年だと、そういう反応を示すのです。何故?どうして?これで?と思うのでした。

この青年を孫と思い込む老人達、それを否定しないままドラマは展開されます。

青年は母親との関係がギクシャク、老婦人は娘や孫とギクシャク、でも、ギクシャクどうしの二人は。それなりに良い関係を続けるのです。

肉親との関係は、肉親であるが為に、互いの距離を計ることなく、すべてが許されるとして、何処まで踏み込んできます。

それが、他人であれば、他人として、互いに一定の距離をとり、踏み込んではイケナイ領域を意識しつつの関係となり、そのことで、互いに、肉親よりも素直な自分を出せる、そんな現象を発生させる確率は、高くなるのです。

趣味や、考え方、生き方に共感がもてれば、歳の離れた男女の関係は、変な?思惑が入り込むことなく、それなりに快適なのかも。まあ、莫大な財産をお持ちの方は別ですけどね。

何てことを思いつつ、自分の孫を思いつつ、英国も、日本も、あまり変わらないのかと思いつつ、年寄りは、若き日の記憶を手繰り寄せ、ゆっくり、静かに、穏やかに、老いを楽しむのも、それは、それで・・・。

そんな、日々を・・・、何て、一瞬、頭を過ぎったのです。

が、しかし、しかし、です。今年で私も高齢者となりましたが、未だ、未だ、これからを考え、これまでをふり返るには、未だ早い!絶対早いと!気合いを入れつつ、エンドマークを見つめたのでした。

まあ、それなりに良い作品でした。


それでは、また。




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資本主義の終焉で!路線バスの旅は!世界ふれあい街歩きで!東証株価!

2015年01月06日 | テレビの話し
2015年も明けて今日で6日目です。

まあ、兎に角、新年ですから、“明けまして”おめでとう御座います。

東証も、何だか、何かを予兆するように、二日続けての下げのようです。

本日の前引けで1万7千を割り、ざあまあ見ろ!が半分、だから云っただろ!半分で眺めていたのです。

安倍ちゃんの、景気対策と云う名の、期待値先行の“株価対策”も、そろそろ息切れ、綻びの季節です。

そんな非難だけなら誰で云える! それなら対案を出せ!の声も、それなりに、ご無理ごもっともなご意見と承るのであります。

景気対策を、どうの、こうの、と、あがいても、そうは問屋が卸さないのであります。

景気対策で、規制緩和とか、金融緩和とか、成長戦略とか、公共事業の拡大とか、女性の活用?とか、もう、そんな、小手先の解決策では、もう、もう、とても、とても、追いつかないのです。

では、では、どうするのか?

いろいろな方が、それなりに、いろいろな方策を発表しておりますので、答えは。それぞれの方が、それぞれの方法でお調べ下さい。

と、まあ、ここまで綴ってきて、はたと、我に返ります。

5日だったか?6日だったか?テレビ東京の“路線バスの旅”見てしまいました。今回のマドンナは“シルビヤ?”じゃなくて、え~と、え~と、そうだ!マルシア!

兎に角、面白いのです。ついつい見てしまうのです。太川陽介もこの番組で、人気復活?で数十年?ぶりに新曲を出したそうです。

スマホで検索すれば、バスの乗り継ぎは、それなりに判る筈なのに、地図を見、人に聞き、時刻表を見、三泊四日ハラハラさせるのです。

お約束の展開なのです、でも、でも、それが、面白いのです。

でも、きっと、もう少しすると、飽きてくる筈です。

“世界ふれあい街歩き”も、かれこれ、2年ほど前に飽きてしまいました。

それで、新年の年明けに、何故か、めずらしく、ことしの抱負?目標?などを宣言したのです。極々少数の身内に対してなのですが・・・・・・・。

結果は、夏までには判明します。

内容はともかく、一応、それなりに公的な場?で、不特定多数?に向かって、堅い?決意?を表明し、自分にプレッシャーをかけるのであります。

年明け再会の初日、何だか、よく判らない、とりとめのない、冬休み明けの更新で失礼しました。

それでは、また。

※本日の株価は、525円52銭安い1万6883円19銭で取引を終えたようです。灯油は近くのホームセンターで18リットルで1260円になりました。

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