歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

志村坂下・蓮根町 ⑩ 蓮根川緑地からマムシのヘビ屋と餅菓子屋の三木屋を探し求めて歩きます

2017年02月28日 | 東京の風景

前回の続きです。

氷川神社の先、幼き日の面影を痕跡を探し求めて、どぶ川を覆った?緑地帯を辿り、中山道に出ました。

この「中山道」と云うと、必ず頭に浮かぶのが「1日中山道・・・いちにちじゅうやまみち」のフレーズです。

フジテレビの女性アナウンサーが、原稿に「旧中山道」と書いてあったのを「1日じゅう山道」と読んでしまったのです。

たぶん、フジサンケイグループの御曹司と結婚された方と記憶しています。読み間違いの最高傑作だと思います。

それは、さておき、話しは戻して、中山道に架かる歩道橋を渡ります。昔は、ここを都電が走っていたのです。お祖母ちゃんと二人で、都電に乗って巣鴨のお地蔵さんに行った記憶があります。

都電と云えば花電車です。たぶん、都民の日にだったか走っていた記憶があります。「見るだけで“人は乗せない”花電車」何て、“別口”もあります。

まあ、判るヒトは分かり、判らないヒトには判らないお話。過去の事と思っていたら、いまでも、現役のようです。

話しが、それとなく、卑猥系男性向け大衆娯楽に逸れてしまいました。先ほどより逸れっぱなしで失礼しました。

兎に角、高島通りが中山道に突き当たった辺りに都電の停留所がありました。その先、埼玉方向、一つか、二つ先の停留所が終点だったような気がします。

歩道橋を渡った先にも、どぶ川の痕跡がありました。

 こちら側にも緑地帯が続いているのです。帰宅して調べたら、この先で隅田川に流れ込んでいました。

緑地帯の入り口の看板には、板橋区立蓮根川緑地と記されていました。これまで、どぶ川、ドブガワと呼んでいたのですが、「蓮根川」と云う正式な名称があったのです。

そろそろ蓮根川を後にして、高島通りと交わる地点で横断歩道を渡ります。

中山道を巣鴨・坂下方面に向かいます。目指すのは、懐かしい「ヘビ屋」と「和菓子屋」です。

ヘビ屋は、まさしく「蛇」を売っていたのです。そして、想い出とは、ヘビ屋に「まむし」を持ち込み500円で買ってもらった事があるのです。

このマムシは、現在、「大東文化大学」の少し先にあった、「ドングリ山」に近所の悪ガキと連れだって遠征した時に捕まえたのです。

その中に、苗字が前島で、あだ名が「土手カボチャ・・・頭の形から」と云う2~3歳年上の子がいて、彼の指揮の下で捕獲したのですが、マムシ捕獲を目的としての遠征だったのか、たまたま発見して捕獲したのかは思い出せません。

前島君は、いろいろ知っていて、それなりにマムシの危険性も、捕獲方法も知っている様子でした。でも、今考えたら、捕獲したマムシを「袋」に入れてヘビ屋に持って行ったのですから、予め袋を容易していた? やはり、捕獲目的の遠征だったのでしょう。

500円は2~3人で分けたと思います、でも何に使ったのかは覚えていません。一ヶ月のお小遣いが300円ぐらいだった頃ですから、それなりに使い道があった筈です。

いま、書いていて思い出しました。ヘビ屋のオジサンが持って行ったマムシをカゴに入れるとき、ヘビの頭を持って口を開き、牙にハサミを押し当て毒液を出して見せたのです。

そして、『前達、もしも噛まれたら、この毒で死んでいたぞ』と、ヘビ屋のオジサンに警告を受けたのでした。それなりに危険なことは知っていたのですが、マムシを眼の前にしての警告は効き目がありました。

それで、捕獲場所からヘビ屋までは歩いて1時間ほどの距離です。坂を下った辺りにあり、まさに坂下でした。ヘビ屋は十数年前に車で通り掛かった時には現役でした。

中山道の坂下辺りをキョロキョロしながら歩いたのですが、結局、ヘビ屋も和菓子屋もありませんでした。和菓子屋は“三木屋”と云う店で、酒が飲めない甘党のオヤジが時々おみやげで買って来てくれたのです。

和菓子と云うか、餅菓子と云うか、きんつば、あんこ玉、だんご、大福、鹿の子、スアマ、吹雪、そして、シベリアも、いろいろ思い出します。

残念ながら、いまは、もう、食べられないのです。食後高血糖なのです。

そうでした、土手カボチャの前島君は、数年前、風の便りで、亡くなったと聞きました。

今日は、これまで。

坂下、志村、蓮根歩きは未だ続きそうです。

 

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町⑨ 神社の先を母に手を取られ歩いた想い出のどぶ川沿いの小道!そしてグリコ・アーモンドキャラメルの悔しい!記憶

2017年02月22日 | 東京の風景

ほぼ2週間ぶりの再開です。

我が“生まれ故郷”の蓮根町を歩くお話は未だ続きます。

本日も“どぶ川”を探し求めて彷徨います。

幼い頃に、母に手を取られ買い物に行ったあの頃の記憶、“マーケット”への往き帰りの道を辿ってみたいと思います。当時、マーケットは最新の“集合式小売店”だったのです。

その道は、神社の先を橋の袂で左に入り、マーケットのある中山道に出る近道だったのです。

記憶の糸を手繰り寄せ、神社を目指して歩いて居ると、それと覚しき神社を発見しました。位置的にも間違いなく、昨日今日に神社ができる訳が無いので、60数年前に買い物の往き帰り、前を通った神社です。

小さな本殿? この境内で遊んだ記憶はありません。お詣りや、縁日と云った記憶もありません。只だ前を通り過ぎていたのだと思います。

隣の小さな祠は真っ赤?朱色?の鳥居や幟が賑やかに並んでいました。

 脇に眼を移すと稲荷氷川神社の社務所では、「長後町」の新年会が開かれていました。「長後」と云う町名は今は無くなりました。それでも、町会は長後町を名告っているのです、断固町会名を変えないのです。

新しい町名の「坂下」には納得できないのです。坂は、ずっと、ずっと、ずっと彼方ですから、ここが坂下の訳が無いのです。坂上があって坂下があり、下と云うのも何となく面白くない?

 ピカピカ黒塗りの乗用車、車内には運転手が居ます。新年会に出席している「お偉いさん」の車でしょう。区長か?それとも地元の都議会議員?でしょうか、区議会議員では乗れない車です。もしかして、地元の衆議院議員かも知れません。

さて、神社が見つかりましたから、どぶ川はこの直ぐ先にある筈です。

 ありました、どぶ川の痕跡を残す緑地帯です。

 間違いありません。ここに川が流れていて、川沿いに細い道があったのです。片手に買い物カゴを下げ、もう片方の手で私の手を握りしめ、マーケットに買い物に行ったのです。この緩やかなカーブがとても懐かしい。

 それで、こうして想い出を探して歩きまわっていると、自分の姿は視界から消え、現実感が消えていくのです。

夢でも自分の姿は見えません。夢を見ている錯覚を覚えるのです。

そして、後年、確かに見た、どぶ川沿いの道を母と歩いて居る、幼い頃の夢の記憶、そして現実の記憶、そして、目の前にする過去の痕跡の残る風景、夢と現実と妄想が混ざり合い、ここち良い混乱なのです。

 中山道が見えてきました。

この辺りはアスファルトに覆われています。この下に、今でも、きっと、あの頃の川が流れているのです。

中山道に出たら、左に曲がり、少し行った処にマーケットはありました。

昔のマーケットの面影を残していると云うか、そう思うと、そのように見えてくる建物を発見しました。

こんな感じでした。見ている内に、この建物に間違いないと思えてきました。マーケットの名前は「飯田百貨店」だったような気がします。

百貨店と云っても、記憶しているのは「お菓子屋さん」だけです。その頃のお菓子は量り売りでした。それで、私の食い物に卑しい性格上、食い物の記憶は、かなり過去に溯ってハッキリとシッカリと、心に刻まれているのです。

それは、それは、とても、とても、とても、悔しい記憶なのです。それは、当時新発売された “グリコアーモンドキャラメル”の記憶です。

当時、アーモンドキャラメルのキャッチコピーが、『一粒で二度美味しい』だったのです。

幼心で考えました。一粒で二度美味しいとは、一粒が倍の二粒分の美味しさと云う事で、一粒で二粒食べた事と同じと考えたのです。それは、一粒が倍になると考えたのです。

これは凄い!と思い、母にねだって飯田百貨店で買って貰いました。そして、帰り道、一粒を口に入れたところ、味は一粒分で、二度も美味しくなく、一粒が二粒にもなりませんでした。

幼心は混乱したのです。瞞されたと思いました。悲しかったです。『一粒で二度美味しい』のキャッチコピーは残酷でした。そんなわたしを見て、母も悲しそうな表情をしていました。

この話しも、夢と現実と妄想が、かなり混じり合ってしまった?かも知れません。

兎に角、夢と、現実と、妄想と、いろいろ混じり合った、ここち良い混乱の旅は未だ続きます。

それでは、また。

 

 

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稀勢の里が優勝で!横綱昇進で!牛久市栄誉賞で!街頭パレードで!でも彼は牛久市の住民だったことは無かった!?

2017年02月19日 | 相撲の話し

行って来ました!

隣町の牛久市へ!

そうです!稀勢の里の祝賀パレードです。

我が家を自転車で10時半に出発。 牛久駅へは予定どおり11時半頃に到着しました。 

こちらは西口で、パレードは東口から1時の出発予定となつています。朝日が号外を配っていました。

こんなものが配られ、私も頂き手にすると、何だか、それなりに、ワクワク・ドキドキと、興奮するのでした。無理もないのです、考えて見ると生まれて初めて号外を手にしたのです。

駅舎は線路の上にあり、西口側は歩行者専用デッキで駅前の商業ビルと繋がっています。ふり返るとこんな垂れ幕が下がっていました。

このビルには関西系のスーパーが入っていたのですが、1月いっぱいで閉店となりました。

優勝したときは店内にもそれなりの飾り付けや横断幕が掲げられ、スーパーの責任者がインタビューされる様子がテレビで流れたりしたのです。閉店を知っていましたから、責任者の笑顔が寂しげに見えました。

この日はもう、ビルはほとんど空き家状態で閑散としていました。

トイレをお借りしに入ると、シャッターでスーパーは封鎖されて、稀勢の里応援幟がとても、とても、寂しそうでした。

とても、とても、おめでたい日に、とても、とても、寂しいお話をしてしまった。 

それで、これが祝賀パレードのコースとなっています。駅前のメインストリートの「けやき通り」から、途中で左折し狭い路地を通過して「ぶどう園通り」に入り、左折して市役所となっています。

改札口はそれなりの混雑。婦人警官がハンドマイクでパレード見学者を誘導していました。

パレードは1時からですから、人出は未だそれほどではと?予想していたら、かなり、かなり、トンデモ無い事に!

東口には歩行者デッキも駅前ビルもなく、駅前広場があるだけです。

ホントに!ホントに!予想外の人の群れ!

駅前のコンビニでは店先にテーブルを出し、週刊誌の稀勢の里優勝・横綱昇進の特別号を売っていました。かなり売れていました。

こちらの人だかりは、この日にやっと間に合ったと云われる、稀勢の里の「手形」が彫られている石碑?

百年、二百年、三百年とここに立ち続けるのです。まあ、その間に駅前再開発でアッチコッチと多少は移動されるかも知れません。

ここがスタート地点となります。パレード用の車はスタンバイOK!未だ1時間半あります。

先頭の白いベンツのオープンカーに稀勢の里が乗りました。こういう車は専門のレンタル業者がいるの? 後ろのレクサスのオープンカーには誰が乗るの?後援会長に市長?

しかし、この時間で、この人だかり、この日は曇りで気温も低く、1時間半もじっとしていたら、寒くて、寒くて大変です。年寄りが多いの心配です。

心配と云えば、心停止に備えて、AEDを背負った消防隊員と、かなり頻繁にすれ違いました。

ケヤキ通りも端っこはこの程度。

遠藤には、こんな「稀勢の里の綿飴「、それなりに売れていました。

 

 

もう、それなりに、お祭り騒ぎ ですが、こちら植え込みには、こんな可愛い絵がひっそりと。

 ケヤキ通りの最終地点ここでパレードは左折して、観覧不可の狭い路地に入ります。パレードを正面から狙える絶好の撮影ポイント。でも、しかし、こちらは「業者」専用で素人は入れません。

こちらのスーパーでは、それなりに弁当やパンが売れていました。そして、この日は寒かったので、トイレの列が店内から、店外まで溢れていました。

トイレ行列は隣のドラッグストアーへも波及。

これは、これは、大変と思いつつ、市役所へ向かいます。こちらでは、毎日が号外を配っていました。それなりに棲み分けているようです。

これが毎日の号外。読売は見かけませんでした。

 庁舎の脇が市民栄誉賞の贈呈式会場。

はい、こちらも、臨時仮設トイレには長い行列ができています。

時間は1時間ほどありますから、わたしも昼食を摂ります。サンドイッチと発泡酒で一人祝杯をあげます。ふだんは500ccを呑むのですが、350cc で我慢。でも、しかし、アルコール分9%を購入。

そして、食後休憩後に急激な尿意に備えて、誰もが知らない、勝手知ったる隣町の公衆便所の近くのベンチで頂きました。予想どおり、まったく行列は無し。

ランチを済ませ、休憩を済ませ、トイレを済ませ、パレード開始30分前。時間潰しに「シャトーカミヤ」を一巡り。

この日のシャトーカミヤは、すべて祝賀会で貸し切り。

栄誉賞の贈呈式が終わると、ここで、稀勢の里も参加して、関係者とか、後援会とか、親戚とか、ご近所さんとか、同級生とか、いろいろな人が集まって宴会となるのでしょう。

和服で着飾った、それなりに若く、それなりに綺麗な女性が、あちらから歩いて来ました。うん、稀勢の里の嫁さんに丁度イイ!何てすれ違いざまに勝手に決めたりしつつ、スタート地点に向かいました。

スタート地点は、まさに黒山の人だかり、やっと稀勢の里の首が見えました。

首だけ撮影後、先回りして贈呈式会場に向かいました。

会場で待つ事30分ほどで稀勢の里が市庁舎前に到着したアナウンスが流れたのですが、観客の歓声はあまり聞こえませんでした。屋外では声が拡散してしまうのでしょう。

到着してから5分ほどして稀勢の里が舞台に上がりました。拍手と歓声は、やはり、想像とは異なりました。人は大勢いたのですが、寒さと、待ちくたびれたのと、屋外と云うことで、イマイチの盛り上がり。

左側に立つ黒っぽい服装の方が両親です。テレビで何度も見ているので直ぐに解りました。稀勢の里は、ホントに!ホントに!ホントに!最高の笑顔でした!

寒いので、ここで会場を後にしたのですが、くす玉が割られるシーンは見ていませんでした。

割る前に司会者が2度ほど「拍手」と「応援のかけ声」の練習を観客に促している声がスピーカーから聞こえてきます。

そして、そして、本番のくす玉割り、そして、歓声!これは練習効果で、会場を後にする私の耳に大きく、大きく、響きました。 

と、云う、ことでした。

それで、帰りの自転車のペダルを漕ぎながら考えて見たら、稀勢の里は、兵庫県芦屋市の生まれで、2歳のとき茨城県龍ヶ崎市に移り、中学は龍ヶ崎市の長山中学で、中学卒業と同時に千葉県の松戸市にある鳴戸部屋に入門しているのです。

ですから、稀勢の里自身は、一度も牛久市の住民だったことは無いのです。いま現在両親が牛久市に住んでいるだけなのです。

と云う事で、たぶん、稀勢の里には、牛久市に、それほど、思い入れは無いものと、思うのでした。

たぶん、龍ヶ崎市には、それなりの思い入れもがある、と思うのです。何たって、幼稚園、小学校、中学校の、同級生がたくさんいるのです。

たぶん、稀勢の里は、牛久市の市民栄誉賞は、何だかなぁ~~~と、思っている事でしょう。 

まあ、それは、それとして、兎に角、初優勝で、横綱昇進で、市民栄誉賞でめでたいのです。

まあ、兎に角、3月12日からの大阪場所が楽しみです。

初日に落ち着いて勝てば、あとは、それなりに、良い成績で、もしかして、全勝で連続優勝もありえます。

ホントに、ホントに、ホントに、稀勢の里が横綱とは夢のようです。

高安も稀勢の里の後を追って、大関、横綱を目指し、『稀勢・高時代』の幕を開けて下さい。

ホント、今日は長くなってしまった。現在9時38分です。

それでは、また。

 

 

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人間ドックの検診服?で検査を待つ姿は判決を待つ囚人の群れに見えたりして!

2017年02月17日 | 健康

昨日は“人間ドック”に入って?来ました。

所謂“日帰り人間ドック”と云うやつです。私が馴染み?の総合病院には、日帰りに対しては“一泊”と云うのもあったのですが、最近は無くなったようです。

以前、仕事をしている頃に、3回ほど一泊を選択したのですが、泊まったのは最初の一回だけで、退屈だし、病院のベットは眠れないし、後の二回は一端帰宅して朝又出掛けて行ったのです。訳の分からない事をしていたのです。

それで、昨日は7時半に家を出て、病院に到着したのは8時10分前、予定より10分早く着いてしまいました。開場が7時45分で受け付け開始が8時。

この農協系の総合病院は3年ほど前に、人間ドック専門の別棟が完成して、以前のように、パジャマ?と云うか、検診服?と云うのか?何かとても貧乏くさい姿で、外来病棟をウロチョロすることが無くなりました。

あの検診服というモノは、何か、とても、囚人服的で、着ている人の個性と云うか、人格と云うか、人間性と云うか、すべて否定され、単なる、名も無き患者、名も無き囚人に見えてしまいます。

以前、仕事をしている時、東京のドック専門の病院で、いろいろな企業から来ている、いろいろな世代の大勢の人達が、検診服姿で検査待ちで廊下に並んでいる姿はとても、とても、異様で、量刑の判決を待つ囚人の群れに見えました。

人間、着ている服で、その外観で、その人の、社会的立場とか、生き方とか、考え方とか、いろいろな好みとか、本人が意識するしないに関わらず、表現している事が解るのでした。

検査を終えて、私服に着替えると、人それぞれに、人生があり、過去があり、現在があり、未来がある、個性的な人間に見えて来たのです。

ホント!今回も、女性も男性も、貧乏くさい没個性の集団が、着替え終わると、それなりの人間に見えて来るのでした。

女性は、検査のために、いろいろと、かなり見え方が変化します。女性は、男性よりも、服装で、相当に、外観を変化させているのです。

女性の場合は、いろいろな処を、いろいろな下着で、いろいろと体型を補正しているのを剥ぎ取られるます、検診服姿を男性に見られるのは、とても、とても、恥ずかしく屈辱的と感じる方も?

まあ、今回は、40代は数名、50代から60代が多数でしたから、かなり、かなり開き直っての検診服姿?

そのうちに、田舎の人間ドックも、男女別になるのかも? 

そうでした、私の検診結果は、ほぼ異常無し、身長も縮んでいませんでした。

消化器上部内視鏡検査も異常無し、心配していた空腹時血糖値は“112”で、まあ、それなりにOKでした。

血糖値ですが、空腹時が「112」で、ヘモグロビンA1cは「5.5」問題無しとされました。でも、問題有りなのです。

わたしの食後血糖値は「200」を超えるのです。ドックでは空腹時を測りますが、空腹時血糖値に異常が現れる頃は、もう、遅いのです。

最近は、世間では、食後の血糖値上昇が問題となってきました。「血糖値スパイク」健康番組やワイドショーでも話題になってきました。

そのうち、人間ドックでも、事前に自宅で、検尿、検便をやるように、検査キットを貸し出し、自宅での食後血糖値の測定が一般的になるかも?

一般的と云えば、人間ドック学界?が、胃の検査方法を、レントゲン検査から、内視鏡検査に移行すべきとの提言?をしたと聞きます。

異常を早期に発見するメリットよりも、胃の放射線被爆のリスクの方が大きいと判断したのでしょう。

胃の集団レントゲン検査は、世界では、とても、とても、珍しいことで、韓国と日本でしか実施されていないようです。

世界では、メリットよりもリスクの方が大きいと判断していたようです。

そんな事情が影響したのか、馴染み病院でも、少しずつ内視鏡検査に力点を移しつつあるようで、去年までですと、オプションで内視鏡を選択すると、通常のレントゲンだと一ヶ月待ちが、3ヶ月待ちだったのです。

でも、しかし、今回は申し込みが1月の末でしたが、3週間後から可能となっていました。

えっ?どうして?そんなに早いの?と受付で聞いたら、医師の人数増やして対応しているとの答えが返ってきました。

検査の場所も、以前は内視鏡だけは、通常の病棟まで検診服姿で、外来の待合室を通過し、通常の患者の合間を縫ってドックの検査がおこなわれていたのです。

でも、しかし、今回からは、検診棟ですべてが検査されるようになったのです。ホント!あの囚人服?いゃ、検診服姿で外来病棟を歩きまわるのは、ちょっと、小っ恥ずかしいのでした。

兎に角、現状は、それなりに、健康でした。

これで、いままでどおり、呑んだり、喰ったりできます。

アルコールの摂取量が以前より増えた自覚は、ハッキリとあったので、その影響を心配していましたが、今のところは、臓器の機能に影響を及ぼしてはいないので、とても、とても、安心しました。

兎に角、無事でした。

これで、料金はピロリ菌の検査2,160円を含めて、28,900円でした。市の補助金1万数千円?を差し引いた額です。

それでは、また。

そうでした、明日は、牛久で稀勢の里の優勝横綱昇進の祝賀街頭パレードが行われます。行ってこようと思います。

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朝貢外交でホント!みっともない!でも!みっともないのは安倍総理?いいえ!それは日本国民です!

2017年02月14日 | 世間話し

ホントに!ホントに!もう一つオマケに、ホントに!恥ずかしかったです。

貢ぎ物を皇帝に献げる朝貢外交を、21世紀のいま、目の当たりにしました。

でも、しかし、安倍総理には、まったくもってその自覚は皆無のような笑顔で、トランプ大統領と二人、ゴルフして、呑んで、喰っての二日間でした。

兎に角、米国の大統領と笑顔で握手は支持率向上に、間違いなく繋がるとしての笑顔だった?

でも、しかし、日本を取り巻く経済、特に軍事状況を考えると、現実政治としては、陰りを見せつつあっても、アメリカの強大な軍事力と経済力にお縋りしなければ生きて行けないのです。

アメリカ大統領への“ご機嫌伺い”は、みっとも無くても、恥ずかしくても、ここは辛抱して、恐れおののき、ひれ伏す姿勢を示して、コレまでどおり御理解頂く?

と云う事で、いくら何でも、あの安倍総理でも、みっとも無くても、恥ずかしくても、笑って誤魔化すしかなかった? 

兎に角、中国の、北朝鮮の、安全保障上の脅威には、日本一国では対抗できない?

兎に角、トランプ大統領は、人種、民族、宗教、国家、軍事、経済の関係を、対立を、過去の、儀礼や、慣習や、ルールや、表現に囚われず、露骨に、判り易く、見せてくれるのです、チャンスなのです。

世界に恥を晒す、ご機嫌伺いのみっともない国家?から、正々堂々の自立した国家を目指すか?

それとも、やっぱり、現状維持で、みっとも無くても、かっこ悪くても、米国のご機嫌を伺い、中国の脅威からは、米国の軍事力に頼るのか?

兎に角、米国も、中国も、大国なのです、日本一国では対抗できないのです。

ですから、ホントは、日本、韓国、台湾、フィリピン、ベトナム、その他の東南アジア諸国が加わって、一つのグループを形成するこが一番なのです。

こんな構想が民主党の政策にあったのです。でも、しかし、潰されました。鳩山も小澤も、“政治と金”を口実に失脚させられました。

世界の枠組みを変えるのは大変なのです。政治生命が、命が、何て事になるのです。

でも、政治家に、首相に、何て事を志す人は、高い理想と、具体的政策実行力が問われるのです。でも、いまは、中身よりも見た目、そして家柄がモノを云うのです。

アメリカの大統領と笑顔で、握手したり、呑んだり、喰ったり、ゴルフをすると、オラガ総理はたいしたもんだ!で支持率は上がり、選挙で勝つのです。

みっとも無いのは、ホント!安倍ちゃんではなく、日本国民なのです。

でも、ホントのことは、野党も、新聞も、テレビも、ハッキリ云わないのです。

今までどおりで、これからも、何とかなると、みんな、みんな、そう思っているのです。

まあ、何とか、なら無くなるまで、何とかなると思うのが、フツウの人間?

何とかならなくなる前に、何とかするのが、志のある指導者。

そんな指導者は、いつか現れるのか? それとも、もう一度、痛い目にあった後に現れるのか?

でも、しかし、現れたとしても、国民が支持しなければ、と云う事で・・・・・・。お後がよろしいようで。

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町⑧ どぶ川の痕跡を探し求めて緑地帯に!暗渠の下に!懐かしのあの頃に!想いを馳せます!

2017年02月09日 | 東京の風景

前回の続きです。

志村第6小学校を後にして高島通りを越えて渡辺製菓の裏に向かいます。そこには、あのころ“小川”と云うか、生活排水が流れ込む、周囲に雑草が茂る、ほぼ“どぶ川”が流れていました。

“どぶ川”は深さがオヘソ位で、幅が2メートル弱位だったような?渡辺製菓の灰色のコンクリート塀に沿って流れていました。周囲は原っぱと、田圃と、畑だった気がします。

どぶ川で、ザリガニ(アメリカザリガニ・またの名を真っ赤チン)とか、ドジョウとか、鮒を釣って遊んでいました。

一番記憶に残っているのは、近くの原っぱに捨てられていた「畳」を浮かべて遊んだ事です。畳の筏は直ぐに沈没し、半ズボンもパンツもビショビショなりました。

季節は夏で、隣の部屋に住んで居た二つ歳上の“ひとしちゃん”と一緒だったと?半ズボンだけを脱いで、暫く乾かし、生乾き状態で家に帰った記憶があります。

その時の帰り道で、お蕎麦屋さんの前に置かれた真っ赤なシロップを飲んだ記憶があります。シロップは下に蛇口が付いた、直径・高さが30㎝位の鉄製の寸胴に入っていました。

何故か、食い物に纏わる記憶は、いつまでも、いつまでも、ハッキリとシッカリと記憶に刻まれるのです。とても、とても、食い物には卑しい性格なのです。まあ、兎に角、食料事情の悪い時代でしたからね。いや、もしかして!我が家だけが食糧難だった?

このシロップは、お祭りの時に神輿や山車が休憩するポイントに置かれ、子供達に無料でふるまわれた残りです。残り物でしたが、まだ冷たくて、甘くて、美味しくて、当時の私にとっては、とても御馳走でした。

渡辺のジュースの素といい、真っ赤なシロップといい、人工着色料、人工甘味料が全盛の頃です。そう云えば、ミドリ色をしたメロン味の“イムラヤのソーダの素”何てモノも売れていました。

それで、“どぶ川”の痕跡を探し求めて、高層マンション群の間を縫って辿り着いたのがこの風景。左を見ると緑地帯、

右を見ても、この緑地帯、

このくねくね曲がった緑地帯は、間違いなく、あのどぶ川の跡です。間違いありません。たぶん暗渠になっているのです。この下に、あの畳を浮かべて沈没し、パンツを濡らした、あの想い出の、懐かしいどぶ川が流れているのです。

「みどりの広場」は板橋区が無償で借りているようです。借り上げ期間が終了したら返還されることもあるようです。

“コーシャハイム”に隣接する土地ですから、住宅供給公社が所有者だと思います。公社と板橋区はお友達関係ですから、借り上げ期間は不明ですが、期間終了時には当然更新されるのでしょう。

それにしても、小川と云うか、昔し農業用水路だっと云うか、生活排水路と云うか、どぶ川と云うか、この辺りにはいろいろな流が、あっちコッチにあったのです。

次回も、 どぶ川に纏わるお話です。

それでは、また。

 

 

 

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志村坂下・蓮根町⑦ 志村第六小学校では表と裏が逆になり!お豆腐屋さんでは油を10円分買ったのでした! 

2017年02月06日 | 東京の風景

前回の続きです。

それで、城北公園の隣にある「志村第6小学校」なのです。

校門の表札?の「板橋区立」の文字はほぼ消えていますが、まだまだしっかり現役なのでした。この小学校には3年生?~4年生?頃まで在籍し、引っ越しのため転校。

ところで、引っ越し、転校した先の、北区の「北園小学校」も、「北中」も、いまでは廃校となっています。どちらも団地の中の学校で、あのころは1クラスに生徒が50数人も居たのに、ホントに少子化です。

でも、しかし、ここ志村第六小学校は少子化のなか現役で頑張っているのです。

ちょっと調べて見たところ、現在の生徒数は715人で、1年~5年までは3組み、6年生だけが4組まであり、1クラスは30数名なのでした。ホント!少子化なのです。

それと、創立は昭和23年でした。私は25年生まれですから、ほぼ同じような歳月を辿っているのです。ちらっと校歌をみたのですが、まったく記憶にありません。

沿革をみたら、校歌の制定は昭和34年となっていました。これって私の在籍中には、ギリギリで校歌は無かったと云うこと? 入学式でも、卒業式でも、運動会でも、校歌斉唱は無かった? 私に記憶が無いと云うことは、これが原因だった?

でも、まあ、中学の校歌も、高校の校歌も、まったく記憶には残っていません。たぶん、斉唱のときは、他のことを考え「口パク」だった、と、思うのです。わたくし、何を隠そう、ハッキリ云って、歌はへたっぴで、音楽は大嫌いで、通信簿は、ずっと、ずっと「2」でした。

そう云えば、中学3年のとき一度だけ「3」になったことがあるのです。高校受験で内申書に「2」があっては拙いと、お情けで「3」を頂いたのでした。 

それで、志村第6小学校ですが、私が居た頃は公園側が正門でしたが、いまは、どう見ても裏門のようです。公園側から広い校庭が見渡せたのですが、いまでは校舎が視界を遮っています。

学校の東側約100メートル先には都営三田線の蓮根町駅があるのです。ホント!信じられないのです。昔は原っぱだった!あんな処にです!電車の駅ができてしまったのですよ!まさに!まさに!これぞ正しく隔世の感!なのです。

ホント!城北公園も、人工芝に夜間照明灯ですよ。この日は、何かのイベントとで子供達にお餅が配られていました。

 照明灯の下、白い建物が志村3中の校舎だと思います。

 こちらの場所には昔、テニスコートがありました。たぶん3中のだったと思います。

今考えると、テニス等と云うスポーツ、私の生活実態とは、遠く、遠く、かけ離れていたスポーツでした。

あの頃は、みんな、みんな、貧乏でした。まわりが全部貧乏だと云う事は、とても、とても、有り難いことです。そもそも豊かな生活など、見たことも、聞いたことも、無かったのです。

ですから、今思うと貧乏だったと云えるのであって、あの頃は、家が貧しい等と、まったくもって、考えてもいなかったのです。

あの頃、母に頼まれて夕食に使う油を、お豆腐屋さんに買いに行ったことを思い出します。10円玉を握りしめ走ってお豆腐屋さんに行き、明るく元気に「油10円分下さい!と叫んだ記憶が残っています。

お豆腐屋のお兄さんも考え込みながら、油を量っていたことを何故か鮮明に覚えているのです。油を10円分だけなんて買う人はいません。

お兄さんとは時々消防署の前で、キャッチボールをする仲でした。今思い出すと何故か「森進一」のような雰囲気の人だった?そんな気がしてきました。

本日の想い出探しは、第6小学校とお豆腐屋さんでお終い。

次回は渡辺製菓裏の“どぶ川”と、神社の脇の“どぶ川”を探します。

それでは、また。

 

 

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志村坂下・蓮根町 ⑥ 幼き頃の夢か?幻か?それとも事実か?驚き!不思議?公園にいっぱい観光バスが!そして包帯と脱脂めんのイワツキまで!

2017年02月03日 | 東京の風景

前回の続きです。

生まれた木造二階建ての「引き揚げ者住宅」は、建て替えられ鉄筋コンクリートの4階建てに変わったのです。建て替えで引っ越したのが小学校3~4年?でしたから、いまから50数年前の事です。

そして、いま、建て替えられたアパートは解体され、また新たに建て替え工事が始まろうとしているのです。それにしても、鉄筋コンクリートも50数年の寿命ですか?そういう私も、そろそろ寿命?

着工予定が平成28年6月1日となってます。いまは平成29年ですから半年以上も遅れているの?それとも解体工事の開始が着工?

それにしても、施工者の欄には未定とあります。と云う事はやっぱり着工は遅れているの?何だかよく判りません。

それにしても、地名が坂下2丁目となっていました。私が居た頃は蓮根町でした。坂下はもっと、もっと遠くで、ホントに坂の下の近辺だけが、坂下と云う町名でした。

それにしても、建築主は、あの“舛添要一”と書かれているのには、世の移ろいを感じるのであります。今頃はあのお方、何処で、何を考え、何をしているのでしょうか?築地市場移転問題で百条委員会に呼ばれたりするかも?

まあ兎に角、生まれた木造アパートは影も形も在りません。それと、“引き揚げ者住宅”とこれまで書いてきましたが、これは父から聞いた話しで確証はありません。それと、我が家族は引き揚げ者でもありません。何か、区議会議員の口利きで入居したように聞いています。

まあ、それは、それとして、家の目の前は広い公園だったのです。ホントのところは公園と云うよりも、単なる広場?と云うか、野球場だったような?

広場には対角線上にバックネットが2面あっただけで、後は何も無い空き地のような公園でした。城北公園となっていますが、あの頃そんな名前で呼んでいたな?いなかったような?まあ、あまりハッキリとした記憶はありません。

今もあの頃と同じようにバックネットが2面あり、公園と云うよりも野球場です。野球で、何故か突然記憶が蘇ったのです!ここで大人が野球をしているのを、私はよくボンヤリ見ていたのです。

そして、その野球チームの名前を思い出したのです。ユニホームの胸に「イワツキ」とありました。志村坂上にあった包帯とか脱脂綿の会社だった記憶が蘇ってきました。いまネットで調べたら今もイワツキは志村坂上にありました。

何故、イワツキとか包帯とか脱脂めんとか覚えていたのか?たぶん、当時、ユニホームなど着ているチームが珍しかったので、イワツキの名前が幼いこころに記憶されたのかも?それにしても会社の業務内容までどうして?

それは、たぶん、イワツキの工場がある志村坂上には、悪ガキ達と連れだって時々“遠征”していたのです。そのときに見た工場の煙突に「岩月・包帯・脱脂めん」と描かれていた記憶がうっすらとあります。

兎に角、幼い頃の記憶が、芋づるしきに引き寄せられ、蘇ってきます。脳の中に過去のすべてが記憶されているのでしょう。

幼い頃と云えば、未だに、時々思い出すのですが、ある日家の前の公園に、当時としては珍しかった観光バスが、それも何台も何台も並んで駐まっている光景です。

一台でも珍しいのに、それが、何台も、何台もですから、驚きです!ビックリです!でも、この記憶は、とても、とても、不思議なのです。

不思議と云うのは、このことを思い出したのは、十数年前に見た夢からなのです。その時の夢は、過去の現実が夢で蘇ったのか?それとも、そういう事実は無く、別の体験と組み合わされて夢に現れたのか?ハッキリしないのです。

それ以来、夢の光景を、時々、ふと思い出す事があるのです。公園の隣は志村第六小学校ですから、たぶん、遠足とか、社会科見学とか、そんなことで、観光バスが集まっていた可能性があります。

幼い頃の私には、色とりどりの、大きな観光バスが、何台も、何台も並ぶ光景は、夢のようだったと思うのです。驚きと不思議とで、こころにしっかりその光景が刻まれただと・・・・・・・。

そして、その光景は、40数年の歳月を経て、夢として蘇る、まあ、そんな事では無いかと思いつつ、脇を見ると、バスが置かれていました。観光バスではなく、路線バスで、昭和40年代?の頃に走っていたような車体。

おぼろげな記憶を辿りつつ、過去の想い出の欠片を見つけつつ、夢と幻の狭間に漂いつつ、蓮根の街を歩きまわっています。

まだ、まだ、続く、幼かった過去を探し求める夢と幻の旅。

それでは、また。 

 

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