歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

あの頃“カレーにソース”で世間を知りました

2010年05月18日 | 昔の思い出

昨日の続きみたいなものです。

昭和30年代の写真展に刺激され、私の昭和30年代を引っぱり出して来ました。

昭和25年の生まれですから、5歳から14歳までが昭和30年代と云う事になります。幼稚園から中学一年生の頃にあたります。私はその頃、東京の板橋区に住んでいました。


幼稚園の前でしょうか?まだ前掛けをしています。パン?を手に持って、物干し竿を囓っている?


左側は“トモキ君”です。“めんこ”が強くていつも負けていたのです。今でも、雨の日にアパートの階段で“めんこ”に負けて悔しかったこと、ハッキリ覚えています。しかし、それにしても、悪ガキの顔。


お昼のコッペパン代として親から貰った15円を失くした時、トモキ君のお母さんが“見つけたとよ”云って、私に手渡してくれたのは、失くした15円ではなかったと・・・・・・・、今頃になって気付きました。

それにしても、トモキの運動靴はとても綺麗な新品で、私のは、泥んこだらけです。“上履き入れ”が懐かしいです。

昭和の子供達、私の右隣が姉で、何処で覚えたのか、後ろ手に組み、脚を前後にしてそれらしいポーズでキメテいます。でも、足下は下駄、私は長靴。


小学校の1年生か2年生だと? いろいろな子がいました。左上隅みの女の子、


金髪でポニーテールで、青い眼をした混血の子です。“ジュリーちゃん”と呼んでいました。

 とても、とても、可愛い子でした。3年生の頃には何処かへ行ってしまいました。今、何処で、何をしているのでしょうか?


後ろに見える建物が“引揚者住宅”です。いろいろな人が住んでいました。二階建て、共同炊事場、共同便所でした。


我が家の上は“謡曲師”で、隣の部屋には“浪曲師”の一家、端っこには“お妾さん”も居ました、内職で散髪屋をしていて、私もそこで“ぼっちゃん刈り”にしました。


この車は?


この車は、“ダットサン”だと? 額に絆創膏が貼ってあります。何をしたのか?


こちらは“ルノー”。この頃の父より、今では年が上になってしまいました。似ているような?似ていないような?


鎌倉の大仏様での記念撮影ですが、大仏の首が切れているのです。


小学校3・4年の頃だと、羽田空港です。昭和35年頃でしょうか? 昨日の写真展の子供達とはかなり風景が異なるのです。


これも3・4年の頃。林間学校で夕食にカレーが出たのですが、私はいつものように、カレーに“ソース”をタップリかけて食べたのです。その時、担任の先生に“カレーにソースはかけません!”と注意を受けました。


我が家では“カレーにソース”が当たり前だったのです。我が家の常識と世間の常識とは、同じではないと知ったのです。今思うと、それは、家族中から、世間の中に入り始めた事を意識した、最初の出来事だったのです。

でも、今でも、時々、家では、カレーにソースをタップリかけて食べるのです。塩分の摂り過ぎですが、でも、やっぱり、旨いのです。子供の頃の味は、懐かしく、絶対なのです。

中学一年生の頃です。後ろは、“トヨペットクラウン”です。観音開きで、フロントガラスは一枚ガラスではありませんでした。


この車は、当時としても中古車でした。先ほどから、いろいろ車が登場しましたが、我が家がお金持ちで、常に自家用車を所有していたわけではありません。

父が中古自動車の修理と販売をやっていたので、商売用の車なのです。あの頃、エンジンがかからず、“クランクシャフト”を回して始動したり、坂道まで押して行き、転がして始動させた記憶があります。

いろいろあった、あの頃でした。


それでは、また明日。

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髪を切る“ハサミの音色”と和服に“白い割烹着”の遠い日の想い

2007年12月20日 | 昔の思い出

シリーズは本日お休みします。

今日は何となく雑談などしたい気分なのです。

昨日は床屋さんに行って来ました。10時頃に突然!思い立ったのでした。普段は「そろそろ、床屋にでも?」と、2~3日前からそれなりに考えて床屋にいくのです。

昨日は、何故か突然、その気になったのです。すぐに自転車に跨り床屋に向かいました。それまでは、このまま来年まで床屋に行かなくても「問題ナイ」と思っていたのです。

今年の夏に、生まれて始めて「頭を丸め」ました。7月と8月に坊主に近い短髪に刈り上げ、それからずっと昨日まで床屋には行っていません。

4ヶ月ぶりの床屋です。1回千八百円ですからこの間、五千四百円が浮いた訳です。焼酎にして4リットル入りが3本も買える額です。かなりの節約です。


久ぶりの床屋さん、ハサミの音を聞きながら、昔の事を思い出しました。
以前、こちらに引っ越す前、東京の赤羽にいた頃です。

これまでの店よりも近く、歩いて3分ほどのところに、新しい床屋さんが開店したのです。

早速、行って見る事にしました。お米屋さんとラーメン屋さんの間にに挟まれた、小さなお店です。

店内に入ると「散髪イス?」が2脚、40代後半の夫婦と思われる二人でやっていました。

旦那が理容師で、奥さんと思われ女性は、和服に真っ白な「割烹着」を着て洗髪とマッサージが専門でした。

それで、その女性なのですが、髪を後ろに丸めて簪を刺し、妙に「艶っぽい」のです。和服を着た「身のこなし」が、最近まで「左褄」を取っていた匂いがするのです。

二人は余り会話をせず、眼や動作で相手に意志を伝え合っていました。それが、とても自然でした。

二人が向き合ったときの、微妙な表情の変化、離れた時の視線の送り方は、長年連れ添った、と云う感じではなく、とても新鮮な感じがしました。

訳ありの過去と決別して、二人だけで、新しい土地で、新しい暮らしを始めたのかも・・・・・・、そんな様子に見えました。

それで、髪結いの亭主ではなく、理容師の旦那の仕事ぶりなのですが、とても丁寧なのです。

耳の後ろから、襟首の生え際にそって、ハサミで髪を切り揃える時の、「ハサミ使い」が何とも云えずイイのでした。

耳に入る、ハサミの「音」と、云うよりも、「音色」と表現したくなるような、ハサミの刃先が「上下に擦り合」時の音、それに加えて、指の入る部分が、上下して「叩かれる」時の、堅く、高く、軽い、金属音。

リズミカルで、「音楽」を聞いているようでした。あまりの気持ち良さに瞼が自然に閉じてきました。

旦那も、ここが職人の「腕の」見せ所と、「かなり」意識してやっている「節」がありました。


昨日は、床屋でハサミの「音」を聞きながら、そんな昔の事を想い出したのです。

あの「ハサミ」の「音色」と、「真っ白い割烹着」が、とても懐かしいのです。今から20年ほど前の話しです。


それで、3年前のことですが、以前住んでいた辺りを歩き廻った際に、床屋のあった場所に行って見たことがあるのです。


米屋の隣に、その店は未だありました。通りすがりに店を覗いたのですが、30代の男性理容師が一人、客待ちでソファーに座り新聞を読んでいました。


写真を見ていて、いろいろ思い出しました。


来年、暖かくなった頃、また歩いてみようと思います。


それでは、また明日。




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「浅田光輝先生」と「ハチのムサシ」

2007年08月19日 | 昔の思い出
先日、テレビで何十年かぶりで「ハチのムサシは死んだのさ」を 聞きました。たまたま見た「懐かしのメロディー的」な番組です。

その曲を聴いて「浅田光輝先生」と始めてお会いした時のことを想い出しました。私が20代の頃ですから、いまからもう・・・30年ほど前の昔のことです。

現在、「浅田光輝先生」の名前を知っているのは、限られた範囲の人達かも知れません。60年代から70年代にかけて、それなりに知られた「政治経済学者」でした。

その先生とお会いしたのは、友人に誘われて参加した、あるサークルを通してでした。

偶々、その友人のサークルに誘われて、浅田先生の「別荘」に何人かで泊まった時の事でした。

夕食の時に、何故か先生が、

『流行歌はほとんど聴かないが、今流行の「ハチのムサシ」の歌はとても気に入っている・・・・・・・』

そんな内容の話をされたのです。話の前後の事はまったく記憶から消えてしまいましたが、今回、テレビで流れる歌を聴いていたら、30数年ぶりに、その時の情景が浮かんできたのです。

「ハチのムサシ」のことを想い出し、それに繋がっていろいろと、その時の事が少しずつ、甦ってきました。

私の記憶は、先ず食べ物のから始まります。その日の夕食は鉄板焼きだったのですが、市販の「タレ」ではなく、私の手作りでした。

醤油に砂糖、ニンニク、生姜、りんご、胡麻油を調合し、先生にも「美味しい」と云ってもらった記憶があります。

また、夕食後に風呂に入ったのですが、先生が風呂場のドアの前に来て、「湯加減はどう?」と聞かれました。

まさか、有名な学者に湯加減を聞かれとは思わず、かなり恐縮した事を覚えています。その時、何と返事をしたのかは覚えていません。

それと、テレビの映りが悪いと先生が云われたので、私が屋根に上がり、アンテナの方向を調整したのを想い出しました。

その場に、ある大手電機会社の研究所に勤めている人が居たのですが、その方をさ差し置いてテレビの映りを直してしまいました。

先生に「これなら東京で観るのと同じだねェ。ありがとう」と、お礼を云われ、とても嬉しく、誇らしい気持ちになったり・・・・・・・。

それと、別荘近くの「大手スーパー」で、1リットル入りのコーラ瓶を発見して驚いた事・・・・・・。

まぁ。兎に角、大した想い出ではありませんが、懐かしい青春時代の一コマです。


その先生も、去年の10月10日に88歳で亡くなられました。私がその事を知ったのは、亡くなられて一ヶ月ほど過ぎた頃でした。

ご家族の意向により、世間には公表されなかったとの事です。本来であれば新聞でも報道された筈です。

今回、あらためて「ハチのムサシ」の詞を読んで見ました。
先生は「ムサシ」に何を想い、聴いていたのか・・・・・・、いろいろ考えてしまいます。

「ムサシ」も「浅田光輝先生」も闘い、そして、死んでしまいました。







   『ハチのムサシは死んだのさ』

   内田良平 作詞
   むろふしチコ 補作詞
   平田隆夫 作曲


   ハチのムサシは 死んだのさ
   畑の日だまり 土の上
   遠い山奥 麦の穂が
   キラキラゆれてる 午後でした

   ハチのムサシは 向こう見ず
   真赤に燃えてるお日様に
   試合をいどんで 負けたのさ
   焼かれて落ちて 死んだのさ

   ハチのムサシは 死んだのさ
   お日様仰いで 死んだのさ
   高い青空 麦畑
   いつもと変わらぬ 午後でした


   ハチのムサシは 死んだのさ
   夢を見ながら 死んだのさ
   遠い昔の 恋の夢
   ひとりぼっちで 死んだのさ

   ハチのムサシは 向こう見ず
   お日様めがけて剣を抜き
   たたかいやぶれて 死んだのさ
   焼かれて落ちて 死んだのさ

   ハチのムサシは 死んだのさ
   たしかにムサシは 死んだのさ
   やがて日は落ち 夕暮れに
   真赤な夕日が 燃えていた




浅田光輝も、ムサシも、「カッコイイ!」です。


            


平田隆夫とセルスターズ ハチのムサシは死んだのさ 1972


ハチのムサシは死んだのさ



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飛鳥山の回転展望台は私が造りました!でも今はありません!

2007年03月13日 | 昔の思い出

昨日、「王子」の話しを書きましたが、ある事を思い出しました。

飛鳥山公園に昔あった、回転展望台のことです。「昔あった」と云うことで、残念ながら現在はありません。

何故?大事な話かと云うと、

『♪ジャーン! 回転展望台は私が造ったのです! ♪ジャーン!』

詳しく云うと、私が働いていた会社が北区から、工事を受注して、私もその工事現場で働いたのです。

以前に書いた「芝公園」にあった会社です。高校を卒業して最初に働いた会社です。1968年(昭和43年)入社です。

そして、いつの間にか、ホントに知らない間に回転展望台は消えていました。

ネットで調べたら、1970年(昭和45年)に完成し、1993年(平成5年)に撤去されたとあります。今から14年前ですね。僅か「23年」の命でした。

ネットで貴重な「在りし日」の姿を発見しました。高さは23㍍でした。
私が入社した頃は、高度経済成長の真っ只中で、あちこちで回転展望台を造りました。この頃「流行って」いたのです。



一番よく覚えているのが、新宿御苑の側にあった「ワシントン会館?」です。多分、そんな名前のビルで、上の階はホテルのようだった記憶があります。

ここの現場で、ハッキリと覚えていることがあるのです。どういう経緯でそうなったなのかは忘れてしまいました。

それは、完成前のビルの屋上に「カツランチ」の出前をさせたのです。食べ終わるまで「出前のお兄さん」が、我々(10人位)が食べている傍らで、食事の終わるのを待っていたのを覚えています。

のんびりとした時代でした。それにしても「食い物」に関わる出来事は、ホントに忘れません。

それに、蒲田駅あたり?の「牡丹園ビル?」に、伊豆「大室山」の「シャボテン公園」等が記憶にあります。

以前に、新宿から上野のまで歩いた時に、ワシントン会館を探したのですが、見つかりませんでした。

それと、「シャボテン公園」のHPを見たのですが、現在,回転展望台はありません。 

王子、飛鳥山、でいろいろと昔のことを思い出しました。



それにしてもです! どうしたのでしょうか「朝青龍」は?

昨日も「雅山」に負けました。立ち会いが変です。相手に合わせています。迷いがあります。

横綱はこれまで、勝てるという自信を持って勝負に挑んでいました。
しかし。今場所は勝たなければと気負って勝負に挑んでいます。精神的にかなり追い込まれています。

今日の相手は「普天王」です。これまでも朝青龍戦には自信を持っていました。高校時代はライバルで、その頃は普天王の方が分がよかったのです。

今日も危ないです。もし今日も負けるような事があると・・・・・・・休場かな?

私は朝青龍の味方です。ガンバレ! 朝青龍~!!

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ベンチャーズと渚ゆう子

2007年02月17日 | 昔の思い出
昨日の続きです。

「豚カツ屋」から「コンパ」です。
あの当時、流行った飲み屋の一種です。十人から二十人ぐらいが座れる丸いカウンターがあり、カウンターの中には女性がいて、酒やつまみをサービスする形式でした。

新橋駅の烏森口側にあったコンパによく通った思い出があります。向かいが「JR」の「高架下」にある「成人映画館」でした。映画館は当時のままです。


この辺りの雑居ビルだったと思います。雰囲気は当時とほとんど変わりませんね。その「コンパ」は、一階から五階まである大きな店で、女の子がスチュワーデスの制服を着ていました。

思い出します。一度、友達より少し先に行って、一人で飲んでいると、女の子が、注文していないのに、ピーナッツを一皿出してくれて『これはサービスねぇ』って言われたんだです。

その女性は「店のナンバーワン」で、最上階のフロアーに居たと思います。上の階から客を「詰めて」ていく「店の策略」だったのでしょう。

それで、「ピーナツ」なんですが、『これはきっと何かある!』と思って、それからは、その女の子のカウンターを専門に通ったけど、何にもありませんでした。


あの時、店内に盛んに流れていたのが、渚ゆう子の『京都の恋』でした。今でもこの歌を聴くと、新橋のコンパを思い出します。

『♪♪か~ぜの噂を信じて~・・・・・・』

 
「ベンチャーズ」ですねェ。
このおじさん達は、今で毎年日本で「稼いで」いますね。いつかテレビで「ラーメン」を「啜って」いる「ベンチャーズ」をみました。「好物」だそうです。頑張って下さい。


会社の帰りは、浜松町から乗ったり、新橋から乗ったり、その日の気分でした。会社からの距離は、浜松町の方が近いのですが、賑やかな飲食街に惹かれて、新橋コースが多かった気がします。

当時、このビルの前で、ほとんど「毎日」、和服姿で「踊る」男の人がいました。毎日のことなので、誰も「注目」して観ている人はいませんでした。それとなく視線を送るだけでした。

あの人は「何だった?」のでしょうね。少し「オカマぽい」雰囲気がありました。40前後の人でした。そうすると、現在は80前後?今頃、何処で、何をしているのでしょうか。


「酔っぱらった」「中年サラリーマン」が「インタビュー」される「名所」です。むかし「機関車」はこの位置では無かったような?気がする。

今回、駅前で「蒸気機関車」を観ていて、やっと気が付きました。

『♪汽笛一声♪新橋を・・・・・・』の歌にあるように、新橋駅は日本で最初に鉄道が開通した起点の駅でした。それで、「駅前」に「機関車」なんですね。知らなかった!


それに、驚きましたね「この景色」には、浜離宮側に「そびえ立つ」「高層ビル群」。凄い「圧迫感」です。「勝って」に「無秩序」に「林立」しています。

海からの「風」を遮る「お邪魔者」です。しかし、「これが」、「現在」の「日本」を「象徴」する、「文明」なのでしょう。

「文化」は何処に行ってしまったのでしょうか? そうだ!「ガード下」の「焼き鳥屋」の中に「ある」のかもしれません。。。。。。 



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四条河原町の雪駄とルイベと機械鳶

2007年02月05日 | 昔の思い出

雪駄はつま先を浅く入れ、指の真ん中あたりで引っ掛けるように履くのが『粋』な履き方と、聞いたことがありました。

以前、両国の国技館前で「場所入り」する「関取」が、雪駄を「粋」に履いているのを見た事があります。確かに「つま先」に「引っ掛け」ていました。



自分では一度も履いた事はないのですが、「雪駄」についての「思い出」があります。

それは、高校を卒業して「エレベーター」や「立体駐車場」の会社に入って直ぐの頃でした。この会社では「販売、設計、現場管理」が主で、製造と施工は「外注化」していました。

今でもそうなのですが、鉄骨組の大型の機械や装置の工事に携わる『機械鳶』という職種があります。

入社して一年ほどたった頃、大型の立体駐車場の工事で、機械鳶の人に知り合いました。彼はその当時、二十代の後半だったと思います。

ガッチリとした体格で、ヤクザ映画にでてきそうな雰囲気の口数の少ない、和服の似合いそうな人でした。左の二の腕に「彫り物」がありました。

何故か私とは気が合い、よく話しをしていました。
その人が独立して、故郷の京都に帰り、会社を起こしたのです。

四条河原町交差点近くの、河原町通りに面したビルの駐車場の工事で一緒に働いた時のことです。
 
東京の鉄工所で加工された鉄骨が、予定より大幅に到着が遅れ、現場ではやることがなく、「おしゃべり」をして待っている時、何故か雪駄の履き方の話しになりました。

彼の話では・・・・・・、

仕事をする時は、足に力をいれるため、鼻緒に深く指を入れる。このことから、反対に指を浅く入れることは、「仕事はしていない」ことを示すサインになった。

仕事をしていないのは『遊びに人』であり、遊び人は浅く指を入れて履くようになった。いつの時代でも、遊び人が流行を創り、遊び人の着こなしが『カッコイイ』と思われる。

それが粋な履き方として、一般の人達も真似するようになった・・・・・・。

そんな内容でした。彼の話では、東京で修行をしている頃に、鳶の親方から教わったと言っていました。

こんな話しをしながら、資材の到着を待っていたのです。いい時代でした。のんびりしていました。

そうだ! その時、はじめて「ルイベ」を食べたのです。
社長が出張で大阪に来て、京都の現場に立ち寄り、我々に夕食をご馳走してくれたのです。



不思議でした。凍った鮭を薄くスライスしたものです。旨かったです。
今回、「ルイベ」を調べてみたら、「凍った魚」を意味する「アイヌ語」でした。

私のなかでは、「京都」「四条河原町」「雪駄」「ルイベ」は繋がっているのです。

30年以上も昔の話しです。
今度、「刺身用サーモン」を「冷凍庫」に入れて「凍らして」食べてみるかな・・・・・・。おやすみ。。。。。。。 


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「ロシアケーキ」と「真っ赤なシロップ」

2007年01月20日 | 昔の思い出
最近になって、夏祭りの「ロシアケーキ」のこと、思い出しました。

「たった一回」だけの夏祭りの記憶です。私が東京の「板橋区」にいた頃の想い出です。板橋に居たのは「小学校の4年生」まででした。

お祭りは、御輿を担ぎ町内を練り歩くのですが、何ヶ所か「休憩所」があり、そこで「振る舞われ」たのです。

この時、「ロシアケーキ」を始めて知りました。ここまで書いてきて、いろいろな記憶が、「ロシアケーキ」と「繋がり」甦ってきました。

そうです!「マコロン」もこの時、始めて食べたのです。「ロシアケーキとマコロン」美味しかったと云うよりも、「珍しい」とか「不思議な」とか云う思いで、口にした気がします。それまで「洋菓子」を食べたことがなかったのです。

当時、お菓子と云えば、父親が買って来てくれた「餅菓子・・・・・・大福、吹雪、薄皮饅頭、鹿子、きんつば、素甘、等」か、10円玉を握って走って行った「駄菓子屋」のお菓子でした。中でも、イチゴ飴と甘納豆が好きでした。

「イチゴ飴」・・・・・・ビニール袋中に、イチゴの形をして、凧糸の付いた飴が沢山入っていて、中に大きいのが何個かあり、大きいのを狙って、袋の外に出ている糸を引っぱるのです。

「甘納豆」・・・・・・くじを引いて当たると、大きな袋、外れは小さな袋でした。この頃。いつの日か、大人になったら、甘納豆を好きなだけ買って、お腹いっぱい食べようと思っていました。


話しが少し逸れてしまった。

それで、「ロシアケーキ」と「マコロン」ですが、この写真が「ロシアケーキ」です。「クッキー」と同じようなものですね。

「マコロン」は今でも偶に目にしますし、あれから何度も口にしたことがあります。

しかし、「ロシアケーキ」はその時が、見るのも、聞くのも、食べるのも最初で最後でした。「ロシアケーキ」って見かけませんよね。

まぁ、クッキーと同じですから、あえて「ロシアケーキ」何て名乗る必要はないのでしょう。上の写真は「ネット」で見つけました。ネットのなかで売っていました。今でもあるのです。

夏祭りで振る舞ってくれた「休憩所」は、新しくできた「小さなお菓子工場」だったような・・・・・・「おぼろげ」な記憶があります。

「ロシアケーキ・マコロン」という名前も、その時に聞いたのか、それとも後になって、誰かに教えてもらったのかは「ハッキリ」しません。

昔は、「ロシア」という「名称」、言葉の「響き」は、「ロシア民謡」との「イメージ繋がり」で、「遠~い国」の「遠~い昔」の「長閑な大地」のイメージでした。

しかし、最近になって「ソビエト連邦」の「中心部」が「ロシア」と国名を「変更」してからは、「ロシア」という言葉の「響き」からは、「遠い・昔・長閑・大地」はイメージできなくなりました。

「ロシア民謡」も近頃は、何処からも聞こえて来ませんね。
私は一度だけ「歌声喫茶・・・・・・ロシア民謡が多く唄われていた」に行ったことがあります。

私達が「歌声喫茶」を知っている「最後の年代」なのでしょう。高校生の頃でした。池袋駅の近くだったと思います。


そうでした。夏祭りの話しでした。ロシアケーキ、マコロンに繋がって、もう一つ思い出しました。

「真っ赤」な「シロップ」です。いまでも「かき氷」にかける「あの」真っ赤なシロップ。あの頃の甘さは、「サッカリン」の甘さでした。

「真っ赤なシロップ」は、毎年「そば屋さん」の休憩所で振る舞われました。シロップは、下の所に「コック」の付いた「ブリキ」の「寸胴」に入っていました。

中には「氷り」が入っていて、取っ手の付いた「アルマイトのカップ」で飲むのです。夏祭りの「真っ赤なシロップ」・・・・・・甘くて、冷たい、想い出です。

そう。一度だけ、祭りの終わった午後に、友達と二人で「ザリガニ釣り」の帰り、「そば屋さん」の前を通りかかると、未だ「寸胴」が机の上に置かれ、「残って」いた「シロップ」を飲んだことがありました。

氷りは、夏の日差しで既に解け、「生ぬるく」て「クスリ臭い」味がした想い出があります。

私は、次の年の春に、バス停で「五つ六つ」離れた、新しい「団地」に引っ越しました。

ロシアケーキ、マコロン、真っ赤なシロップ、夏祭りの楽しい想い出です。
アルマイト、サッカリン、ロシア民謡。歌声喫茶・・・・・・懐かしいです。

お湯割りを飲みながら、「ロシア民謡」を聞きたいなァ~。  


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落語と「笑点」そして金馬の「居酒屋」

2006年12月04日 | 昔の思い出
私が、落語に出会ったのは、小学校の五年生の時でした。

ある日、夕食後に、父親が知り合いの家に車で出かけることになり、無理やり付いていった時のことです。当時は車は未だ珍しく、乗るのが嬉しく誇らしく思っていた頃です。

後年、母親から教えられたのですが、父親が出かけた目的は、友人と共同でやっていた、自動車修理工場の資金繰りの為だったそうです。
 
知り合いの家は、今は高島平団地になっている少し先の、赤塚の山の中で、当時はドングリ山と呼んでいた所です。子供の足で家から1時間ほどの距離です。

私は、暗い車内で一人ラジオを聞いて父親を待っていました。そのとき流れていたのが、居酒屋で、店の小僧と客とのやり取りを、面白おかしく演じた話しでした。

世の中に、こんな面白い物が有るんだと、興奮したのを今でもはっきりと憶えています。周りは山で、車や人も通らない真っ暗な車内、話しの情景が目に浮かび、落語を聴くにはいい条件でした。

それが三代目三遊亭金馬の十八番「居酒屋」と言う事が判ったのは、かなり後の事です。父親の修理工場はそれから間もなくして倒産しまた。


その後は、ラジオで落語を聞くようになり、一度だけ「学級会?」か何かで、話しの「まくら」の部分をやった事が「しょっぱい記憶」として残っています。

その後は、テレビ放送が始まり、「赤胴鈴之助、矢車剣之助、少年ジェット」を見るようになり、落語とはは暫く遠ざかりました。

「赤胴鈴之助」



「矢車剣之助」


「少年ジェット」

その後、20代になり落語に出会ったのは「笑点」でした。
最初の司会者が「立川談志」、「前田武彦」、「南伸介」と続き、「三遊亭円楽」に変わった頃から、少しずつ「笑点」は見なくなりました。円楽になってから明らかにつまらなくなりました。

しかし、その頃から、落語の「レコード」・「テープ」を買って聴くようになりました。レコードは金馬師匠の一枚だけで、残りはカセットです。

このテープも30代の後半頃から聴かなくなってしまいました。
そして、最近になって「笑点」をまた見るようになったのです。懐かしさと、昔の面白さが復活した気がするのです。

そうです。司会の「円楽」が居なくなったからです。
円楽が嫌いなのです。

86年に「円生」の直弟子の「円丈師匠」が出した、円生一門の内幕本「御乱心」を読んでから、私の「円楽嫌い」は確固たる「正しき」「確信」となりました。

それと、新メンバーの「春風亭昇太」は3年ほど前から、好きな落語家の一人でした。

「笑点」を楽しみにしています。 「昇太」ガンバレ! 


いまいち風邪が抜けない  早く寝ます 





 
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落とした15円 と コッペパン

2006年11月24日 | 昔の思い出
先日、配偶者と一緒に、私が生まれてから小学校4年生まで住んでいた町に行って来ました。

その時に、ある「出来事」を思い出したのです。


 
昔、私が住んでいた家は、東京の外れの町で、木造二階建ての集合住宅です。
当時「引き上げ者住宅」と呼ばれた公営住宅でした。木造二階建て、十所帯が一棟に暮らしていました。

そのような建物が十棟あり、私の住んでいたのは「六寮」(寮という呼称でした)の一階でした。六畳と四畳半の二間で、炊事場、洗濯場、トイレは共同です。もちろん風呂は無く、近所の銭湯でした。

両親は「引き揚げ者」ではなかったのですが、結婚したけれど二人で暮らす家が無く、知り合いの紹介で何とか入居できたのだと、後年母から聞いた憶えがあります。

その頃は日本中が貧乏でした。子供のケンカで、いじめられていた子が「オマエんところの家になァー! 米。貸してんだぞォー」と叫んで形勢が逆転する、そんな時代でした。
 
家を出て2時間ほどで到着しました。

昔の記憶を頼りに、暫く辺りを歩いてみました。少しずつ当時の風景が甦ってきました。消防署、お豆腐屋さん、駄菓子屋さん、酒屋さん、建て変えられてはいましたが、元の場所にあったのです。
消防署の「火の見櫓」は昔のままです。

住んでいた建物は、鉄筋コンクリート四階建てのアパートに変わっていましたが、建物の配置は当時のままのように思われました。

野球場があった向かいの公園に行ってみると、外野には芝生が張られ、夜間照明、ダックアウト、外周にはフェンスがあり、立派な設備の野球場になっていました。バックネットの土台部分のコンクリートだけは当時のままです。

バックネットの前で、バットを構えている当時の写真が、今もアルバムにあり、その写真の情景を思い浮かべながら、ぼんやりと辺りを眺めている時に「ある出来事」を思い出したのです・・・・・・・。

 
あの頃、母は縫い物をして生活費の足しにしていました。母が縫い終わった着物を届ける為、ひとり留守番する私に、昼食の「コッペパン代」として十五円を渡して出かけた日のことでした。

当時、児童数に対して教室数が不足し「二部授業」が行われ、その日は給食のない午後の授業の日でした。

私は、四寮に住んでいる同じクラスの「トモキ」と二人、公園のバックネットの前で昼になるまで遊んでいました。

昼近くなり、母に貰った十五円でマーガリンをつけた「コッペパン」を買おうと、ポケットを探ったのですが、十円玉も五円玉もいくら探しても見つかりません、トモキと二人でバックネットの前を散々探したのですが、見つかりませんでした。

トモキが呼んで来たのか、たまたま通りかかったのか、記憶は定かではないのですが、トモキの「お母さん」も加わり一緒に探し始めました。少し時間が経って、トモキのお母さんが「しんちゃんあったよ!」と叫び、十五円を渡してくれたのです。

その思い出話しを妻にしているとき、ハッとしたのです。

『もしかして。あの「十五円」はトモキのお母さんが……』

二人で土を手ではらい除けたりして、散々探しても見つからなかったのに、何であんなに簡単に見つける事が出来たのか。

あの十五円は、私が落とした十五円ではなく、トモキのお母さんが、見つけたふりをして私にくれたのでは・・・・・・。
 
『お昼を食べずに、お腹を空かして学校に行かせるのは可哀想だし。でも、あげると受け取りにくいだろから・・・・・・』

トモキのお母さんは、気遣って「お芝居」をしたのではないか。


その事を妻に話すと、
「そうかもしれないねェ」と云ってくれました。

私は「そうに違いない」との思いを強くしました。

今日ここに来て、トモキの「お母さん」の優しさを「45年後」に受け取り、温かい気持ちになりました。

『トモキのお母さん、ありがとう』 心の中で呟きました。


「久ぶりにコッペパンにマーガリンを付けて食べたいネェ」と、妻と話しながら公園を後にしたのです・・・・・・。


トモキは、その年の夏休みに千葉県に引っ越して行き、私も翌年の春に少し離れた所にできた、新しい団地に引っ越しました。

「トモキ」の「お母さん」はきっと、いまでも元気に暮らしていると想います。

 
 い~い話しです。    


     今夜はきっといい夢が見られそう・・・・・・ 
   
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浅草橋立体駐車場の「桂文楽」

2006年11月12日 | 昔の思い出

以前、東京に行ったときのことです。

上野駅で降り、墨田川を目指し浅草橋に向かいました。
この辺りは、何回か歩いたことがあります。その時は黒塀に囲まれた料理屋、柳橋から望む両国橋の写真撮ってきました。



この時、浅草橋から川沿いに出る途中で、懐かしい建物を発見したのです。建物の裏は隅田川で住所は柳橋一丁目です。

入り口の『浅草橋産業会館』の文字を見て、三十七年前の記憶が蘇ったのです。

高校を卒業してすぐに入った会社での出来事です。その会社が作った立体駐車場がここにあるのです。

入社して間もなくの頃、先輩社員に連れられて、定期点検に来たときのことです。
駐車場入り口にある受付の部屋で、先輩が駐車場の操作盤を点検しているのを、傍らで見学していると、馴染み客と駐車場の係り員との世間話が耳に入ったのです。

その係り員の、切れのあるしゃべり方、言葉使い、声の響きが耳に心地よかったのです。
これが『江戸っ子の職人言葉』なのかと思いました。
名人の落語家が江戸っ子の職人を演じているように聞こえたのです。

その人は、五十代の後半で、頭は角刈り? だった気が? 雪駄履きだったのは間違いありません。つま先を浅く入れ、踵とが雪駄からはみ出ていたのを不思議に思った記憶があるのです。

駐車場の点検作業が終わったのが昼時だったので、雪駄履きの粋な係りの人に、近くに食事をする場所はないか聞いてみたのです。

その人が、

 『そこの路地を右に入った先に、小料理屋があるから、昼間は焼き魚とか刺身で、安く喰わしてくれるから、行ってみなよ、美人の女将さんがやっているから』

・・・・・・そんな内容でした。口調がとても「粋」でかっこよかったのです。
 
言われた店に行ってみました。店はカウンターとテーブル席が幾つかある小さな店で、和服姿の女将が一人でやっていました。
その時はかなりおばさんに見えたのですが、いま思うと四十代の前半位だったのでしょう。

髪型、化粧、着こなし、立ち振る舞い、言葉使い、すべてがこれまで見てきた女性とは違っていました。
さすが柳橋と思いました。きっと芸者として、最近までお座敷に出ていた人だと、かってに思い込んだのです。

今まで経験したことのない『花柳界』という『おとなの世界』の妖しい匂いを、ほんの一時、少しだけ嗅いだ気がしたのです。

入り口には「盛り塩」があり、店内は、綺麗に片づけられ、掃除 も行き届き、『小粋』な落ち着いた色調だった気がします。

作業服姿の自分が場違いのようで、落ち着かなかった記憶があります。
何を食べたのか、味はどうだったのか、他に客は居たのか、そういうことは思い出せません。

いまにして思うと、その時が、花柳界に一番接近したときでした。それ以来、今日までまったく縁がありません……。
 
もしかして、当時の店が有るかもしれないと思い、辺りを歩いたのですが、それらしい店は見つかりませんでした。

あの時の、駐車場にいた「おじさん」が、八代目桂文楽のような人だった気がしてきました。記憶の中に、想像が入り込んでしまったかもしれませんが・・・・・・。

落語が聞きたくなりました・・・・・・・・「黒門町の師匠」の話が。
ここはやっぱり、「愛宕山」ですかね。

テープを探そう・・・・・・・・。

コメント (3)
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