歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

原節子さん日独合作映画『新しき土』で "日独防共協定" で第二次世界大戦 !

2024年01月25日 | 映画の話し

はい、暫くぶりの更新です。

世の中は、自民党の、パー券で、不記載で、裏金で、政治資金規正法違反で、大山鳴動鼠一匹で、幕引きで、まあ、予想通りの展開でした。

それにしても、東京地検特捜は100人の応援体制で、安部派・二階派事務所のがさ入れで、幹部を任意で取り調べで、逮捕起訴は不可避! なんて、マスコミを使っての世論操作。

しかし、結果は、見たことも、聞いたことも無い、国会議員が一名逮捕で、残り数名の議員、会計責任者の、略式とか、在宅とかの起訴で捜査は終結。

この騒ぎは、やっぱり、単なる、財務省、検察庁の安倍派への"意趣返し"だったのでしょう。それと、政治資金規正法の問題点の国民への周知ですか。

ジャニーズで、吉本で、世の中の流れが変わり、次は自民党で、その筋の頂点が、次々と崩壊? と思ったりして、でも、しかし、政治の流を変えるのは、あたり前ですが、主権者の国民です、東京地検特捜部ではありません。

それにしても、ジャニーズ、吉本、自民党安倍派パー券騒ぎ、能登半島地震と、いろいろ起きる今日この頃です。

世界は、ウクライナ・ロシア戦争で、パレスチナ・イスラエル戦争で、台湾海峡の緊張で、EU諸国も日本も、防衛予算? 戦争予算? の倍増で、第三次世界大戦の序章 ? 新しい戦前 ?

互いに危機感を煽り、不安感を煽り、軍事費を増大し、そして、そのことが、危機感・不安感はさらに拡大し、それにより軍事費も、さらに、さらに増加し、脅威の拡大サイクルが回り始め、互いに、その緊張感に耐え切れず、どちらかともなく、戦端が開かれ、いつか来た破滅への道・・・。

年明け早々ですので、明るく、にこやかにしていれば良いのですが、とても、とても、暗いお話になりました。

それで、前回、原節子さんに触れたのですが、彼女は大正9年 (1920年)  6月17日 生まれで、本名は会田昌江。

1935年に、義兄(姉の旦那)熊谷久虎監督の紹介で、日活多摩川撮影所に満年齢14歳(満年齢)で入社。同年『ためらうなかれ若人よ』で映画デビュー。この時の役名が「節子」

1936年第7回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツの監督の目にとまり、初の日独合作 "プロバガンダ" 映画『新しき土』(アーノルド・ファンク監督)のヒロイン役に抜擢される。

このとき15歳です。この写真からは、とても、とても、15歳には見えません。写真は、朝日文庫「原節子あるがままに生きて」貴田 庄 著 210年第10刷発行より転載

この年、ドイツはヒトラー政権で、日独防共協定が締結されたのです。そんなきな臭い時代に原節子は歴史に登場したのでした。

原節子は、翌年、映画宣伝のためシベリア鉄道を使ってドイツを訪問。ヒトラー、ナチ党幹部の高評価を受けて、ドイツ各地で大歓迎されたようです。

因みに、この時代の前後を調べると、

1932年、満州国設立、上海事変、5.15事件

1933年、国際連盟脱退

1934年、日本の傀儡、博儀が満州国皇帝に即位

1935年、天皇機関説問題、国体明徴声明

1936年、2.26事件、日独防共協定調印

1937年、盧溝橋事件で日中戦争勃発

1938年、国家総動員法が成立

1939年、ドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦

1940年、日本軍、北部仏印に武力侵攻。日独伊三国軍事同盟に調印

1941年、真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦

1945年、敗戦

と、戦争の時代でした。

戦後の原節子の主な出演作品、私的には、成瀬己喜男監督作品『めし』が原節子の代表作品だと思っています。

原節子は、小津監督の作品、作風は、彼女の考え方とは、相容れない面があったっような事を語っていたようです。

    1949年 『青い山脈』   今井正監督   

    1949年 『晩春』     小津安二郎監督 

    1951年 『麦秋』     小津安二郎監督 

   ※1951年 『めし』     成瀬己喜男監督 

    1953年 『東京物語』   小津安二郎 監督  

    1957年 『東京暮色』   小津安二郎監督 

    1960年 『秋日和』    小津安二郎監督 

    1961年 『小早川家の秋』 小津安二郎監督 

1962年『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』稲垣浩監督の作品での、大石内蔵助の妻 "りく" 役での出演が、最後の作品となります。東宝発足30年の記念映画で、オールスターキャストの顔見世作品で、端役でした。

15歳でデビューして、42歳で引退。27年間で出演本数108本でした。戦中には戦意高揚映画に多数出演しています。

日本中が、鬼畜米英で、勝った! 勝った! で日の丸の小旗を打ち振って、提灯行列でで、戦争万歳の時代でしたからね。

敗戦間際まで、戦争は遠い外地での出来事で、まさか、自分の頭の上から、機銃掃射や、爆弾や、焼夷弾が降ってきて、家は吹き飛び焼かれ、食うや食わず、逃げ惑うとは、夢にも思っていなかったのです。  

それで、引退後は、北鎌倉の姉夫婦の家で暮らしていました。

門には熊谷の表札。

手前が熊谷家の建物、奥の別棟に原節子さんが暮らしていました。これらの写真は10年前に私が撮ったものです。この時、たぶん、原節子さんは、いや、会田昌江さんは、別棟に居たと思われます。

本日は、前回に続いて原節子さんの話となりました。

戦前の作品には興味がなかったのですが、原節子がスクリーンに登場した時代が、どんな時代であったか、それなりに興味が湧いたので調べたりしてみました。

 

それでは、また。

 

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演歌の女王八代亜紀は邪馬台国の女王卑弥呼の生まれ変わり? そして徒然草で ! 原節子 !

2024年01月10日 | 世間話し

今年初めての更新です。

この間は、 世間では、クリスマスで、年の瀬で、お正月でした。

こちらは、とても、とても、代り映えしない日々を送っています。

それと、5日には74歳となり、後期高齢者へあと一歩。

それにしても、1月1日の能登半島地震には驚きました。

誰しもが、いつの日か、災害当事者になる、そんな災害列島に暮らす現実を、年の初めに、思い知らされるとは、何という年明け。

それにしても、"災害は忘れた頃にやって来る" は、いつの頃からか死語に?  天変地異が多発する日本列島、地殻変動の活動期に突入した ?

我が日本列島では、"気候変動" よりも "地殻変動" が、最大の脅威だと、思ったりしています。

能登半島地震、そして、ほぼ同じ年齢の八代亜紀さんの死亡報道。去年から膠原病治療のため活動休止は知りませんでした。

『人は、ただ、無常の、身に迫りぬる事を、心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり』・・・徒然草第四十九段

に想いを馳せる今日この頃です。

この世には永遠不変はなく、人の命もかならず死が訪れる訳ですが、そのことを常に忘れずに生きている方は、とても、とても、限られると思います。

まあ、私のような、フツウの人は、死を意識したとしても、焼酎をかっ食らって酔っ払い、寝床に潜り込むだけです。

『徒然草』の有名な序段、

『つれづれなるまゝに、日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ』

「つれづれなるままに」とか、「心にうつりゆくよしなごと」とか、「そこはかとなく」とか、「あやしうこそ」とか、言葉の響きが、とても、とても、心地よいです。

うん。私のブログも、内容は別に置いといて、それなりに、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きなぐっているのでした。

『徒然草』は、室町時代、権力闘争の渦中で、宮廷に仕えていた"吉田兼好"が記した「君主論」との説もあるようです。

六百有余年の時が流れても、人の世は、人の思いは、それほど変わらないようです。

現在、権力闘争の渦中にいる、岸田文雄殿、『徒然草』をひもといて、"来し方行く末に想いを馳せては" 如何ですか?  もしかして、巷に流れる3月の訪米後の退陣は、それなりに決断されたのでしょうか?

それで、話は八代亜紀さん戻り、"魏志倭人伝" なのです。私は邪馬台国九州説で、その中でも、熊本説なのです。

熊本出身の八代亜紀さんの、佇まいに、容姿に、歌声に、妖しさに、女王"卑弥呼"を感じていました。特に容姿は、妖しい巫女そのものでした。

古代、邪馬台国の女王、鬼道に仕え、大衆を惑わす卑弥呼と、現代、演歌の女王八代亜紀も、鬼道に仕え? 大衆を惑わす?  千数百年の時を越えて、熊本で繫がっているのです。

ここまで、年の初めの驚きの出来事を綴りましたが、驚きついでに、三つ目の驚きなのです。

それで私、去年の4月ごろ? から新聞の購読を止めたのですが、それまで、1時半から2時半後に目を覚まし、朝刊を1時間ほど読み、また眠る習慣があったのです。

新聞購読を止めてからもその習慣は続いています。新聞の代わりに、本棚から古い本を引っ張り出し読むことにしているのです。それで、今読んでいる本は『映画で世界を愛せるか』です。著者 佐藤忠男 岩波新書 1989年1月29日 第一刷発行

そのなかで、驚きの文章を発見。

『西洋人の映画評論家で原節子を美人と思うかと聞いて、"イエス" と答えてくれる人物に私はまだ会ったことがないのである。はっきり"美人だとは思わない" と云うか、"美人ではなく家庭的だから小津作品にはぴったりだ。だから好き" などと言い、なかには "小津映画は完璧だが、主役の女優に美人を起用しないことが不思議だ"と言う、とんでもない事を抜かす奴までいるのである』

新しい西洋的美人としての、日本人の評価と、西洋からの評価とは、これほどまでに違っているの? と云うか、違っていたの ?

西洋人のこのような原節子に対する評価は、これまで、一度も、目にし、耳にしたことがありませんでした。

その筋では、それなりに知られていた話で、しかし、国内での原節子への、小津作品への評価を考え、敢えて、その筋では、タブーとしてあまり語られてこなかった?

まあ、美人の評価は、それなりに、国により、時代により、変化するものですから、そんなものだと、納得する次第。

はい、年の初めの、三つの驚きでした。

今年も、よろしくお願いします。

 

それでは、また。

 

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