歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

つくば「宝鏡山」で「遭難」!?

2007年04月30日 | つくば市の風景
筑波山に連なる「端っこ」の山、「宝鏡山」に登って来ました。標高461㍍です。

北条池の側にある「運動公園」の駐車場に車を置いて、9時少し過ぎに「お茶と弁当」を背負い出発。案内書では「ハイキング」とありますが、私にとっては「立派」な「登山」です。

これが「宝鏡山」です。写真中央に「チョコン」と出っ張って見えるのが「頂上」の電波塔です。あそこまで登るのです。


村外れの「火の見櫓」です。長閑でーす! 田植えの準備は始まっています。


最初の急勾配の「坂道」を登り一回目の休憩です。スタート直後は「キツイ」です。身体が「慣れて」いません。ここら辺りまでは「舗装」されていて、「軽トラ」ならば上がってこれます。筑波山が見えます。


上って来た方向を見ながらお茶を一服。ウグイスが「透き通った」鳴き声を聞かせてくれました。


休憩後、やっと「山道」らしくなってきました。


徐々に「視界」が木立に遮られ、「暗く」なってきました。写真よりずっと暗かったです。


ここら辺まで来たら「何か変?」と思ったのですが、やっと「標識」を発見、当然、「山頂」を示す方向に行きました。


この判断が「失敗」だったのです。道は狭くなり、獣の道状態で、視界は悪く、薄暗く、足下は「じめじめ状態」で、道らしい道が無いのです。

頭に「遭難」の二文字が浮かびました。

少し落ち着いて、辺りの様子を観察すると、「赤いリボン」が目の高さに巻き付けられた「木」を発見しました。

赤いリボンは10㍍程の間隔を置いて、木に巻き付けられていました。

『うん!これはコースを示す「標識」だ!、間違いない!助かった!』

と思いました。標高461㍍の山で中年男性が「遭難」なんて「新聞記事」は「みっともない」ですからね。

しかし、ホントに「凄い道」でした。リボンの標識が無ければ、「いまだに」山の中を彷徨っていた可能性があります。

この間は「必死」で「写真」など撮っている状況では有りませんでした。

帰宅後に落ち着いてコースを確認したのですが、「新寺コース」を歩いていたつもりが、「山口コース2」を歩き、それも途中で「脇道」に入り、「遭難」しかけて「赤いリボン」を辿り、「山口コース1」の途中に出たのでした。

コースを書いた「案内パンフレット」を持っていったのですが、自分が今何処にいるのか「さっぱり」判りませんでした。町中をブラブラするのとは「大違い」です。


「山口コース1」に出てからは「楽チン気分」で歩く事が出来ました。途中で3組みのグループとすれ違い、挨拶など交わし、やっと『これはハイキング何だ!』と思える落ち着きを取り戻しました。よかった!

山頂に到着。時間は10時半過ぎです。


お腹が空いたので、時間はかなり早いのですが「昼食タイム」にしました。


この石垣の上で、「おにぎり」を食べました。美味しかったです。


電波塔です。


宝鏡山「踏破」の記念撮影。食後は一時間ほど休憩、辺りの景色を眺めたり、「寝コロがって」空を眺め、風の音など聞いて、ボンヤリと過ごしました。


下山は「楽チン」な「ハイキングコース」でした。「小田城コース」から「山口コース2」に入り、途中から「新寺コース」でした。

ツツジが咲いてます。蛇が道を横切ったのですが、カメラが間に合いませんでした。


「アザミ」が奇麗でした。


無事「駐車場」に到着。一時過ぎでした。


靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、素足になって「風」を当ててやりました。足の指の間を通り抜ける風が気持ちいいです。

駐車場の回りの「新緑」が「眩しかった」です。

「遭難」しなくて良かった!(笑)

皆さん! ハイキングだと「侮るなかれ」気を付けて下さい。

「筑波連峰 宝鏡山」に、是非お出かけ下さい。


 ______________


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いいです!つくば「万博記念公園」

2007年04月29日 | つくば市の風景
「万博公園」でウォーキングをして来ました。正式には「科学万博記念公園」という名称です。

『つくばエクスプレス』・・・ この名前がヒジョーに云い難い、略称TXも知らない人には何の事やら判らない・・・の終点「二つ手前」にあり「万博記念公園駅」があります。

しかしです。公園に行くつもりで「この駅」で降りたら「大変」です、歩いて30分以上はかかりますのでご注意下さい。

それで公園なのですが、時々行って運動不足の解消と「東京歩き」の「訓練」等をしています。

公園を一周するコースは、約15分程度で「普段」は「3周」して帰って来ます。同じコースは3周が限度です、飽きてきます。

昨日、久ぶりに行って来ました、新緑と花が「綺麗」でしたのでご紹介いたします。コースに従って順番に見ていきたいと思います。

この銀杏並木の「右側」が駐車場(当然無料)です。秋は「黄金色」に染まります、この季節「新緑」もいいです。左側が「中央広場」になります。


広場側から見た銀杏並木です。この広場がホントに「広く」て「気持ちい~い!」です。空に浮かんだ「白い雲」いいです!


広場を過ぎた処の「休憩ポイント」です。「藤の花」が咲いてます。


藤のアップです。桜が散ったと思ったら「もう」藤が咲き始めました。「藤紫」・・・文字も、言葉の響きも、「綺麗」です。


藤棚を正面に見て右に曲がります、緩やかな下り坂を道なりに左に曲がると、一気に視界が広がります。この開放感が気に入っています。


左手の窪地に池が見えてきます。


「スミレ」が群生していました。可愛くて、奇麗で、思わず腹這いになって撮しました。


暫く眼下に池を見ながらの直線コースです。


直線コースが終わり、緩やかな下りを左にカーブすると「林」の中に入って行きます。ここは、「夏」になると木陰になり「ひんやり」として気持ちいいです。


もう暫くすると「アヤメ」が咲く「池」を左手奥に見て、


コースは右に曲がり緩やかな上りになります。


上がると、メインストリートに接した広場にでます。「藤棚」ではなく「藤のパイプ立て?」、広い通りの反対側は「民間研究所」の「団地」になっています。


ツツジの鮮やかな色に見せられて、一旦公園の外に出ました。この辺りの研究所は敷地が広く、公園のようです。

白い研究棟をバックに、赤いツツジ、薄紅色のハナミズキ、鮮やかでした。

これで「万博記念公園」を一周しました。なかなか「イイ公園」です、広いですから、人はあまり目立ちません、ゆっくり楽しめます。

連休に是非お出で下さい。

それでは宜しくね!____________



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正蔵師匠と分相応で地下室の空祝儀袋で所得隠蔽で追徴課税4千5百万円でドウモスイマセン!

2007年04月28日 | 世間話し

師匠狙われましたネ! 一罰百戒です。

レポーターに追いかけられ「言い訳」、「釈明」、「弁解」、可哀想でした。所得隠しですからね。隠したのは約1億2000万円だそうです。

ここは一発、『芸人の祝儀から税金を盗るな!』と云いたかったでしょうね。これまでご祝儀に課税されることはなかった筈です。



追徴税額は「重加算税」を含め約4500万円ですから、重加算税ですよ!やり方が悪質と国税局に判断されたわけです。

自宅の「地下室」から空の祝儀袋が大量に見つかったそうです。これが所得の「隠蔽」と判断されたようです。

普通、頂いた祝儀の額は記録しますよね、記録する変わりに、空の祝儀袋を「保管」していたのでしょう。「保管」が「隠蔽」とされた訳です。

あの襲名披露の「お練り」は派手でした、やり過ぎでした。同業者からも恨まれますし、国税からは狙われます。

まさか課税」されるとは夢にも思っていなかったのでしょう。芸人の世界はまだバブル景気が続いているようです。



普通、貰った祝儀の金額は記録しておきますよね。今後、相手に祝儀を出す機会がありますから、その際は頂いた額に見合った金額を包まなければいけませんから、記録は必要です。記録の変わりに「空き袋」を保管していたのでしょう。

保管場所が地下というのがいけません、疑われます。ここはひとつ床の間の金庫がよかったです。然るべき物は然るべき所に保管すべきです。

保管場所が地下室でなければ、重加算税はとられなかった?のにね。想定外だったようです。

それにしても申告漏れが「1億2000万円」ですから、申告額はその数倍なんでしょう。落語家も「イイ商売」になったものです。

芸人のご祝儀の額として、常識を遙かに越えていた?のです。彼の一ヶ月の小遣いが「300万円」だそうです。以前テレビで本人の口から聞いたことがあります。

庶民の日常を語る噺家の暮らしぶりは、庶民の日常とはまったく異なるようです。

億単位の収入は一部の人気噺家だけに限られるようですが、大企業の幹部クラスの収入では「普通」にあるそうです。

噺家は「格差拡大社会」で頑張っているようです。まぁ兎に角、他人の懐具合の詮索はこれくらいして、問題の本質にキビシク迫ります。

問題なのは、「能力」「努力」の差以上に、結果としての所得の差が大き過ぎる事です。

「数十分」の話しをして「数十万」のギャラをとる人と、8時間以上汗水流して働いても「数千円」にしかならない人がいるのです。

所得の差を、個人の能力や努力の問題として放置していると、いつか危険な世の中になりそうな気がしています。

それで? 何ですかねェ?「道徳」を正規の教科に格上げする話しが出ています・・・・・・、そんな気がしてきました。

『人はそれぞれに、己の分を弁え、分に見合った暮らしをしなさい。人を羨んだり、憎んだり、妬んだりしてはいけません』

何て、教育がされるのでしょうか?

衣食が「足りなくなりそう」なので、その前に「礼節」を植え付ける必要に迫られたのでしょうか?

仕組みの変えるよりも「意識」を変えて対応していく?

団塊世代は、美味しい処を食い逃げした思われそうです。団塊世代はこれから「いろいろ」な意味で狙われそうです。

私は団塊世代より数年遅れで生まれてきました。食い逃げはしていないつもりですが、『大丈夫かな?』(何が?)、

分相応の暮らし方って、有る意味で楽ですからね。有る意味が「ビミョー」ですけれど・・・・・・。

兎に角です、これからは「いろいろな意味と方向」で「分相応」が求められそうです。そんな気がします。

分相応が地球を救う!? 

それでは久ぶりに、おやすみなさいで終わります・・・

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「立石シリーズ」最終回は「高砂」です

2007年04月27日 | 東京の風景
立石シリーズの「おまけ」の最後です。


「青砥」ではなく、「青戸」から「高砂」へ向かいました。
この手のデザインは「流行り」のようですね。最近、よく見かけます。

「ワイャー」吊り下げ方式で、いかにも「斬新」で「スッキリ」として、「機能」第一主義と云った感じです。専門的には「斜張橋」と云うそうです。



そうでした、紹介を忘れました。この橋は「高砂橋」で平成15年3月の完成です。新しいのです。やっぱりこの手の橋は「物足りない」です「好き」になれません。


橋を渡ると、JRの引き込み線があり、電気機関車が貨車を引いて走って来ました。この線は「常磐線」の「金町」と「総武線」の「新小岩」を結ぶ貨物専用線です。


単線を走る「貨物列車」、通り過ぎるまで眺めてしまいました。貨物列車には「哀愁」があります。「列車」が「歌」のテーマになったのは「遠~い昔」のことです。


またも「発見」しました。いました「移動豆腐販売車」です。ホントによく見かけるようになりました。今回は「お兄さん」です。


そっと見ていたのですが、どうも「初心者」のようで、動きが「ぎこちない」のです。辺りを見回す「視線」に「落ち着き」がありません。恥ずかしいようです。

落語「唐茄子屋政談」の、勘当されて、しかたなく「唐茄子売り」をしている「若旦那」の様にみえました。幟には「気合い豆腐」とありました。

『ガンバレ!若造!気合いだぁ~!』と、小さく「呟き」ました。


高砂駅近くの「お煎餅屋」さん。「はるすけ」いい名前です。気に入りました。



高砂駅に到着しました。

迷いました。このまま「柴又」を通り、金町まで歩こうか?それともここから電車に乗るか? 先ずは兎に角、駅周辺を「ぶらぶら」することで結論を先に延ばしました。

居酒屋のメニューです。下町価格になっています。


いいです。この横丁の「立ち喰い」


「元」は「パン屋」だった「製麺所」。面白いです! 「麺からパン」ではなく、「パンから麺」への変遷は「嬉しい」です。下町情緒です。


オゥ!何と「トリスバー」と思ったら「トリス酒場」です。


「ぶらぶら」していると、だんだん家に帰りたくなりました疲れてきました。高砂から電車に乗る事にしました。

家に居ると「何処か」を「彷徨い」たくなり、「彷徨って」いると家に「帰り」たくなるのです。風呂に入り一杯飲みたくなるのです。

さぁ!早く帰ろう!

先頭車両に乗りました。運転席を見るのが好きです。しかし、ドアノブに架けられた「傘」は誰の?


「柴又」を過ぎ、金町までの「直線」です。この辺り「浅丘ルリ子」が「タクシー」に乗るシーンがありました。「ハイビスカスの花」だっけ?


金町駅に到着です。


JRの金町駅に向かいます。


金町駅のホーム。電車が入ってきました。
今回の「立石シリーズ」は「このホーム」から始まりました。最後は「このホーム」で終わります。

おまけを含めて「16回」でした。歩いてきたのは4月12日です。今日はもう27日です。「いろいろ」あって面白かったです。

今回の「一定地域ぐるぐる方式」は成功でした。そろそろ何処に行きたくなりました。「ゴールデンウィーク」空いているのは都内です。

それでは。これからも宜しくネ・・・・・・・
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町名「青戸?」で、駅名「青砥?」どっちなんだ!京成電鉄と葛飾区と東京都の地名論争は如何に?

2007年04月26日 | 東京の風景

「立石シリーズ」の「おまけ」です。

「青砥」は「青砥」で、すべて「青砥」と思っていました。今回、始めて気が付きました。

町名は「青戸」で、


京成の駅名は「青砥」だったのです。


これって以前に書いた、JRの「尾久駅」が「おく」と濁らず、町名の「尾久」は「おぐ」と濁る、あれと「ちょっと似て」います。

『ナゼ?何だろう! ドウシテ?何だろう!』と、大調査を敢行しました。先ずは、「PC」の所から、3歩ほど離れた所にある「本箱」を「捜索」しました。

捜索を開始して3分ほどで発見! 『東京地名考下・・・朝日新聞社』。1986年に発行された文庫本です。

ありました、85ページに「青戸」が、冒頭の文章は「いきなり」、「葛飾区史」の引用で始まりました。 


   ------ 引 用 開 始 ------


地名は、古今を通じて青戸である。京成電鉄の駅名・青砥の文字は「むかしから公称として使われたことは一度もない」と『葛飾区史』も念を押す。

「村名の起こりは青砥左衛門の城跡に御座候」と青戸村名主が慶応四年(1868年)に記しているように、鎌倉幕府の名判官・青砥藤綱が晩年をこの地で過ごしたと地元で信じられていた。

ー中略ー

青戸=青砥説は、地名の類似から、また葛西城を藤綱の居宅跡と誤り伝えたことから生じたらしく、いまだに混乱があるそうだ。

戸は津の転訛で、大昔の船着き場の意味。この地も古利根川の沿岸にあたり、奥戸、松戸、今戸と同じく地形から生じた古い地名である。


   ------ 引 用 終 了 ------

面白いですね、もしかして、京成の駅名を決める時に「一悶着」あったような気がします。

青砥藤綱は「名判官」として「人気」があったらしく、「青戸」の住民は、読みとして「同じ」なので、人気者と地元を関連付けたかったのでしょう。

史実に基づかぬ「青砥」説を主張する地元民に対して、歴史的に正しい「青戸」説を主張する役場との「熾烈」な「闘い」があり、住民側が勝利して「青砥駅」が誕生したのかも?知れません。

青砥駅が開設されたのは昭和3年(1928年)のことです。区は『むかしから公称として使われたことは一度もない』と「怒って」いる様子です。

しかしです。「公称」として、その後「青砥」が使われてしまった事実を! 今回、わたくしは発見しました。(誰でも知ってるぞ!)


「青戸」を通る、環状七号線に架かる橋は「青砥橋」なのです。この時も「第二次青戸・青砥戦争」が「勃発」したのかも?知れません。

東京オリンピックが開催された1964年に、※環七のこの区間が開通しているので、青砥橋が架けられたのはこの頃です。この時も、「青砥」説が勝利しました?
※環七のこの区間の開通は1985年で1964年は誤りでした・・・2010年11月8日訂正

たぶん普通の東京都民は、私のように「青砥」は「青砥」と思っている筈です。「青戸」の町民は別ですけどね。

きっと、この橋の名前を決めた時は、何も考えることも、迷うことも「無く」、青砥橋に決まってしまった気もします。

葛飾区はその時に 歴史の「改竄だ!」と「抗議」しなかったのでしょうか?「青砥藤綱」の「誤認」を含めて、「歴史」となってしまったようです。

上の青砥橋の写真ですが、まさしく、青戸の「戸」は「津」が転訛したものを「証明」するように、今でも「漁船」が係留されています。

青戸は「やっぱり」船着き場なのです。ここで敢えて「青砥橋」は「青戸橋」と主張したいと思います。

「駅名」については、「青砥」のままで、「まぁ。いいか」と思うのであります。


「青砥・青戸」も「いろいろ」あります。「立石シリーズ」の「おまけ」でした。

明日も「おまけ」の可能性があります。


それでは、また明日・・・・・・

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「葛飾シンフォニーヒルズ」と「なぎら健壱」のチラシ

2007年04月25日 | 東京の風景
「立石シリーズ」も今日が最終回になります。

今回は立石の端っこにある「葛飾シンフォニーヒルズ」です。
何となく「そんな名前」の「場所」があったような気がする、その程度の存在でした。

ビックリしました!こんな「立派」な建物が「立石」にあるのです。


建物側だけを眺めると、「ここは何処?」って思います。「六本木ヒルズ」の隣にあっても、「うん!そうだろう」と納得出来てしまいます。

しかし、ここは「葛飾区立石六丁目33番1号」なんですね。周囲の風景から「完全」に浮いています。


この「銅像」は 「Mozart」です。「モーツァルト」と表記しないのが凄いです。 何故ここに「Wolfgang Amadeus Mozart」なのでしょうか?

奥戸橋の「ペスタロッチの碑」といい、「何?・・・。???」となるとこが「葛飾立石」なのです。

二人とも同時代で国がお隣ですし、学者と音楽家と近い関係なので面識があったりしてね。


モーツァルトの視線の先にある、「洋食・中華」が食べられる「食堂」です。洋食と中華の組み合わせ「下町の風情」が「漂い」ます。モーツァルトもどちらにするか「迷って」いることでしょう。


建物の周囲に立つ銅像です。



この銅像達、「軽やか」で「素敵」です。楽器を奏でる音が「耳」に伝わってくるようです。

その中で、「タンバリン」の女性が「一番」気に入りました。活き活きとした動きのある「ポーズ」で、台座から「飛び出し」て来そうです。

「シンフォニーヒルズ」も、長い年月を経て、いつの日か周囲の風景にとけ込むことでしょう。いろいろあります。

公演予定が「掲示」された処に、「ウィーン少年合唱団」の『ポスター』に混じって、葛飾区育ちの「フォークシンガー」「なぎら健壱」の『チラシ』が貼ってありました。

よかったです!「立石」。
一カ所を集中して歩く方式は「成功」しました。立石にはいろいろありました。
12日から25日の今日まで、14回のシリーズを終わります。

ありがとう御座いました。 

さてと。明日からは・・・・・・何を書くんだ?


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立石「證願寺」は「ジェラシックパーク寺」だ!

2007年04月24日 | 東京の風景
まだ続いている「立石シリーズ」です。

今回は、立石駅周辺から離れ青砥方面に向かいました。途中、路地の奥に見えた「ダンススタジオ」の看板です。


何たって「シュガー」です! 「シュガー朝子」のダンススタジオ「赤いくつ」です。一瞬立ち止まりましたね。

「シュガー」は「砂糖」で、「佐藤」さん何でしょうね。「佐藤朝子」よりも「シュガー朝子」、この方が「洒落ている」と思ったのでしょう。

「朝子さん」は少なくとも「50代以上」のご婦人と思われます。「京成立石」に相応しい、下町風情溢れる「洒落た」名前のダンススタジオです。


こちらは、路地を彩る下町風情溢れる「ガーデニング」です。


兎に角、あらゆるものが「植木鉢」として有効利用されています。狭い空間を「効率的」に利用した、立体的デザインになっています。緑はイイです。


この建物、遠くからでも「目立ち」ました。青い大海原を泳ぐ「クジラ」の親子です。

何の建物かと思いました。近くに来て「驚き」ました。お寺さんの「庫裏」なんです。「真宗 大谷派 證願寺」という寺です。

この寺を始めて訪れる人に、寺の場所を説明する際には「最高」の「目印」です。

『クジラを目標に来て下さい直ぐ判ります』この一言で済みます。

寺を訪れる「信者」は「迷いません」、「迷い人」を「救い」、「正しい方向」に「導く」クジラなのです。

「奇を衒った」装飾ではありません。立派に「宗教」している「クジラの親子」なのです。



境内に入って「もっと驚き」ました。本殿の階段脇には「ライオン」の石像があり、「客殿」側の木立の中には、何と!「恐竜」が潜んでいます!



先ずは「ライオン」に近づき記念の一枚。隣には「こびと」が二人、後ろでは「猫」が、こちらの様子を見ています。


「怪獣」じゃなくて、「恐竜」に少しずつ接近、間違いないです。まさしく「恐竜」です。動き出しそうです。


大胆にも正面からの接近です。

『う~ん。これは「○○ザウルス」とか、「○○ドン」とか、そんな名前ではなかろうか?・・・・・・?』



帰宅後にしらべたのですが「トリケラトプス」という恐竜でした。名前の意味は「三本の角を持つ顔」だそうです。下の絵は「化石」からの「想像図」の一つです。

体長12㍍、体重10トン。白亜紀後期に北米大陸に生息していたそうです。角のある恐竜としては「一番メジャー」な恐竜だそうです。

しかし、ここ「證願寺」の「トリケラトプス・・・※注記参照」には「9本」の「角」があります。首の付け根の「フリル」に付いている「8本」は「オマケ」のようです。

「證源寺」は立石の「ジェラシックパーク」です。

立石にはホントに「いろいろ」あります。

明日、「立石シリーズ」の最終回になりそうです。

それでは、宜しくお願いします。 

※注記
「トリケラトプス」は誤りで、“スティラコサウルス”が正しい名前のようです。訂正します。詳しくは“コメント欄”で確認して下さい。2009年七夕
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何故?奥戸橋に「ペスタロッチ」が?・・・・・※5年の時が流れて遂に謎が解けたのでした!ヨカッタ!

2007年04月23日 | 東京の風景

昨日の続きです。

「立石」とペスタロッチ、「葛飾区」とペスタロッチ、「奥戸橋」とペスタロッチ、いろいろ調べたのですが、ネットでは判りませんでした。

そこで、ここはひとつ葛飾区の教育委員会に聞けば判るのではと思い、土曜日の4時過ぎに「メール」で問い合わせをしました。回答は火曜日に「電話」でありました。

回答をくれた担当者は、「ハィ!」、「そうです!」、「申し訳有りません!」直立不動で応対しているような、「律儀」な「話し方」をする方でした。

それで、「ペスタロッチの碑」が何故、奥戸橋にあるのかの答えですが、残念ながら「まったく判らない」との事でした。

電話の内容ですが、

1.「ペスタロッチの碑」は、現在の「奥戸橋」が完成した際に、「町の有志」により建てられたもので、区としては関係していなかった。現在「管理」は「区」に移管されている。

2.何故「ペスタロッチ」なのか、当時の関係者に聞こうとしたが、ほとんどの方が亡くなられ、話しを聞くことができなかった。

以上が話しの要約です。これで、奥戸橋の『ペスタロッチ』は永遠の謎となりました・・・・・・。まぁ、そんな大きな問題ではないですけどね。

しかしです。そこで、調査は終わりではなく、「もう一つ」の「可能性」を信じて、ある処に「メール」を入れました。


これは「ペスタロッチの碑」がある広場を、「奥戸橋」方向から見た写真です。中央に見える「白い三階建」の「一階」が「立石郵便局」なのです。

「郵便局のサイト」に『ペスタロッチ広場が前にあります』と、書かれていたので、もしかして「何か知っているかも」と、質問の「メール」を入れたのです。



翌日にメールで回答がありました。それでは、以下が郵便局からのメールです。



---------- 引 用 開 始 ----------


このたびは、お問い合わせありがとうございます。
 
ペスタロッチ記念石碑についてのお問い合わせですが、昭和58
年頃本奥戸橋の架け替え工事があり、元の橋の脇に仮の橋を架け
、現在の広場にあった郵便局を奥に移転させ、仮の橋に通じる道
路を作りました。

 その後、橋の架け替え工事が終了し、仮の橋に通じる道路があ
ったところが広場となりました。

 そして、本奥戸橋完成祝賀実行委員会が発足し、橋の完成記念
としてその広場にペスタロッチの石碑を作ったというわけです。

 ご存じかと思いますが、ペスタロッチはスイスの著名な教育家
で、葛飾区立石地区とは特段の関係も無いようです。記念に何を
作るか検討した際、ペスタロッチの教育論に共鳴していた方が委
員会にいた模様で、ペスタロッチの石碑になったと聞いておりま
す。

現在お答えできるのはこの程度ですが、よろしくお願いいたしま
す。


       〒124-0012 立石郵便局長 大沢敏彦


----------- 引用終 ------------


残念でした。やっぱり判りませんでした。
兎に角です、葛飾区も、立石も、奥戸橋も、「ペスタロッチ」との関係はまったくありませんでした。

「本奥戸橋完成祝賀実行委員会」の中に、「ペスタロッチ」を信奉している人がいたのです。たぶん教育関係者だと想像します。

普通は「その土地」と、何らかの「関係」があって、それなりに「石碑」等が建てられますが、何の関係なく作ってしまう「そんな碑」も、たまにはあってもイイでしょう。

私の想像としては、「春男の翔んだ空」が多少なりとも「関係」していたような気がするのです。

「実行委員会」で「ペスタロッチの碑」を提案しても、他の委員が誰も知らなければ、

『誰なんだ何だ?その「ペスタロッチ」って云うのは?』と云われ、

『著名な「教育学者」で、18世紀のスイス人です』と答えても、

『18世紀? スイス人? 教育学者? 誰も知らないよ!』でお終いです。

しかし、「春男の翔んだ空」と云う映画のお陰で、

『ほら!永六輔が主演した映画、あの先生が尊敬していたのが「ペスタロッチ」だよ!』

『あっ!そうか、そうか』で決まったような、「そんな気」がするのです。

でもです。映画が封切られたのが、1977年で、本奥戸橋が完成したのが1987年です。「10年」の「ズレ」があります。忘れられてしまいそうですね。

それでも兎に角、葛飾の、立石の、本奥戸橋の袂に「ペスタロッチ広場」はあります。


そして、これが「スイス」の「イヴェルドン・レ・バン」の市庁舎(人口2万4千人)前の「ペスタロッチ広場」です。
 

立石の「ペスタロッチ広場」より、「少し」だけ立派にみえます。

兎に角、立石には「いろいろ」あります。ペスタロッチは終わりですが、立石シリーズはまだ続きます。

それではまた明日・・・・・・

※5年目にして、やっと、ペスタロッチの碑の建立経緯が明らかになりました。

以下、コメント欄の投稿を掲載します。


-------引用開始-------

ペスタロッチ (sekine shigenobu) 2012-08-20 15:38:12 立石 奥戸橋たもとのペスタロッチ教育理念碑建立の経緯
1988年新奥戸橋の建替えに伴い、橋のたもとに無番地ができることになり、地元町会の藤沢会長・伊東区議から無番地の良い利用方法がないかとの相談が私に持ちかけられた。この時の私の助言はこうだ。「未来永劫この地元が必要としている理念を刻んだ碑を建てる事が良い」。ただこれだけでは具体性に欠ける。内容的には、私が尊敬していた教育学の父といわれるペスタロッチの教育実践の根本理念を碑文とし、この地元に先端技術事業を興すシンボルとして理念碑として建立することを提案した。
私のこの提案に対し、藤沢会長・伊東区議のお二人からも全面的なご賛同をいただきペスタロッチ教育理念碑建立委員会が立ち上げられることになった。その時のメンバーは以下のとおりである。
ペスタロッチ教育理念碑建立の会
会長:藤沢町会長、 副会長:伊東区議、 建立委員長:関根(企画責任者)
費用はその半分を地元町会会員寄付金でまかない、残りをその発案者である私が負担することとし、建立は地元の仲野石材店にお願いすることとした。
橋の建て替え完成式当日の1988年に合わせ理念碑の除幕式を挙行した。この式典にはペスタロッチの母国であるスイス大使館からも大使館員数名の出席を頂くという望外の出来事もあった。このようなお心遣いをいただいたスイス大使館には心から感謝したい。

ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ Johann Heinrich Pestalozzi
1746年1月12日:スイス チューリッヒに生まれる。
1827年2月17日:同国ブルックで逝く。
教育の聖者である。
自ら貧しさのどん底にありながら、貧民の子弟を救ったペスタロッチ。
古来、貧しさのどん底にあえいでいたスイスを今日の繁栄に導いたペスタロッチ。
ペスタロッチは、人が仮にいま貧しさの中にあったとしても教育によってもたらされる「もう一つの世界」という物の考え方・とらえ方を持つ事によって繁栄ある世界が生み出されるとの考えを持っていた。それは人を中心として、そこに人がいるからこそ成し得るのであって、人は教育によりはぐくまれるものでありそれは、誰もが無限の可能性を秘めているからに他ならないとの教えを説いている。
ペスタロッチには、貧苦の世界にあっても、人が持つ無限の可能性を具現化すべき教育・思想を実践教授する事で、貧苦とは別の世界を見ることができた。「苦かつ貧のこの世界」でも「もう一つの世界」から見れば富みかつ栄える世界が見えたのである。
スイスにはアルプスの山々、その氷河、その湖水、寒冷これらはある。地下資源は無い、耕すべき土地もない、この環境だけ見れば、スイスは苦の世界、貧の世界である。
だが、ひとたび今日のスイスを見てみよう。氷河、雪から電力が多分にとれる。この電力を化学工業その他の工業に使う。国中を電化する。それでもなお余る。外国に輸出する。自然資源をほとんど持たないスイスに工業のための原材料は皆無に等しい。それならと材料のいらない精密工業を興す。永世中立国である。戦うことをしない。これらによって富みかつ栄える国に変わっている。ペスタロッチの見た『もう一つの世界』は世界で最も豊かな国として現在のスイスに実現されている。
ペスタロッチの見た「もう一つの世界」がいまこの日本国に実現すべき時が到来していると思える。
スイスの様子を実際に見るとそう見える。
日本も『無い国』である。しかし、無いというこの世界に住むべきではない。
私たちは、この「ない国」を「もう一つの世界」に化して、あるという国になる事を願い、富みかつ栄える国になると確信し自信を持つことである。
私たちは、この何も無いこの日本を「もう一つの世界」にできることを信じたい、それには、人に対してのペスタロッチ教授法が根底に無くてはならないと私は考える。
ペスタロッチは、人間の諸能力を調和的にまた総合的に発展させようと考え、経験・体験を通して、直観を根本原理として教授する三つの種類があるとした。
第一:知的
   物に対しての本質を見極めるあらゆる角度からの見かた直観を、言葉で言い表して、物の明晰な概念をつくる事を心がける。
第二:道徳的
   人間と人間との直接的なふれあいを、愛情・思いやり、あらゆる考え方を以てたえず心情の形成を心がける
第三:技術・技能
   具体的な経験・体験をとうし、これを言葉や記号・科学によって、理論化させる
知的・道徳的・技術(技能)的・三つのものは、混然一体となり、総合的に調和的に使われ、融合されて用いられる事により、本当の意味の人間形成がなされ、「もう一つの世界」を創り出すことが出来る、それは、直観を根本理念とした行動である。
ペスタロッチの教えが、岩だらけのスイス・ドイツを今日の世界有数である工業立国にした。その教え・基本理念は、私たちの国日本に相通じる物を感じる、今日の世界経済グローバル化時代を迎へ、資源の無い国である日本にこそ、「もう一つの世界」を描く事が必要であると考える。これからの日本が歩むべき道でもあり、また私たちの下町においても同じ事が言えるのではないかと思える。
この下町人情の葛飾にたえず、知的・道徳的・技術(技能)的・三つの教授を持ち、社会活動を実践・実行しつつ、創意・工夫をもって、「もう一つの世界」をこの地に創ることが可能であると確信する。
ペスタロッチ、教授方法を教育伝授として、おもちゃ産業の発祥の地・葛飾立石の地に、理念碑を建立するにいたったのである。

関根 重信

------引用終了------


関根 重信様、ありがとう御座いました。長年の疑問が解けました。


コメント (3)
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奥戸橋の「ペスタロッチ」と「永六輔」

2007年04月22日 | 映画の話し
昨日の続きです。

永六輔とペスタロッチの関係なのですが、それは、私が20代の頃に、観た映画です。今から30年ほど前のことです。

その頃、働かないで「半年ほど」、「ブラブラ」していた時期があるのです。本を読んだり、映画を見たりしていました。

お金はないけれど、時間があったので、映画を見に「池袋」の「映画館」まで、歩いて行ってました。赤羽に住んで居たので、片道2時間以上かかったと思います。

その時に観た映画がの中で「唯一」「封切り館」で観たのが、永六輔の『※第一回主演作品』の『春男が翔んだ空』です。

※当時、彼が冗談で言ってました。映画館の前にもそんな看板が立っていた記憶があります。

その映画は、「野杉春男」という日本の「心身障害児教育」に、先駆的役割を果たした「教育者」の半生を画いた作品でした。

野杉春男は昭和47年(1972年)に航空機事故でモスクワで42歳で亡くなりました。ちょうど厄年ですね。

その彼が信奉していたのが、スイスの教育者「ペスタロッチ(1746~1827)」です。映画の中に名前が出てきました。

それで、その池袋の「封切り館」で、平日の午前中に観たのですが、館内は空席のほうが多かった気がします。

冒頭の「タイトルバック」に、早朝、緑の土手を「詰め襟」姿の「春男=永六輔」が「自転車オートバイ」で「登校」するシーンが流れたのです。

その時、私は、それだけで「涙」が出てきたのです。それだけで、感動してしまったのです。

「ブラブラ」している自分と、「真面目」で「立派」な「春男」の「姿」に泣けてきたのです。

「詰め襟」と「自転車オートバイ」が泣けました。その時のことは今でハッキリ覚えています。客席は「がらがら」でしたから、回りを気遣う必要はありませんでした。

しかし、それから、私は「心」を新たに「真面目」に働き出した・・・・・・という事にはなりませんでした。

それで、この映画ですが「永六輔」が「初主演」として、少しは「話題」になりましたが、内容的には、「地味」で「真面目」な「内容」を「普通」に画いた「普通の作品」でした。

当時、『そうか、そうか』と云った評価で、賞もとらず、ベストテンにも入らず、話題にもならず、興行的にも失敗だったと思います。

この年(1977年)、話題になったのは『幸福の黄色いハンカチ』で、ほとんどの賞を持って行きました。 この映画、いまだに見てません。


それで、奥戸橋で「ペスタロッチ」を見て、「春男」を思いだし、帰宅後に「本棚」から、当時、映画館で買った「脚本」と「本」を引っぱり出し、ページをめくってみました。


これが脚本です。


土手を「自転車オートバイ」で疾走するシーンは「冒頭」ではありませんでした。


こちらが「シーン1」でした。

これが1975年に出版された本です。映画の「原作本」です。本の内容が「装丁」に反映されていません。地方の小さな出版社で「予算」が無かったのでしょう。


この方が、日本の「ペスタロッチ」、「野杉春男」さんです。


1972年に飛行機事故で亡くなられ、1975年に本が出版され、1977年に映画化されました。

それでです。何故?「ペスタロッチ」の「碑」が奥戸橋にあるのか、どんな関わりがあるのか調べてみたのです。

長くなりました。この疑問の答えは次回とします。

それでは、また明日。

コメント (2)
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奥戸街道の「ペスタロッチ」

2007年04月21日 | 東京の風景
昨日の続きです。

住宅街を歩き、「寺」として「機能」してない「様子」の「寺」の前を通り、奥戸街道に戻る事にしました。

途中で見つけた、「寂しさ」と「懐かしさ」の漂う「病院」です。(現物はもっと暗く、古ぼけ、煤けた感じなのですが、デジカメは綺麗に撮れてしまいます。難しいです)


この病院、窓の鉄枠が「赤錆び」、人の「出入りも無く」、内部に「人の気配も無く」、廃業した「元病院」の建物と思ったのですが、玄関の案内板を見ると「土曜午後、木曜・日祭日 休診日」とあり、この日は「木曜」なので休診なのです。

案内板には「安藤医院」とあり、「病院」ではありませんでした。しかし、建物の作りから見ると、以前は「入院設備」のあった「病院」だったと思われます。


  【今では滅多に見られなくなった「駐輪機?」】

「いろいろ」な「事情」があって、現在は「外来診療」のみになったように思われます。「高齢」の「お医者さん」が一人で頑張っているのでしょう。


奥戸街道に戻りました。


いい感じですよ!「かまぼこ」の「増田屋さん」、外観に「味わい」がでています。


台秤に、竹製の鯨尺。今時珍しいです!「ハカリ」専門店。

橋です。立石駅のこんなに近くに「川」が流れているとは思いませんでした。出かける時に地図で周辺を確認してきたのですが、気付きませんでした。


「中川」に架かる「本奥戸橋」です。この上流に「奥戸橋」があります。


中川は「曲がりくねって」、「荒川」に合流しています。「中川の七曲がり」と云われ、ここは「二曲がり」あたりです。

駅周辺の狭い路地を歩き回っていたので、遠くの方まで見渡せる橋の上で、川面を眺めると「開放感」があります。橋を渡り向こう岸まで行って戻って来ました。



橋の袂に「お地蔵様」の「祠」があり、その隣には「立石」の文字が刻まれた「石碑」が建っています。


近づいてみると、横文字が刻まれ、となりには大きく「母の愛」とあります。


横文字の下に、日本語訳があり「ペスタロッチ」と書かれていました。この名前、見覚え、聞き覚えがあります。

碑文を見つめながら、『ペスタロッチ!、ペスタロッチ?』と、頭の中で、繰り替えしました。


碑文の、「就学」「小学校」「学習」の文字を見ていて、思い出してきました。

最初に浮かんだのは「永六輔」です。ええ!そうです。「あの永六輔」です。

「永六輔」と「ペスタロッチ」の関係は・・・・・・。


この続きは、明日です。。。。。。。

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