歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

⑤ 鴨長明の方丈記は世俗的な欲望に対する裏返しの!逆説の!葛藤の!表れ!

2018年11月27日 | その他

はい、暫くのご無沙汰です。

方丈記、鴨長明をまだやっております。

そして、今回が最終回となります。

それにしても、長明さんは、晩年いろいろと書き記しているようです。

57歳から没年にかけて、和歌関連の『無名抄』、58歳で『方丈記』、60歳には仏教関連の『発心集』を書き記しているのです。そして、62歳で没。

今から800年まえですから、出版社も、印刷会社も、取次会社も、書店も無い時代、自筆で書き記した原本を、友人知人に貸し出して、借りた人が気に入れば、書き写して、ネズミ算的に世に流通する方式?

方丈記の原本は残っていないようで、現在残っているのは写本だそうです。原本は本人の手元に置いて、亡くなったとき、遺体とともにあの世に?

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』

人の世は、儚く、虚しく、移り変わり、消え去り、とどまることは無く、ですから、本人の遺言で、遺品ははすべて、原本も含めて、遺体とともに焼却?、埋葬?、された?

それで、前回にも触れたのですが、鴨長明の、すみか、家、住居、屋敷、大邸宅への拘りについての解釈です。

ここで、大胆にも、ずばり結論を述べると、方丈記は、彼の世俗的な欲望に対する、裏返しの、逆説の、葛藤の表れと解釈します。

『・・・世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』の「すみか」ですが、これは、彼が意識する、しないに関わらず、単なる住居だけではなく、権力を、公職を、表現していたと考えます。

住居、「大きな家」は、おおきな屋根で、「おおやけ」であり、「公」で、天皇、朝廷を、支配権力を意味します。

それと、鴨長明さんが生きた時代ですが、平安の貴族社会が衰退し、戦闘集団の武士へと、権力が移行しつつある時代でした。

鴨長明は貴族として、没落してゆく階級に所属していた方ですから、個人的事情に、社会的な背景が重なり、『・・・世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』で、方丈記へとつながっていったのだと考えます。

18歳で父を亡くした頃より、公職から遠ざかり、自然災害、天変地異、飢餓、疾病の流行を経験し、禰宜後継争いに敗れ、隠遁生活に入り、57歳で、再度、公職へ挑戦して、藤原定家との争い敗れ、方丈記で、4年後62歳で没。

最後の最期まで、公職の地位に執着していたのです。

「公職・地位=大きな家」など、地震や火災でひとたまりもなく、崩壊し消え去ると云いつつ、でも、しかし、手に入れたかったのです。

敷地の広さや、門構え、母家の立派さは、公職の地位によって変化するもの、より大きな家を手に入れると云うことは、より上位の公職を、地位と名誉と富を、手に入れることです。

小さな家に、みすぼらしい家に、住むと云うことは、地位も名誉も富も、まったく無いと云うこと。望みが叶わぬたびに度に、運の悪さを嘆くたびに、

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』

を、何度も、何度も、こころの中で呟いていて、こころの平安を保っていたのです。

彼は、心の中で、かなり強く、地位、名誉、富、を欲していたのです。

しかし、それが叶わず、夢幻とし消え去り、死期を迎えて、自らの一生に思いを馳せて、それなりに、価値のある人生だったとして、自分自身を納得させるために、方丈記を記したのです。

心の中で、ひとり呟くだけでなく、書にしたため、それを友人知人に、配り、回覧させ、世俗的欲望の愚かさ、虚しさ、儚さを説いた行為。

あばら家暮らしの、意味を、価値を、世間に知らしめ、書として残した行為に、世俗的欲望への想いが、断ち切れなかったことの現れです。

そして、不運の度に呟いた『ゆく河の流れは絶えずして、・・・又各のごとし』を方丈記の冒頭に記したのです。 

世の中は、常に変化しとどまることは無いのです、しかし、方丈記は800年の歳月を生き抜いて、いまでも、その心情は、美意識は、それなりに共感を得ているのです。 

いつの時代においても、人は、ときおり、立ちどまり、儚さを、虚しさを、運の悪さを、嘆き、呟き、無常観に浸るのです。

方丈記は、それなりに、生きていくためには必要なのかも・・・。

成功者にとって、方丈記は負け犬の遠吠え ?

これで、5回にわたった「鴨長明の方丈記シリーズ」を終わります。

 

それでは、また。

 

 

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11月17日(土)のつぶやき

2018年11月18日 | つぶやき
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④ 方丈記の無常観は「観」ではなく「感」で情緒的で!美意識的で!日本的!

2018年11月17日 | その他

すこし間が空きましたが、前回の続きです。

方丈記です、鴨長明です。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』

 光文社古典新訳文庫の「方丈記」640円+税を買い求め読んでいます。

まあ、それほど売れる本ではないと思います。買い求める方々は、やはり、40代から60代迄でしょうか。そうです、わたし、68歳で買い求めました。

70代に入ると、たぶん、もう、無常感どころではなく、命の灯は消える寸前、無常感に浸っている余裕は、もう無いのです。死は身近な現実となるのです。

でも、鴨長明さんは58歳で方丈記を書き記し、その4年後に亡くなっています。当時の日本人の平均寿命(主に貴族)は男性が33歳と云われています。

でも、まあ、乳幼児期を乗り越えた人は、それなりに60歳位までは生きていたようですから、鴨長明さんは当時としては、それなりの寿命。

 ※明治期の画家 菊池容斎 画 Wikipediaより転載・・・しかし、菊池容斎さんも、見た事も無い700年も前の方を、よく描くものです。まあ、それとなく、なんとなく、鴨長明的、方丈記的な雰囲気は感じられます。

死期を迎えつつある年齢にして、方丈記を綴った動機は何だったのか? 

地震とか、竜巻とか、大火とか、疫病とか、飢餓とかを目の当たりにして、

『世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし。』

とあるのです。人は分かるのですが、栖(すみか) 住む家を、同列にする、その発想に、いろいろな思いが、迷いが、込められている、と思います。

家屋敷とは、地位、名誉、権力、富の象徴です。人も権力も無常と云う事です。

人も権力も、無常と、云いつつ、説きつつ、でもしかし、死ぬ間際まで俗世間への欲望を抱き続けていた、そんな方だった気がするのです。

死ぬ5年前に、鎌倉に赴き将軍源実朝の和歌指導役を藤原定家と争い敗れ、翌年、方丈記を書き記し、2年後にこの世を去るのです。

そもそもです。いつの世も、俗世間から隔絶し、あばら家で自由気ままに暮らす方は、それなりに居るのです。

死期を間近にして方丈記を記し、無常「感」を自らと、世間に説いた行為は、それなりの悟りではなく、世俗的欲望への思いを断ち切れない、迷いの現れだと思うのです。

自然災害、天変地異に対して、無常「感」に浸るのは、それなりに、素直で情緒的な反応だと思います。

方丈記の無常「感」は、「観」ではなく、感情的で、情緒的で、美意識的で、日本的な感情であり、仏教の「無常」は、思想的、体系的なものであり、無常「観」なのだと、思うのです。

美意識的には、それなりの価値観として、受け入れやすいのです。

自然災害、天変地異が多く、コメを主食とし、木と藁の住居に住む、東北アジアの住民には、無常感は、それなりに受け入れやすいのかも。

でも、しかし、地震や、台風や、川の氾濫や、火災や、干ばつ等、自然災害、天変地異に立ち向かっての、治山治水、衣食住の確保してきたのが人間の歴史です。

それでも、時として、世の無常感に浸り、我が身の不幸を運の悪さを嘆き、それでも、翌日には、生きるため、食うために、無常感から抜け出して、世俗的な欲望の中に身を置いて、それなりの充足感に浸るのが、それなりのフツウの人。

年がら年中、無常感に浸っていては、フツウの人は、生きては、食べては、行けないのです。

それにしても、鴨長明は生活の糧はどうしていたの? 妻や子供は? 居たの? 棄てたの?

それにしても、この菊池容斎さんが描いた鴨長明、坊主頭に無精ひげ、 どこか私に似ているのです。

もう少し、鴨長明、方丈記に思い馳せてみたいと思います。

 

それでは、また。 

 

 

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11月6日(火)のつぶやき

2018年11月07日 | つぶやき
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③ 方丈記 俗世間の地位と名誉の争いに敗れ! 辿り着いた方丈の暮らし!

2018年11月06日 | その他

前回の続きです。

鴨長明さんのお話しです。

「カモノチョウメイさん」の俗名は、訓読みで「ナガアキさん」のようです。昔から偉くなると、名前を音読みする傾向があったのです。

私の名前は、生まれた時からずっと、偉くもないのに音読みです。

まあ、そんな事はどうでもよいのです。

それで、鴨長明さんですが、この方は、

1155年 下賀茂神社の禰宜の次男として生まれ

1161年 7歳 「従五位下」を授け

1172年 18歳 父が亡くなり

1177年 23歳で大火に遭遇

1180年 26歳の時に竜巻に遭遇

1181年 27歳の飢饉に遭遇

1184年 30歳で家族と離れ河の淵で一人暮らし

1185年 31歳で大地震に遭遇

1201年 47歳 後鳥羽天皇の抜擢により和歌所の選者になる 

1204年 50歳 河合社の禰宜後継争いに敗れ、和歌所も辞め出家

1205年 51歳 新古今和歌集に十首入集

1208年 54歳 京都郊外日野の山中へ移り方丈の庵で暮らす

1211年 57歳 鎌倉に赴き将軍源実朝の和歌指導役を藤原定家と争い敗れる

1212年 58歳 方丈記出筆

1216年 62歳 没

と云う一生を歩んでこられた方なのでした。

下賀茂神社の禰宜の次男として生まれたのです。禰宜は神主より下のようですが、それなりの地位なのです。

それなり、と、云っても、一般庶民からは、遠く、遠く、かけ離れた、7歳にして 「従五位下」を授けた、大きな屋敷に住む支配階級に属するお方でした。

そして、しかし、1172年、18歳の時に父を亡くし、後ろ盾を失い、中心に位置していた人が、少し端っこに追いやられ、不運の幕開け、方丈記につながる第一歩となります。 

それからは、官職から遠ざかり、和歌を詠み、琵琶を奏で唄い、自由人として暮らしをしているのです。その間、歌人として、それなりの地位にあったようです。

その頃に、大火に、竜巻に、飢餓に、大地震に遭遇して、人間の、そして、住居の虚しさ、儚さを、感じるのです。

それでも、世の中の端っこから、中心に戻りたい気持ちは消えていなかったのです。そして、1201年47歳の時に、後鳥羽天皇の抜擢により、宮中の和歌所の選者になるのでした。 

ところが、ところが、3年後の1204年50歳の時に、下賀茂神社の関連神社、河合社(ただすのやしろ)の禰宜後継争いに敗れ、和歌所も辞め出家してしまうのです。

彼は、河合社の禰宜に、相当な思い入れがあり、後継争いに敗れたショックは大きかったようです。

それにしても、です。神社に生まれた方が、出家して仏門に入ってしまうの?

まあ、隠遁生活で、神道はあまり聞いたことがありませんから、神道と隠遁は結びつかない? 

神道だとしたら、山伏となって、野原を、野山を、駆け巡る、そんな活発なイメージとなり、かなり、かなり、隠遁的、内省的、そして、虚しさ、儚さ、とは、遠ざかることになる?

兎に角、54歳から、本格的に世間とは離れ京都郊外で、折り畳式で移動可能な、方丈での暮らしを始めるのです。

※光文社古典新訳文庫「方丈記 鴨長明 蜂飼耳 訳」より引用。

歌を詠み、琵琶を奏で唄い、また経典を読み、村の少年と野山を歩く生活に入り、俗世間から隔絶した暮らしをはじめるのです。

でも、しかし、1211年57歳、隠遁生活たった3年で、俗世間の官職を目指し鎌倉に赴き、将軍源実朝の和歌指導役を、藤原定家と争い敗れるのです。

彼としては、18歳で父を失い、50歳で河合社の禰宜後継争いに敗れ、57歳で定家との争いに敗れ、つくづく運の悪さを嘆くのです。

そして、そして、57歳にして「方丈記」に辿り着き、書き終わって4年後にこの世を去るのでした。

まさに、彼にとっては、大邸宅から、掘立小屋への、貴族から乞食同然の、急降下の、敗北の、不運の、人生なのでした。

鴨長明、方丈記は、薄っすらとは知っていましたが、今回、それなりに、勉強になりました。

本日はこのあたりで終わりますが、もう少し方丈記に思いを巡らしたいと思います。

それでは、また次回。

 

 

 

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11月1日(木)のつぶやき

2018年11月02日 | つぶやき
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② 方丈記の"方丈"は3m四方のあばら家で鴨長明の家への想いと無常感

2018年11月01日 | その他

前回の続きです。

方丈記のお話しです。

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし』

前回、この冒頭が内容の全てと断言?しました。全てが凝縮しているのです。

いわゆる、無常観です。この世の物や現象はとどまることなく生滅して、常に移り変わっている。「常にそのままで無い」と云う事です。

河の流れは、まあ、フツウは絶えることはなく、上流から下流に流れ、同じ水が同じところに止まっている、何て、考える人はいません。

人の一生なんてものは、河の流れに浮かぶ泡のようなもので、すぐに現れ、すぐに消え、留まることはない、何て、考えるのは、それなりに、まあ、フツウのことだと思っています。

まあ、この無常観は、別に、鴨長明の発見、発明でもありません。インド発祥の仏教によって日本に伝わったものです。

まあ、人の世の儚さを、水の流れに例えた、その表現が、言葉の響きが、人の心の内にじんわり染み込むのです。歌人としての鴨長明の腕の見せ所。

鴨長明のセンスの良さで、日本的な美意識とピッタンコと嵌って、平安の世から現在まで、時代を越えて、それなりに、一定の層に受け入れられているのです。

儚さとか、虚しさとか、侘しさとか、ものの哀れとか、そんな思いに時より浸るのは、それなりに酒の肴にはもってこいなのです。四六時中浸るものではありません。

まあ、インド仏教の方は「無常観」で、日本の方は、美意識的で、感覚的な「無常感」と記すのが正しいとの意見もあるようです。確かに、ごもっともな説。

それで、"人と栖(すみか)と、又各のごとし" この言葉です。何で、ここで、人と住家が同列に並んでいるの? 人の無常はわかりますが、住家の無常はわかりません。

考えてみれば、タイトルが方丈記"なのです。 方丈とは本来、僧侶が寝起きし生活する"粗末な家のことです。でも、まあ、いつの頃からか、粗末が忘れ去られ、豪華絢爛でも、僧侶の住まいを方丈と呼ぶようになりました。

ちなみに、こちらは、鎌倉は円覚寺の方丈。

でも、しかし、現在ここで僧侶が寝起きしているわけではありません。粗末から豪華への変遷の過程で、使用方法も変化した結果です。

円覚寺には、こんな注記が掲げられています。 

それで、鴨長明さんのころの修行僧は、まだ方丈の名にふさわしい住まいに暮らしていたようです。方丈とは、一丈(約3m)四方、現在の四畳半程度の広さになります。

こういう、 慎ましいと云うか、粗末と云うか、みすぼらしいと云うか、簡素と云うか、そんな住いで暮らしつつ、この世の無常を綴ったので、タイトルを方丈記としたのです。

それで、"世の中にある人と栖(すみか)と、又各のごとし"なのです。世の中の人は理解できのですが、住いも儚く無常とあるのです。

鴨長明さんは、相当というか、かなりと云うか、とても、とても、住まいに拘りがあったようです。

これは、きっと、きっと、その生い立ちが関係しているのでは?と、推測します。

それで、この続きは次回とします。

 

それでは、また。

 

 

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