歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

“海街diary”遙か彼方の水平線を見つめ捨てられた子供と云う意識から解き放たれる幸でした。

2015年08月17日 | 映画の話し
前回の続きになります。

そして、たぶん、“海街diary”のお話は最終回です。

それで、700円で買い求めたパンフレットでの是枝監督のお話です。

『もちろんこの映画の主人公は四姉妹であり、すずが自らの生を肯定し、幸が父と母を受け入れるまでの物語だと考えても間違いではない』

はい、確かに、間違いなく、“幸が父と母を受け入れる物語”であることは、観ていて自然に受けとめられる展開になっていました。

でも、“すずが自らの生を肯定し”は、それなりに分かるのですが、それなりに受けとめられる、印象に残るシーンが記憶に無いのです。

オジサンとしては、只一つ印象に残ったシーンは、風呂上がりバスタオル一枚で身体を包み、縁側に出て、庭に向かって両手を目一杯広げて、バスタオルを解き放ったシーンです。すずちゃん、とても、とても、可愛かったです。

と、ここまで書いてきて、そうか!そうか!このシーンが、このシーンこそ、“自らの生の肯定”を象徴していたのか、と今になって思うのでした。

バスタオルを解き放ち、こころも解き放ったのです。でも、このシーンが物語の展開で、どのあたりだったかは記憶にないのです。

それで、やっぱり、幸を演じた“綾瀬はるか”と、すずを演じた“広瀬すず”の、それなりの存在感の差と、わたしとの年齢的な距離感の差が、観ているときの、受け止め方、印象の差になっていたのかも知れません。

そして、

『しかし、それ以上にこの映画の中心にあるのは、街とそこに日々積み重なっていく時間であるのではないか。・・・過去も未来をも飲み込んだ「時間」こそが、この作品の主人公ではないか』

映画の中心は、主人公は、街、そして、過去も未来も飲み込んだ時間ですか。ムズカシイ表現です。

いろいろな人が居て、去って行く人が居て、来る人が居て、いろいろな人が暮らして、いろいろな物語があって、いろいろな人が生まれて死んで、そして、そして、それらが、いろいろ絡み合って、いろいろ繫がりあって、移ろうこと・・・・・。

『・・・この映画を、もし、美しいと感じてもらえるのだとするならば、それは、鎌倉の風景や四姉妹の容姿が美しいからだけではなく、恐らくは、海のそばの街が、すずも二ノ宮さんの死も幸の選択も、すべてを受け入れてそこにあるというその包容力に起因するのではないか?』

“海のそばの街が・・・すべてを受け入れ・・・そこにある・・・包容力に起因”ですか、ますますムズカシクなります。

街に包容力ですか・・・、街とは、自然条件と人の営みです。自然条件は人の選択です。海の見える風景を選び、そこに街をつくる、街の風景も、歴史も、作ったのは人、街に何を想い、なにを感じるかは人それぞれ。

この作品“海街diary”では、当然、海の街としての鎌倉が描かれています。でも、鎌倉は山の街でもあるのです。自然条件の海街。歴史条件の山街。

作品には、歴史的なものを感じるシーンは映し出されません。しかし、鎌倉と聞いただけで、それなりに観る側は、いろいろとその背景を想像し、いろいろと思い描き、物語に入っていくのです。

それで、何だっけ? そうでした街の包容力でした。まあ、人の目に映る自然条件と、人のこころに映る歴史条件と、いろいろな人の営みが、いろいろ絡み合って、街の包容力ですかね。

海街で、目の前は海で、遙かなたで、水平線で、雄大で、人の営みの、あれやこれやの小ささを、すべて流し、すべて赦し、すべてを受け入れる・・・・・・。

東北の地で、鎌倉に似ている景色をすずと眺めていた父、鎌倉に似た景色に残してきた三姉妹に想いを馳せていた父。父のすずへの愛情は、残してきた“三姉妹への愛情”でもあった、と思います。

幸は、すずに逢い、すずと暮らし、すずを知り、父を知り、母を知り、これまでの想いを清算したのでしょう。そして、医師との不倫関係も清算したのだと・・・・・・。

医師との不倫関係を続けていた幸、父への、母への、復讐という気持ちが、気づかない、こころの奥底に、無意識の中に、潜んでいた気がするのです。

父と母から“捨てられた子供”と云う意識から解き放たれ、自由に一人のおとなの女性として生きていく幸・・・・・・・。

まあ、うる覚えの記憶を手繰りよせ、パンフレットで監督の意図を読み、いろいろと、作品を捏ねくり回しまし、書き散らしました。

そして、いま、もう一度、観たくなりました。“海街diary”とても楽しめる作品でした。

でも、もう一度は、数年先になると思います。たぶん、来年にはフジテレビで放送される筈です。そして、数年後にはNHKBSで放送される筈です。

もう一度は、NHKBSを録画してじっくり観たいと思います。そのころは70代になっている訳で、いろいろ見方も変わっていることでしょう。


これで“海街diary”のお話はお終い。


それでは、また。



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“海街diary”綾瀬はるかをもってしても日曜日で11時25分上映で観客は10名でしたがイイ作品です

2015年08月11日 | 映画の話し
この手の作品を観に行く人は、何を期待して行くのでしょうね。

何て、他人事のようですが、わたしがこの作品を観に行った動機は、何となく、映画を映画館で観たくなったからです。

そして、前日にネットで上演作品と、上映時間を見ていたら、是枝監督で、綾瀬はるかで、11時25分からで、これが丁度いいとなったのです。

是枝作品は、前回の、何だったっけ?子供の取り違えの?・・・・・・・。そうでした!『そして父になる』でした。あの時は、見終わって、“それらしく的”で、消化不良的で、何ともつまらん作品でした。

それで、この日、他の上映作品はオジサンには関係無い作品ばかりで、オジサン的な作品は『海街diary』だけでした。と、云う訳で、かなり、かなり、消去法的選択の結果でした。

『海街diary』のタイトルを見たのもその時が初めて、テレビで作品の広告を見た記憶もありません。まあ、最近はテレビはあまり見ないし、特にフジテレビ(制作に一枚噛んでいる)はまったく見ません。

それで、当日は日曜日で観客は10名ほどで、一日一回だけの上映でした。この手の作品は、“綾瀬はるか”をもってしても、この程度の観客動員数なのでした。

それで、パンフレットを読んでみて、えッ!そうだったの!、そんなの見ていて分かるか?的で、やっぱり作品の意図と、一般人の見方はすれ違うようです。

それなりの批評家にも評価され、それでいて一般人も分かり、楽しませる作品、大衆娯楽作品であって、芸術作品なんて、そんな事は、とても、とても、いまでは無理難題?

昔の、小津や成瀬の作品も、当時は娯楽作品であって、後の批評家が、いろいろと作り手の意図を、拘りを、読み取り、高く評価したものと考えますが、ホント!それって!一回見ただけで分かったの?

やっぱり、映画も、小説も、何度も、何度も、見直し、読み返して、理解するものもの?

1回目は、それなりに感覚的に、第一印象的に、さらりと流し見?して、よかったら、何度も、何度も、見直して、味わい尽くし、しゃぶり尽くして、楽しむ?

そうか、そうか、そう言うことなんだ。と、只今、ひとり納得。

そう言うことで、この作品は、何度も、何度も、くり返し観たい作品なのです。見直して、味わい尽くし、しゃぶり尽くすことのできる、いろいろと、いっぱい詰まった作品です。

何か、結論めいて、これでお終い的ですが、まだ話しは続くのです。

それで、パンフレットで是枝監督は作品の意図を、

『この作品は父親やすずの母親、三姉妹のおばあちゃんといった、いなくなった人たちをめぐる話しとしてできあがっています。回想シーンではなく、仕草やセリフ(しらすトーストもそうですね)などを通じて、いなくなった人たちの痕跡を表現し、いなくなった人への想いが彼女たちにどう影響しているかを描こうと考えました。アジフライのエピソードを入れたのは、消えていくものもあれば受け継がれていくものもあるということを表したかったからです。そのように未来の時間まで視野に入っているところがこの作品の大事な部分だと思います』

と述べています。

それで、この“回想シーンではなく、仕草やセリフ(しらすトーストもそうですね)などを通じて”と云うところですが、「仕草やセリフ」と云うよりも、私としては、仕草やセリフ、そして、そして、“食い物”を通してと、強く言及される、と、思っていたのです。

いなくなった人の想い出は、わたしにとって、なんと云っても“食い物”と繋がっているのです。そして、作品でも、そんなシーンが多くあり、それなりに“食い物”に拘っていると思っていたら、それほどでもなかったようです。

やっぱり、当日、昼飯前で腹を空かして観ていたのがいけなかった? 

それと、“アジフライのエピソードを入れたのは、消えていくものもあれば受け継がれていくものもあるということを表したかったからです”と云ってるのですが、そう云うシーン、そう云うセリフがまったく、記憶に、印象に、残っていません。

それと、次女のベッドシーンから始まったのは、“もちろん全体が死で覆われた作品なので逆にベッドシーンからはじめたかったこともありますが、これが、彼女たちの居場所にかんする物語だからです”は、よく分かりません。

わたし的には、長澤まさみの足の爪のアップに、ペイントに、それなりの伏線が、と、思っていたのですが、関係無かったのです。でも、とても意味ありげに描かれていたのですが・・・。わたしの見間違い、思い違いでした。

全体が死で覆われている印象も抱きませんでしたし、それと、法事や葬式やお墓は好きだし、居場所なんてあまり気にすることなく生きてきたし、よく判らないのです。

自分の居場所とか、生きることの意味とか、ホント、あまり考えないのです。いい加減で、お気楽で、♪そのうちどうにかな~るだろう~的人間なのです。

それで、父も母も、他に好きな人をつくり、娘を捨て、家族を捨て、家を捨て、出て行った理由は特に語られていません。その理由が三姉妹の生き方に大きく影響したと思うのですが、理由それ自体に重きを置いていないようです。

と、まあ、今日はここまで。

兎に角、それでも“海街diary”イイ作品です。

皆さん、観に行きましょう。もう、やってない?


それでは、また。


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「海街diary」は綾瀬はるかの代表作になるかも?長女“幸”ヨカッタ!

2015年08月08日 | 映画の話し
前回の続きです。

それで、衝撃的なことは起きない、平凡で、普通で、坦々として、何処にでもある、くり返しの日々を送る中に、それなりの人生がり、感動がある・・・・・・。

でも、まあ、それなりに、ある時、ある場面を切り取れば、平凡でも、普通でも、坦々でも、何処にでもなく、くり返しでもない、日々があったりして、と思ったりもするのです。

両親が家を出て行き、三人の姉妹は祖父母に育てられ、出て行った父が亡くなり、腹違いの妹を引き取り、四人で暮らし始める。まあ、あまり、世間では、身の回りでは、見たり、聞いたりはしない家族・・・・・・。

父が、母が、家を出たのは?、祖父母が亡くなったのは?、いつの頃だったのか?観ていてはっきりしなかったのです。たぶん聞き流したのだと思います。

そこで、想像としては、父が出て行ったのは、長女が小学校の高学年で、次女は小学校低学年で、三女は幼稚園の頃。母が出て行ったのは、その数年後?祖父母が亡くなったのは、長女が社会人になってから?

作り手は、それなり時間をかけて、計算し、場面を設定し、台詞を作り、そして、何度もくり返し演じ、作品を完成させるのですから、登場人物の関係が、時間的前後関係が、頭の中にこびり付いている訳です。

でも、観る方は一瞬で消えていきます。自然に、普通に、観ていて、聞いていて、それなりに印象付ける描き方であって欲しい、なんて思ったりするのです。

連れ合いが帰りがけに『樹木希林と三姉妹はどう云う関係だったの?』聞いてきました。わたしはその関係をしめす“台詞の一つは”覚えていました。

樹木希林が仏壇に向かって『姉さんも・・・』と云う台詞から、たぶん祖父の妹で、三姉妹からは大叔母にあたると解釈しました。



でも、しかし、祖母の妹でも、単なる親戚のオバサンでも、ストーリーに影響は無いのです。でも、しかし、父と母が三姉妹を捨てた時期は、父と母への想いに大きく影響すると思うのです・・・・・・。

あれ、何か、つまらない事を、ダラダラと書き流しているような? 

それで、長女の看護師ですが、いい加減な両親を反面教師として、厳格な祖父母に育てられ、きっちり、真面目で、几帳面で、いい加減は許せない性格なのです。

でも、しかし、職場で既婚の医師と、それなりに迷いながら、悩みながら、決断を先送りにしつつ、ずるずると不倫関係を続けているたりしているのです。

几帳面な彼女は、部下の看護師が記録した患者の尿の排泄量が140リットル?と記入されているのを見つけて、怒りまくるのです。

でも、しかし、そんな看護師が患者に信頼されていることを知り、また、その看護師が死に立ち会う様子を見て、看護師として、人として、患者との寄り添い方を学ぶのでした。

そして、その事を不倫相手の医師に話し、医師もまた、そんな同僚が居ると話し、二人はそれなりに納得したりするのです。

そんな、こんなで、云われたことは、云われた通りにおこない、習慣とか規則とかには従い、しっかり、きっちり、誤りのない生き方に、すこし疑問を抱きはじめる・・・。

それで、変化への一つのエピソードとしては、この話し、ちょっと安直すぎて、作品の流れから、違和感がありました。

それで、“すず”をとおして見えて来る父の姿に、長女の気持ちは、すこしずつ、すこしずつ、父への想いに、母への想いに、変化が起こり、不倫関係にも変化が起こるのです。

それで、何ですが、すずと幸との、記憶に残るシーンとか、台詞とか、あまり覚えていないのです。男子に混じって元気に走り廻り、ゴールを決める、そんなサッカーのシーンだけが記憶に残っています。

それに、信用金庫勤めの次女も、窓口業務から融資担当に変わり、世の中の厳しさを知り、ダラしない若い男と別れ、いい加減から、それなりに深刻に、人生を考え始めるのです。

でも、しかし、これまでとは違う、生真面目な上司の姿に、恋心を寄せ始めるのです。でも、この上司に妻子がありそうで、この先、修羅場が待って居そうな、そんな気持ちを抱かせるのです。

と、云う事で、人生いろいろあって、自分の都合だけで行動したり、時には間違った判断をし、時には習慣とか規則を犯し、いろいろあっての人間、完璧な人など、この世には一人も存在しない。

間違ったり、悩んだり、迷ったり、怒ったり、反省したり、泣いたり、笑ったり、いい加減だけでも、几帳面だけでも、生き辛く、いろいろあっての人間、いろいろあっての人生、正解はなく、すべてが終わるとき、それらしき答えが、見えたり、見えなかったり・・・・・・。

まあ、そんなメッセージを作品から受け取ったり、想いを馳せたり、巡らしたりしたのでした。

そうでした。三女の千佳ちゃんですが、二人の姉の生き方、父と母への想い、冷静に見つめ、受けとめ、自由に生きているのです。変化はあまりしないのです。

まあ、こんな人たちが、あの鎌倉の街で生きていくのです。

やっぱり、“綾瀬はるか”が主役でした。とても、とても、おとなで、魅力的な女性を演じました。きっと、きっと、代表作になると思います。

と、まあ、ここ迄で、わたしの感想は終わりです。


それで、いよいよ、是枝裕和監督の考えを知りたくなりました。

買い求めたパンフレットを読みたいと思います。


それでは、また。

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「海街diary」鎌倉で父と云う男を見つめる“四人の女の物語”そして風吹ジュンのヒラヒラの衝撃

2015年08月05日 | 映画の話し
前回の続きです。

それで、三姉妹の母親なんですが、厳格な教育者の一人娘?ですから、当然に、まさに、両親を反面教師として、その対極を求めたと思うのです。

かなり自由と云うか、いい加減と云うか、手間を掛けない、煮込まない“シーフードカレー”的?な人なのです。

そんな、煮込まない、手間を掛けない、女の選んだ男も“シーフードカレータイプ”でした。当然、厳格な両親と対立し、二人の関係も、それなりに煮詰まることなく破局し、二人は別れ、家族を捨て、別々の人生を歩むのでした・・・・・・。

まあ、そんな、こんなで、祖父母に育てられた三姉妹、両親の影響は直接的に無いと思いますが、きっと、きっと、祖父母を通しての両親像を、何度も、何度も、聞かされつつ育った筈です。

長女は、ものごころ付いてからですから、捨てられた意識は強く、両親への反発も一番強く、真面目に、地道に、看護師の道を選んだのでした。

次女は、信用金庫勤めですから、それなりに真面目なのですが、異性にはかなり、かなり、ゆるく、そんなところは両親に似ているのかも。

三女は、まったく、祖父母にも、両親への反発もなく、影響もなく、かなり、かなり、自由な性格。

それで、見逃したのか、聞き逃したのか、父が、母が、家を出て行ったのはいつ頃なのか、よく判らなかったのです。それなりに重要なので、それなりの台詞があったような、無かったような・・・・・・。

それで、原作者ですが、女性?だったと思いますが、父が再婚して生まれた子供も女の子、最初の子供も、三人すべて女の子。これは、父と云う男を、女の目をとおして描き、そして、その事で、“四人の女の物語”になっている・・・・・・。

まあ、そんなところが、おじさんとして、男として、作品の中に入り込まず、かなり第三者的に眺めていた・・・、そんな気がします。でも、じんわりくる作品です。

四人の女性、ひとり一人を主役に、四つの作品が作れそう。そして、また、海猫食堂の主人(風吹ジュン)と、山猫カフェの主人(リリーフランキー)との恋も面白そう。まあ、いろいろ詰め込まれている作品です。

原作が女性?で、女の視点で描かれた物語を、男性の視点で描く? 原作とは、かなり異なる展開なの?

まあ、それは、それとして、腹違いの妹“すず”を引き取る三姉妹。

“すず”が健気に父を最後まで看病したことを知った幸。

それで、幸が“すず”の事をどうして知ったのかがよく判らなかったのです。次女が長女に向かって『さすが・・・??????・・・だね』の台詞がよく聞き取れなかったのです。

かなり後になって長女の幸が看護師で、同業者として、父の入院先に電話を入れ、それなりに様子を聞き出していたと納得したのです。

それで、一緒に暮らす事を言い出したのは長女の“幸”でした。“すず”が父親に抱く思いに、自分の知らない父の姿を探し、それなりに理解したかったのでしょう。

父としても、それなりの反省を踏まえての再婚。娘への接し方も、思いも、それなりに素直になっていたと思います。“すず”の爪にペイントはしないのです。

“すず”と暮らした日々こそ、父の一番幸せで、父らしい人生の日々で、想いを残す鎌倉で食べた“シラストースト”を作り、“すず”と一緒に食べ、幸せを噛みしめていたのです。

そんな父が大好きだった“すず”。

そんな“すず”を見て、父への想いが少しずつ変化していく“幸”。

そんな物語が、鎌倉を舞台にして、描かれるのです。

父の葬儀、海猫食堂の女主人(風吹ジュン)の葬儀、祖父?祖母の?法事、人の死で、その儀式で、人生と云うものを、それなりに語りかけてきたりするのです。

お寺、葬儀、お墓、そんな事が近くなったてきた今日この頃、いろいろと、人生なんて事を考えたりするのです。

鎌倉で、法事で、葬式で、お墓で、これだけで、かなり見ていて飽きないのです。鎌倉の風景に物語を感じてしまうのです。


それで、風吹ジュンが半袖で、店先で手を振るシーンなんですが、二の腕の弛みが、アップで映し出されるのです。弛んだ肉ならまだしも、弛んだペラペラの皮膚がヒラヒラと揺れるのです。

これは、もう、衝撃!でした。老いたるとは云え、あの“風吹ジュン”を知る世代として、絶対に許せないカットです。

死を間近にした姿を、あのヒラヒラで表現した?そうだとしても許せません! もう少し考えろ是枝!

ちょっと興奮して感情的になってしまった。

兎に角、見終わって、暫く椅子に座って、その余韻を楽しめる、とてもイイ作品です。


それでは、また。


本日も暑い!





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「海街diary」鰺の南蛮漬けの次女長澤まさみ!竹輪カレーの三女夏帆!イイです!主役は鎌倉の街?

2015年08月03日 | 映画の話し
前回の続きです。

それで、次女の足の爪のペインティングからドラマが始まり、少しずつ、少しずつ、いろいろな男女が登場して、その関係が、過去のいきさつが、少しずつ分かり始め、物語に入っていったのです。

両親の居ない三人姉妹の話しで、長女が看護師、次女が信金の職員、三女がスポーツ店の店員、ペインティングの足は次女。

家を出て行った三姉妹の父親の葬儀から物語が動き出し、これまでが、どのようなこれからに変化していくのか、その思いでスクリーンを見つめるのでした。

舞台が鎌倉で、三姉妹の家が昭和の匂いが漂う木造二階建て、庭に梅の木、木立の繁る裏山、彩度も明度も抑えられた映像、これだけで、なんか、とても、イイ気分になったのです。



そして、いろいろな食べ物から、それにまつわるいろいろな人が、いろいろと語られる、この展開がイイのです。

わたくしの想い出も、必ず、食べ物と繋がっているのです。父親と映画の帰りに食べた“肉なしカレーライス”、狭い階段を上がったラーメン屋で初めて食べた餃子、池袋の路地裏のてんぷら屋で食べた穴子のてんぷら。

すべて小学校低学年の頃の想い出。“肉なしカレー”は店先に看板に“肉なし”の表示があったような?一皿50円だったような?そのとき観た映画が“隠し砦の三悪人”だったような?

人の想い出は、食い物記憶から手繰り寄せられるのです。みんな、みんな、そうなのかも?それともわたしだけ?

それで、前々回に、書き忘れたのですが、最初に登場した食べ物は、野菜のてんぷらと蕎麦でした。庭先の縁側で食べるシーン、そこで登場する三女の恋人?の店長。お腹が空いていたので、ホント!蕎麦が、てんぷらが美味そうでした。

美味そうで、野菜のてんぷらと蕎麦が誰の想い出に繋がっていたのか忘れました。それと、この店長ですが、凍傷で足の指が6本失っているのです。そして、朗らかに“失った足見ます?写メ撮ります?と、周囲の空気を読まない発言。

アフロヘアーで、元登山家?で、軽い乗りで、そんなところが三女と波長が合っているのです。三女は、父の影響はまったく受けていないのようです。でも、母が作ってくれた、“竹輪カレー”が好きで、一人こっそり食べるのです。三女は母親似?

長女は母の作る竹輪カレーや、シーフードカレーは嫌いなのです。母がカレーにシーフードを使ったのは、煮込まなくていいからだ、との解釈。料理に手間暇を掛けない、いい加減主婦、いい加減な母親と、とても批判的なのです。

次女“長澤まさみ”は、どんな食べ物が好きだったのか?映画を観てから一週間が経ち、記憶が薄らいできました。アジの南蛮漬けだったかも?でも、誰かと繋がる記憶は描かれていなかったような?

それで、足の爪のペインティングですが、腹違いの“すず”にペインティングをしながら、昔、小学生の頃、父にしてもらったのが初めてで、学校で見つかり教師に注意された想い出を語っているのです。

きっと、そのとき、父は教師だった厳格な祖父母に、そうとう叱られ、両者の間には、かなり、かなり、気まずい空気が流れ、これをきっかけとして、妻の“都”からも心が離れ、二度と通い合うことは無くなった?

ペインティングにまつわる父のことを、それなりに楽しく、それなりに好意的に“すず”に語る次女。かなり自由で奔放で、惚れっぽくて、次女は父に似ている?

そんな物語が、兎に角、あの鎌倉の風景を背景に展開するのですから堪りません。なんと云っても鎌倉です。

どんな風景を切り取っても、歴史が、趣が、物語が、映し込まれ、作品に、奥行きとか、広がりとか、落ち着きとか、味わいとか、そして、人生も見えてきたりするのです。

次女の長澤まさみ、三女の夏帆、イイです。“長澤まさみ”のスタイルの良さが印象に残りました。そんなカットがかなりありました。連れ合いが「長澤まさみって、あんなにスタイルヨカッタった?」と、見終わって一人呟いていました。

長女の綾瀬はるか、とても、しっかり者で、落ち着いていて、“おとな”を演じていました。連れ合いが「綾瀬はるかって、いくつになった」と、見終わって一人呟いていました。

それで、この作品、主演は綾瀬はるか?

それとも、三姉妹と腹違いの妹の四人?

物語的には、スクリーンに姿を現さないお父さんが“主役”だと思います。脇をかためたのは、なんと云っても、それは鎌倉と云う街です。

いや、もしかして、主役は鎌倉の街? 描かれたのは“鎌倉の街”で、物語が背景?

また鎌倉に行きたくなりました。作品に映し出される鎌倉は、海街の鎌倉で、わたしが歩いたのは“山街の鎌倉”だけです。

生シラス丼も、不漁のため食べていません。

「海街diary」イイです。

まだ、話しは続きます。


それでは、また。


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