歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

「岡埜栄泉」と「俊一郎さん」勘違いでした。

2006年12月31日 | 東京の風景

以前に、中野の哲学堂公園の近くで撮ったものです。

主人と思われる人が店先に佇んでいました。60代の半ばから後半に差し掛かった年格好にみえました。

看板を上目使いに暫く眺めた後、店先の商品ケースに目を落とし、考えるような眼差しで、じっと商品を見つめていたのです。

それを見つめる私は、横断歩道を渡った先で、横目でその光景を眺めていたのです。私も、相当怪しく見えたかも知れませんね。

看板は「錆び」てペンキが剥がれ、「和菓子」の文字と、「岡埜栄泉」の文字だけが、何とか「判読」出来る程度に残っています。

日差し避けの「巻き上げ式天幕」は、主人と人生を伴に歩んだ「証」であるかのように、「襤褸の幕」になっていました。
「店」も「主人」も相当に「草臥れて」いるように見え、流行っている店には見えません。

先ほどの主人は、「錆びて剥げ落ちた看板」と「襤褸の幕」を見つめ、創業当時の若かりし頃の、想いに耽っていた・・・・・・のかも知れませんね。

それで何ですが、この写真、最近改めて見直していて、疑問が生まれたのです。
「岡埜栄泉」と云えば、「老舗の和菓子屋」です。「こんな所」の「こんな岡埜栄泉」なんて、「何か。変」と思ったのです。

それで調べてみました。都内には30軒以上あるようです。中には「栄泉堂岡埜」何て、「ひっくり返った」店もありました。


そこで、先日、一番有名で一番創業の古い上野駅前の「岡埜栄泉総本舗」に、「駄目もと」で不躾なメールを入れてみたのです。



     【名物の豆大福】

『都内各所で見かける「岡埜栄泉」はどういう繋がりなのですが?』

昼頃に送信したのですが、夕方頃にはその返事が届きました。不躾な質問に丁重に答えてくれて、「恐縮」してしまいました。

-----以下引用-----

岡埜栄泉のルーツは正直不明です。
昨年もある雑誌社が追ったのですがわかりませんでした。
戦争で記録がほとんど焼けたのが大きな要因です。
うちで説明をさしあげてるのは
本家はもともと駒形にあり、姓を岡埜となのっていました。
駒形自体はもうすでに廃業していますが
そこからまず7軒にわかれました。
うちのような親戚筋もあれば暖簾わけもありました。
その見分けは岡野姓かどうかでたいていわかります。
その7軒からさらに暖簾わけが派生しいまのような状態になったと思われます。
もちろん勝手に名乗っているところもあるようですが。
誰も商標登録をしなかったのが不思議です。
どこも本家を名乗らないのはそれだけの証拠をもっていないからです。
ですから本家争いが起きないのです。
うちは岡野姓で現存する岡埜栄泉としては最古だと思われます。
ただうちより創業年が古い岡埜栄泉もあるようです。
それが事実なのかどうかはわかりかねます。
今は割りと
皆が頑張ればそれでよいという風潮にあります。
自然淘汰もされていくでしょう。
それぞれの店にファンがついているようですし。
ただまずいものを売る岡埜栄泉があるのも事実で
いっしょくたにされるのは少し抵抗があります。
うちは上野駅前です。
お近くにお寄りの際は是非いらしてみてくださいね。

では
岡埜栄泉 岡野大介

-----引用終わり-----

聞いてみるものです。
岡野大介様 ありがとう御座いました。


今回、調べていて「長い年月」に渡って、私が「大変な勘違い」をしていたことが判明したのです。

あの「元日本サッカー協会会長」、あの「国際オリンピック委員会委員」の「岡野俊一郎さん」の実家が上野駅前「岡埜総本店」だったのです。

私は「メキシコオリンピック」以来、「約40年」に渡って、岡野さんは「築地で老舗の蒲鉾屋さん」と誤解していました。「老舗」と「食べ物」は当たっていたのですが、和菓子と蒲鉾とは大違いです。

何故? どこで? どうして? 「蒲鉾屋さん」になってしまったのか? 不思議ですね。ホントに不思議。


兎に角。今日は大晦日です。蒲鉾は買いましたか?

それでは、みなさん良いお年をお迎え下さい。  




コメント (1)
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