歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

銀座チョウシ屋のコロッケパンと林家「こぶ平」師匠 その1

2006年10月21日 | 食事の話し

コロッケパンが大好きなんです。

先日、歌舞伎座の裏手にある「チョウシ屋」に行ってきました。
昼休みが終わる一時ちょっと前だった為、店に客は居ませんでした。

下の写真は帰る時に撮ったものです。数分で行列できていたのです。
有名店なんですね。


創業昭和2年と書いてありますね。と言うことは、昭和2年だから25プラスして27だから、西暦1927年だから、2006-1927だから、答えは、今から79年前ですね。
うーん。79年コロッケ作っていたのか・・・・・・・。

しかし、コロッケ屋として79年ではなく、「肉屋時代」があり、「肉屋と総菜屋の時代」があり、「総菜屋とコロッケパン屋の時代」とそれなりの時代の変遷があったのでしょう。・・・・・・・私の勝手な推測です。


その日は、コロッケパン1個、ハムカツパン1個の計2個、440円を使いました。まぁ、価格としては問題はないでしょう。
「おかず」としての単品価格は都内の一般的価格と比較して2~3割高いですね。兎に角、天下の銀座、それも3丁目ですからね。


店の外観、店内の様子は、南千住の商店街の総菜屋さんとかわらないです。
しかし、さすが創業79年「チョウシ屋」特製の「コロッケ・トンカツソース」を置いているのです。
しかし、その特製ソース(150円と300円の2種類)なんですが、明らかに普通のソースに、「ちょうし屋」のラベルが貼っただけに見えますね。

それと、それとですね。
ソースの下にある、「福神漬け」「リプトン紅茶」「サッポロ塩ラーメン」が並んでいるのです。
どういうコンセプトでの品揃えなのか? 摩訶不思議です。


   ここで    です。

            続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地 「本願寺」・「大野屋」 そして 「赤と黒の女」

2006年10月20日 | 東京の風景
銀座、築地辺りを歩くことがあります。
その時、本願寺に参拝します。それほど信仰心があるわけではないのですが……。
何故か、本堂で、読経の声、リンの音、木魚の音、お線香の「香り」に包まれていると癒されるのです。
時々、近所のサラリーマンが後ろの席で昼寝をしているのを見かけます。

この写真は、本堂に入って左側の、男用トイレの窓から見える「中庭?」です。
この風景に何故か惹かれるのです。
タイムトンネル?の入り口に見えたりして・・・・・・。

みなさん。築地に来る機会があれば是非、本願寺の男用トイレの窓からの眺めをよっくりと鑑賞して下さい。異空間への入り口です、現実に戻れなくなるかもしれませんが・・・・・・。



築地本願寺から少し離れたところにある「米屋」の「大野屋」です。
はじめて通りかかった時、ちょうどランチタイムで、店の前には行列が出来ていました。

その時、「今の時代に何で米屋に行列が?」と思ったのです。
それは「おにぎり」を買う行列でした。
お米屋さんの「おにぎり」はきっと美味しいのでしょう。

隣は青く「緑青」のふいた「銅板」の外壁、そして街路樹。
そして、そして、その時、通りかかったのです・・・・・・「赤と黒」の「女」

いいね! こんな風景・・・・・・好きなんです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千登世橋と田中真紀子 その2 それと「冷やし中華」

2006年10月19日 | 東京の風景
続きのはじまり・・・・・

それで、それでですね。あの、花見の日に見た「あの橋」の風景を時おり思い出すのです。
「あの時」の「あのこと」につながって、

――あのとき、父と二人で・・・・・・広い通りの緩い下り坂、陸橋の下を潜り、近くの脇道に入ったところで車から降りたのです。そこは店の倉庫のような造りの二階屋でした。二階は畳敷きの遠くまで見渡せる、大広間のようになっていました。ひとりそこで、父の用事が済むのを待っていた記憶があります。私が、小学校にあがる少し前だったと記憶しています――

父が亡くなって、暫く経った頃、母にそのときことを話したのです。
それは、「お父さんが浮気をしていた頃で、そこは、浮気相手の女性が住んでいた場所ではないか・・・・・・」と聞かされました。30数年前のことです。母も笑って話しをしてくれました。

花見のときに見た「あの橋」が「あの時」の「あの風景」の場所に間違いないと思いはじめたのです。

それでですね。今年の6月になって「あの橋」を見に行ったのです。
路面電車は「音」が懐かしいですね。「チン・チーン」と響く発車の合図、「ゴトーン・ゴトーン」とゆっくりとした走行音、すべてのリズムが柔らかいですね。
電車の音と振動、流れていく風景・・・・。
「あの日、あの時、あの風景」のなかにゆっくりと戻っていきました。
その日は、学習院下で降りました。(下の写真)


停留所の風景も懐かしい。踏切も、踏切を歩く人も、レールも、街路樹も、空も・・・・眼に入るものみんな懐かしい。
この日、「この橋」の名前が「千登世橋」と知りました。
橋の上にはじめて立って、暫く下を通る車の流れをぼんやりと眺めていました。


「遠く」から眺める橋の風景は「過去」につながりましたが、はじめて見た「橋」からの眺めは、「今」の風景でした。

「目白通り・・・・、学習院・・・・」、ぼんやりした頭の中で「そうだ。田中邸だ」と何故か突然そう思ったのです。

「そうだ。角栄の遺産相続で土地を物納したんだ」と思ったのです。
ここで現実に戻り、「旧角栄邸」、現在は「真紀子邸」・・・・いや。正しくは「田中直己?邸」に向かったのです。

以前に、車で前を通り過ぎたことがありました。何か変わった事がないか見たくなったのです。

しかし、しかしです。学習院の前を通り過ぎ、目白駅に来てしまったのです。そうです。反対方向に歩いていたのです。
「スルドイ方向感覚をもつこの私としたことが・・・・うーん。何たることか」と思いましたが、直ぐにたちなおり、以前に「自転車」で通勤していた経路を歩くことにしたのです。

目白駅から東長崎、千川通りで「大盛り」を食べて、板橋の日大病院前を通り、東武東上線の中板橋駅前を通り、駅前商店街の「福しん……チェーン店」という店に入り、今年はじめての「冷やし中華」で、「二度目」の昼食をとりました。

その冷やし中華なのですが、麺が固めで歯触りが良く、そして、何と言っても、胡麻だれスープの味がばつぐんでした。

スープは「旨味・辛み・酸味・甘味」のバランスがグットでした。スープの量もタップリ有りケッコウでした。

玉子焼き、ハム、胡瓜、トマト、具のトッピングが斬新です。

そして、たれ、麺共に良く冷えていました。そして、何と言っても、580円という値段にビックリでした。「この値段」で「この味」、「福しんの冷やし中華」は偉い。 

かなりのほめ方になってしまった。(私は「福しん」の関係者でありません)
この日は暑く「冷やし中華日和」だったので旨さが倍増したのかも・・・・・・。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

千登世橋と田中真紀子 その1

2006年10月18日 | 橋の話し
この橋が思い出の橋です。先日、行って始めて名前を知りました。
幼い頃の思い出につながる不思議な風景なのです。


この橋に出会ったのは、今年、東京の桜が満開になった時でした。
以前に雑誌で紹介されていた、椿山荘下の神田川沿いにある桜を見物に行ったときのことです。

その日は、始発の三ノ輪橋から都電に乗って目的地を目指しました。都電が左にカーブして、専用軌道が明治通りと併走する区間に入ったすぐの停留所、「学習院下」で停車したとき、後ろ振り返ると「その橋」が見えたのです。都電には何度か乗っていたのですが、これまでは一つ手前の「鬼子母神前」迄でした。

その時は、頭の中は桜のことばかりで、左前方に満開の桜並木が見え始めたのと、車内が満員で後ろを向く姿勢は長く続けられなかったので、直ぐに視線を前方に戻しました。

明治通りを左折するとき、信号が赤になり車両が停まったのです。停止位置のかなり手前でした。桜がよく見える位置にわざわざ停車したのです。東京都交通局の計らいなのでしょう。石原さん知ってました?

その日は、「面影橋・・・チョット名前負けかな?」で降り、神田川沿いに桜を見物して江戸川橋まで歩き、左に折れ直進して護国寺の桜を見て、その後は上野駅までぶらぶら歩き帰ってきました。

       続く・・・・・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界文化遺産?白川郷は「夜目、遠目、笠の内」だった!

2006年10月17日 | 旅の話し
白川郷の合掌作りを見て来ました。
これまで情報から創られたイメージと、現実の「合掌作りの郷」はかなり「遠くの方」にありました。

一軒、一軒の合掌作りの家々はイメージとして、そう遠くの方に行ってしまわないのですが、「集落・郷」としてのイメージは何処か遠くへすっ飛んでしまいました。

上の写真は、30枚近く撮った中で、それなりにイメージに近い風景です。
カメラを構えると、どうしても自分のイメージに近い構図を探しているのに気付きます。

世界遺産と言っても、現実に生活している集落ですから、21世紀の現実はいたるところにある訳ですが、あまりにも、あまりにも「雑然」として「一つの集落」としての「まとまり」が感じられないのです。

あらためて、白川郷の風景を写真をネットで探していて気付いたのです。

そうです。そうなんです。
白川郷のイメージは「雪景色」と「夜間のライトアップ」で創られていたのです。

『雪深い山奥の郷、暗闇に浮かび上がる雪化粧をした合掌作りの家』

そう!! そうだったのです!! 雪のない「真っ昼間」に見てはいけなかったのです。真っ昼間には、見てはならないものが見えてしまうのです。
まさに「夜目、遠目、笠の内」です。

※旅行で宿を決める際に、「泊まってはいけない宿」として、ガイドブック等に宿の外観写真が夜間に撮られた写真を掲載している宿と言われています。

所詮、世界遺産は観光施設で金儲けの道具と言ってしまえば「ミモフタナシ」ですが、商売気が出過ぎには注意しましょうね。観光協会殿

いまのところは、訪れる観光客は自分の創ったイメージを壊さないように、いいところだけを見て、納得して帰っているようですけどね・・・。私もその一人ですけどね。

一度訪れた人の多数は、他人に印象を聞かれたらあまり良いことは言わないでしょうね。

世界遺産に決定したとき、「雪・夜・ライトアップ」の写真が大きな力を発揮したのでしょう。

今日の結論
「人は創られたイメージに合わせて現実を見る」しかし、イメージはいつか壊れる。

※追記
あるお土産屋さんの、店員が「若くて、服装のセンスもいい、可愛い女性」だったのです。それは、それで良いのですが・・・・・。
原宿の竹下通りで、修学旅行の学生を相手にして商売している、お土産屋の店員だとしても、全く違和感がない人でした。しかし、白川郷のイメージには合わないのです。白川郷はイメージで商売しているのですから、素朴な人が居てほしい。勿論、見た目だけで結構です。
        
          白川郷観光協会殿


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旅は鉄道・バス・徒歩で行こう

2006年10月16日 | その他
昨日の続きです。

車で行った旅行を、鉄道・バスで行っ場合の時間と料金を比較してみました。
車では交通費を「ガソリン代+高速代」と考え「4万円」でした。二人で行ったので一人あたり2万円ですね。

それでは、鉄道・バス・徒歩ではこうなりました。

※1日目   6時間半  料金 13,190円 
 
 最寄り駅発8:32→上野着9:11 発9:32→上越新幹線→越後湯沢着10:45 発10:53→北陸本線→和倉着14:33→徒歩→旅館着15:00
 
 
※2日目  10時間  料金 4,260円 

 旅館発6:00→徒歩→和倉発6:35→七尾線→七尾着6:41 発6:57→北陸本線→金沢着8:16  金沢発8:40→バス→白川郷着9:55→合掌村見物→白川郷発12:15→バス→高山着14:10 発14:48分→高山線→下呂着15:53→旅館着16:30                  
                  

※3日目  5時間 13,380円
                     
 下呂発10:28→ 高山線→名古屋着12:09 発12:25→新幹線→東京着14:05→○○駅着15:25 


結論

1日目は車より2時間速いですね。

2日目は車より2時間遅かったです。それに、旅館出発が6時はきついですね。原因は、金沢から白川行きのバスが午前と午後の2本しかないからです。
     
3日目は車より3時間速く家に帰ることができます。

料金は30,830円で、車より1万円ほど高くなりますが、鉄道・バスは専門の運転手が付くので、寝てようが、酒を飲んでヨッパラッテいようがかまわないので、料金的には問題ない範囲でしょう。
時間もかからず、環境への負荷も少なく、非日常的空間の中でたっぷり楽しめそうです。

   『旅は鉄道・バス・徒歩が、あらゆる面で車に勝っている』                    
                                                                
                 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地方の自動車道は「タヌキとクマ」が通る道?

2006年10月15日 | その他
能登半島の和倉、白川郷、下呂に行ってきました。
1日目、上信越道から北陸自動車道に入ると、1時間に数台の車に出会う程度でした。
北陸自動車道から能越自動車道においてもほぼ同じ状態でした。


2日目、東海北陸道は途中の白川郷から先が中断している為、さらに少なく「動物注意」の看板だけが目立つ、「タヌキさん」「クマさん」の道でした。


3日目の中央高速は土曜日の為、観光客と思われる車が多く走っていて、「うん。これなら何とか採算がとれそう」と思いながら走ってきました。

いわゆる。東名高速、中央高速、名神高速、と「高速」と呼んでいた時代の初期に造られた自動道はそれなりに必要だったのでしょう。
しかし、関越自動車道、常磐自動車道から段々とその必要性が、「走る側」から「建設する側」へと変わり始めたと思います。

「何々高速道」から「何々自動車道」と名前が変わり始めた時期と、「必要性」が変わり始めた時期と、何故か不思議と一致しますね。

地方の「何々自動車道は地方経済の発展させる為に必要です」との主張は、ほとんど造る側の「屁理屈」ですね。
地方の自動車道は「休日」に使うだけの「観光道路」ですね。

それと、それとですね、今回、気が付いたのです。
この歳になってやっと気が付いたのです。

         ※『旅は車で行ってはならない』

日常生活の場から、遠く離れて、見知らぬ建物、見知らぬ景色、見知らぬ人に出会う。それらの出会いが楽しいのです。それには、日常からの距離感が重要だったのです。

しかし、しかしですよ!!!  
車での旅は、車内に戻った途端、いつもの空間に戻ってしまうのです。
遠くに来た感覚が、車内に入った途端に消えてしまうのです。
車は便利です、旅は不便がいいのです。


※今日の結論
  自動車専用道路は観光道路。
  観光は鉄道・バスの公共交通機関を使うのが正しい旅。
  
  であるからして、自動車専用道路はもういりませ~ん  (`_´)/

追記
1,330㎞走りました。やっぱり疲れてしまい、昨日は更新できませんでした。
       残念!!!。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「中華そばおはる」 そして「日中間の外交問題」

2006年10月14日 | 東京の風景
永代橋を渡り、門前仲町あたりで見かけた風景です。

『中華そば おはる 』

「中華そば」がいいですねェ。「ラーメン」ではなく「中華そば」です。
ホントは「支那そば」であったらもっといいのですが・・・・・・。

「支那」は差別用語だとか、いやそうではない地域を指す歴史的な呼称だと揉めていますからね・・・・・・。

どちらが正しいのか? 中国の人はどう思っているのかなァ?

昔は「シナソバ」「シナチク」と呼んだり、看板にも書いてあったけれど、やっぱり中国から抗議がきてやめたのかナァ? 
中華そば業界、中華食材業界に行政指導があったのかしら・・・・・・。

シナソバ、シナチクの呼称が揉めた記憶がないのですが・・・・・・。
たしか。「満州」の呼称が揉めた記憶はあるのですが、その時に一緒に問題化したのか・・・・・・。

いつのまにか消えてしまいました。最近では「ラーメン・メンマ」と呼ぶことに違和感はなくなったけれど・・・・・。

シナソバ、シナチクには懐かしい響きがあります。

「シナソバ・シナチク問題」が「靖国問題」の次に、日中間の外交問題になっては本意ではないので、話しを戻します。

そうです、そうなんです。「中華そばおはる」の話しです。
看板の「中華そば」がいいのです。

そして「おはる」がいいのです。そして看板の上半分の赤地に「Coke」の白抜きの文字、このアンバランスがまたいいのダァ!

それに、それにです。昭和の匂いのする店舗の背景が、佃島の高層アパート群、このアンバランスが最高。

店には入りませんでしたが、店の前にはテーブルと椅子があり、オープンエアーの「小洒落た?」と言うより「小○い」店の造りになっていました。

昔、親父に「中華屋」は 「綺麗な造りの店」ではなく、その反対の「○い」店の方が旨いと言われて、何回も失敗した思い出があります。

でも、しかしです。ネットで調べたら「中華おはる」それなりに旨いとの評判でした。

この店は私的には、風景としての「中華そばおはる」として眺めるだけにしておきます。

「素敵な小春さん」がいる店として、いつまでも・・・・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道路パトロールカー 脱輪!

2006年10月13日 | その他


先日、近所を散歩していて出会いました。
土手の上を通る未舗装の狭い道です。橋の上からカメラを向けたのですが、運転をしていた男の人に睨まれてしまいました。

 当人にとっては見られたくない状況ですからね。
でも、他人からみれば笑える状況ですからね。

何と言っても、「道路」パトロールカーが、「道路」から脱輪して、JAFのレッカー車に救助さそているのですから、笑ってしまう。

笑いを堪えながら家に帰って来ました。
他人の不幸を笑ってはいけないと思いますが、やっぱり可笑しかった。
家に帰り、二人で笑ってしまった。

当事者の方には、ゴメンナサイ  m(_ _)m


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京拘置所の塀に謎のレリーフが!制作者は?その意図は?

2006年10月12日 | 東京の風景
先日、小菅の「東京拘置所」を一周してきました。
荒川土手に面した、正門の映像はよくニュースで見かけますよね。 

捕らえられた「悪人容疑者?」が、警察車両に乗せられて、報道関係と野次馬の視線を集め、拘置所の塀の中に入れられる、最近のお馴染みのシーン。

当日は、見慣れた正門は軽く流して、塀に沿って右周(特に意味はなし)りで歩く事にしました。

少し歩いたところで下の写真の看板が目に入ったのです。
知ってました? こんな「日本保釈支援協会」何てものがあるなんて、私の周りには保釈金を支払った人は、これまでいなかったので驚きでした。

保釈金も借りる事が出来ます、みなさん覚えて置きましょう。覚えておいて損のない情報です。
まさかの時は!!!  「日本保釈金支援協会」へ 


これが「裏門?」です。
面会者が入って行く入り口で、又、保釈された人が出て行く出口ですね。
堀江君も、村上君もここでインタビュー受けていましたね。



面会者と言えば、「差し入れ」ですね。
裏門の前にある「差し入れ屋」です。噂によると、ここで買った物以外はすべて中味を検査されるそうです。
拘留中の息子に「地方から」面会に訪れた、「老いた母親」が「夜なべ」して作った、息子の好物の「五目ちらし寿司」。
息子の手に渡った段階では、拘置所側による「危険物」検査のため、グチャグチャにかき回されて「″ゴミ″ちらし寿司」にされているそうです・・・・・噂ですけどね。


それで、これなんですね。今回の問題の「謎のレリーフ」
これは、綾瀬川に面した塀に刻まれています。
塀は鉄筋コンクリート製で、砂利と粉砕した煉瓦を練り混んであり、表面を削ると煉瓦の欠片が露出してきます。
   
拘置所の塀に何故? こんなレリーフがあるのか? 人騒がせないたずら者が勝手にやったとは考えられません。デザイン的になかなかのものです。昨日、今日作ったものではありません。削られた表面から判断して、かなりの年数が経っています。

制作するにもかなりの日数が必要です。塀はすべて見渡せるように監視カメラがついています。それに定期的に巡回もしている筈です。

結論として、明らかに拘置所側の何らかの意図に基づいて制作されたものと「断定」します。
しか~し!。しかしですよ。
それでは、その意図は何か? うーん。 まったくわからん。
誰か教えて下さい。 

※お知らせです
 12日から14日までは旅行で、ブログの更新はお休みします。疲れていなけれ  ば、14日の20時以降にアップします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする