歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

元三大師と祖父のお話

2009年11月24日 | お寺・神社
昨日の続きです。

自転車を抱え登って来た石段を振り返ります。なんとも、長く、深い樹木に被われたた“参道”と云うよりも“山道”でした。

表門である南山門より、いよいよ境内に入ります。


入り口の説明板に、“日本野鳥の会”の創設者である、あの“中西悟堂”がここを訪れて、「野鳥の天国」と云ったそうです。いつの頃かは不明ですが、その時と、今でも、ほとんど自然環境は変化していないと思われる風景でした。

変わらない自然環境ですが、“寺そのもの”は大きく変わったようです。

天台宗の“別格本山”で、正式には“正覚山蓮前院安楽寺”云い、正月3日に生まれたことで“元三大師”と云われた、平安期の僧侶“良源”を祀ったことから、別名“元三大師”と呼ばれているそうです。

昭和30年の火災により、南山門と、


鐘楼を残して、本堂などは全て消失したそうです。でも、山門も、鐘楼も、それほどの年代を感じる建築ではありません。江戸後期か明治の初期かと云ったところだと? 


それから、“いろいろな事”が変わったそうです。

それで、この回を最初から読んでいた方は、そろそろ、寺と私との“いわく因縁”はどうした?と、お思いでしょう。まぁ、タイトルから察しがつきますけどね。

そうなんです。実は、何を隠そう! この元三大師安楽寺は、母の父である、私の祖父が修行をした寺だったのです。


話は明治の世になります。

寺の近くの貧しい家に生まれた祖父は、夜な夜な、寺の近く街灯の明かりで勉強をしていたそうです。

そこを通りかかった当時の住職、“弓削俊澄”大僧正さんの眼にとまり、それほど勉強がしたいなら、寺で修行しながら勉強をさせてやると云われたのでした。


それから、朝は暗いうちから起きて、寺の掃除をするのですが、冬でも、裸足で、凍り付いた水を割って雑巾を濯ぐ、厳しい修行の毎日だったそうです。


それでも、三度の食事が食べられ、勉強する時間を与えられ、大学まで出してもらったそうです。

もぅ。ホントに明治の時代、苦労、苦学、困窮、苦節の、大変なお話なのです。


でも、しかし、それでも、何故か? その祖父は、かなり、“手が早かった”のか、今で云う“できちゃった結婚”なのでした。

祖母は、それなりの資産家の長女で、祖父は貧乏学生で、かなり反対されたそうです。しかし、母を身ごもり、その結果、二人は結ばれたのでした。日本髪を結った祖母の若い頃の写真を見たことがあるのですが、かなりの美人でした。

祖父は明治31年(1898年)の生まれで23歳、祖母は19歳、大正11年5月、婚姻届けと、出生届けを同時に提出したのでした。

そういう、いろいろな、偶然と、出会いと、強引な結ばれ方と、その結果、ここに、いま私が存在しているのであります。

それで、まだ、元三大師と、弓削俊澄大僧正と、祖父と、そして、あの“今東光”との、いろいろな関わりがあるのです。

その話は、次回とします。


それでは、また明日。


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