歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

千姫の戒名二つの意味?

2009年11月20日 | お寺・神社
昨日の続きです。

本堂に向かって左手、深い木立に包まれて“千姫様”の墓所があります。


ここで、ちょっと、歴史のお勉強をします。

千姫様は家康の子、2代将軍“秀忠”の長女として、1597年に生まれています。母は織田信長の妹お市の方の娘“お江”です。なとも、スゴイお方なのです。

最初の結婚相手は、豊臣秀吉の子“秀頼”、その後、、大坂冬の陣(1614)、夏の陣(1615)で秀頼は自害し豊臣家は滅亡します。千姫は、家康の命で、落城する大坂城から救出されます。

家康が亡くなった元和2年(1616)、早くも、桑名藩主“本多忠政”の嫡男“忠刻”と2度目の結婚をし、元和4年(1618)に長女勝姫、元和5年(1619)に長男幸千代を産みました。

しかし、千姫30歳を迎えた寛永3年(1626)、夫忠刻が結核で突然死去、落飾して“天樹院”と号し、寛文6年(1666)70年の生涯を終えるのです。

混乱、反乱、戦乱、陰謀、政略、策略、計略・・・・・・、いろいろと渦巻く、徳川体制の創世記から前期を生き抜いた、波瀾万丈の生涯だったようです。独り身になった後は、江戸城大奥で大きな権力を持ち、幕府の政治に蔭で影響を与えていたようです。

享年70歳。墓所は、ここ弘経寺の他、“小石川伝通院”と、

【3年前に撮ったものです。今年は一度も東京へ行っていません】

京都知恩院の三カ所にあるそうです。いろいろ調べると、お骨は伝通院と知恩院に納められ、ここには“遺髪”が納めらているようです。

それで、戒名なんですが、伝通院の戒名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」と記されているのですが、


墓所を、


よく見ると、墓石には、


“天樹院殿栄譽源法松山大姉”と刻まれているのてす。


「天樹院殿栄譽源法松山」で一緒で、その後、こちらは“大姉”と刻まれているのです。“大姉”は一般的に女性の戒名の最後についています。

“禅定尼(ぜんじように)”は、在家のまま仏門に入り剃髪した女性を云うそうなのです。最初の夫“秀頼”が大坂城で自害した後に、形式的に出家をしていますから、そのへんで“禅定尼”なのかも知れません。

伝通院が浄土宗で、弘経寺が真言宗と云うことで、その違いなのでしょうか? 浄土宗では“禅定尼”が院号の最後に付く決まり文句で、それが、真言宗では“大姉”となるのでしょうか?

何となく、「大姉・禅定尼」の上のところがまでが、本来故人の戒名なのでしょう。たぶん。

それにしても、千姫様の生涯は、たいへんにドラマチックであったようです。もうすぐ終了する、連ドラ「天地人」にも、千姫様はご出演されています。お姫様としては、人気ナンバーワンだと思います。


美人で聡明だったと伝えられている千姫様、水海道で、千姫で、美人で、聡明ときたら、やはり、千姫役は、地元の“羽田美智子さん”が演じてほしいものです。

いつの日か、羽田美智子さん演じる千姫を見たいと思います。時間はもう、わずかしか残されてい・・・・・・のです。

でも、毎年開催される“千姫まつり”で、そのむかし、羽田さんは千姫をおやりになったかもね?

千姫の生涯を思い、そして、羽田さんの女優としての将来を思い“ウェルかめ”の視聴率を心配しつつ、弘経寺を後にしたのであります。

それでは、次回は、“いわく因縁”のある“元三大師・安楽寺”です。


それでは、また来週。


※2日間パソコンは順調に動いております。

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