歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

龍ヶ崎で廃墟の洋館は関東鉄道初代社長の竹内綱氏の農場の建物であの「吉田茂」は竹内家の養子でした

2007年02月28日 | 龍ヶ崎の風景

昨日の続きです。

廃墟と「吉田茂」の関係を、早速調べてみました。こちらの方も「割とあっさり」判ってしまいました。

『異界への招待状』という「怪しいHP」に載っていました。
その中で、「洋館」についての説明があり参考文献として、

『龍ヶ崎・牛久・取手の目で見る百年の歩み』・・・「牛久市立図書館所蔵」

と、なっていました。多分これですと「龍ヶ崎市立図書館」にもありそうですね。

では、これが当時の写真です。


二階建で、左手が平屋。土台の「石積み」、窓の「位置、形状」間違いないですね。何故か、この写真で見ると「大きく」感じます。瓦屋根が「無くなって」いる分を「差し引いて」も、昨日の「実物」はもっと「小さく」見えました。

全て建物の周囲に草木が生い茂り、全体を一望できる距離から「眺める」ことが「不可能」だった為でしょうか?

前に並んで立っている人達の「身長」が、建物と「比較」して、かなり「低く」見え、より建物が大きく感じます。

それで、「吉田茂さん」との関係です。

【資料の要約】です

①洋館は「竹内農場」の「一部」であり、他にも、「事務所棟」「農舎」「畜舎」が点在していた。

②農場一帯の土地(現永山町)は、「国有林80町余り」を、大正元年に「竹内綱」が「払い下げ」を受ける。

②農場は「竹内綱」によって「大正8年着工」し「翌年」に完成。総工費は約7万円。建設は、東京の「大田圓七建設部」が請け負う。

③「竹内綱」は、「土佐藩の士族」で「板垣退助」の「自由党幹部」で、明治23年以降、3期代議士をを務める。また、「高島炭鉱」「京釜鉄道」「芦谷炭鉱」「茨城炭鉱」を経営。そして、現関東鉄道の「初代社長」


        【 竹内 綱 】

④竹内綱には、長男「明太郎」以下「14人」の子供がいて、「五男」が「茂」である。「茂」は生まれてすぐに、親友の「吉田健二」に引き取られ「養子」となり「吉田」姓を名乗る。

⑤竹内農場は、大正末期の「炭鉱不況」で「経営不振」となり、一部の耕作地と「西洋館」を残して「売却」された。

⑥昭和5、6年頃には関係者の全てが東京へ引き上げて行った。

以上です。

これからすると、「竹内農場」は「大正9年」に始まり、「大正末期」に閉じられています。ホントに「僅か7年」ほどの命でした。

あの「赤煉瓦」の「西洋館」は、華々しい「現役時代」は「僅か7年」、それから「木立の中で」、誰からも忘れられ「ひっそり」と「朽ち果て」続けて「80余年」・・・・・・「何か」ホントに「可哀想」です。

「もう一度」陽の当たる場所に出してあげたい、そんな気持ちになります。
何とかしてあげたいですね。

「諸岡邸」の「赤煉瓦」の「塀」より、何倍も価値のある「建築物」ですよ。ホントに! 龍ヶ崎市として「保存」を考えて頂きたい。 





コメント (4)
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