「上村松園展」に行く。国立近代美術館。
朝いちばんに出かけたのに、もう入り口は行列。それでも、はやばや到着した甲斐あって、たっぷりと時間がとれた。
初期の作品からじっくりながめていって、目がいたくなるほど、まじまじと。
きれいねえ……なんども心の中でためいきをつく。
しげしげと見つめたのは、女人たちの額髪の生え際。
それというのも、「紫式部日記」に、一条帝が、中宮彰子第一皇子御産のあと、土御門邸に行幸されたくだり。
迎える紫式部の同僚の中宮仕えの女房たちの正装のさまを、紫式部がこんなふうに綴っていたこと、以前からわたしの興味のひとつだったから。
……みな精いっぱい着飾り、我劣らじとお化粧していれば、女絵の美しいのにそっくりで、差別もつけられない……こんな状態では、貌を隠した扇の上に出ている額の様子が、不思議にもそれぞれの容貌を上品にも下品にも見せるようだ……。
これはどういうことなんだろう?と読むたびに考えた。
それで、松園さんの美人画や、鏑木清方さんの絵を見るとき、ことさら額と髪の変え際を注意して見ていたのだけれど、なるほど、薄ぼかしの肌色が毛描きにうつっていく朦朧は、ほんとにあでやかに美しい。
王朝の垂れ髪、江戸時代の島田、銀杏返し、洗い髪に鴛鴦髷、また元禄風と、さまざまな髪型が精細に描かれているけれど、額のあわあわとした彩り、紫式部の観察した王朝の濃化粧の上品なうつくしさとは、こんなふうかしら、などと思い思いしながら。
そうして、ひさしぶりに「焔」に対面した。
記憶は、時間と主観の混沌のなかで、自分勝手に変容する。
じかにまみえるこの女人像の彩りは、お能ならば「紅(いろ)なし」で、青、緑、黄色系統の、しぶいものなのだった。
でも、わたしの記憶のなかでは、題名どおり、火を噴くような朱色の絵姿に変わっていた。そのことに驚く。
貌にふりかかる鬢のほつれ髪をくわえ、上半身をゆらりとひねって、あらぬかたを眺めやる情念をたたえたまなざし、鉄漿をつけた歯に、ぐい、としごかれる髪筋のかすかなきしみが聞こえそうな迫真。
焔の気配などどこにもない、高雅な彩色の衣装は、でも蜘蛛の巣に藤が絡み揺れる、というぞっとするような艶冶。
この女人そのものが焔なのだろう。
松園さんは、この絵について、簡素でおだやかな思い出を綴っていらっしゃる。
書き留められたその言葉に焔は見えない。
もう一枚のお目当て「序の舞」は後期の展示とのこと、ざんねん。
あちらは、隠れなくはれやかに、朱の振袖の女人が舞う。
もう一回いきたいな……