世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
ギリシャ神話あれこれ:ペルセフォネの誘拐
私がギリシャ神話を読んでいた頃、それに感化されたのかどうか分からないが、クラスのお嬢系の女子2、3人も同じものを読み始めた。彼女らのあいだで一番人気だったのは、心優しく可憐な美少女ながらも、冥王にさらわれた悲劇のヒロイン、ペルセフォネだった。
もちろん、お嬢系の彼女らは大人びているから、ゴッコ遊びなんてしない。けれども、淑やかにキャアキャアとはしゃぎながら、何かとこの悲劇の乙女に感情移入していた。救いのない悲劇に、センチメンタルに酔い痴れていた。
ねえ、環境の影響って大きいよ。死の世界の妃なんだよ。怖るべき、厭うべき、死の女王だよ。何年もそんなところにいてごらんよ、いくら里帰りしてるって言っても、美少女の容貌だって、暗くなって、不機嫌になって、最後には物怪並みに物凄くなるよ、きっと。
……そう思ったけれど、黙っていた。
デメテルにはコレという一人の娘がいた。普通、ペルセフォネ(プロセルピナ)として知られている。彼女は冥府神ハデスの妻で、冥界の女王。母デメテルと同じく豊穣の女神で、四季を司る。
ペルセフォネの父は、例によってゼウス。ある日ゼウスは、姉デメテルに言い寄るが、デメテルのほうは嫌がって、蛇に姿を変えて逃げる。ゼウスも蛇になって追いかけ、二匹は蛇の姿のまま、絡まり合い、結ばれてしまう。
結果、蛇が生まれるのかと思いきや、可憐な乙女ペルセフォネが生まれる。が、この出生の怖ろしさが、彼女の運命を予見しているよう。
デメテルは娘ペルセフォネを溺愛し、ニンフ(妖精)たちに守らせて大切にしていた。ある日、ペルセフォネがニンフたちと花摘みをしていた折、彼女は見事な水仙を見つけて、思わずそれを手折る。
水仙は死の花とも言われる。途端に大地が大きく口を開け、黄金の馬車が姿を現わす。蒼白な死の馬を駕するのは、冥王ハデス。彼はペルセフォネを抱きかかえ、泣き叫ぶのも構わずにそのまま連れ去ってしまう。この誘拐には、ハデスの弟でありペルセフォネの父でもあるゼウスの黙認もあったのだとか。
当然、デメテルは激しく悲しみ、娘の行方を尋ねてまわる。そしてとうとう、太陽神ヘリオスに告げられて、実はゼウスがハデスに、ペルセフォネを花嫁にやったのだと知る。
デメテルは悲しみに加えて、激しく憤る。神々を恨み、神々の世界を離れて、人間に姿を変えてさまよう。この間、ポセイドンに言い寄られたり、メタネイラの館に身を寄せたりと、いろいろある。
デメテルの悲しみと怒りはおさまらず、とうとう、世界に飢饉をもたらす。大地は実を結ばなくなる。このままでは人類は飢えのために滅びるだろうと察したゼウスは、ついに折れて、ペルセフォネをデメテルのもとへ帰らせることにする。
ところで、ペルセフォネは冥界で、柘榴の実を4粒、口にしていた。冥府の食べ物を口にした者は冥府にとどまらなければならない。で、一度は母デメテルのもとに帰ったペルセフォネも、1年のうち4ヶ月だけ、冥界に戻ることになる。この間、デメテルは鬱になり、穀物の一切育たない冬がやって来るのだという。
ちなみに、ペルセフォネは父ゼウスに言い寄られ、ザグレウスという子を産んだ(彼は再生して酒神ディオニュソスとなった)、という伝もある。
乙女座はペルセフォネ、あるいはデメテルの姿なのだとか。
あの頃お嬢系だった女子たちは、あれから、優等生よろしく大学に進学して文学を学び、危なげなく府庁などに就職した。多分、幸せな結婚と幸せな家庭を得たのだと思う。
画像は、ロセッティ「プロセルピナ」。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828-1882, British)
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読書とドライブと恋
サガンの小説は、現代の都会の恋愛の一つのスタイルを描いている……のかな? 主人公のパリジェンヌたちは、読書を趣味とし、高級車を颯爽と乗り回し、映画のような軽やかな恋をする。
生活苦などまるでない男女の、愛と孤独。恋する女性たちは、読書やドライブを楽しみ、お酒や煙草をたしなむ。恋人たちの繊細に揺らぐ微妙な感情が、いとも簡潔な文体で淡々と描かれる。
彼らの感情は決して爽やかではない。むしろ独占欲や嫉妬といった利己的な感情ばかり。が、サガンはそれを汚らしく感じさせない。歪んだり崩れたりしているものを、美しく描く。だからきっとウケたんだろうな。
読後は決まって、気だるい倦怠を感じる。
「悲しみよこんにちは」は、南仏の海岸の別荘を舞台に、母親と死別し、父親と二人で暮らす17歳の少女セシルが、父が愛人と再婚する現実を許容できず、二人の関係を引き裂こうと試みる話。その間セシルも恋をし、海辺のヨットで初めて恋人と抱き合う。
幼く我儘な、純粋で屈折した、多感で残酷な青年の、混沌とした感情が、流れるようにさらりと語られる。
ところで以前、水野美紀扮する、27歳にして処女というコンプレックスを持った獣医が、藤木直人扮する憧れの美青年を相手に、初体験しようと奮闘するドラマがあった。教養ありげなこの獣医、自分も「悲しみよこんにちは」のように海辺の別荘で初体験したい、と熱弁する。なんだかんだで結局、初体験した後、落ち着こうとして祖母から煙草を貰うが、手が震えて火をつけることができない。
この、手が震えて、貰った煙草に火がつかないシーンは、「悲しみよこんにちは」からそっくりそのまま持ってきたもの。……でも、このシーンの意味、どのくらいの人が気づいたんだろうな。
画像は、モリゾ「ニースの浜辺」。
ベルト・モリゾ(Berthe Morisot, 1841-1895, French)
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エンド・オブ・オール・ウォーズ(続)
アーネストの周囲で学ぶ捕虜たちにも希望が灯り、次第に変化が現われる。
自分勝手だったヤンカーは、自ら人身御供となって打擲される。ダスティは、自分たちを密告したキャンベル少佐の身代わりに磔となる。このあたり、アーネストの思想であるキリスト教的犠牲の精神を感じる。
そこにあるのは、
「正しい人間が現われたらどうなるか。鞭打たれ、拷問を受け、鎖でつながれる。あらゆる責苦を受け、磔にされ、人前にさらされる」というプラトンの言葉。
敵国同士でありながら、同じ学者肌の人間同士として心を通わせる、アーネストと、日本軍の通訳兵ナガセ。ナガセは、眼にする日本軍の非道や収容所捕虜の惨状に心を痛めながらも、どうすることもできずにいる。アーネストの学校が認められ、捕虜たちの心の支えになる本や手紙が許されたとき、ナガセは、謙虚にではあるが、自分のことのようにそれを喜ぶ。
捕虜にも部下にも自分にも、等しく厳しい軍曹イトウ。彼もまた、慰安婦にだらしなく喜び、のちに敗戦の気配を見て取ると金目のものを抱えて一人で逃げるような、いい加減な上官に腹を立てながらも、服従せざるを得ない。そして、自分とは異なるアーネストたちの思想に、明らかに戸惑う。自分で命令してダスティを磔にしたにも関わらず、十字架の上のダスティを見上げるイトウの眼からは、涙がこぼれ落ちる。
捕虜の側だけでなく、日本兵たちもまた、それぞれに葛藤や格闘を抱えている。日本軍のイメージとしては、一方的でない、随分しっかりとした描かれ方だと思う。
眼の前で上官を処刑されて以来、日本兵たちへの復讐を誓うキャンベル少佐。彼にとって収容所を生き抜く希望とは、憎しみだった。
解放が目前に迫ったとき、少佐はイトウを捕らえ、殺そうとする。アーネストに止められ、彼を罵倒する少佐。が、隙をついてイトウが自決した途端、少佐は泣き叫んでイトウを胸に抱きしめる。
戦争が終わり、故国に帰ったアーネストとナガセが、結局、それぞれ牧師と僧になったのには、戦争から受けた若い二人の心の傷の深さを感じてしまう。
「麦は地面に落ち、死なない限り、ただの麦だ。死んで初めて、実りをもたらす」
……死んだ麦も、それがもたらす実りも、多くの日本人は見ずにいる。憲法9条改悪も射程内に入ってしまった。
画像は、ルーベンス「磔にされたキリスト」。
ピーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577-1640, Flemish)
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エンド・オブ・オール・ウォーズ
相棒のモットーの一つに、「あらゆる事実を知らなければならない。が、それらに囚われてもならない」というのがある。
で、先日、パソコンTVで無料配信される映画で、「是非これは観ておきなさい」と強く言い含められたのが、これ、「エンド・オブ・オール・ウォーズ(To End All Wars)」(監督:デヴィッド・カニンガム、出演:ロバート・カーライル、シアラン・マクメナミン、キーファー・サザーランド、他)。私は戦争映画のような重い映画が苦手なので、かなり渋ったけど、やっぱり観た。
原作は、第二次大戦で日本軍の捕虜となったスコットランド兵、アーネストの手記である「クワイ河収容所」。映画のストーリーもドキュメンタリー・タッチで、派手な戦闘シーンやヒロイズム臭がなく、淡々と展開する。
「人は希望を持つと苦しむが、希望を失えば生きてはいけない」というのが、この映画を貫く主張。単なる反戦や、日本軍の残虐を訴えたものではない。
タイ-ビルマ間のジャングルを走る泰面鉄道の建設のため、強制労働に従事させられるスコットランド兵捕虜たち。多くの死者を出したこの鉄道は、「死の鉄道」と呼ばれる(実際には、イギリス軍捕虜以上に、現地タイ人たちが命を落としているらしいが、これについては取り上げられていない)。
人間として扱われない捕虜生活の上に、過酷な敷設工事、さらに拷問や処刑。死と隣り合わせの絶望的な極限のなかで、次々と生きる意味を見失う捕虜たち。
志願前、教師を志望していたアーネストは、収容所で「ジャングル大学」という学校を開く。守らなければならない最後の尊厳とは何か、を問うことで、生きる力を見出す。
To be continued...
画像は、デタイユ「装備を持った兵士」。
エドゥアール・デタイユ(Edouard Detaille, 1848-1912, French)
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哀愁
また映画を観てしまった。どーもなー、夜眠れないと映画を観てしまうなー。
かの「哀愁(Waterloo Bridge)」(監督:マービン・ルロイ、出演:ヴィヴィアン・リー、ロバート・テイラー、他)。甘く哀しく切ない、というのはこういうことを言うのだろう。
が、古典的純愛映画はどうも苦手な私。戦争で引き裂かれる悲恋なら、なおさら苦手な私。……私は単純なハッピーエンドが一番好き。
舞台は、第一次世界大戦下のロンドン。空襲警報が鳴り響くウォータールー橋上で、イギリス将校クローニンはバレエの踊り子マイラを助け、連れ立って地下鉄に避難する。その夜二人は、蝋燭の灯るなか、「別れのワルツ(蛍の光)」を踊る。
二人は恋に落ち、結婚式を挙げようとするが、クローニンの突然の出征のために、そのまま別れる。彼の無事を祈りながら健気に待つマイラの眼に、クローニン戦死の知らせが飛び込む。失意と困窮から、マイラは娼婦に身を落とす。
物語の要所々々に登場するのが、マイラのお護りとウォータールー橋。二人は橋上で出会い、マイラは車に轢かれそうになりながら、道路に転がり落ちたお護りを拾う。大切にしていたお護りだが、彼女は戦地に赴くクローニンにそれを渡す。
橋上で男に声をかけられたのをきっかけに、彼女は娼婦となる。クローニンと再会し、彼は預かっていたお護りを彼女に返す。彼のもとを去ったマイラは、ウォータールー橋で通り過ぎる車に飛び込み、そばにはお護りが転がっている。
悪意が人を死に追いやるとき、人は悪意を憎めばよいけれど、この物語に大きな悪意はない。マイラを追いつめたのは、彼女自身とクローニン、彼の家族らの良心や善意。ある種の気高さや、すれ違いへの溜息が、物語に漂っているのは、そのせいだと思う。
ところで、女性は困窮だけが理由なら、なかなか売春はしないような気がする。また、困窮だけが理由で売春した場合、心の傷はなかなか致命的とはならないような気がする。
困窮に絶望が加わったとき、それが困窮そのものに対する絶望にせよ、心の傷は致命的となるように思う。
私も昔、一時期、そういう状況に陥ったところで知ったことか、という心境になったことがある。「女が簡単に稼げる方法だと言う。男には分からないのだ」と吐き捨てるキティの台詞には、自己防衛と同時に自己嫌悪、そしてそれにつけこむ男性すべてに対する嫌悪と敵意を感じる。
が、分かる男も稀にいるというのが、世の中の救いかな。
ウォータールー橋は現在では、コンクリートのモダンなアーチ橋に架け替えられているのだとか。
画像は、モネ「ウォータールー橋、曇り」。
クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926, French)
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