ちゃみおか発

鉄道写真を中心に模型工作や旅行の記録を紹介します。

【鉄道写真】8111Fの撮影~東武鉄道8000系リバイバルカラー(3)~

2012年08月31日 | 私鉄 関東.電化路線


(夕暮れの8111F回送)

〔 8111F : 東武野田線 豊春-八木崎 〕

2012年8月30日の撮影である。

さすがに三日連続の撮影行とはならず、昨日の撮影分だ。
日が暮れた後とあってはシャッタースピードを落とすしかなく、1/400での撮影となった。
広角側ではぶれやすいが、列車を追いながら撮ったので何とかなったものである。


〔 8111F : 東武野田線 豊春-八木崎 〕

振り向きざまに、後追いでも撮影した。


〔 8111F : 東武野田線 豊春-八木崎 〕

三枚目の画像は、大分トリミングしている。
雰囲気だけでも、と思って載せてみた。

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【鉄道写真】8111F[回送]~東武鉄道8000系リバイバルカラー(2)~

2012年08月30日 | 私鉄 関東.電化路線


(「回送」表示の8111F回送)

〔 8111F : 東武野田線 豊春-八木崎 〕

2012年8月30日の撮影である。

昨日に続いて8111Fを撮りに行った。
駅撮りでは満足がいかないので、ちょっとだけ足を延ばしてみた。

夏の夕暮れには暑さが残り、1キロメートルほどの散歩道もじっとりと汗を掻いた。

ほんの五分前は、もう少し明るかったのだが、太陽が沈めばあっという間に暗くなる。
iso感度やらシャッタースピードやら絞りやら、いろいろと調整して何とか撮影できた。

撮影が終われば、そのまま最寄りの駅まで引き返す。


(20000系と並んだ8111F)

〔 20000系,8111F : B1605T 東武スカイツリーライン 春日部 〕

春日部まで来ると、昨日と同じ場所に8111Fが停まっていた。


(「大宮<->とうきょうスカイツリー」の表示)


日比谷線直通の20000系が出て行くと・・・。


(出発を待つ8111F)

〔 8111F : 東武スカイツリーライン 春日部 〕

明るい時間帯に撮影できそうなのは、週末だけである。

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【鉄道写真】黄昏の8111F~東武鉄道8000系リバイバルカラー~

2012年08月29日 | 私鉄 関東.電化路線


(春日部で佇む8000系)

〔 8111F : 東武伊勢崎線 春日部 〕

2012年8月29日の撮影である。

イベント列車の任務を終え、北春日部に帰る途中を捉えたものだ。
勤め人の仕事帰りの寄り道では、この程度の写真がせいぜいである。


(日は暮れて)

〔 10030系 : 2411 東武スカイツリーライン 春日部 〕

少し雲が出ていたが、空は綺麗な黄昏色であった。


(茜空を映して)

〔 8000系 : 1871A 東武野田線 春日部 〕

8111Fは30分ほど停車していたようで、その間に夕景に浮かぶ列車の撮影などして過ごした。


(ヘッドライトに灯がともり、そろそろ出発)

〔 8111F : 東武スカイツリーライン 春日部 〕



(光量がないので流してみたが・・・)

〔 8111F : 東武スカイツリーライン 春日部 〕


(闇に消えゆく8111F)

〔 8111F : 東武スカイツリーライン 春日部 〕

出発まで粘ってみたが、やはりこの時間は暗すぎた。

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【鉄道資料】身延線の旧形国電(7)~車輌の変遷(中)~

2012年08月26日 | 国鉄 身延線

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※ 写真をクリックすると少し大きくなります。

4.「車両称号規程」の改正〔昭和34(1959)年6月1日実施〕

photo.0014〔 モハユニからクモハユニに改められた(1980.08.15 富士) 〕
0014 新性能電車の登場で、それまでの2桁で表す形式を旧性能車に割り当て、新性能車は3桁の形式称号とし番号は称号の後に「-(ハイフン)」を付して表記した。
 また、中間電動車は「モ」のままで、制御電動車の称号は「クモ」とした。さらに身延線の低屋根改造車は普通屋根の車輌と区別するために800代が与えられ、その結果、モハ14形低屋根車はクモハ14形800代に、モハユニ44形低屋根車はクモハユニ44形800代に改番された。
 新性能車は1番から、旧性能車は0番から付番されることになって、クモハ14800やクモハユニ44800が登場している。

 

5.制御電動車の20m化〔昭和37(1962)年~昭和45(1970)年〕

 合造車以外の制御電動車は、長い間17m級のクモハ14形が使用されていたが、輸送力増強のために20m化を進めることとなった。
 昭和37(1962)年に飯田線から戻ってきたクモハ41016(前のモハニ41016)のパンタグラフ取付部分を低屋根化し、クモハ41800としたのを手始めに、翌年にはクモハ41095を低屋根化してクモハ41850とした。

photo.0015〔 17m車を置き換えた20m車のクモハ51(1981.08.15) 〕
0015 本格的に20m化が推進されたのは昭和43(1968)年以降で、昭和45(1970)年度中にクモハ14形を淘汰する計画であった。

 昭和41(1966)年に飯田線で使用されていたクモハ43形およびクモハ51形を皮切りに、関西からはクモハ51形とノーシルノーヘッダーのクモハ60形、関東からは松戸から御殿場線に入っていたクモハ60形を次々と低屋根化し、偶数向きに揃えて身延線に入線させた。なお、御殿場線のクモハ60形は沼津区配置であり、低屋根化されたのが身延線車輌の富士から沼津への移管後であったために所属の変更はなかった。

 20m化は昭和45(1970)年にかけて実施され、計画どおり同年8月までにクモハ14形は交換された。
 役目を終えたクモハ14形は、他線に移ることなく廃車されている。

 また、この時期に大糸線からクモハユニ44000が入線し、低屋根化されて44803に改番された。他のクモハユニ44形が屋根全体を低くしたのに対し、パンタグラフ部分のみを低屋根化したスタイルとなった。


参考文献

鉄道ファン1962年12月号,1964年1月号,1969年8月号(交友社)
旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年)
白井良和著,飯田線の旧型国電(レイルロード,1999年)


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【鉄道資料】身延線の旧形国電(6)~車輌の変遷(上)~

2012年08月25日 | 国鉄 身延線

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※ 写真をクリックすると少し大きくなります。

 戦前型旧形国電の引退した昭和56(1981)年までに、身延線に配置された車輌の変遷を見てみよう。
 ここでは、昭和25(1950)年度の横須賀線車輌入線以降の旧形国電の変遷を追う。

1.横須賀線車輌の入線〔昭和26(1951)年〕

photo.0012〔 横須賀線から最初に入線した32系クハ47003(1981.08.15 西富士宮) 〕
0012 32系でほぼ統一されていた横須賀線は、昭和25(1950)年度に関西から42系が転入、昭和26(1951)年度には新形の70系電車が投入されて20m化を実施した。余剰となった17m級電動車を含む32系は、一部の付随車を残して飯田線および身延線に転出した。

 横須賀線から身延線へは、昭和25(1950)年10月24日にクハ47003が入線したのが最初であり、これら32系車輌によって富士身延鉄道の社形電車は昭和26(1951)年度までにすべて飯田線に転出した。

 昭和28(1953)年3月現在の車輌は、モハ32形16両、モハ62形2両、モハニ41形1両、モハユニ44形2両、モハユニ61形1両、モハ40形1両、クハ65形1両、クハ47形9両、クハ58形4両、クハ77形5両、クハ38形2両、クハ17形1両の計45両(うちクハ17形1両は事故復旧用、昭和28(1953)年6月1日にクエ9120に改造、昭和38(1963)年8月1日廃車)である。

 

2.「車両称号規程」の改正〔昭和28(1953)年6月1日実施〕

 電車の称号は、車輌の全長(17m車か20m車か)、客用扉の数および車内設備による形式分類に改められ、身延線の形式は、モハ32形およびモハ62形をモハ14形に、モハユニ61形をモハユニ44形に、クハ58形をクハ47形に、クハ77形をクハ18形に、クハ38形をクハ16形に、それぞれ改番している。

 改番当日、昭和28(1953)年6月1日現在の車輌は、モハ14形18両、モハニ41形1両、モハユニ44形3両、クハ16形2両、クハ18形4両、クハ47形16両、クエ9120形1両の計45両である。

 改番後にも車輌の移動があり、昭和29(1954)年12月1日現在の車輌は、モハ11形1両、モハ14形20両(100代および110代を含む)、モハニ41形1両、モハユニ44形3両(100代を含む)、クハ47形23両(100代を含む)、クエ9120形1両の計49両である。

 

3.更新修繕II による電動車の低屋根化〔昭和30(1955)年~昭和32(1957)年〕

photo.0013〔 更新修繕II により低屋根化されたクモハユニ44(1981.07.16 富士) 〕
0013 戦前の旧形車すべてを対象にした更新修繕が「更新修繕I」(昭和24(1949)~昭和27(1952)年度)および「更新修繕II」(昭和28(1953)~昭和33(1958)年度)の二次に亘り実施された。

 身延線の電動車は、パンタグラフ折りたたみ高さの関係(電動車の低屋根化参照)から更新修繕II において低屋根化が実施された。しかし、この時点では改番は実施されていない。

 昭和31(1956)年12月1日現在の車輌は、モハ11形1両、モハ14形20両、モハニ41形1両、モハユニ44形3両、クハ16形1両、クハ47形23両、クエ9120形1両の計50両である。

 特筆すべきこととして、昭和31(1956)年から翌昭和32(1957)年の僅かな期間、伊東支区からモハ42008が入り、豊橋区に転出している。昭和31(1956)年12月1日には伊東支区の所属だったので、年末から翌年の3月よりも前までである。身延線に純粋なモハ42が入ったのはこの時だけではないだろうか(後年モハ42改造の51830が入線)。

 モハ14形0代およびモハユニ44形0代以外は低屋根化は実施されず、モハ11形とモハニ41形などを含めて飯田線に転属した。


参考文献

鉄道ファン1963年3月号,1969年8月号,1970年5月号(交友社)
旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年)
沢柳健一・高砂雍郎編,決定版旧型国電車両台帳(ジェー・アール・アール,1997年)
沢柳健一著,旧型国電50年I(JTB,2002年)
沢柳健一著,旧型国電50年II(JTB,2003年)
鉄道ピクトリアル アーカイブセレクション17 国電復興時代1950(鉄道図書刊行会,2009年)


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【鉄道資料】身延線の旧形国電(5)~路線と運転(下)~

2012年08月24日 | 国鉄 身延線

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3.身延線車輌の他線での運用~東海道本線と中央本線の区間運転~

 身延線にモハ14形が入線した頃、80系電車は登場していたものの本線では依然客車列車が主体であった。
 富士電車区に配属されたモハ14形やクハ47形などの車輌は、富士側では東海道本線の富士・島田間(文献により沼津・島田間、富士・静岡間とするものがあり時期によって違っていたものと思われる)、甲府側では中央本線の塩山・甲府間(甲府以西電化後は韮崎まで、時期により小淵沢まで)の区間運転に使用された。

 甲府側の運用が身延線の間合いであったことに比べ、東海道本線の運用は専用に列車が用意されていたが、身延線用の低屋根モハ14形が入ることもあった。普通屋根と低屋根のモハ14形の番号は混在し、運用面での苦労があったようだが、昭和34(1959)年の称号規定の改正によって低屋根車が800代の番号を付けると問題は解消した。
 静岡運転所が開設されて東海道本線の列車が配置されると、身延線車輌の東海道本線の運用は消滅した。

 中央本線の区間運用に入った身延線車輌は、富士周辺の線路付け替え以前は、中央本線用の70系(山用71系)電車とは奇数・偶数の向きが逆であったが、連結の必要はなく問題はなかったようである。
 中央本線における運用は、昭和41(1966)年の松本電化および115系電車の導入後も長く実施されていたが、新製の115系4両編成一本(クモハ115-1065・モハ114-1159・サハ115-1027・クハ115-1208)が増備されて三鷹電車区(西ミツ)に配属されると、身延線車輌による中央本線の運用は、昭和55(1980)年3月5日(3月18日との記録もあり)に終了した。

photo.0008〔 甲府駅中央本線ホームの身延線車輌 〕
0008 以降も甲府駅身延線ホームから中央本線竜王方の留置線への回送運転は行われており、甲府駅の中央本線ホームに旧形国電が停車する情景が昭和56(1981)年まで見られた。

4.閉塞システム~通票閉塞からCTC化まで~

 昭和56(1981)年当時の閉塞システムは、富士・西富士宮間が自動閉塞方式であり、西富士宮・甲府間が通票閉塞方式で、後者の区間ではタブレットの交換が見られた。

photo.0009,0010〔 通過列車のタブレット授受 〕
00090010
 新性能化後にCTC化が進められ、身延駅にCTCセンターを設置して昭和57(1982)年2月に完了した。

photo.0011〔 身延駅の腕木式信号機 〕
0011 CTC化前までは腕木式信号機が使用されていて、当時は全国的にも旧形国電との組み合わせは珍しく、身延線を鉄道模型で再現するうえで、一つのポイントになろう。


参考文献

鉄道ピクトリアル1972年5月号,1981年11月号,1996年2月号(鉄道図書刊行会)
鉄道ファン1980年6月号(交友社)
旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年)
沢柳健一著,旧型国電50年II(JTB,2003年)


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【鉄道資料】身延線の旧形国電(4)~路線と運転(中)~

2012年08月23日 | 国鉄 身延線

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2.富士電車区の移転と富士・富士宮間の複線化~富士駅周辺の線路付け替え~

photo.0005〔 身延線電車の所属表記 〕
0005 身延線の電車は、鉄道省時代は名古屋鉄道局富士電車区(名フシ)の所管であったが、戦後に日本国有鉄道(国鉄)が発足すると昭和25(1950)年の管理局制への移行により静岡鉄道管理局が設置され、静岡鉄道管理局富士電車区(静フシ)の所管となった。

 昭和44(1969)年4月10日に富士電車区を富士駅東方から西方に移転し、交番検査・特仕検査・中間検査Aは沼津機関区で行い、富士電車区は派出業務・仕業検査・小修繕を残して車輌無配置とされた。これにより、身延線の旧形国電は静岡鉄道管理局沼津機関区(静ヌマ)所属となって廃車までを過ごした。
 新たな富士電車区には車輌を格納する電車庫や検修庫はなく、広い留置線のような造りになった。

 同年9月28日、富士・富士宮間複線化および一部高架化に伴う富士駅周辺の線路付け替えが行われ、富士を出る列車は東回りから西回りのルートに変更された。これにより、本市場駅は移設して柚木駅に改称、竪堀駅は約400メートル西に移転した。

photo.0006〔 西側から富士駅に進入する回送列車 〕
0006 それまで甲府方面に向かう列車は、富士駅から東へ東京方面に出ていたが、線路付け替えにより東海道本線を左に見ながら西の神戸方面に向かって出発するようになった。
 東京方面からは入換なし(折り返さず)に富士宮に入ることができるようになって、宗教臨の扱いは省力化されたが、静岡からの急行「富士川」は折り返さなければならなくなった。

 身延線の列車の向きは、富士駅を基準として東京方が奇数向きと決められていたので、竪堀・甲府間では列車の向きが逆転した。向きを揃えるための処置は、切り替え前日の9月27日から以下のように行われた。

 (1) 切り替え直後の9月28日に富士発となる列車は、前日に富士電車区に入庫して準備した(富士駅基準で転向は不要)。
 (2) 一方で甲府方に滞泊する逆向きの列車は、転向のため、身延駅を境に二通りの対応をとった。
   (身延以南滞泊の列車)
     9月27日に旧線で富士まで戻り、新線を通って向きを変え、滞泊駅に戻って翌日の仕業に備えた。
   (身延以北滞泊の列車)
     9月28日および29日に新線で富士駅に到着後、旧電車区付近に仮設した列車転向用の三角線を使って転向。

 なお、富士・富士宮間の複線化は、五年後の昭和49(1974)年に完了している。

photo.0007〔 富士駅1番線ホームの東側は行き止まり 〕
0007 モハ14形以降の旧形国電の編成では、急行・準急用の80系電車を除いて付随車は奇数向き、電動車は偶数向きと揃えられていたので、写真から方向を判断するのは容易いことだった。
 線路付け替え前後で、竪堀以北の列車写真を見ると、列車編成の向きが変わっていることに気付くはずである。

 また、富士駅から東回りの旧線跡の一部約2000メートルは、富士緑道として整備されている。


参考文献

鉄道ファン1969年8月号,1970年5月号(交友社)
レールガイ1980年10月号(丸善出版,1980年)
旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年)
鉄道ピクトリアル1996年2月号(鉄道図書刊行会)


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【鉄道資料】身延線の旧形国電(3)~路線と運転(上)~

2012年08月22日 | 国鉄 身延線

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 車輌を調査するにあたり、身延線の路線および運転に関して少し触れておきたい。

 身延線は静岡県の富士駅と山梨県の甲府駅を結ぶ全長88.4キロメートルの路線で、旧形国電晩年の昭和56(1981)年当時と平成24(2012)年の現在と比べて駅の数に変わりはない。富士・富士宮間は複線、富士宮・甲府間は単線である。
 富士身延鉄道によって昭和3(1928)年に全線開通し、昭和16(1941)年に国有化(当時は鉄道省)され、昭和62(1987)年の国鉄民営化によって東海旅客鉄道株式会社(JR東海)の路線となった。

 ここでは、列車運転上の主な出来事を挙げて、身延線の特徴を探ってゆく。


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1.電動車の低屋根化~パンタグラフ折りたたみ時の離線距離確保~

 身延線は、富士身延鉄道によって建設されたトンネルの高さによる制限から、山間部を走行する車輌はパンタグラフ取付け部の低屋根化を行う必要があったことはよく知られている。

photo.0002〔 クモハ60の低屋根部 〕
0002 パンタグラフ折りたたみ時に架線との離線距離が短いとアーク放電が起きて車輌火災に至るおそれがあり、これの防止に離線距離を確保する必要があった。他線に比べて架線高さが低い身延線では、車輌側の屋根を低くすることで対応し、国有化後に投入されたモハ62形(後のクモハ14形100代)は、当時の標準形電車よりも屋根高さが100mm低く設計されている。

 その後、PS2形よりも折りたたみ時の高さが低いPS11形やPS13形パンタグラフの導入、屋根上絶縁処理の強化などにより、横須賀線から転入したモハ32形(後のクモハ14形)やモハユニ44形などが普通屋根のまま使用されていた。

 低屋根化の実施要因については、昭和25(1950)年8月24日に島尻トンネル(寄畑・内船間)内で発生した車輌火災が挙げられている。このとき、モハ62形を含む一編成4両が全焼したが幸い死者は出ていない。
 この事故は落雷による架線の切断に起因し、パンタグラフと架線の離線距離不足が発火原因の一つとされているが、当時の新聞にはモーター加熱による自然発火としている記事もあり、真相は不明である。

photo.0003〔 屋根全体が低くなったクモハユニ44800 〕
0003 さらに、昭和26(1951)年に発生した桜木町事故を受け、屋根の絶縁対策と共にパンタグラフ折りたたみ時の離線距離が見直された。身延線はパンタグラフ折りたたみ高さを3950mm以下(後の20m車は3960mm以下)として、昭和30(1955)年度および昭和31(1956)年度の更新修繕IIによりモハ14形24両およびモハユニ44形3両は屋根全体を低くした独特の形状に改造された。

 昭和37(1962)年に飯田線から転入したクモハ41016を低屋根化して41800とした際に、パンタグラフ部分のみを低屋根化する工法に変更されている。41016は、元は身延線にいた車輌で一時は荷物室を設けてモハニ41016とされた変り種で、当時は普通屋根で使用されていた。


 続いて翌昭和38(1963)年にはモハ40片運化の41095が同様の工法で低屋根化され41850となり、以後本格的な電動車20m化を実施した昭和40(1965)年以降に入線したクモハ43、クモハユニ44(803)、クモハ51およびクモハ60が低屋根化された。
 晩年の旧形国電は、すべての電動車に低屋根化工事が施されていた。

photo.0004〔 身延線の 旧形国電置換え用の115系 〕
0004 昭和56(1981)年の当線の新性能化で新製された115系2000番台は、当時開発されていた低トンネル(狭小トンネル)用の折りたたみ高さの低いPS23A形パンタグラフを装備していたが、身延線は中央本線や篠ノ井線よりもさらに条件が厳しいことから、パンタグラフ設置部分を20mm低くしたため、モハ114は2600番台が付番された。


 


参考文献

鉄道ファン1962年12月号,1964年1月号,1970年5月号,1981年10月号(交友社)
国鉄電車のあゆみ-30系から80系まで-(交友社,1968年)
旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年)
鉄道ピクトリアル1996年2月号(鉄道図書刊行会)
白井良和著,飯田線の旧型国電(レイルロード,1999年)


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【鉄道資料】身延線の旧形国電(2)~調査結果資料(パイロット版43804)~

2012年08月19日 | 国鉄 身延線

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 各車輌の調査結果を視覚的に表現する方法としては、形式図の作成が最良と考える。しかしながら、管理人に工業的な製図技術はなく、正確な図面を作成することは不可能である。そこで、形態の特徴がわかる程度のイラストと当該車輌に関して知り得た事項を記載した資料を作成することにした。

 パイロット版として、身延線から大糸線に移って晩年を過ごした クモハ43804 の資料を作成した。
 (資料はpdfファイル形式)
43804
 43804 の資料は試験的に作成したもので、身延線用資料は床下機器や屋根上もできるだけ明らかにしていきたい。

 最終的には身延線の各車輌について、左記の資料を作成することを目標において調査を進める。イラストは各車輌の形態上の特徴を示すもので、たとえば運転席窓の形状や客用扉の種類、戸袋窓の位置などがわかるように記載するが、寸法は厳密なものではない。

 イラストに併記する情報および表現の方法については、資料を作りながら検討するつもりである。一度作成した資料も後々手直しを行うことで全体の平仄をとるようにしたい。

 


車輌の分類においては、製造当初に「系」や「番台・代」の区分はなく後年に便宜的に付されたものであるが、本稿ではこれら便宜的な呼称を用いることが有効であり、鉄道専門誌や書籍の記述に倣って、以下のとおり分類して使用する。

32系
 昭和5(1930)年に登場した横須賀線用の二扉クロスシート車。制御電動車は17m級、付随車は20m級。
40系
 昭和7(1932)年度から昭和17(1942)年度に製造された三扉ロングシート車。出力増強型のモハ60を含む。
42系
 昭和8(1933)年度から昭和12(1937)年度に製造された二扉クロスシート車。大阪近郊の電化に合わせ投入された車輌が中心であるが、横須賀線用のモハユニ44を含む。
51系
 昭和10(1935)年度から昭和18(1943)年度に製造された三扉セミクロスシート車。当初より半流形で製造されたが、後に他系列からの編入があり平妻を含む。

昭和56(1981)年の身延線車輌に関連する系列を挙げたが、必要に応じて他系列に触れることもある。

 



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【鉄道資料】身延線の旧形国電(1)~鉄道模型による再現を目指して~

2012年08月15日 | 国鉄 身延線

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 旧形国電晩年の昭和56(1981)年に身延線で活躍した車輌を1/80スケールの鉄道模型で再現することを目的に、何度か訪れた際に撮影した写真や蒐集した資料を使って、各車輌の調査を始めた。調査の結果は当ブログ管理人(以下「管理人」)自身の情報整理として構成し、不定期ではあるがブログ上で公開することにした。
 昭和56(1981)年まで残った戦前型旧形国電全62両1の姿を露にできればよいが、すでに引退から30年以上が過ぎており、不明箇所も出てこよう。各部のディテールは、「細大漏らさず、重箱の隅をつつく」ような調査ではなく、あくまで模型化を念頭に置いたある程度の省略や代用、デフォルメを認めた形で、情報整理を進めていくこととしたい。正直に言えば、詳細に拘るあまり調査が滞ることを恐れているのであって、模型化の際には省略するにしても、できる限りは調査した結果を情報として提供できるように心がけたい。
 調査には研究の要素を含んでいるが、あくまで鉄道を趣味とする素人の取組みであり、中身は「夏休みの自由研究」くらいの気構えである。


0001 管理人が実際に目にした車輌は、当時のメモに記載された事項に基づいて発表するが、文献にもあたって裏づけを取るように心がけた。市販の書籍やインターネットサイトに公開されている写真・画像や文章・説明を参考にする際にも、一つの資料だけを根拠とせず、複数の資料を照合して合理的に判断した結果を発表する。

 なお、ブログでの公開に当たって、実物車輌の写真(画像)はすべて管理人が撮影したものを使用し、参考文献についてはページの最後に記載する。
 写真は各部のディテール説明等で元画像をトリミングして使用することがある。また、数少ない手持ちの写真であるので、同じ画像を繰り返して利用する場合があることをお断りしておく。

 

 (調査が完了した時点で、管理人のインターネットサイト(ホームページ)上にまとめて公開する予定です。)

 


参考文献

1 '78国鉄車両配置表(交友社,1978年) p.166-167,旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年) p.48-50,p.56


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