車輌を調査するにあたり、身延線の路線および運転に関して少し触れておきたい。
身延線は静岡県の富士駅と山梨県の甲府駅を結ぶ全長88.4キロメートルの路線で、旧形国電晩年の昭和56(1981)年当時と平成24(2012)年の現在と比べて駅の数に変わりはない。富士・富士宮間は複線、富士宮・甲府間は単線である。
富士身延鉄道によって昭和3(1928)年に全線開通し、昭和16(1941)年に国有化(当時は鉄道省)され、昭和62(1987)年の国鉄民営化によって東海旅客鉄道株式会社(JR東海)の路線となった。
ここでは、列車運転上の主な出来事を挙げて、身延線の特徴を探ってゆく。
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1.電動車の低屋根化~パンタグラフ折りたたみ時の離線距離確保~
身延線は、富士身延鉄道によって建設されたトンネルの高さによる制限から、山間部を走行する車輌はパンタグラフ取付け部の低屋根化を行う必要があったことはよく知られている。
photo.0002〔 クモハ60の低屋根部 〕
パンタグラフ折りたたみ時に架線との離線距離が短いとアーク放電が起きて車輌火災に至るおそれがあり、これの防止に離線距離を確保する必要があった。他線に比べて架線高さが低い身延線では、車輌側の屋根を低くすることで対応し、国有化後に投入されたモハ62形(後のクモハ14形100代)は、当時の標準形電車よりも屋根高さが100mm低く設計されている。
その後、PS2形よりも折りたたみ時の高さが低いPS11形やPS13形パンタグラフの導入、屋根上絶縁処理の強化などにより、横須賀線から転入したモハ32形(後のクモハ14形)やモハユニ44形などが普通屋根のまま使用されていた。
低屋根化の実施要因については、昭和25(1950)年8月24日に島尻トンネル(寄畑・内船間)内で発生した車輌火災が挙げられている。このとき、モハ62形を含む一編成4両が全焼したが幸い死者は出ていない。
この事故は落雷による架線の切断に起因し、パンタグラフと架線の離線距離不足が発火原因の一つとされているが、当時の新聞にはモーター加熱による自然発火としている記事もあり、真相は不明である。
photo.0003〔 屋根全体が低くなったクモハユニ44800 〕
さらに、昭和26(1951)年に発生した桜木町事故を受け、屋根の絶縁対策と共にパンタグラフ折りたたみ時の離線距離が見直された。身延線はパンタグラフ折りたたみ高さを3950mm以下(後の20m車は3960mm以下)として、昭和30(1955)年度および昭和31(1956)年度の更新修繕IIによりモハ14形24両およびモハユニ44形3両は屋根全体を低くした独特の形状に改造された。
昭和37(1962)年に飯田線から転入したクモハ41016を低屋根化して41800とした際に、パンタグラフ部分のみを低屋根化する工法に変更されている。41016は、元は身延線にいた車輌で一時は荷物室を設けてモハニ41016とされた変り種で、当時は普通屋根で使用されていた。
続いて翌昭和38(1963)年にはモハ40片運化の41095が同様の工法で低屋根化され41850となり、以後本格的な電動車20m化を実施した昭和40(1965)年以降に入線したクモハ43、クモハユニ44(803)、クモハ51およびクモハ60が低屋根化された。
晩年の旧形国電は、すべての電動車に低屋根化工事が施されていた。
photo.0004〔 身延線の 旧形国電置換え用の115系 〕
昭和56(1981)年の当線の新性能化で新製された115系2000番台は、当時開発されていた低トンネル(狭小トンネル)用の折りたたみ高さの低いPS23A形パンタグラフを装備していたが、身延線は中央本線や篠ノ井線よりもさらに条件が厳しいことから、パンタグラフ設置部分を20mm低くしたため、モハ114は2600番台が付番された。
参考文献
鉄道ファン1962年12月号,1964年1月号,1970年5月号,1981年10月号(交友社)
国鉄電車のあゆみ-30系から80系まで-(交友社,1968年)
旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年)
鉄道ピクトリアル1996年2月号(鉄道図書刊行会)
白井良和著,飯田線の旧型国電(レイルロード,1999年)
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