(甲府駅身延線ホームに到着)
〔 クモハユニ44802他 : 633M 身延線 甲府 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
1981年8月15日の撮影である。
富士宮での留置車撮影後は、富士駅に戻ってから富士発甲府行の633Mに乗車した。
(歴史が刻まれた旧国の顔)
〔 クモハユニ44802 : 633M 身延線 甲府 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
先頭の クモハユニ44802 に席を取り、身延線戦前型旧形国電の旅を楽しんだ。
(運転台を覗く)
〔 クモハユニ44802 : 633M 身延線 甲府 〕
半分ほど開けられた乗務員扉から運転台を覗いてみた。
身延線から戦前型旧国が消える2週間ほど前であった。夏休み真っ只中、しかも盆休み中であったにも拘らず、撮影する者は誰も居なかった。
最近の消えゆく鉄道を追うカメラの砲列からは想像できないほど、静かな終焉であった。
もちろん、ヘッドマークを掲げた「さよなら運転」時には多くのファンが訪れたようではあるが。
人気のないホームで、ひとり静かに眺めていられたのは、とても贅沢な時間であった。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
(陸橋の上から留置車両を見る)
〔 クモハ60816他 : 身延線 富士宮-西富士宮 〕
1981年8月15日の撮影である。
富士宮留置線の付近には道路橋があって、その上から見たものである。
(旧国の隣には新鋭115系の姿も)
〔 クモハ60816他 : 身延線 富士宮-西富士宮 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
留置されていた10連の車番は、当時の撮影記録を見ると
クモハ60816・クハ47005・クモハ60800・クハ68103・クモハ51800・クハ47053・クモハ51828・クハ55319・クモハ51824・クハ47001
とあった。
いずれも Mc'+Tc の2連であるが、クモハ51 は電動車の20m化用として関西から最初に入った 800 が含まれ、クモハ60 はノーシル・ノーヘッダーかつ埋め込みヘッドライトの 800 があり、クハ も47、55、68 と揃ってバラエティに富み楽しい編成であった。
このうち何両かは個別に撮影したが、当時は余裕が無くて全車を撮影していなかったのが今は残念でならない。
隣には、3連の赤い115系が並んでおり、新性能化への切り替え時であることが分かる。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
(富士の裾野に憩う)
〔 クモハ60816他 : 身延線 富士宮-西富士宮 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
1981年8月15日の撮影である。
西富士宮駅から歩いて、富士宮留置線の列車を見に行った。
夏の薄曇りの空に富士の頂は見えなかったが、広がる裾野の一部が見えていた。
廃車待ちの旧国は、10両を連ねていて、佇むだけであったが何か圧倒される思いがしたものである。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
(モハ32系の一員クハ47 0代)
〔 クハ47003他 : 身延線 西富士宮 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
1981年8月15日の撮影である。
西富士宮駅のホームに降り立つと、赤い115系と向かい合うように6連の旧形国電が留まっていた。
駅を出て、富士方に回り込んで撮影したのが、この写真だ。
富士方の制御車は、昭和25年に横須賀線から転入した クハ47003 であった。
一緒に移動してきた電動車は、17m級の モハ32 であった。
その後、20m化に伴って モハ32 を改番した クモハ14 が姿を消した後も、最後まで残っていたのである。
後に続く面々も、クロハ改造のクハ68など関西からの転入車が含まれており、たった6両の中にも戦前型旧国の醍醐味を味わうことが出来るのである。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
(廃車を待つ旧形国電)
〔 クハ47001他 : 身延線 富士宮-西富士宮 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
1981年8月15日の撮影である。
身延線の戦前型旧形国電の引退が迫っていて、居ても立ってもいられずに最後の乗車を目指した。
既に運用の多くは新鋭の115系に変わっており、戦列を離れた車両は最後のときを待って留置されていた。
当時は詳細な情報など持っておらず、きっと富士宮や西富士宮あたりに留置車両があるだろう、と勝手に思って富士から西富士宮まで列車に乗った。乗車したのは暫くは残ることになっていた73系アコモ改造のモハ62系だった。
〔 クモハ51800 : 身延線 富士宮-西富士宮 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
写真は、そのモハ62系の車窓から富士宮留置線を見たものである。
一眼レフなど夢のカメラであった頃で、シャッタースピードの調節も出来ないものだったので、走る列車からの撮影には流石に無理があった。
それでも、毎年この季節になると、写真を見ながら身延線乗車のための一人旅を懐かしく思い出す。
この日は、西富士宮駅で下車してから留置車両を少し撮影し、いったん富士駅に戻ってから戦前型旧形国電に甲府までの完乗を果たした。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
(甲府行の下り普通列車)
〔 クモハ51828 : 627M 身延線 富士 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
1980年8月15日の撮影である。
富士に到着した上り6両編成の列車は、甲府方の2両を切り離して4両編成の甲府行下り列車となった。
切り離された2両の電車は、富士駅の西方にある富士電車区へ引き上げていった。
富士駅で何本かの列車を撮影した後、この 627M に乗車して甲府へ向かった。
折角の吊り掛けモーターなのに、このときは何故か 2両目の クハ47005 に席を取っている。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
(富士駅を出発する下り普通列車)
〔 クモハ60810・クハ47001・クモハ51818・クハ47006 : 223M 身延線 富士 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
1980年8月15日の撮影である。
初めて見た身延線の旧形国電の編成であった。
最後尾の クハ47 は助士席側窓下に快速表示器の残る 47006 である。
夏休み、家族で富士五湖のひとつである山中湖畔に泊まり、その帰り道に一人だけ遠回りをして、身延線を富士から甲府まで完乗した。
天気がスッキリせず、夏らしい情景ではないが、無骨な車体を目の当たりにして一人興奮していたのを思い出す。
全国の旧形国電が終焉の時を迎えていた自覚はあったが、このときには、あと一年で身延線の戦前型旧形国電が姿を消すとは思っていなかった。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
(身延線の旧ホームは撤去された)
〔 115系 : ****M JR東海身延線 甲府 〕
フィルムの整理をしていたら、甲府駅の写真が出て来た。
詳細な撮影日は不明であるが、勝沼と甲府に訪れた際のものだ。
身延線ホームは、中央本線(東線)と留置線数本を隔てて設置されていたが、留置線の用途がなくなったためか、これを撤去して身延線ホームを移設したものと思われる。
偶然にも国鉄時代にほぼ同じ場所から撮影した写真があるので、比較してみた。
1980年8月15日の撮影である。
(戦前型旧形国電が活躍した頃の身延線甲府駅)
〔 クモハ60810他 : 629M 国鉄身延線 甲府 〕
旧身延線ホームの架線柱の形状などから同じ場所であるのがわかるだろう。
中央本線下りホーム辺りから撮影した写真もあるので、こちらも比べてみた。
まずは古い写真から。
〔 クモハ51828 : 国鉄身延線 甲府 〕
写真をクリックすると大きな画像でご覧になれます。
625Mで甲府に到着した編成が、しばらくホーム上で休む運用だった。
無骨な戦前型旧形国電の姿は、今でも目に焼きついている。
(移設後の旧身延線ホーム)
移設後の写真では、すでに旅客用のホームは無く、荷扱い用のホームが見えるだけだ。
一部設備が残っていることから、ホームを移設した後に旧ホームの撤去作業中の頃と思われる。
クリックをお願いします
クリックをお願いします
※ 写真をクリックすると少し大きくなります。
昭和56(1981)年当時の身延線戦前型旧形国電の車輌における、製造時からの大まかな変遷は下表のとおりである。
なお、製造年度による相違等の詳細は、形式ごとに後述する。
fig.0002〔 身延線車輌形式変遷図 〕(クリックすると大きくなります)
photo.0027〔 クハ55319を最後尾に富士を出発する身延線の普通列車(1981.06.01 富士) 〕 各車の特徴を捉える際には、元形式(製造時)および製造年次ならびに改造や更新の変遷、配置先や担当工場などを把握しておくと整理がしやすい。
例えば、32系では昭和5(1931)年度製と昭和6(1931)年度製では、側面幕板および腰板部のリベットや前面・妻面の車体裾の処理に違いが見られる。後年改造されて差異が分からなくなることもある。
40系ではサハ57に運転台を設置してクハ55となった車輌があるが、前面の処理はバラエティに富んでいる。
参考文献
国鉄電車のあゆみ-30系から80系まで-(交友社,1968年)
旧形国電ガイド(ジェー・アール・アール,1981年)
沢柳健一・高砂雍郎編,決定版旧型国電車両台帳(ジェー・アール・アール,1997年)
沢柳健一著,旧型国電50年I(JTB,2002年)
沢柳健一著,旧型国電50年II(JTB,2003年)
浅原信彦著,ガイドブック最盛期の国鉄車輌1(ネコ・パブリッシング,2004年)
クリックをお願いします
※ 写真をクリックすると少し大きくなります。
「路線と運転」の項について、思い出した事項を追記する。
5.中央西線・篠ノ井線の全線電化完成に伴う貸し出し〔昭和48(1973)年3月~〕
photo.0021〔 381系特急「しなの」(1987 信越本線 長野-川中島) 〕 昭和48(1973)年3月に篠ノ井線の全線電化が完成、続いて中央西線の電化が完成して、名古屋方面から長野まで電車列車の直通運転が可能となった。同年7月、特急列車に381系電車がデビューしてキハ181系2往復を残し、「しなの」を電車化、営業用では世界初の振子列車として山間部のスピードアップに威力を発揮した。
この電化による普通列車の運転は、客車列車の置換えに神領区および松本区に80系電車をあて、ディーゼルカーで運転されていた松本地区ローカル運用に一般形10両で賄う計画であった。
同線は、中央東線と同様に非電化時代の構造物を利用しており、低トンネル(狭小トンネル)が存在するため、電車列車は低屋根または当時開発されていた折りたたみ高さの低いPS23形パンタグラフの装備が必要だった。このため、投入された80系電車のモハ80形は、かつて身延線用として低屋根化された800代を集め、足りない分はパンタグラフをPS23形に交換した普通屋根の車輌が用意された。
上松・麻績(現在の聖高原)間の運用である松本ローカル用の10両は、首都圏の73系予備車12両をアコモデーション改造し、これと置き換えられる一般形51系10両を充当する、という計画であった。
73系の改造が遅れ、当面は飯田線および身延線から北松本に計5両を移管または借り入れて、松本ローカル運用にあてることになった。
photo.0022〔 飯田線のクハユニ56001(1983.04.26 飯田線 伊那新町) 〕 北松本には昭和48(1973)年3月に、身延線からクハ68形2両(68001,68011)が転入してクモハ51形1両(51850)が借り入れられ、飯田線からはクモハ51形1両(51804)が転入してクハユニ56形1両(56001)が借り入れられた。
前述のとおり、狭小トンネルに対応するため低屋根のクモハ51形が選ばれたが、51804は身延線のクモハ14形置換え用に関西から集められたクモハ51形の中にあって、他のクモハ51形(806~828)と同時期に低屋根化されたものの、唯1両だけ身延線に入らず飯田線で使用された車輌である。数年を経て、松本地区で身延線の車輌と手を組むことになったのは感慨深い出来事だった。
51系低屋根車は、当初は68001・51850・68011・51804の4両編成を組み、しばらくはスカ色のまま運用されていた。当時の時刻表では4月1日から電車化となっていたが、実際にはそれよりも後になってからのようである。
クハユニ56形は合造車であるが故に使い勝手が悪かったようで、編成の記録が見当たらない。推測の域を出ないが、中央西線と篠ノ井線の間では電車列車による郵便や荷物の運搬を計画していたのかもしれないが、同区間には客車列車が残っていて、郵便・荷物車の用途は間に合っていたのだろう。
photo.0023〔 身延線に戻ったクモハ51850(1981.07.16 富士) 〕 北松本に転入したクハ68形2両およびクモハ51形1両(51804)の3両は大糸線使用車と同じスカイブルー(青22号)に塗り替えられ、借り入れのクモハ51形(51850)も同様にスカイブルーの装いとなった。
昭和50(1975)年になって、ようやく73系のアコモ改造車62系4両編成3本(「車両の変遷(下)」参照)が身延線に揃うと、同年3月にクモハ41形1両(41800)、クモハ43形4両(43800,43802,43804,43810)、サハ45形3両(45004,45005,45007)、クハ68形1両(68017)が北松本に転出して、松本ローカル運用を引き継ぎ、クモハ51850は身延線に戻った。
ここにようやく、中央西線・篠ノ井線電化に伴う車輌計画が完了したと考えられる。
なおクモハ51850は、しばらくの間はスカイブルーのまま身延線の運用についていた。
6.浜松工場から大船工場へ〔昭和48(1973)年〕
photo.0024〔 身延線の回送列車(1981.07.16 富士) 〕 昭和48(1973)年から静岡鉄道管理局の静岡運転所および沼津機関区所属車輌の定期検査を大船工場で担当することになった。
両区から大船工場への回送列車は、同じスジで設定されていたが、併結されることはなく、静岡区だけの車輌あるいは沼津区だけの車輌で編成が組まれていた。
各区から大船への上り列車は、配線の都合で一旦横浜まで上り、折り返し下り列車で大船に入った。工場出場車は、大船から真鶴まで試運転を行い、そのまま回送列車で各区に戻った。
横浜・大船間では、かつて横須賀線で走った道を身延線のクモハユニ44形、サハ45形、クハ47形、クモハ51形850代(低屋根化前200代)が再び走る姿が見られた。
沼津区の車輌は、身延線と御殿場線の区別はなく、検査時期を迎えた車輌を組み合わせ、クモハ12001またはクモヤ22202の牽引車を随伴して入出場していた。
photo.0025,0026〔 (左)大船工場受け持ちの身延線車輌、(右)浜松工場受け持ちの飯田線車輌 〕
さて、担当工場が変わったことで、妻面の雨樋の塗装に違いが見られるようになった。
浜松工場では、妻面の雨樋は側面のツートンカラーをそのまま引き伸ばして青色とクリーム色に塗り分けている。飯田線車輌は、末期まで二色に塗り分けられていた。
一方、大船工場では妻面の雨樋は青色一色となっているようだ。
工場による塗装基準に違いがあるのかは不明だが、鉄道雑誌等の紙面の写真をいろいろと眺めていると、そんな様子が窺える。
鉄道模型で再現する際には、年代や検査工場を考慮した塗装の違いにも気を配りたい。
参考文献
鉄道ファン1973年9月号,1974年4月号,1976年2月号,1977年1月号(交友社)
鉄道ジャーナル1973年6月号
鉄道ピクトリアル(鉄道図書刊行会)
THE レイルNo.47(エリエイ)
クリックをお願いします