南無煩悩大菩薩

今日是好日也

無事。

2014-01-10 | 意匠芸術美術音楽
(書/無事 仙和尚)

「僧肇(そうじょう)は『天地と我は同根。万物は我と一体』と言っているが、私にはどうもこの点がよくわからない」と言った人に対して、南泉普願禅師は庭に咲く一株の花を指しつ「世人はこの一株の花を見る見方はまるで夢でも見ているようなものだ」と言った(碧巌録より)

世人の目に映る感覚的花は花性をその本質として動きのとれぬように固定されたものである。花の花的側面だけはありありと見えているが、花の非花的側面は全く見えていない。つまり花を真に「今ここに」咲く花として成立させている本源的存在性が見えていないのだ。このような形で見られた花は夢の中に現われた花のように実は取りとめもないものだ、というのである。(井筒俊彦「意識と本質」より)

「無事」という言葉が持つ意味に対する関心から、上記のような文章に出会った。

とりとめもないが、古賀まり子氏の「踏ん張って生きても一人梅の花」という句にも出会い、それがまた違う景色に見えてきた。


無事を無事として成立させている本源的存在性の在りかに関心が向くようになった。

何事かあっても私はまだ無事らしいのである。