というのが、盆休み二日目の朝だ。
いつもとルーティンを変えてみた。
出がけに車中から、白い雲の縁を輝かせている太陽、見ちゃったからね。
そりゃ、最初にカラダと太陽の会話でしょ、ってなもんだ。
厳密には、その前に、ベランダの水遣り、だけど。
汗だくになってのワークは、気分がよくて、続いて。
ボール・ウォーキングをしていたら、屋上に白セキレイがやって来た。
珍しい。
しかも、こんな高いところで見ることもないからね。
歩きながら、山並みを眺め、そうか、わが、山の師匠は、この連休中、山に入っているんだな。
なんてこと、浮かんで来て、そういえば、山、登ってないな、と。
初めての山登り、その下山時の膝の痛みから、というのがそもそもの由来、それが骨ストレッチだった。
スクワットがいいですよ、みたいな話があって、筋トレ云々、から。
いやいや、外側の筋肉を鍛えるんでなく、内側の、骨に直結する筋肉をゆるめるんです。
というのが、骨ストレッチのコンセプトで、かれこれ、三年くらいになるのか。
今では、深部の筋肉を動かす日常生活、ってのを、手に入れつつあるので、食べることに。
つまり、ふっとっちゃうから食べられません、というストレスがなく。
なんでもどれだけでもいけちゃう、のだけれど、よくしたもので、そうなると。
カラダの求めに応じた供給、なんてことにもなってくるんだね。
お酒だけは、たまに、羽目を外す、というのが、これまた、ご愛嬌で、わがキャラクターだな。
ルーティンと英語で書いちゃうけど、習慣だよね。
習慣、おそるべし、ってわけで、潜在意識が勝手に動き出し、ほぼ、オートマチックなので。
わが意志を酷使する疲れ、ってのは、ないんだよね。
なので、この習慣の端っこに、ほんのちょっとしたこと、混ぜ込み、という作法が。
どうも、生きやすくするこつ、みたいなものだ、とおっしゃるのが。
このところ、ちょっとはまっている、占星学の女史の物言いで。
札幌のホロスコープの女史とは、また、別人なんだけどね。
あなたの能力の120%を出せる場を作るのが、僕の仕事です、とのたまっている社長としての僕。
なんだけどね、これ、十分に応用できるな、というのが、テーマです。
なにかを宣言すると、あらゆることが、そこをめがけて繋がってゆき。
ルフィーじゃないけど、ひと連なりの宝物としてのone piece、って具合で。
そこに実は豊かさが顕現しているんだけど、そこ、見落としちゃうんだよね、ことに。
それが、壁のように立ちはだかっている、なんて認識しちゃうとさ。
宣う、宜なるかな、の言葉があるように、言葉として宣言することが、大事なんだろうな。
そこへ陸続とツワモノどもが寄り集まり、って仕儀。
シンプルに書くと、宣言する、あとは、ゆっくりする、とでも書けるか。
大きな流れが、オートマチックに運んでくれる、あるいは、たゆたふ、でもいいか。
暗黒の中世、つまり、大きな神の仰せの通り、みたいな暮らしを強いられ、その反動として。
近世の、コギトエルゴスム、だっけ、我思うゆえに我あり、なんていう、無体なことになり。
アンチ、アンチ、と唱えることが、インテリの証、みたいな時代を経て。
さて、これからの時代は、というわけだ。
宜なるかな、とどれだけ大きなスケールで言うか、だな。
せごどんの大きくなる鐘、のイメージだ。
榛原郡には、大鐘家なんてオタクもあったね。
あの社長さんも、面白い御仁だけど、鐘庵ね、ってことはともかく。
大きく鐘を鳴らしましょうか。
その鐘を鳴らすのはあな〜た、って和田アキ子、歌ってたよね。
なんて書いてくると、志ん生の「火焔太鼓」思い出しちゃうけど。
だからあんたはバカだ、って言うんだよ、そんな汚い太鼓、一分で売ってくるんだよ。
じゃないと、あんたの首が飛んじゃうよ、と良妻賢母のようなおかみさんに急かされ。
お大名の屋敷へ向かい、300両持って帰ってくる、その賢いおかみさん。
腰を抜かす、って噺だけど。
あんまり、文脈が繋がっていないけどね。
無理くりつなげれば、自らを限るな、なんてこととも言えるね。
自分の過去からの判断では、火炎太鼓は、一分の値打ち、しかし、見る人が見たら300両。
ってわけだ。
だから、どうせなら、自分を限らず、しかも、大言壮語せず、淡々と、あるがままに、ってことか。
なんて書き続けるとキリがないので、ここらでよかろかい、と。