まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

秩父宮様と富士山

2018年08月20日 | Weblog

なんか、今朝の表題は、なにかの紀行文みたいだけど。

昨日のおじおば会は、富士五湖周遊の旅とでも言えるか。

第二東名を御殿場まで、秩父宮記念公園に寄り、山中湖へ。

なにせ、富士山が、その威容をすっきりくっきりと見せてくれていたから、ね。

この秩父宮様の奥方は、会津なんだね、松平容保の四男の長女だそうで。

官軍と会津の凄まじい権力争いの末の始末、会津藩が解体され、多くの藩士が北方へ蹴散らされた。

というような史実から、天皇家との婚姻が、このように行われていたことに、なんとも。

表の政治と裏のひめゴト、とでもいうか、そんなことを瞬間に思ってしまった。

なんてこと、随分前のこのブログにも書いたかも、だけど。

ひめゴトと言うか、大きな仲直り、みたいなものか。

昨日、改めてそんなこと、思い起こし、秩父宮様が富士山をめがける、という像と一緒に。

母親とのスナップ写真を、近くの方に撮っていただいた。

今朝は、ここので屋上へのストレッチへ出かけた。

ので、書くこと、浮かんでこないんだけどね。

なので、ここらでよかろかい、にします。

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今朝は20度だった

2018年08月19日 | Weblog

車外温度計がそう示していた。

秋だね。

って、ありふれた言い方だけど。

この間まで、不要不急なら、家にいてくださいね、なんて誰が発明したのか。

そんなフレーズが、テレビから煽りのように吐き出され。

なんて日々が、懐かしくなるくらいだ。

史上はじまって以来の熱中症罹患者数、なんてのもあった。

そう、昨日は、安岡正篤の講話シリーズ、かっこカセットテープ、ってのを、ブックオフへ。

いくばくかのお金に早変わり、って次第なんだけど、この瞬間の。

なんとも言えない、ペリッと皮膚から剥がされるような、それを振り払うような感覚。

僕の中では、なかなか、本が捨てられない。

せめて、次なる中古市場へもたらされ、他の誰かの元へ、という可能性のあるのが救いでもあるんだけど。

所有していたからといって、ふたたび手にすることは、まず稀なんだけど、その書名を眺めるだけで、何事かがね。

起こっているような気にもなり。

何年前になるのか、吉本隆明全集を、一気に捨てた、というか、ブックオフへね。

その時にも、ある覚悟、見切り、出発というような、大仰な気分でもあって。

この盆休みもそうだったけれど、娘の引越しを機縁に、いろんなものを捨てた。

それは、習慣からの脱出、という言葉に置き換えてもいいもので。

魂というのは、カラダの中にあるというより、目の前の空間、環境、時間、なんていう女史の影響。

でもあるんだけど。

恋人と別れた女の子が髪を切る、みたいなものでもあり。

見慣れた光景から変えると、そこに新たな世界が立ち現れてくる、というのね。

どう考えても、どこへ行っても、結果、今しかない、まさに爾今、ということをカタチにする。

ってのが、整理整頓とも言えるな。

見慣れた光景、見慣れた思考癖、振る舞い癖、なんてのが、デフォの自分を構成する。

一つのパーツでもあり、知らぬ間に、自分を限る、って仕組みで。

だとしたら、とね。

なんていかにも大げさな物言いをしているけれど、ちょうど夕べ、帰ってきた妹と話していると。

引越しをしたことのある人とない人、っていう、とても単純な区分けでもあるんだな。

彼女、何回もしているから、僕からしたら大仰な気持ちを、何度も経験しているわけで。

これも、また、面白いものだ。

だって、所有してられないでしょ、ってなもんだ、スペースの問題、と。

話変わるけれど。

科学の力によって、いかに平均寿命が伸びてきたか、という考察、例の。

ハラリ教授なんだけど、1200年代、イギリスの地、そこでもっとも恵まれた環境にいた。

エドワード一世だったか、その奥方、エミリーか、いや、違うか。

何れにしても、その奥方、16人のお子さんを出産したそうだ。

末子の男の子が、エドワード2世なんけど、凄まじいのは、産まれた半分以上が、10歳にも満たずに。

死亡。

というんだね。

40歳過ぎでも存命は、エドワード2世を含め、3名だったか。

とにかく、幼児の死亡率の凄まじさ。

もっとも裕福な彼らがそうだから、いわんや庶民においておや、ってやつだ。

人類における三つの革命、あと二つ、なんだか、忘れましたが、こちらは科学革命、だったか。

どの王様だったか、肩に傷を負って、現代では軽傷も軽傷、入院もせず、くらいなんだけど。

その傷がもとで、苦しみながらの死に至る、って事象もあったそうで。

その頃、医者というのは、肉屋や大工出身というのか、そんな技能を持った人が、有用だった。

なんてのね、傷を負った人の足やら手やらを切り落とす、のが手術だった。

なんて時代は、ついこの間まで、1800年代の半ばまで続いた、ってんだからね。

なんてエグい話は、おいといて、そろそろ、おじおば会の出発です。

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お母さんに会いたかったらあなたを鏡で見て

2018年08月18日 | Weblog

だったかな。

その昔、うちの母親の母親が、ご近所の、今は亡き女性にいった言葉なんだけど。

それほど、娘と母が似ていたらしい。

いわゆる幸薄い、という言い方になるのか、その方は若くして母を亡くし。

という時の、わが祖母の言葉、を母親から聞いたことがある。

そのまた娘さんに、昨日はお会いした。

そう、隣組の葬儀があり、そのお手伝い、というのが、役割だったんだけど。

とうとう、その言葉をかけることなしに、一日が終わったのでしたが。

なんてことも、一つの逸話になるくらいの葬儀が終わり。

昨夜のお酒が残りつつの朝を迎えた。

そのお酒のわけは、同級生との呑み、だった。

それにしても、よく飲むね。

は、ともかくとして、もう残り少ない、というようなモードの中、どうも。

そんなことは、自分の感性に合わず、そんなことはどうでもいいから、今しかないよ。

と宣いつつの時間でもあったんだけど、飲んだお酒が、爾今、ってのは、ご愛想。

明日は永遠に訪れず、ってフレーズを何度繰り返したことか。

明日があるんなら、俺のところへもってこい、とまるで、達磨大師の、慧可への物言いみたいにね。

ま、同級生に意見してどうなるんだ、ってなものでもあるんだけど。

そんな呑みだった。

今日は、母親の、あすなろという施設での夏祭りだそうで、食事も済ませて、そのあと。

帰ってくるようだ。

妹もやってきて、明日は、おじおば会。

続いてるね。

今のところ、このパターンがあっている。

毎日、母親は、仕事に行っている、という認識で。

それはそれで、めでたいかぎり。

 

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札幌の二巨頭の珈琲屋さんに対抗して

2018年08月17日 | Weblog

今朝は、骨ストレッチ+ボールウォーキングの後。

インドネシアは、マンデリン。

二つのお店、時計台横の珈琲館、円山原始林近くの、老舗の宮越屋珈琲、そのお二方に。

負けてないな。

うまい。

なんて書いてきて、原始林の空気感の違い、思い出すな。

空気感、というより、異次元、異空間といったほうが、当たっているか。

すぐ際、10mくらい離れたところを車が通って行くのに、まさに、今の位置で言えば。

巴川沿いを車で、ってくらいの距離に、日常があるのに、そこは異次元、って感じ。

あれには、驚いた。

あれからはや、10日ばかりが過ぎ、気配は秋なんだよね。

時の経つのは早いものだ、なのか、時は移ろいゆく、なのか、日々新たなりの変化、なのか。

いずれにしても、ホロスコープと伊夜日子神社のゴールデンな輝きと、この円山原始林の異次元感覚。

その三つが、札幌みやげ、ってわけだ。

それらは、どんな具合に化学反応をし、本土の暮らしのなかで変質して行くのか。

お楽しみお楽しみ、ってわけだ。

ところで、このところ、仕事を見つける、と、仕事を生み出す、の二つを眺めているんだよね。

内側でも外側でも、だけど。

どうやらこの時代、生み出す、ことが求められている、って次第で。

生み出す、創り出す、から、お金に繋がる、という順番、そこんとこ、間違えないでね、ってわけだ。

お金、通貨というのは、どんなイデオロギー、宗教、民族間でも、一つにしちゃう魔力がある。

というのが、例の、ハラリ教授で。

ほんと、かの御仁、既存の文物の読み込みが深い、というか、斬新で、面白いんだけど。

この面白さを、わかりやすく表現するのは、これまた、至難の技で。

つまり、十分に理解していない、とも言えるか。

なんてことはどうでもいいんだけど。

解釈し直す、今までと違う角度から眺める、とか、いつだったかも書いたけど、定義を変える、シフトさせる。

ってのは、たぶん、とても面白いことなんだな。

だって、今まで、眉間にしわを寄せていたものが、一挙に、つまり、破顔一笑みたいなね。

これ、もう何年になるのか、随分と前に、一人託宣、一人予言しているんだけど、未だ、実現せず。

ってわけだ。

この一人予言については、そのうち、詳しく書いてみようかな。

というわけで、本日は、母親のお友達のお葬式、です。

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雨で出鼻をくじかれた、と表現するのかな

2018年08月16日 | Weblog

今朝の起きがけの空は、素敵な空で。

雲がばらつき、それぞれの自由を謳歌しているような、それにちょっと青空。

なので、こりゃ、いきなり、骨ストレッチ+ウォーキングだな。

と息巻いて、榊の水換えをしているうちに、雨が降り出し。

開け放った窓から、珍しく、雨が吹き込む。

この時間帯の雨は、吹き込まないんだけどね。

というような事態を称して、表題のような言い方、あるけれど。

もちろん、だからと言って、出鼻をくじかれた、という自覚はなくて。

ということのために、8行くらいを費やしているわけだ。

予想外の雨だったのか、巴川沿いを散歩している方が、頭からタオルをかぶって歩いている。

朝の雨と女の腕まくり、ってわけで、程なく上がり、わが骨ストレッチを屋上が待っている。

のかもしれない。

二日ほど前に、母親の茶飲み友達が亡くなり、隣組長としての役割が回ってきた。

今晩は、お通夜ということになり、明日が告別式。

ちょうど、その翌日に、母親がショートステイから帰ってくる、ということで。

微妙なタイミングだ。

うまくできてる、とも言えるし。

そういえば、昨日、隣組の打合せの時、一年ほど前にご主人を亡くされた方が。

亡くなる前、主人が、白い服をきた人が立ってる、と2度ほど、言った。

強い彼女、わかった、大丈夫、あたしが追い返してあげる、と。

その甲斐もなく、お迎えのままに、いかほどかしたら黄泉の国へ旅立ったのだけれど。

そんなさりげない話の中に、この世の真実が顔を覗かせたりもするわけだ。

この盆休みは、お片づけおじさん、とでも名付けられそうな日々だったな。

娘が引っ越してきて、その居場所作りから端を発しての、じゃ、あそこもここも。

って具合で、やりだすと、すっかりそのモードにはまり込み、楽しくもあり。

自然と、そんな場所を探してカラダが動きだす、というような。

オートマチック。

宇多田ヒカルの、恋はオートマチック、みたいな歌、あったよね、あんな感じかな。

恋する乙女、のお片づけバージョン、とでも言った風情で。

この辺りも、実のところ、テストに出るんだけどね。

ついでに言うと、このオートマチック、ってのは、日本語は、習慣となるよね。

無意識の習慣に気がつき、そこに不都合を見たら、もう一度意識的な習慣に作り変えてゆく。

まるで、芸術家みたいでしょ。

その芸術作品、芸術行動にスポンサーがつけば、大金持ちになるような、例えばね。

今朝は、雨につき、骨ストレッチ、中止かな。

習慣という名の大河に棹ささず、ってわけだ。

どうやら風向きが変わったようで、吹き込みが止まった。

巴川の流れは、でも、満潮とのせめぎ合いだ。

滔々と流れるイムジン河とまでいかず、死者と共存するガンジス川は知らないけれど。

というわけで、今朝は、この後、新聞読み、って具合だ。

 

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終戦記念日は終戦記念日なんだ

2018年08月15日 | Weblog

ひところ、当方も与した考え方、おいおい、負け戦を終わった戦はないだろう。

的なね。

ま、振り返ってみれば、恥ずかしきことの数々、なんてフーテンの寅さんみたいな気分になるね。

敗けたのに敗けを認めず、終わった戦とはなんだ、って具合で。

敗戦を終戦と言い換えた、というのか、そう認識したことは、慧眼、卓越した言霊遣いだった。

と今では思える。

戦に、勝ち負けのある、という認識は、大向こうの世界で、単に日々を暮らしている人からしたら。

始まったか、終わったか、というのが、正直な感想で。

まさに、庶民、貴種ならぬ。

庶、とは、广は厨房の屋根のかたち、その下で、廿(じゅう)は、煮炊きする鍋、に火を入れる。

早い話が、かまどの蓋を開けて食べ物を作る人々、ってことで、天下の政とはモードが違うわけだ。

そこには、戦の終わりがあるだけなんだな。

しかし、そこからしか、日々は、未来の日々はやってこない、というね、終戦、ってわけだ。

ちょっと、流石に、記念日なので、気張ってるね、西田敏行の、チェスト〜、気張れ!みたいだけど。

ものすごく気張って言っちゃえば、敗でなく終としたことで、戦後の復興への機運がいかに高まったか。

もちろん、リアル戦さは、そこかしこで、声をひそめたり大言壮語であったり、で語られてもいたんだろうけど。

その根底に、終わった戦、だから、煮炊きを始める、というね。

そんなしたたかさを感じるんだな。

聖戦とか、世界情勢とかの大きな神話に対抗した、リアルということになるか。

もちろん、それぞれがそれぞれの立ち位置で、微妙に絡まり合ってはいるんだけど、ね。

ま、とにかく、戦の終わったという記念日が、今日だ。

亭主が、飲む打つ買う三昧じゃ、鍋の蓋が開かないじゃないかね、というおかみさん。

そんな絵柄だな。

亭主の神話を終わらせ、鍋の蓋を開けようじゃないか、って。

朝の雨が終わったので、骨ストレッチ=カラダの蓋を開けるとするか。

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涼気がときおり訪れる

2018年08月14日 | Weblog

何回も書いてるかも、だけど、この瞬間がいいんだよね。

今朝は、雨模様なので、早めに骨ストレッチを、ということで屋上でやっていたら。

このところの常連さん、何トンボというのか、シオカラトンボか。

わが元へ訪れ、一緒に、朝の冷気を楽しんだのでした。

すると、ツバメのような動きの小鳥もやってきて、すぐ飛び去ったけど。

朝から、命との遭遇を味わったわけだ。

表題は、そんな汗の後の定位置での記述、ってことなんだけど。

目には見えねども、って具合に訪れる、微細な動き、ガイアの呼気なのかもしれず、ありがたく。

頂戴いたします、ってことだ。

こんな静かなお盆休みにも、働いている方々はいらっしゃるわけで。

昨日も、次男坊とトラックにて、わが家の不要物を積み込み、清水と静岡の焼却場へ運んだ。

それぞれの土地柄か、あるいは、運営方法の違いか、おもてなしの違いは感じたけれど、彼らだって。

世間の休みの中、暑い暑いと言いながらのお仕事だ。

お百姓さん、ありがとう、兵隊さん、ありがとう、なんて戦前の尋常小学校の教科書みたいなフレーズ。

浮かんでくるけど、時代は違えど、そんな心境は、変わらないだろうな、なんて感傷に浸っていると。

例の、ハラリ教授だ。

古来、帝国による、多種多様な民族の寄せ集め、なんてのが、えぐい暴力を伴い、そこかしこで行われ。

現代の、グローバルな、というような言葉につながる。

一つの帝国が滅びたとして、じゃ、元の個々の民族に戻れるかといえば、すでに、言語からして。

帝国由来のもの、その他、文化文物も、メイドイン帝国みたいなものなので、以前の。

民族、古来の習俗を纏った人、には戻れない。

というね、なんて書いてきても、読んだばかり、まだ、下巻が残ってます状態なんで。

中途半端だな。

なんてことはともかく、この間の札幌プチ避暑研修ね、だいたい、ここかな。

なんて自分の中での落とし所が見つかった模様で。

それで行こう、ってなもんですが。

to be continuedとしておきます。

さて、今日も、わが家のお片付けとなります。

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朝、雨があり、上がった。

2018年08月13日 | Weblog

誰だったかの文章に、朝の雨と女の腕まくり。

なんての、あったな。

この後に続くのが、とても、今の時代では言えません、ってくらいのもので。

大したことはない、って。

落語だったか、小説だったか、忘れたけど、そんなこと、いけしゃあしゃあと言ってのけた時代。

昨日も、久々に引っ張り出した「ホモサピエンス全史」の。

いろんな階級やら格差の中で、未だに続く、性差別と言う項目があり。

なんの根拠もなしに、男性優位と言う文化が連綿と続いてきた、なんて書いていたな。

生物としてのオスとメスではなく、文化としての男性と女性、ってやつね。

写真が挿入されていて、フランスのルイ14世だったか、長い巻き毛にスカート、タイツ、ハイヒール。

足の美しさを見せている、そんな写真、今でなら、LGBTと言われそうな。

それが、男らしさ、と言う文化であった、と言うんだね。

たしかに、オスの鳥たちの艶やかさ、まんま、ってわけだ。

ほんとに、あのハラリ教授の表現は、面白くて。

と言いつつ、そのうち、他に関心が現れ、ちょっと、おやすみね、ってくらいの話が。

これまでのところだったけれどね。

で、昨日は発見した、と言うか、決めた、と言うのかね、それは。

早い話が、関心のある部分だけ、ピックアップして通読を目指さない、と言うもので。

この水瓶座の時代にあったチョイスだと思っているんだ。

もちろん、通読もありだし、ピックアップ読書もありだし、あとは、帯だけでOK。

あるいは、書名を眺めるだけで、あるいは、ほんの何行かのフレーズでよし。

なんてのもありだ。

そうそう、昨日は、「やさしい西洋占星術入門」なんて本、買っちゃったよ。

漫画でもよかったんだけど、なかったんで。

ところで、昨日、にわか雨にしては大きい雨が突然降り出し、あれよあれよと言う間に水が溜まり。

なんてこと、あったな、わがスルガは清水湊の地で。

気象庁のレーダーをサイトで見ると、どうやら、1時間ばかり雨雲、続きそうだ。

と言うので、妻と出かけていた娘のLINEに打っといた、もちろん、彼女もチェック済みだったけど。

雷も通常とは違う光り方だったしね。

なんてうちに、テレビの画面に、裾野市で120ミリ、なんての映し出され、凄まじい雨量だっただろうな、と。

自然環境派からしたら、コンクリートで固められた川の土手、まったくしょうがないわね、なんだけど。

かく言うあたくしめも、そんな気分にもなるんだけど、かたや、治水、と言う観点からしたら。

先人の多くの苦労、苦難、苦心、などなどの集積としてのコンクリート、なんて選択でもあったんだろうね。

なんて見てくると、あらゆるものが、二律背反という具合に進化発展してきた。

なんて言い方もできそうだし。

たまには、神の如き視点から眺めるのも、一手ではあるね。

さて、そんな視点を手に入れるべく、ウォーキングだ。

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朝陽を浴びての骨ストレッチから

2018年08月12日 | Weblog

というのが、盆休み二日目の朝だ。

いつもとルーティンを変えてみた。

出がけに車中から、白い雲の縁を輝かせている太陽、見ちゃったからね。

そりゃ、最初にカラダと太陽の会話でしょ、ってなもんだ。

厳密には、その前に、ベランダの水遣り、だけど。

汗だくになってのワークは、気分がよくて、続いて。

ボール・ウォーキングをしていたら、屋上に白セキレイがやって来た。

珍しい。

しかも、こんな高いところで見ることもないからね。

歩きながら、山並みを眺め、そうか、わが、山の師匠は、この連休中、山に入っているんだな。

なんてこと、浮かんで来て、そういえば、山、登ってないな、と。

初めての山登り、その下山時の膝の痛みから、というのがそもそもの由来、それが骨ストレッチだった。

スクワットがいいですよ、みたいな話があって、筋トレ云々、から。

いやいや、外側の筋肉を鍛えるんでなく、内側の、骨に直結する筋肉をゆるめるんです。

というのが、骨ストレッチのコンセプトで、かれこれ、三年くらいになるのか。

今では、深部の筋肉を動かす日常生活、ってのを、手に入れつつあるので、食べることに。

つまり、ふっとっちゃうから食べられません、というストレスがなく。

なんでもどれだけでもいけちゃう、のだけれど、よくしたもので、そうなると。

カラダの求めに応じた供給、なんてことにもなってくるんだね。

お酒だけは、たまに、羽目を外す、というのが、これまた、ご愛嬌で、わがキャラクターだな。

ルーティンと英語で書いちゃうけど、習慣だよね。

習慣、おそるべし、ってわけで、潜在意識が勝手に動き出し、ほぼ、オートマチックなので。

わが意志を酷使する疲れ、ってのは、ないんだよね。

なので、この習慣の端っこに、ほんのちょっとしたこと、混ぜ込み、という作法が。

どうも、生きやすくするこつ、みたいなものだ、とおっしゃるのが。

このところ、ちょっとはまっている、占星学の女史の物言いで。

札幌のホロスコープの女史とは、また、別人なんだけどね。

あなたの能力の120%を出せる場を作るのが、僕の仕事です、とのたまっている社長としての僕。

なんだけどね、これ、十分に応用できるな、というのが、テーマです。

なにかを宣言すると、あらゆることが、そこをめがけて繋がってゆき。

ルフィーじゃないけど、ひと連なりの宝物としてのone piece、って具合で。

そこに実は豊かさが顕現しているんだけど、そこ、見落としちゃうんだよね、ことに。

それが、壁のように立ちはだかっている、なんて認識しちゃうとさ。

宣う、宜なるかな、の言葉があるように、言葉として宣言することが、大事なんだろうな。

そこへ陸続とツワモノどもが寄り集まり、って仕儀。

シンプルに書くと、宣言する、あとは、ゆっくりする、とでも書けるか。

大きな流れが、オートマチックに運んでくれる、あるいは、たゆたふ、でもいいか。

暗黒の中世、つまり、大きな神の仰せの通り、みたいな暮らしを強いられ、その反動として。

近世の、コギトエルゴスム、だっけ、我思うゆえに我あり、なんていう、無体なことになり。

アンチ、アンチ、と唱えることが、インテリの証、みたいな時代を経て。

さて、これからの時代は、というわけだ。

宜なるかな、とどれだけ大きなスケールで言うか、だな。

せごどんの大きくなる鐘、のイメージだ。

榛原郡には、大鐘家なんてオタクもあったね。

あの社長さんも、面白い御仁だけど、鐘庵ね、ってことはともかく。

大きく鐘を鳴らしましょうか。

その鐘を鳴らすのはあな〜た、って和田アキ子、歌ってたよね。

なんて書いてくると、志ん生の「火焔太鼓」思い出しちゃうけど。

だからあんたはバカだ、って言うんだよ、そんな汚い太鼓、一分で売ってくるんだよ。

じゃないと、あんたの首が飛んじゃうよ、と良妻賢母のようなおかみさんに急かされ。

お大名の屋敷へ向かい、300両持って帰ってくる、その賢いおかみさん。

腰を抜かす、って噺だけど。

あんまり、文脈が繋がっていないけどね。

無理くりつなげれば、自らを限るな、なんてこととも言えるね。

自分の過去からの判断では、火炎太鼓は、一分の値打ち、しかし、見る人が見たら300両。

ってわけだ。

だから、どうせなら、自分を限らず、しかも、大言壮語せず、淡々と、あるがままに、ってことか。

なんて書き続けるとキリがないので、ここらでよかろかい、と。

 

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世間は盆休みだ

2018年08月11日 | Weblog

なんやかんや言いながら、表題のごとくで。

世間は、静かになりつつある。

今朝は、社員さんもお休みなので、ベランダの水遣りの仕事が、わが仕事で。

久しぶりに、アサガオに水をあげた。

昨夜は、うどんのげんきさんで、たらふく呑み、今もアルコール分が残っているような。

そんな朝。

いつも通り、瞑想もやったのだけど、眠っているんだか、瞑目しているんだか、微妙な。

そんな時間を過ごした後の、MacBookの前だ。

そう、昨日、たまたま入った電気屋さんで、ダイソンをみてね。

驚いた。

掃除機と、あれ、なんていうのか、扇風機のようなもの。

空気清浄機と書いてあったけれど、なんていうか、羽を回して風を送る、んじゃないのね、って。

昨日も書いたけど、ほんと、便利、便利の世の中で。

便利がいいのか、風光明媚がいいのか、って、山下清の感想みたいなもので、と書いて来て。

昨夜、ご一緒したご夫婦との会話で、糠漬けの話になり、自然の流れで、かくかくしかじか。

ブログにね、なんてことになった。

自己宣伝ってやつだ。

たまたま入ったコンビニの、南高梅の味、これ、熱中症に効き目あるかな、なんてのからだったんだけど。

熱中症といえば、三寺さんという、町工場の三代目の社長さん、ガイアの夜明け、だったか。

そんな番組で取り上げられていて、髪の毛の何分の一かの細さのナイロンに。

銀をコーティングして、織り込んだ、という繊維が。

導電性がいいので、ウエアラブル、衣類に折り込み、カラダの電流の流れをスマホで読み取り。

なんて商品があって、酷暑の中の労働時、カラダの変化を瞬時に把握。

なんての、あった。

忖度や慮りを排した、ベタな、カラダの変化をデータ化する、ってわけだ。

後から後から、さまざまな商品が、開発され、驚き桃の木山椒の木、って具合。

くだんのダイソンといい、まったく違うコンセプト、ってわけだ。

ips細胞ではなく、心臓の再生を、なんてこと、考えついた教授もいるようだし。

こりゃ、ますます、死ねなくなるね、100歳寿命どころの騒ぎじゃなくなるかもね。

もっとも、こちらは、百万年とのたまっているんだから、ちょっと、違う世界にいるけれど。

というわけで、盆休みのブログ、更新しました。

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