ひところ、当方も与した考え方、おいおい、負け戦を終わった戦はないだろう。
的なね。
ま、振り返ってみれば、恥ずかしきことの数々、なんてフーテンの寅さんみたいな気分になるね。
敗けたのに敗けを認めず、終わった戦とはなんだ、って具合で。
敗戦を終戦と言い換えた、というのか、そう認識したことは、慧眼、卓越した言霊遣いだった。
と今では思える。
戦に、勝ち負けのある、という認識は、大向こうの世界で、単に日々を暮らしている人からしたら。
始まったか、終わったか、というのが、正直な感想で。
まさに、庶民、貴種ならぬ。
庶、とは、广は厨房の屋根のかたち、その下で、廿(じゅう)は、煮炊きする鍋、に火を入れる。
早い話が、かまどの蓋を開けて食べ物を作る人々、ってことで、天下の政とはモードが違うわけだ。
そこには、戦の終わりがあるだけなんだな。
しかし、そこからしか、日々は、未来の日々はやってこない、というね、終戦、ってわけだ。
ちょっと、流石に、記念日なので、気張ってるね、西田敏行の、チェスト〜、気張れ!みたいだけど。
ものすごく気張って言っちゃえば、敗でなく終としたことで、戦後の復興への機運がいかに高まったか。
もちろん、リアル戦さは、そこかしこで、声をひそめたり大言壮語であったり、で語られてもいたんだろうけど。
その根底に、終わった戦、だから、煮炊きを始める、というね。
そんなしたたかさを感じるんだな。
聖戦とか、世界情勢とかの大きな神話に対抗した、リアルということになるか。
もちろん、それぞれがそれぞれの立ち位置で、微妙に絡まり合ってはいるんだけど、ね。
ま、とにかく、戦の終わったという記念日が、今日だ。
亭主が、飲む打つ買う三昧じゃ、鍋の蓋が開かないじゃないかね、というおかみさん。
そんな絵柄だな。
亭主の神話を終わらせ、鍋の蓋を開けようじゃないか、って。
朝の雨が終わったので、骨ストレッチ=カラダの蓋を開けるとするか。