まわりで起こっていること

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終戦記念日は終戦記念日なんだ

2018年08月15日 | Weblog

ひところ、当方も与した考え方、おいおい、負け戦を終わった戦はないだろう。

的なね。

ま、振り返ってみれば、恥ずかしきことの数々、なんてフーテンの寅さんみたいな気分になるね。

敗けたのに敗けを認めず、終わった戦とはなんだ、って具合で。

敗戦を終戦と言い換えた、というのか、そう認識したことは、慧眼、卓越した言霊遣いだった。

と今では思える。

戦に、勝ち負けのある、という認識は、大向こうの世界で、単に日々を暮らしている人からしたら。

始まったか、終わったか、というのが、正直な感想で。

まさに、庶民、貴種ならぬ。

庶、とは、广は厨房の屋根のかたち、その下で、廿(じゅう)は、煮炊きする鍋、に火を入れる。

早い話が、かまどの蓋を開けて食べ物を作る人々、ってことで、天下の政とはモードが違うわけだ。

そこには、戦の終わりがあるだけなんだな。

しかし、そこからしか、日々は、未来の日々はやってこない、というね、終戦、ってわけだ。

ちょっと、流石に、記念日なので、気張ってるね、西田敏行の、チェスト〜、気張れ!みたいだけど。

ものすごく気張って言っちゃえば、敗でなく終としたことで、戦後の復興への機運がいかに高まったか。

もちろん、リアル戦さは、そこかしこで、声をひそめたり大言壮語であったり、で語られてもいたんだろうけど。

その根底に、終わった戦、だから、煮炊きを始める、というね。

そんなしたたかさを感じるんだな。

聖戦とか、世界情勢とかの大きな神話に対抗した、リアルということになるか。

もちろん、それぞれがそれぞれの立ち位置で、微妙に絡まり合ってはいるんだけど、ね。

ま、とにかく、戦の終わったという記念日が、今日だ。

亭主が、飲む打つ買う三昧じゃ、鍋の蓋が開かないじゃないかね、というおかみさん。

そんな絵柄だな。

亭主の神話を終わらせ、鍋の蓋を開けようじゃないか、って。

朝の雨が終わったので、骨ストレッチ=カラダの蓋を開けるとするか。

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