と言うような、瞑想法もあるらしく。
本を読んで、お勉強中なんだけどね。
時間の流れを、通常だと、過去から紐解いて、あの時に何があり、かにがあり。
とね。
なんだけど、そこを、未来から現在へ流し込む、ってわけだ。
これも、なかなか、面白いな、となんでも、面白がる性格は、どうにもならないね。
なんて言ってるのも、ありきたりの、あるいは、幼い頃から、身につけさせられた、過去を基準とした。
考え方だな。
その昔、おばあさんは、川へ洗濯に、おじいさんは、山へ芝刈りに、みたいな。
子供の頃から、あんたはこうだった、お前はああだった、とか、そんなこと言ったって。
あんた、社長、この数字見てごらんなさい、とかね。
どこそこに、転がっている、過去を金科玉条のごとくにあげつらい、今を判断、評価、解釈する手法。
んなことだと、あなたの顕在意識に振り回され、90%を占める潜在意識、しかも、パワフルかつ。
時間空間を超えている領域の力は、発揮されませんよ、って解釈による、瞑想法。
なんだね。
だからどうした、なんて言わないでね。
ちょっと、その気になっている、のです。
しかも、日常茶飯事が、瞑想につながる、と言う考え方が、禅とも共通し。
そうだ、つい最近、お聞きしたんだけど、高野山の空海さんね。
あの御仁、未だに生きている、ご存命であるそうだね。
だから、毎朝毎晩、修行僧の係の方は、食膳を捧げる。
それは、お料理をしている時も、想いを込めて作り上げ、さらに、それを運ぶ道中も。
ひたすら、そのことを思い、仮に、道端の綺麗な花に気をとられたりしたら、その食は。
まったく別物になってしまうので、一心不乱にお経を称えながら、と言うことらしい。
これ、ありだな、と直感したわけだ。
食卓を囲むのに、笑顔で、と、ブツブツ言いながら、餌のように胃袋を満たす、この違い、ね。
そりゃ、カラダもアンチを称えだすよ。
つまり、ガンだとか糖尿だとか痛風だとか、ね。
それにしても、1200年か、未だに空海さんは、そこにいらっしゃる。
たしかに。
リアルな肉体を持っていることが、生きている、と言えるのか、と言う観点からすれば。
そこかしこに、先人さん方は、生きているわけで。
世のチャネラーさんたちであれば、神功皇后でも恵比寿さんでも、お茶の子さいさい、ってことで。
そうでなくても、凡人たるわれわれであっても、お彼岸やお盆のお墓まいりで、ご先祖様に、手を合わせ。
なんてのが、デフォなんだから、大きく、か、小さく、かはともかく、実感していることは。
間違いなく。
そう、死んだ人は生きているのです、と言ってもいいくらいで。
なので、空海さん、弘法大師さんは、高野山にお住まいになられている、ということにもなる。
そうそう、忘れてた、昨日ね、ちょっと、本屋さんに立ち寄ったら、「寅さんとイエス」って本、あってね。
イエスは、実は、寅さんのように朗らかな方で、だったか、もしイエスが、寅さんだったら、だったか。
なにせ、ちょい呑みならぬ、ちょい読みなんで、だけど、取り合わせが、自分的には旬で。
土曜の夜は寅さん、だからね。
聖書を読むように寅さんを観る、ってわけだ。
その本の中で、全作中、唯一、寅さんがサクラをぶつ、というシーンが出ていたな。
まだ博を一緒になる前、勤め先の上司のお世話でお見合いをしているシーンなんだけどね。
インテリっぽい、エリートサラリーマンっぽい、見合い相手のまで、寅さんが、演じる狂態。
それは、一見、狂に見えるけど、直感で、こいつとでは幸せになれない、と感じた寅さんの一世一代の。
大芝居、だったかも、というのが、くだんの作者の見立てで。
まるで、イエスです、なんて結論だったのか、わかりませんが。
さて、皐月最後の日を迎えに行きますか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます